良き国鉄時代㉟~さようなら客車列車~

「良き国鉄時代」シリーズ。今回は1985年3月9日土曜日に米原駅にて行われた「さようなら客車列車」のイベント日の特集です。当時、私は大津市の堅田に下宿しており、大津市の特別支援学校に勤めだした頃でした。地元は長浜なので通うにはちょっと距離があり過ぎました。また鉄道趣味熱も下がっていた頃でしたので、このイベントがあることも全く知っておらず、今回の写真は、今は亡き父親が気を利かせて撮ってくれていた写真になります。今思うと是非行っておきたかった記念すべきイベントだったと思っています。この頃には北陸本線の普通列車は米原から敦賀方面へEF81形交直両用電気機関車が牽引していました。田村での機関車のつげ替えも無く、この機関車がスルーで直流から交流区間へ乗り入れて運転していたわけです。このことは高校時代の友人であるYさんからも手紙で知らせてくれていました。客車列車の後は419系近郊形交直両用電車や475系急行形交直両用電車が普通列車として活躍することになりました。この日の青色の旧形客車と荷物車を繋いだ10両編成が最後の客車による普通列車になってしまいました。米原発富山行きだったようです。

牽引機は敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車の101号機でした。この機関車は寝台特急「日本海」のラストランにも大阪から担当していました。列車のラストランに縁があったようです。この日の為に特製のヘッドマークが作られて掲げられました。後の米原機関区一般公開の日にもEF81の1号機に掲げられてもいました。美しいヘッドマークでした。このヘッドマークは自分でも鉄道模型用に写真から自作しています。

ラストラン担当の電気機関車と米原駅の駅員さんとの記念撮影でしょうか。

客車列車の別れを惜しむ鉄道ファンの姿が見えます。この列車は8番ホームからの発車でした。隣の東海道線上りホームにはEF62形直流電気機関車が映っています。下関に配置された山男が東海道の荷物列車の牽引に当たっていた頃でした。

発車が近づいていたのでしょうか?何枚もの前面を撮影した写真がありました。カメラは私のアサヒペンタックスを使っていたのか、父親のカメラを使っていたのか定かではありません。父親も親戚がカメラ屋さんだったので、多少は一眼レフカメラを使って写真を撮っていたのかもしれませんが、おそらく使い易い自分のインスタントカメラで撮っていたのかと思います。

出発前のお別れセレモニーでは米原中学校のブラスバンド演奏もされたそうです。「蛍の光」でも演奏されたのでしょうか?名古屋鉄道管理局のキャンペーンガール3人もお別れに華を添えていたようです。

「名マイ」の表記も懐かしい客車の表示には、手書きで作られたサボが差し込まれていました。「221レさよなら号」と書かれていました。

列車の出発までは客車の車体一杯に「さようなら客車列車」の横断幕が掲げられていたようです。鉄道模型でもこの横断幕を自作しています。客車に取り付けてこの最後の北陸線客車列車を再現していました。実際には見られなかった貴重な列車も鉄道模型なら何時でも再現することができます。

米原を発車して富山までの最後の運用についた旧型客車の後ろ姿になります。最後尾はマニ50形荷物車ですが、その前の3両はマニ44形パレット式荷物車のように思います。あとの編成はオハ46形やオハ35形等の雑多な旧型客車で組成されていて、あくまで推測ですが青色一色の美しい10両編成で運行されたのではないかと思います。

駅名表示にイベントの式次第が貼られていました。花束贈呈に機関士、専務車掌(通称カレチ)、車輛検査長とあります。この日をもって米原客車区もその任務を終えたのでしょう。当時は米原機関区の横には客車列車が何本も並んで留置されていた客車区があり、1976年には66両の客車を受け持っていました。代表的な形式はオハ35とオハフ33になり、マニ60もたくさん居たようです。自分も見ているはずなのですが、いつも機関区ばかりを見ていてあまり印象に残っていません。オヤ31やオエ61といった特殊な検測用の車両も在籍していたようです。客車区もしっかりと撮影しておけば良かったと後悔しています。

