良き国鉄時代㉙~私が撮ったDC普通列車たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル普通列車の特集です。気動車普通列車と言うのが適当なのかもしれません。地元の北陸本線では、前回に特集した気動車急行が全盛期でよく見かけることができました。そして当時は敦賀第一機関区に在籍していたキハ20系気動車による普通列車が運転されていました。たいていは3連で運用されていて、稀に2連での運用も記憶しています。キハ20に混じって、キハ58も使われていた記憶があります。当時の北陸本線の「河毛」と「坂田」は今のような立派な駅ではなくて、車両が2両くらいしか停車できないような短いホームの無人駅でした。双方の駅には客車列車は長すぎて停車できない状況だったわけです。それを補完すべく活躍していたのが気動車による普通旅客列車でした。これらの気動車が「河毛」と「坂田」に停車して、前2両だけでの客扱いをしていました。国鉄が終焉を迎える晩年まで気動車による2つの駅対応が続いていて、その頃になると朱色のキハ48系が使用されていました。余談になりますが、この2連は現在では「花嫁のれん号」に姿を変えて第二の人生を歩んでいます。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したキハ20系気動車3両による普通列車になります。おそらく木ノ本行きかと思われます。敦賀からやってきたこの編成が木ノ本と彦根の間を行ったり来たりして運転されていました。

上の画像は1978年に田村~長浜間で高校時代の鉄道趣味友人が撮影したキハ20系気動車3両編成普通列車になります。おそらく木ノ本行きの気動車でしょう。夏場のようで非冷房の気動車だったので所々窓が開いています。室内は薄緑で煙突部分の大きなでっぱりと、天井の扇風機が思い出されます。写真からはなかなかの乗車率が伺われます。この気動車による普通列車の最後は敦賀へ帰っていったようです。実に面白い運用でした。当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

622D  敦賀発5:22→彦根6:55623D  彦根7:14→木ノ本 8:02
624D  木ノ本8:06→米原8:40625D  米原13:19→木ノ本13:52
626D  木ノ本14:06→米原14:40627D  米原15:25 →木ノ本15:59
628D  木ノ16:07→彦根16:59629D  彦根17:45 →敦賀19:11

※時刻表復刻版 1972年3月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

早朝に敦賀からキハ20系気動車3連が木ノ本にやってきて、米原で長めの昼休みを取り、また木ノ本と米原・彦根を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチックとエンドウ製を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ20系気動車3連。

上の画像は、1974年に湖西線が開通してから近江塩津駅で撮影したキハ26系の気動車になります。この気動車も敦賀第一機関区に在籍していて、湖西線の近江今津と敦賀、近江塩津の間を結んでいました。当時は湖西線のデッドセクションは永原~近江塩津間だったので、近江今津から敦賀方面へはこの気動車を利用するしかなかったわけです。この気動車も近江今津と近江塩津の間を行ったり来たりして最終は敦賀に帰っていった運用でした。この運用も面白く、当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

640D  敦賀発5:52 → 近江今津 6:44641D 近江今津7:16→近江塩津7:42
642D  近江塩津7:47→近江今津 8:14643D  近江今津8:25 →敦賀 9:10
644D  敦賀13:02→近江今津14:02645D  近江今津14:35 →敦賀15:23
646D  敦賀17:03→近江今津18:00647D  近江今津18:22 → 近江塩津18:49
648D  近江塩津19:11 →近江今津 19:37649D  近江今津 20:03 →敦賀20:53

※時刻表復刻版 1978年10月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

やはり早朝に敦賀からキハ26系気動車2連が近江今津にやってきて、敦賀で長めの昼休みを取り、また近江今津と敦賀・近江塩津の間を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチック製品でキハ26系2連を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ26系2連。

地元とは離れますが、上の画像は奈良駅で撮影したキハ35系気動車になります。1974年に撮影したものです。この気動車は小学5年生の頃に亡き父親に連れて行ってもらった草津線の蒸気機関車旅の時に、草津線や関西本線でよく見かけました。キハ20系等とは違って、切妻タイプの都会的な雰囲気が印象的でした。ドアも両開き方式で通勤形を象徴していました。当時時の2色塗装時代になります。鉄道模型では旧製品でエンドウ製を3両程もっています。残念ながら自走できる車両は無く、いずれもトレーラー車ばかりです。

上の画像は1975年におそらく名古屋駅で撮ったものに思います。当時、自分には大変珍しい型の気動車だと思って撮影した記憶があります。キハ45系かと思います。鉄道模型では持っておらず、現在トラムウェイ製品が出ています。登場時の2色塗装時代になります。以上、今回は普通列車として活躍していた気動車をとりあげてみました。中でも北陸線に関わる車両の事を詳しく書かせていただきました。文章が長くて画像が少なくなってしまいましたことをお許しください。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

