良き国鉄時代㉜~米原界隈の写真第2部~

今年最後の良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年から1980年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきた「良き国鉄時代」で紹介しきれていなかった写真の紹介にもなります。なお一部の画像が以前の記事に使用した画像の再掲になってしまっている事をどうぞお許し願います。今年も残すところあと1日となってしまいました。歳を重ねる度に一年の過ぎる早さに驚きを覚えるようになりました。今年の4月から立ち上げたこのブログにお立ち寄りいただきまして、ありがとうございました。つたないブログですがどうぞ来る2024年もよろしくお願い申し上げます。

上の画像は1980年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影した寝台特急「さくら」になります。牽引機は東京機関区のEF65 1100番台でした。ブルートレインの牽引機がEF65 500 番台からこの機に変わって2年ほどの時期でした。まだ新しさが伝わってきます。

上の画像は1980年に撮影した寝台特急「さくら」の後追い写真になります。冒頭の写真を撮影した時のものです。1980年なのでトレインマークのサインは字だけのものからイラスト入りになっていました。

上の画像は1976年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500時代の「さくら」になります。この2年後には冒頭の65PFに牽引を譲りました。やはり自分が追いかけていたのはこのP形だったような気がしています。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間で撮影した65PF牽引の「さくら」になります。冒頭の写真を撮影する直前のショットだと思います。

自宅レイアウトを快走するEF65P牽引の寝台特急「さくら」号。
EF65PFが牽引する寝台特急「さくら」号。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影した583系寝台特急「金星」になります。トレインマークは写真では色とびしていますが字だけの時代でした。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した同じく寝台特急「金星」です。この写真は珍しく全編成を納めることに成功しています。被写界深度もまあまあ適正でうまく撮れたと思っている1枚です。まだトレインマークは字だけの時代でした。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間のかなり醒ヶ井寄りで撮影した寝台特急「金星」になります。トレインマークはイラスト入りの物に変わっているのが解ると思います。ちょうど警笛を鳴らしているようで、2つのタイフォンカバーが開いています。この写真も全編成が映っていて好きな写真です。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した、EF65PFが牽引する寝台特急「みずほ」になります。釡の前部を狙った1枚で、少しだけ流し撮りになっているようです。この頃、よく流し撮りの練習をしていたものでした。そのほとんどが失敗で、現像とプリント料を無駄にしていたものです。今のデジタルカメラでは撮影してから即確認して削除することができるので大変便利です。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500が牽引する寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「みずほ」のヘッドマークには2種類あったようで、上2枚の写真でその違いがよく解ると思います。バックの色が金色と銀色に緑字の物とライトサンド色と白をベースとした金文字の物になるかと思います。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した65P牽引の寝台特急「みずほ」になります。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65Pが牽引する寝台特急「はやぶさ」になります。この場所でこのフルートレインの撮影は不可能で、おそらく列車が大幅に遅延した日のラッキーな撮影といえます。この日の撮影エピソードについては以前にこのブログで詳しく紹介しています。

上の画像も「はやぶさ」と同様に、列車が大幅に遅延した時にたまたま撮影することができたラッキーな1枚となります。

上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間にて撮影した下り寝台急行「銀河」になります。牽引しているのは大阪鉄道管理局、宮原区所属のEF5892でした。小窓のスタイルが素敵な58でした。

自宅レイアウトを走るEF58の牽く寝台急行「銀河」号。

上の画像は1977年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。機関車の次位に20系寝台客車のナロネ21が繋がっていますが、これは回送されている車両です。この車両の次に電源車のカニ21を先頭とする編成が繋がれていたものと推測されます。機関車次位にマニ60荷物車が繋がれて回送されていく様子もよく見かけていました。

今回の最後の画像となりました。上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。ナハネフ22形寝台客車の展望席には乗客がおられるようです。米原着が6時08分なので、おそらく寝台車の一夜を過ごした乗客が、最後尾の朝の展望を楽しまれておられるのでしょう。以前にも書きましたが、自分もこのナハネフ22から夜の東京の流れゆく夜景を眺めた経験があります。正に心の琴線に触れる素晴らしい眺望でした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

「応挙さんの鉄道ブログ」を見て頂いた皆様、この1年間ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。来年が皆様にとりまして健康で素晴らしい年になりますことをお祈りしております。