当日の駅改札に掲げられていた横断幕。午後1時から午後4時40分までのイベントだったようです。この列車の発車時刻は221列車のダイヤに1978年と大きな変化がなければ、午後4時28分で、終点の富山には午後11時38分に到着していたと思われます。米原を夕刻に発車して日付が変わるちょっと前に富山に着く普通列車。長距離鈍行列車にはすごくロマンを感じます。旧形客車のボックス席で、重たいジョイント音を聞きながらの長い旅。是非体験したかったものですね。この写真を残してくれた亡き父親には大変感謝しています。この写真以外にも同じ1985年3月13日に客車急行「きたぐに」がラストランを迎えており、その日の写真も撮っていてくれました。次の日からは583系電車に替わっています。最後にその写真を紹介して今回の記事を終わります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

長浜駅に入線する客車時代最後の急行「きたぐに」、青森発大阪行き。

14系の座席車と寝台車で編成されていました。郵便車のオユ10も繋がれていました。

最後尾はスハフ14形座席車でした。

1985年3月14日にダイヤ改正がされたようです。

1985.3.9さようなら客車列車を自宅レイアウトで再現してみました。

鉄道模型と出会った頃②1978年

今回は自分が1978年当時、高校生時代に鉄道模型で遊んでいた大変懐かしい写真を紹介したいと思います。私が小学5年生だった1972年頃には毎週末に友だちを集めて、離れの和室2部屋にエンドウの組み立て式金属道床線路を組み立てて遊んでいました。高校生時代になると主に鉄道写真撮影の方をやっていて、鉄道模型の方は気が向いた時に線路を組んで車両を走らせるという形に変わっていってしまいました。お座敷運転もその頃の自分の部屋だった離れの2階で時々楽しんでいたものです。もちろん線路を大きく組んで運転するときは、1階にレイアウトを作って運転していました。模型のコレクションはこの頃になると自由形では満足できなくて、実物を1/80にした本格的な鉄道模型のスケールモデルを買ってもらうように変わりました。まずはカツミ模型店のEF651000番台を入手しました。プラスティック製のギアボックスが2つあり、中央のモーターからユニバーサルジョイントを経て動力を伝える方式の模型でした。確か1万円くらいしたと思います。あこがれのスケールモデルとしては、ED70に次ぐものでした。ブルートレイン牽引機のEF65 500番台も発売されていましたが、客車も貨物も牽引できる客貨両用の機関車ということなので選んだのだと思います。買ったお店は当時、京都の丸物百貨店や大阪の阪急百貨店に鉄道模型売り場があったので、そのどちらかの百貨店で購入したものと思います。やはり好きなブルートレインを集めて買っていたようです。カツミ模型店製の24系の寝台客車を先頭(カニ24)と最後尾(オハネフ24)の客車だけ買って、中間は自由形を繋いで楽しんでいたようです。また貨物列車もボギー車のコンテナ貨物を数量買って当時のフレートライナーをイメージしながら65PFに牽かせて遊んでいました。

上の画像は1978年、自分は高校3年生の時に、離れの2階の自分の部屋で16番ゲージの組み立て式線路にて運転をしている時の写真になります。EF65 1000はカツミ製の1モーターで2つの動力台車を動かす方式の模型です。2両目はカツミ製のカニ24電源車です。この車両はこの頃に大阪の阪急百貨店の模型売り場で買ったものです。この時の帰りは1501Mの475系急行「ゆのくに」で大阪から長浜まで帰ったのをよく覚えています。ちなみにこの写真では全ての車両がスケールモデルのように見えますが、このカニ24から自由形の車両を繋いでいて最後尾だけオハネフ24を繋いでいました。奥にあるのはカツミ製の475系交直両用急行型電車になります。電車ではこの編成でクモハ+モハ+サハシ+サロ+クハの5連を当時持っていました。パーワーパックは関水金属(カトー)製のNゲージ用も使っていたようです。これは現在でもメンテナンス用として使っています。

上の写真にはカツミ製のED70にエンドウ製のキハ02が2両とエンドウ製のラッセル車キ100が映っています。このキ100は1974年に京都の丸物百貨店にて購入した車両でした。こうして見ると直流機と交流機が混在していて如何にも模型らしい写真になっています。ED70は珍しく貨物列車を牽いています。

上の3つの画像は、部屋の電灯を消して模型を走らせている時の様子をバルブ撮影したものになります。15秒くらい開放にして撮影していました。実車で米原駅を通過していくブルートレインを撮影したことがあり、それを鉄道模型でも再現してみようと撮影したように思います。走る模型の光線が綺麗に映っていて幻想的な写真に仕上がっています。エンドウ製のプラットホームにも電灯が点いているのも解ると思います。この頃から、いわゆる「ナイトラン」を楽しんでいました。