☆彡ここからは今回のテーマからは外れますが自分の写真ストックから見つかった写真を数枚紹介させていただきます。

上の画像は天王寺と白浜を結んでいた「きのくに」になります。国鉄と南海電気鉄道の相互乗り入れで運転されていたようです。この2枚の写真と下の写真は高校時代の友人から頂いた写真です。

上の画像はキハ08系気動車になります。鋼体化客車から改造された大変珍しい気動車で、異端児とも言われた気動車でした。晩年には今は無き「加悦鉄道」で活躍していました。種車はオハ62形でした。鉄道模型で製作したら実に面白い車両だと思います。

良き国鉄時代㉘~私が撮ったのDC急行たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル急行列車の特集です。気動車急行というのが適当なのかもしれません。昔、駅の表示にも「気動車」という表示があったように思います。自分が中学生から高校生にかけて、地元の沿線や米原駅とその界隈で撮影した写真になります。当時の地元ではキハ20系やキハ58系などが元気に活躍していました。自宅近くの踏切でもこれらの気動車たちを気軽に見ることができた誠に良い時代でした。

上の画像は1975年に地元の北陸本線、虎姫~長浜間で撮影したキハ58系ディーゼル急行「大社」になります。この「大社」は名古屋と出雲市・大社を敦賀経由で結んでいました。名古屋発着の「大社」はここ長浜付近でも撮影ができました。もうひとつの金沢発着「大社」と敦賀で併結して、小浜、宮津、山陰本線経由で運転されていたようです。終点近くの出雲市から大社の間は普通列車として運用されていました。ちなみにこの急行「大社」は名古屋を9時10分に発車して、出雲市には19時51分、終点の大社には19時51分に到着していたようです。ロングランのディーゼル急行だったと言えます。上りの同列車は出雲市発8時20分で米子で金沢行きを併結し、敦賀で分割の後、終点金沢には18時30分、名古屋には18時28分にそれぞれ到着していました。最初は長編成で出発して、途中の駅で分割して行先を変えていくという運行スタイルはなんともロマンに満ちていると感じるのは私だけでしょうか。鉄道模型ではカトー製と天賞堂製で所有しています。天賞堂製はカンタム仕様で、コントローラで色んな音を楽しむ事ができる模型です。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影した上りの急行「越後・ゆのくに3号」になります。急行「ゆのくに」と言えば475系交直両用急行形電車で運転されていたイメージがありますが、当時はこのキハ58系でも運転されていました。当時の時刻表によると「ゆのくに2号、3号」・「越後」は大阪と能登半島の穴水・輪島、珠洲と新潟とを結んでいたようです。各方面に行く列車を併結して堂々の12連で大阪からは運転されていました。6連は大阪~新潟、4連で大阪~穴水、そして2連は大阪~金沢で運転されていたようです。気動車なので各駅での分割併合もやり易かったと思います。ちなみに写真の「越後・ゆのくに3号」は新潟8時25分に出発、13時15分に金沢で珠洲、輪島からの「ゆのくに3号」を繋いで、終点の大阪には17時39分に到着していました。下りの同列車の「越後・ゆのくに2号」は大阪を11時15分に発車して、金沢で輪島・宇出津行きを分割して終点の新潟には20時05分に到着していました。輪島には18時07分、宇出津には18時12分に到着していました。キハ58系気動車の正に「黄金時代」と言えそうです。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影しました。北を目指して走るキハ58系の急行「越後・ゆのくに2号」になります。大阪から金沢までは堂々たる長編成でした。

上の画像も同じく1978年に虎姫~長浜館にて撮影した急行「越後・ゆのくに3号」大阪行きになります。

上の画像は1975年に米原駅を俯瞰して撮影した急行「越後・ゆのくに2号」になります。ホームには今となっては懐かしい駅弁売りの方の姿と車内販売風の女性の姿が見えます。米原発が12時52分なのでまだ販売時間帯だったのでしょうか。当時は駅に着くと「べんとう~べんとう~」という駅弁販売の独特の声がしていたものです。今は全く無くなってしまった情景です。以上が関西県と中部圏と北陸と山陰を結んでいたDC急行になります。

次は大阪と飛騨を結んでいた急行「たかやま」を紹介します。現在はキハ85系を経て最新型のハイブリッド車両HC85系が活躍している特急「ひだ」も当時はキハ58系の気動車4連で運転されていました。米原まで行って撮影していました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した、大阪発8時00分発の高山行き急行「たかやま1号」になります。岐阜から高山本線に入り13時16分に終点の高山に到着とていました。冬に撮影していたようで、前面には雪が付着しておりホームにも雪がうっすらと積もっています。

最後の画像だけは国鉄時代ではなくJRになってからの画像ですのでご容赦願います。1999年くらいに東海道線の近江長岡~柏原間で撮影した晩年の急行「たかやま」になります。1999年12月のダイヤ改正で急行としての運用が終わり、後をキハ85系の「ワイドビューひだ」に姿を変えることになります。晩年には画像のように大変美しい塗装になり、絵入りの大型ヘッドマークを掲げて運転されていました。グリーン車キロ28を挟んで4連のDC急行でした。鉄道模型ではこの特別カラーは持っていません。私の友人はカトー製を塗り替えたものを所有しておられます。今回の特集は以上になります。次回は気動車の普通列車編をお届けしたいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走るキハ58系急行形気動車6連 前2両は天賞堂製カンタムのキハ58+キハ28。後の4両はカトー製になります。