良き国鉄時代㉛~米原駅撮りアラカルト~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年から1980年にかけて、自分が米原駅で撮影した写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきた「良き国鉄シリーズ」で紹介しきれていなかった写真をあげていきたいと思います。これまでにアップした画像とかぶることは無いと思います。お楽しみいただけたらと思います。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した、485系交直両用特急形電車7連による特急「加越」になります。これから金沢に向かって発車するところです。トレインマークが漢字だけのシンプルな時代でした。絵入りのマークも素敵ですが、このシンプルなサインが自分は好きでした。鉄道模型ではトミックス製品を13㎜ゲージに改軌したものを7両編成で持っています。4M 3Tのシンプルな軽編成なので模型でも再現しやすいです。米原と金沢を結んでいました。同じ区間で急行「くずりゅう」という列車もありました。特急並みに俊足な列車で475系交直両用急行形電車で運転されていました。

上の画像は米原駅で撮影した485系交直両用特急形電車による特急「北越」になります。大阪と新潟を結んでいたロングラン特急でした。大阪を14時に発車して、終点の新潟には21時27分に到着していました。米原発車は15時22分でした。上りの「北越」は新潟を8時05分に発車して、米原には14時18分に着き、終点大阪には15時40分に到着していました。上りのホームに入線しているので、大阪行きの「北越」を撮影したのだと思います。連結器カバーが無くで、自動連結器が剥き出しになっています。

上の画像は1975年に撮影した20系客車による寝台特急「つるぎ」大阪行きになります。田村からはDE10形ディーゼル機関車に牽かれてきました。おそらく午前3時代に撮影に行ったのだと思います。ホームに三脚を立ててバルブ撮影をしていたようです。このカニ21は綺麗でしたが、日本海縦貫線を走っているので錆びでボディが膨らんでいたのを覚えています。潮風にさらされて錆も浮きやすかったのでしょう。

同じ「つるぎ」を駅員さんに許可を得て、線路近くから撮影していたようです。テールマークは平仮名で「つるぎ」とあのます。そして左に少しだけ映っているのが米原から大阪まで牽引していたEF58形直流電気機関車になります。この頃は58にも美しいヘッドマークが掲げられていました。白地に山が描かれておりつるぎの字も映えていたマークでした。残念ながらその雄姿を撮影した写真がどうしても見つけられませんでした。58は米原区の36号機だったと記憶しています。

上の画像は1976年に撮影した583系特急形電車による特急「しらさぎ」富山行きになります。サインは字だけで「しらさぎ」とあります。当時、博多~名古屋で運転されていた寝台特急「金星」の間合い運用として、しらさぎ2号と3号はこの583系で運転されていました。写真は名古屋から到着して、進行方向を変えて北陸線に入っていく姿を後追いで撮影しています。鉄道模型ではトミックス製で12連所有しています。

上の画像2つは1976年に撮影した米原駅に到着した青森発大阪行きの急行「きたぐに」になります。田村からはDE10が牽引して米原駅に入線しています。入線している右側の先頭寄りにEF58の姿が小さく映っています。ここで機関車を交換して、東海道線を大阪に向かって走っていきました。機関車交換のある駅は自分にとっては大変好きでした。模型でも持っています。

急行「きたぐに」、米原駅での機関車交換を再現。

上の画像は1977年に撮影した、米原駅を通過する東京発の寝台特急になります。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。ちょうど22時50分頃に1番線を通過していました。バルブ撮影していていました。となりのホームには懐かしい80系直流電車の名古屋方面から到着した電車が停まっています。この頃はまだ80系が4連で米原から大垣、名古屋方面の東海道線で活躍していました。

上の画像も同じく1977年に撮影した米原駅を通過する東京発九州方面行きの寝台特急になります。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。「さくら」か「はやぶさ」だと思われます。夜なのでおそらく今は亡き父親に米原まで車で連れて行ってもらったのだと思います。幻想的な写真に憧れていた頃でした。レンズにクロスフィルターをつけてバルブ撮影していました。

上の画像は1980年に撮影した、醒ヶ井方面から米原駅に入線してくるEF58形直流電気機関車になります。小窓でHゴムの58、大阪鉄道管理局、宮原区の電気機関車です。珍しく前部だけを撮影した1枚といえます。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。