上の画像は同じような頃に、今度は一階の和室に金属道床線路でレイアウトを作って、同じ模型を走らせている様子になります。後ろにあるパワーパックKP23で給電しています。機関車の手前の線路に付けてあるのは、線路に電気を送る「フィーダー」で、ここから左右の線路にパワーパックから直流15ボルトまでを流しています。

上の画像は同じくEF65 1000の牽くコンテナ貨物、フレートライナーになります。先頭はエンドウ製のコキフ10000形コンテナ貨車、2両目はエンドウ製のコキ5500形です。こうやって見ると長いコンテナ貨物列車を想像してしまいますが、この2両の後、3両目からは雑多な貨物列車、車扱い貨物の貨車が連なっています。左下に電動ポイントのマシンが見えます。この頃は組み立て式線路のポイントを自動化にしていたようです。また左上には3色シグナルが見えます。自作したスイッチボックスで各色を点灯させて遊んでいました。

上の画像はEF65 1000とブルートレインの客車、カツミ製のオハネフ24形寝台客車になります。この写真だけ見ると長大なブルートレインの写真と想像してしまいますが、実はこのオハネフ24の後の編成は自由形ナハとナハニ、そして最後尾はカニ24になろうかと思います。こういう写真を撮ったのも、実物のような長大ブルートレインに憧れていたのがよく解ります。

上の画像が今回の最後の画像になります。少し離れて撮影しています。後ろの方にはキハ02にキ100形ラッセル車、そして自由形客車にED70とED100が見えます。右上のスイッチボックスはカツミ製の3色シグナルを操作するのに自作したものです。9Vの電池を使ってスイッチで点灯させていました。左に映っているDD13形ディーゼル機関車は当時発売されていた乾電池で動くプラモデルでモーターは使わずにトレーラーとして機関車に牽かせて遊んでいました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1978年に走らせていたカツミ製の65が2024年に快走しました。

鉄道模型と出会った頃①1974年

今回は自分が1974年当時に鉄道模型で遊んでいた大変懐かしい写真を紹介したいと思います。私が小学5年生だった1972年頃にやっていた趣味は、もっぱら「ミニカー」集めでした。マッチボックス製の大変リアルなミニカーが市内の「長浜教材社」というプラモデルや画材等を取り扱う店に販売されていて、よく買い集めてコレクションしていました。正に箱に入ったミニカーは1台150円だったと記憶しています。その後、ショーケースに線路の上に並べられた沢山の鉄道模型の貨車が現れました。当時、蒸気機関車が好きだった私の心を鷲掴みにしたのがこれらの貨車でした。エンドウ製の金属製の2軸貨車で、1両550円位で販売されていたのでした。ミニカーからこの鉄道模型に趣味が移り、まずはワム80000と車掌車のワフ35000、そして無蓋ボギー貨車のトキ15000を買ってもらいました。次にフレキシブルレールも一本買ってもらい、貨車を手転がしで遊びだしたのが鉄道模型趣味の黎明期になります。飽きもせずに遊び、貨車の扉もちゃんと開く仕様だったので、楽しんで遊んでいたように思います。

上の画像は当時穴が開くほど見ていたカツミ模型のカタログとエンドウのカタログ。

上の画像は初めて買ってもらった鉄道模型の貨車。左からワフ35000、ワム80000、トキ15000。

それから組み立て式16本組の曲線線路と直線線路、そしてポイント線路も買い足していきました。やがて電気機関車を亡き祖母に買ってもらうことになりました。ED100形自由型電気機関車で当時2850円でした。いずれも長浜教材社で買ってもらいました。そして模型を動かすために必要なパワーパック(KP23)も揃えて、お座敷運転を毎週末、学校が終わった土曜日の午後に私の家に集まって遊ぶようになりました。

当時自分には2人の鉄道模型友人が居て、皆が違った形式の機関車を持ち寄っては走らせて遊んでいました。エンドウ製のED66とED58を1人は持っており、もう1人は何とカツミ製スケールモデルのC59形蒸気機関車(ダイヤモンドシリーズ)を持っていました。この運転会スタイルは現在の私に通じる自宅運転会になっていたように思います。毎週学校が終わった土曜日の午後に遊んでいたものでした。

上の画像は1974年の撮影した当時のお座敷運転の様子になります。本線には自由形の電気機関車ED100が自由形客車のナハ、ナハニの5両編成の客車を牽引しています。ポイントで引き込まれた留置線にはキハ02気動車2両(モーター付きとモーター無し)とワフ35000にワム80000、ワム23000、コキ5500他の貨物列車を留置しています。ポイントは手動式のようです。

上の画像1974年に撮影したカツミ製の自由形電気機関車のED100になります。今は亡き祖母が買ってくれた鉄道模型でした。客車も自由形の「ナハ」、「ナハニ」を5両繫いで寝台特急「日本海」のヘッドマークをつけて快走しているところです。見事に機関車だけしかピントが合っておらず、上手く撮れていません。この頃使用していたカメラはコニカというメーカーの亡き父親の2眼レフカメラでした。黒と銀色の箱型のコンパクトなカメラでした。

上の画像は1974年に撮影したお座敷運転の様子になります。この場所は現在自宅レイアウトがある自宅離れの北の間で、当時は和室8畳の和室でした。奥には足の付いたテレビが映っています。まだ白黒のブラウン管テレビでした。ホームはエンドウ製のホームを2つ使っていました。足らない分は木の板を使ってホームにしていました。今も離れ2階にある13ミリゲージの簡易レイアウトに使用しているエンドウ製のホームは金属製で大変しっかりと作られた物で、AC電源で蛍光灯タイプの照明が2つ点くようになっていました。よく見るとパワーパックのACターミナルからこのホームの照明に給電して点灯させているようです。

上の画像2つを見てみると、客車列車と貨物列車を交互にED100に牽かせて運転を楽しんでいたようです。入れ替えの時はおそらく編成を手転がしでの入れ替えをしていたのでしょう。鉄道模型を手で扱うことを「ゴッドハンド」という言葉で今でもよく言っています。正に神の手で成せる技なのでしょう。

上の2つの画像はお座敷運転で登場した、初めてのスケールモデルのED70形交流電気機関車になります。牽引しているのは自由形客車です。自分か中学2年生になった頃にやっと自由形からスケールモデルの鉄道模型を買ってもらいました。地元の北陸本線でもまだ活躍していたED70はカツミ模型店が割と初期から製品化していました。この製品には縦型モーターにインサイドギア、1モーター方式の動力でした。友人は2モーター方式の同型機を持っていました。ずっしりとした手応えを覚えています。当時の連結器は「ベーカー式」というものでした。爪を引っかけて繋ぐ方法の物で、車両を繋ぐのは簡単でした。開放は下からでっぱり部分を上に上げて開放しました。以上、紹介した鉄道模型は現在も手元にあって走らせることができます。自分が鉄道模型を始めた頃と同じ自宅の離れに今では固定式のレイアウトがあり、鉄道模型友人たちが車両を持って遊びに来てくれることに、不思議な繋がりと縁を感じています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉞~私が撮ったEF66 0番台~

これまでに自分が撮影してきた電気機関車は、地元が長浜なので交流電気機関車か交直両用の電気機関車が多くなります。自宅近くの踏切付近に行くと、いつでもこれらの電気機関車を手軽に撮影することができました。そんな中、米原方面に撮影に行った時にはまだブルートレイン牽引機になる前で、貨物列車やフレートライナーを牽引していたEF66形0番台の直流電気機関車をたまに撮影していたものでした。独特のデザインでまるでヨーロッパの機関車の様な前面形状で大変魅力的でした。今回は私が撮ったEF66の写真をスキャンしてお届けしたいと思います。鉄道模型でも天賞堂製とトミックス製で何両か所有しています。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した貨物列車を牽くEF66形直流電気機関車になります。10号機のようで広島鉄道管理局、下関運転区所属の機関車になります。冬場、雪の降る中に米原駅に出掛けて撮影していた時の写真です。東海道本線を下って米原は通過していました。どうやら無蓋車トラかトキの回送のようです。前面窓の上にはまだ庇が付いていない頃になります。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した東海道本瀬を上るコンテナ貨物列車、フレートライナーになります。この頃は「流し撮り」に挑戦していた頃で、少しだけ背景が流れて撮れているように思います。54号機で下関運転区の機関車です。1両目には高速ボギー貨車のワキ10000が繋がれていました。あとの車両はブルーに塗られていたコキ10000系だと思われます。この貨車の台車(TR203)は空気バネを使用した独特の形状をしていて高速貨物列車の足まわりの特徴のようなものでした。鉄道模型ではワキ10000は天賞堂製のプラスティック製を、コキ10000はカトー製品を持っています。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF66 13号機牽引の東海道本線上りのフレートライナーになります。この撮影ポイントは早朝に東京へ向かうブルートレインを撮影した場所で、ブルートレインの撮影の合間に撮ったものです。13号機で下関運転区の機関車でした。なお当時、EF66は1号機から55号機までと901号機の全機が広島鉄道管理局、下関運転区に所属していました。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した上りのフレートライナーになります。ワキ10000を2両先頭に繋いでのコンテナ列車、フレートライナーでした。牽引機は53号機(関)でした。この頃は機関士と機関助士が2名で乗務されていました。良き国鉄時代の電気機関車乗務スタイルでした。