上の画像は米原駅を俯瞰できる陸橋から1980年に撮影した駅構内の写真になります。現在の米原駅とは違い、広々とした構内でした。懐かしい跨線橋があり、その向こうには荷物を運ぶ「テルハ」がありました。交通都市米原を象徴する1枚です。またEF81形交直両用電気機関車が停まっています。この頃にはこの機関車が米原機関区に居たようです。

最後になりました。上の画像は1980年に米原駅が俯瞰できる陸橋から撮影した博多発名古屋行きの583系寝台特急「金星」になります。米原を5時20分位に通過していたように思います。この頃は絵入りのマークになっていました。米原を通過する3条の光はかっこ良かったものでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走する581系12連。

私が撮影した食パン電車

仕事をリタイヤしてから毎日自由な時間となり、鉄道趣味のセカンドライフを満喫できるようになりました。このブログを書くことで、これまで撮りためたままで全く未整理だった写真プリントもデータ化して保存できるようになりました。写真が以前のままだったら、いずれ劣化して見られなくなってしまっていたことでしょう。大変良い機会を与えてもらったと喜んでいます。さて今回は国鉄末期に登場した改造車両の紹介です。通称「食パン電車」と言われて親しまれていた419系交直両用近郊形電車の特集になります。この電車は余剰となった583系・581系交直両用特急形電車を改造して、近郊形電車としたものです。クハネ581形をクハ419形に改造しています。寝台部分はそのまま固定して、扉を増設してセミクロスシートの室内形状にしています。洗面台があったところは、そのまま蓋を付けて隠しているようです。モハネ583・581形とモハネ582・580形も室内は基本同様に改造されて、モハネ583形の片側に運転室を増設してクモハ419形としています。サハネ581は室内を改造し運転台を新設してクハ418形としています。赤色塗装で登場していた頃は撮影していなく、あまり見かけることがありませんでした。419系は1985年に国鉄時代末期に北陸本線に投入されました。自分がこの電車に関心を持つようになったのはJRになってからの、白色に青のラインが入った塗装時代(1988年-1991年)からでした。ちょうどその頃(2000年くらい)からインターネットを通して伊豆の修善寺にある鉄道模型旅館「花月園」での運転会に行くことになりました。インターネットの普及から、全国の鉄道模型ファンが修善寺の花月園に春と秋に集うようになったのです。そこで知り合った581系・583系に大変詳しい方が赤色時代の419系をペーパーで製作されて運転会で披露して下さいました。そのことがきっかけで自分もカツミ製の581系を改造してこの419系を製作しよう思いました。当時は地元の北陸線で419系が活躍していたので、模型製作用の資料としてよく撮影していました。

敦賀駅に停車中の419系。顔は583系と同じです。トレインマークの所は塞がれていました。のちに「タウントレイン」のマークを掲げて運転された時期もありました。クハ419になります。

新疋田駅で撮影した419系電車のクモハ419。「食パン」の愛称が生まれたデザインになります。クモユニ143の顔にもよく似ています。ちなみに自分が改造して製作したクモハ419には、クモユニの前面パーツを流用して製作しています。

上の画像の左側2つ、419系電車をカツミの581系から改造しました。自分にとってはカツミのクハネ581の塗装はがしに始まった難工事でした。ドアのパーツや前面のパーツをネットで購入しなんとか完成しましたか、細部がアバウトで完成度は高いとは言えない模型でした。でも大変愛着のある模型になっています。ずいぶん後になってからエンドウから完成品が発売されたので購入しました。

☆以下は模型製作用に撮影した写真になります。すべて長浜駅で撮影しています。

屋根周りの様子が解るようにと、旧長浜駅の跨線橋から撮影していました。パンタグラフ周辺の画像が良く解りました。また屋根の汚れ具合もよく解り、将来のウェザリンクに生かせそうに思いました。模型の屋根はどの車両もピカピカの状態ですが、実車の屋根は黒ずんだ色で汚れていて、パンタグラフの周辺は赤茶色に汚れているのが良く解ると思います。

上の画像は室内の様子になります。網棚の上には寝台セットが納まった状態でロックされています。419系に乗った時には、いつも眺めては寝台特急電車に思いを馳せていたものです。クロスシートの部分は種車のままで使用されていました。上には寝台が格納されたままになっています。ドアがもう1ヶ所増設してあります。ドア付近は短いロングシートになっていました。走行音はMT54形モーターが唸っていました。今となっては懐かしい国鉄型電車の「音」でした。

上の画像は2000年以降に長浜~虎姫間にて撮影しました。この写真は419系の模型を製作していた頃で、この写真は通勤途中で撮っていました。

上の画像は長浜~虎姫間、自宅近くの踏切で撮影しました。

上の画像は敦賀駅で撮影した419系です。クハ418が米原寄りに繋がれていた編成だと思います。この先頭車はサハネ581からの改造です。

上の画像は新疋田駅で撮影しました。敦賀方面から入線してくる419系で、クハ419が先頭でした。この車両は前面の貫通扉が埋められている車両で、トレインマーク表示部も綺麗に無くなっていました。運転台に吹き込む冬場のすきま風の対策でしょぅか。

上の画像2つは夜の長浜駅で撮影した419系になります。長浜駅の敦賀方面ホームに停車中で、行き止まりのホームです。419系の引退が迫っていた時期に夜の写真も撮ろうと思い立って撮影にいったものでした。今では521系交直両用通勤型電車に役目を譲って完全に引退した419系。鉄道模型ではまだまだ現役で活躍してくれています。自作した419系に加えて、2010年にエンドウ製の完成品を購入しました。今は無き父親とまだ幼い息子を連れて、この電車に乗って出かけた敦賀旅行が大変懐かしく思い起こされます。幼かった息子はこの電車のことを「じいちゃんでんしゃ」と言っていました。ちなみに521系は「にいやんでんしゃ」と言っていました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを行く419系食パン電車。

☆亡き父親が自分のために撮影してくれた旧塗装の419系電車。長浜~虎姫間にて1985年3月に撮影。

良き国鉄時代㉚~友人からの写真より~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1979年から1981年にかけて、自分の高校時代の鉄道趣味友人から頂いた写真を紹介させていただきます。高校時代には鉄道趣味の友人が2人いました。このブログでも紹介した1人とは東京へブルトレの撮影行に行ったり、山崎の大カーブへも撮影に行った友人で、現在は鉄道関係の仕事を新大阪でされています。それまではJR西日本の重役として活躍されていた方です。今年10月に行われた高校の同窓会でも久しぶりに会うことができました。今回はMさんと呼ばせてもらうことにします。もう一人は私と同郷の方で、現在は埼玉で郵政関係の仕事をされています。この方は大学時代には「鉄道研究会」で活躍されていた方で、同じく高校の同窓会で会うことができました。当ブログで紹介した「米原機関区撮影会」の写真の提供者です。鉄道模型はNゲージをされていた方で、同窓会の前には自宅レイアウトにも来てくれて自分の鉄道模型も見てくれました。今回はYさんと呼ばせてもらうことにします。そんな2人からちょうどお互いが大学生の時に手紙に添えてくれた写真を紹介してみたいと思います。正に「国鉄時代」の懐かしい素晴らしい写真ばかりです。

上の画像はМさん撮影のEF5856(宮原区所属)の牽引する20系による寝台急行「銀河」になります。1979年8月に東海道本線の平塚で撮影された写真です。この宮原の58は小窓でHゴムも良いアクセントになっていました。ピントもばっちり決まっており、20系の全編成が納められています。モロクロ写真で撮影されていて迫力もあります。

上の画像はМさん撮影の寝台特急「あけぼの」になります。1979年8月に奥羽本線の碇ヶ関~長峰で撮られたようです。月刊誌等でよく見かける奥羽本線の撮影名所だと思います。20系の全編成が納められ、牽引しているのは赤い電機のED75形交流電気機関車700番台と思われます。青森から牽引してきたのでしょう。素晴らしい写真で、モノクロなのが少し残念に思いました。

上の画像はМさんが撮影した165系急行「佐渡」になります。1979年12月に上越線の津久田~岩本で撮影されています。雄大な山々をバックにして鉄橋を渡るロケーションが見事です。自分はついつい列車ばかりを撮っていたものですが、彼は風景の中の列車を撮影するのが大変上手でした。