上の画像は1975年に米原駅に停車中のコキ50000系フレートライナーを撮影したものになります。冬の日の撮影のようで、ホームにはうっすらと雪が積もっています。コンテナも国鉄時代のC-20形のようで「国鉄」の文字が映っています。また白線の上には「JNR」の赤いシンボルマークが少しだけ映っているのがお判りかと思います。まさかこの10年後の1985年3月14日からは、東京から下関までのブルートレインの先頭に立って、しかもEF65より長い期間にわたって活躍することになろうとは思いもよりませんでした。当時の鉄道模型製作会社の「カツミ模型店」のカタログにもEF66の説明の中で、「貨物用機にはもったいない」という表現がされていました。車体の側面に描かれた白線がブルートレインの客車の帯と同じ高さで施されていることは、後のブルートレイン牽引の運命を暗示していたのかもしれません。

上の画像は1985年頃に大阪の吹田機関区で開催された電気機関車展示イベントで撮られたものだと思います。EF66の試作機であるEF66901の写真になります。この1枚は高校時代の鉄道趣味友人のYさんから以前に頂いた写真になります。東京から伊豆急下田を結んでいた14系客車特急「踊り子」号のヘッドマークが掲げられています。このヘッドマークはEF5861が掲げて同列車を牽引していた写真を何回か見たことがあります。こんなに近くで電気機関車か撮影できるイベントがあったようです。その頃の自分は鉄道趣味から離れていた頃でした。このイベントではEF66901以外にはEF6314やED601、EF58165、EF15168、EF591、EF606、そしてDD161等のそうそうたる機関車たちが一同に集められていたようです。余談になりますが、このEF66901はEF90形の1号機として1968年に川崎重工兵庫工場で当時最強の牽引力を持った電気機関車として落成しました。当時の写真には現役の蒸気機関車と一緒に映っている写真があり印象的でした。今回の私の撮影したEF66(0番台)の記事は以上になります。最後にテーマの国鉄時代とは離れてしまいますが、このEF66がブルートレインを牽引していた時の画像を紹介させていただきます。どれもブルートレインの消滅が話題に上がっていた2001年頃に夜の米原駅でバルブ撮影をした写真になります。運転停車で機関士さんの交代がなされていました。吹田機関区の27号機も定期運用離脱後は本線を走る姿は見られなくなってしまいましたが、現在も京都鉄道博物館には35号機が保存展示されています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1977年頃のEF66が牽くフレートライナーを再現してみました。5両目以降は現在のコキ104を連ねています。当時の雰囲気をお楽しみ頂けたら幸いです。

良き国鉄時代㉝~撮り鉄アラカルト正月版~

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。元日早々に能登半島地震が発生して大変な年明けになってしまいました。輪島市では甚大な被害が出ており、石川県でも被害が広がっているようです。心からお見舞い申し上げます。併せまして一刻も早い復興を祈念しております。さて今年最初の記事はこのブログの定番になっている「良き国鉄時代」のシリーズからです。今回は1975年から1976年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきている「良き国鉄時代」で紹介していなかった写真の紹介になります。おかげさまで自分が撮りためていたプリント写真のデジタル化をずいぶんと進めることができました。話題があちこちと飛んだりしてしまいますが、当時の画像を楽しんでいただけたら幸いです。