上の画像はМさんが撮影した161系特急形直流電車による特急「とき」になります。1979年12月に上越線の津久田~敷島で撮影されています。大変雄大なアングルで素晴らしい写真です。撮影された場所は、この写真から推測するとおそらく結構な高さの山に登られて列車を俯瞰するように撮られたのだと思います。自然と列車の融合が素晴らしいです。

上の画像はМさんが撮影した181系特急形気動車による特急「しおかぜ」になります。1980年8月に予讃本線の松山~市坪で撮影されています。このディーゼル特急「しおかぜ」は宇野・高松と松山・宇和島とを結んで走っていました。後追いの写真ですが、ローアングルから撮っていて大変迫力があります。凄まじいディーゼル機関の音まで聞こえてきそうな1枚です。自分は同形式の「しなの」を撮影しています。

上の画像はYさんが撮影したDF50形電気式ディーゼル機関車62号機になります。1981年8月25日の16時頃に予讃本線の多度津駅にて撮影されました。125レとあるので高松発川之江・高知行きの快速列車のようです。当時はそろそろ四国からこのDF50が姿を消そうとしていた頃のようで、Yさんは何回か四国へ撮影に行かれていたようでした。北陸線の古豪、ED70に似た前面形状は魅力的です。鉄道模型ではトミックス製でこの塗色と茶色塗装を持っています。天賞堂製でも茶色塗装を持っています。北陸線の山中越えの補機としても大活躍していた電気式のDLです。

上の画像はYさんが撮影した「SLわかさ」9918レの試運転になります。1981年8月20日11時頃に小浜線の十村~大鳥羽間にて撮られています。この年にC56160蒸気機関車牽引の12系客車5連にて特別運行されたのだと思われます。このスタイルを見ると後の1995年8月から地元で走っていた「SL北びわこ号」を連想してしまいます。まだ非電化の小浜線をのんびりと走るSL列車は大変素敵でした。

上の画像はYさんが撮影した612D、急行「ちどり2号」のグリーン車、キロ28 2305(広ヒロ)になります。鳥取と広島を結んでいた急行のようです。このキロ28は窓がユニットサッシに取り換えられていたと書いてありました。確かに珍しいキロ28だと思われます。

上の画像2つは、Yさんが1985年くらいに北陸本線の田村~長浜間にて撮られた写真になります。EF70形交流電気機関車1次型、シールドビーム改造後の牽引する北陸線下り普通列車と475系交直両用急行形電車による下り急行「ゆのくに」金沢行きになります。滋賀と三重との県境にある鈴鹿山脈、霊仙山をバックに撮られたこれらの写真は素晴らしく、自分も北びわこ号等を撮影していたポイントになります。

上の画像はYさんが1979年に自宅から撮影された米原から敦賀方面に向かうEF81交直両用電気機関車146号機になります。庇があるこの81をここの線区で見るのは珍しく、新製車の回送かもしれません。しかもパンタグラフが両方とも上げられています。当時のこの線区は交流2万ボルト区間でした。後の1991年にデッドセクションが長浜~虎姫間に移設されました。以上、今回は友人から頂いていた写真を紹介させて頂きました。今回の写真の掲載にあたり、この場をお借りして2人の友人にお礼申し上げます。貴重な写真を頂きまして本当にありがとうございました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走する寝台特急「あけぼの」~奥羽本線のイメージ~

敦賀第二機関区の設置計画

今年は約1年がかりでシーナリィ付きの線区を製作しました。1つ出来上がるとまた次の所に気が行くようになります。レイアウトには扇形庫のある第一機関区はあり、蒸気機関車やディーゼル機関車が佇んでいます。やはり、次に欲しくなってくるのが電気機関車が佇む「第二機関区」です。自分的には1975年に見た「敦賀第二機関区」をモチーフとした電気機関車の機関区を作ってみたいと以前から考えていました。鉄道模型友人からのアドバイスも受けて、このほどレイアウトの北側に増設する計画を立ててみました。これまでレイアウトの外側線から1線を留置線として設置していましたが、この線区は残しながら新しく2線機関車が留置できる庫を作ることにしました。以前にこのレイアウトの台を製作して下さった方が、趣味の本を納める書庫をいくつか作ってもらっていました。この書庫は2つを縦に積むと、レイアウトのベースと同じ高さになるように作ってもらっています。今回の電気機関車の機関区を増設するにあたり、この書庫を2段重ねにして、2組をレイアウトの中に入れてみることにしました。

書庫の中には鉄道趣味関係の本をぎっしりと置くことができます。鉄道趣味関係の月刊誌が上手く納まるように高さを考えてもらいました。これまで沢山溜まっていた雑誌を部屋に山積み状態にしていましたが、これですっきりと整理して収納することができ、見たい時に何時でも取り出して読み返すことができるようになったわけです。この書庫を2つ重ねるとレイアウトの高さ85㎝になるという優れものです。

そして書庫の上に10mmの厚さのOSB材を乗せてみると、レイアウトの面と面一になりました。改めてこの書庫を制作してくださった方の技量に感動を覚えました。鉄道模型レイアウトを作る上で、大変大事になってくるのが「ベースの水平さ」といえます。それを見事にクリアしているので素晴らしい細工といえます。

これまではいろいろと鉄道グッズを飾って置いていたスペースに機関区の敷地ができました。いつも作りたいと思っていた「電気機関車の機関区」の第一歩が踏み出せた気がしています。いずれはしっかりと地面を作って、機関区のストラクチャーを自作したいと考えています。画像に映っている機関庫は今から23年前、まだカトー製線路を部屋に敷き詰めて遊んでいた頃に、ちょうど良い大きさの空き箱を利用して製作した物です。当時の「ワープロ」で「敦賀第二機関区」と印刷し、スケールも無視して貼っています。でも当時はこの簡単な機関区のストラクチャーが1つあるだけで好きな交流電気機関車が生き生きとして見えたものです。

書庫がレイアウトの台になり、貴重な機関区用の敷地が生まれました。どう作っていくかはこれからの楽しい課題となります。いろいろと過去の敦賀第二機関区の写真を見たりしながら構想を練っていきたいと思っています。敦賀第二機関区は大きな検修庫のある大変大きな機関区でしたので、その特徴を生かしながら製作のモチーフとしてイメージしていきたいと思っています。

このようにレイアウトがまた少し広げることができて、新しい「夢」が広がりました。このスペースに「敦賀第二機関区」をイメージしたセクションを作っていきたいと思います。背景は山として、右側のシーナリィ付きの山を嵩上げしながら山々が連なる背景にしたいと思っています。実際の敦賀第二機関区も南側には福井滋賀県境の山々が迫り、鳩原ループ線や山線を経て線路は滋賀県へと続いています。左の絵を描いたバックはイメージを作るために厚紙に緑色と青色をスプレーしたものです。バランスを考えるのに参考になりそうです。まずは右側のバックの様に、しっかりとした山の背景画を描いて連なる形の背景を製作していきます。動画や写真を撮影する際には障子が入っていると興ざめしてしまうので、併せてもう少し背景を上の方に伸ばしても良いかと思っています。実際このセクションを撮影すると見えてくる事も多々あります。

実際に長浜から電車に乗って敦賀に行く時に、駅構内が近づいてくると元敦賀第二機関区の建屋のすぐ横を通って行きます。最近まではEF81形交直両用電気機関車が何両か留置してありました。その時に見える情景を再現したいと思いました。給水タンクも見かけたので以前に缶スプレーの蓋を茶色に塗って自作した物を置いてみました。今風の3階建ての白い機関区建屋はヤフオクで入手した1/80の紙製ストラクチャーになります。後は鉄道模型友人から頂いた詰所と倉庫を置きました。山の連なりの繋ぎにはエンドウ製のお座敷運転用の単線用トンネルを置いています。

機関庫に続く線路はカトー製の電動6番ポイント左を新たに購入して設置し、奥の方のポイントは電動が壊れているので手動で操作をしています。長い留置線が1線、庫に入る線路が2線の電気機関車機関区。今は敦賀になっていますが、もちろん直流電気機関車も留置した機関区の米原機関区等としても楽しむ事ができそうです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF81トワイライト専用機が出区していきます。
EF81が本線から機関区に入線していきます。続いて475系が出区していきます。