上の画像は1975年に長浜駅にて撮影した北陸線の古豪、ED70形交流電気機関車になります。確かこの北陸線上り米原行きの普通列車に乗って、夕刻に敦賀から帰って来た時に長浜で降車して撮影したと記憶しています。この頃は田村までやってくるED70はめっきり少なくなって、運用を離脱しようとしていました。中学3年生の自分はこの機関車を追いかけて撮影していました。現在長浜鉄道スクエアにて1号機が保存されています。鉄道模型でもカツミ製を複数量所有しており、1両は13㎜ゲージに改軌しています。この模型はTMS鉄道模型趣味誌開催のコンペティションにて努力賞を頂いた模型です。

自宅2階の13ミリゲージ簡易レイアウトを走る13ミリゲージのED70牽引普通列車。

上の画像は1975年に田村駅にて撮影したEF70 1000番台交流電気機関車になります。いずれも20系寝台特急「日本海」を糸魚川から牽引して田村に到着しているところです。「日本海」が登場した昭和43年10月から牽引しており、登場時は美しい「日本海」のヘッドマークを掲げて運転されていました。残念ながら1975年当時は省略されていました。

上の画像は1976年に撮影した青森発大阪行きの上り急行「きたぐに」になります。牽引機は同じくEF70 1000番台になります。撮影可能な夏場に自宅近くの踏切から撮影しました。10系客車にスロ62を繋いだ美しい編成でした。以前にも書きましたが、このEF70をはじめ交流機は何時も2エンド側、敦賀側のパンタグラフ1つを上げていました。

上の画像は1975年に亡き父親と東北方面へ旅行に行った時に車窓から撮影したED71形交流電気機関車になります。おそらく黒磯駅近くだと思います。側面フィルターの形状から1次型ですね。鉄道模型でもトラムウェイ製とモア製で所有しています。正面の貫通扉と庇が大変好ましいスタイルを醸し出しています。

上の画像も1975年に亡き父親と旅行に行った時に青森駅で撮影したED75 700番台交流電気機関車になります。現在は大宮の鉄道博物館で保存されています。700番台は屋上機器がすっきりとしていて耐寒設備を持った形式でした。以前、友人から頂いた写真で紹介した奥羽本線の寝台特急「あけぼの」や日本海縦貫線を走った寝台特急「日本海」等も牽引していました。この旅行では同機の牽引する急行「きたぐに」に青森から乗車しました。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車になります。常磐線の普通列車を牽いて上野に到着したところを撮影しました。この機関車が新製配置され始めた頃に国鉄が製作した「ある機関助士」という映画でも登場しています。少し小ぶりな動力台車が印象に残っています。現在は碓氷峠鉄道文化むらで保存展示されています。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

EF80が牽く寝台特急「ゆうづる」。自宅レイアウトにて。

上の画像は1976年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した475系交直両用急行型電車による上り急行「ゆのくに」金沢発大阪行きになります。北陸急行電車用の大きな美しいヘッドマークが車両に良くマッチしていました。「立山」、「くずりゅう」、「兼六」と同形式で運用されていましたが、自分的にはこの「ゆのくに」が好きで大阪から長浜まで乗車したこともありました。鉄道模型では初めて今は亡き祖母に買ってもらっており当時はクモハ+モハ+サロ+サハシ+クハの5両編成を組成して楽しんでいました。モハには縦型モーターにインサイドギアを2組使用した動力で電気を沢山必要としていたのを覚えています。後にエンドウ製のMPギア動力ユニットに換えて、現在は12両編成にして楽しんでいます。

上の画像は1975年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した485系1500番台交直両用特急形電車による大阪発青森行きの特急「白鳥」になります。運転席上の前照灯が2つあるのが特徴で、北海道での使用に先がけて日本海縦貫線で試験運用されていました。トレインマークは字だけの物で張り付けられていたのを覚えています。鉄道模型では特徴的な先頭車を宮沢製で所有しています。他の編成はカツミ製を足して使用しています。

最後の画像になりました。上の画像は小学生だった1972年頃に自宅近くの踏切で撮影した4001D大阪発青森行きディーゼル特急「白鳥」になります。大阪を9時10分に出発して終点青森には日付の替わる寸前の23時50分に到着していました。当時父親の2眼レフカメラで撮った貴重な1枚になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。