良き国鉄時代㉗~私が撮ったDC特急たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル特急列車の特集です。自分が中学生から高校生にかけて、米原駅をはじめ京都駅に大阪駅、天王寺駅や名古屋駅で撮影した写真になります。中には今は亡き父親に連れて行ったもらった旅行で撮影した大変懐かしい写真もありました。以前に当ブログで紹介していた画像が再掲している場合があろうかと思いますがご容赦願いたいと思います。

上の画像は1974年の夏、自分が中学生の時に亡き父親に連れて行ってもらった紀伊半島一周旅行で撮ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」になります。名古屋からの夜行ディーゼル急行「紀州」に乗り、2人とも寝過ごして新宮で降りなければいけないのに、周参見まで行ってしまいました。それで普通列車で白浜まで行ってからこの特急「くろしお」に乗ったと記憶しています。画像の駅は白浜かと思います。白浜からはひたすらこのディーゼル特急に乗って終点の天王寺まで行きました。途中、キシ80の食堂車で自分の定番だったカレーライスを食べた記憶が残っています。くねくねとした紀勢本線を驀進していくキハ82系を堪能した旅でした。

上の画像は自分たちが乗った特急「くろしお」が終点の天王寺に着いたところで撮影した1枚です。その後の行程は確か当時は大阪環状線の弁天町にあった「交通科学館」に連れて行ってもらったのだと思います。鉄分満載の乗り鉄旅をさせてくれた父親に感謝の思いで一杯です。キハ82系は鉄道模型ではカトー製とカツミ製で所有しています。

上の画像は1975年に名古屋駅で撮影したキハ81使用の特急「くろしお」になります。まだこのブルドックスタイルが健在の頃で、誰かがホームにラジカセを置いてディーゼルの音を録音していたようです。鉄道模型ではカトー製でこの先頭車を持っています。これまでの製品のキハ82系に繋げられるので懐かしい編成を再現することができます。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。新大阪発倉吉行きの特急で、播但線経由で運転されていました。ちなみに「はまかぜ1号」は新大阪を9時25分して終点倉吉には14時17分に到着していました。

上の画像は1975年に撮影した、京都駅に到着したキハ82系ディーゼル特急「あさしお」になります。京都と鳥取を結んでおり、食堂車のキシ80も連結されていた頃になります。全部のドアが開放しているので到着した後だと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したディーゼル特急「まつかぜ」になります。京都と博多を山陰本線経由でロングランもしていた特急です。この「まつかぜ1号」は鳥取を12時46分に発車して山陰線、福知山線経由で大阪に17時04分に到着していました。ホームに灯りがついていて夕方の時間帯になっていたのだと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「かもめ」になります。京都発長崎・佐世保行きのロングランのディーゼル特急でした。京都を7時30分に発車して、佐世保には18時48分、長崎には19時12分に到着していました。この写真はおそらく大阪8時06分発「かもめ」を撮影したのだと思います。ちなみに上りの「かもめ」は長崎10時30分発、佐世保10時50分発で終点京都には何と22時25分に到着していました。なんという長距離を走っていたのでしょうか。長距離といえば大阪・上野発青森行きの特急「白鳥」の登場時は、キハ82系で運転されていました。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの2号」になります。特急「しなの」は上下1本だけ大阪発で長野まで運転されていました。この列車以外の「しなの」は名古屋発でした。この「しなの2号」は大阪を8時30分に発車して、名古屋を経由し終点の長野には14時52分に到着していました。下りの「しなの2号」は長野を12時35分に発車してここ大阪には19時ちょうどに到着していました。キサシ180という食堂車も連結されておりパワフルで豪華なディーゼル特急でした。このディーゼル特急は地元の米原にも停車していて、米原駅でも何回か撮影していました。下の2つの画像は冬の日に米原駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの」になります。

米原駅で雪の日の撮影したこの日の特急「しなの」。発車時のディーゼル音が大変迫力のあるものでした。そして屋根からはモクモクと黒煙が上がっていたのをよく覚えています。その後、中央西線が電化されると振り子電車の381系で運転されるようになりましたキハ181系は、鉄道模型ではエンドウ製で9連を持っています。

上の画像は1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。今回の特集の最後になります。高校時代に鉄道模型友人とこの撮影名所まで行って、1日中撮影を楽しみました。この特急「はまかぜ」はおそらく新大阪発9時25分発の「はまかぜ1号」で、向日町の車両基地から出区して始発駅の新大阪に向かう途中の回送列車を撮影したものと思われます。新大阪発9時25分で播但線を経由し、終点の倉吉には14時17分に到着していました。食堂車は連結されていなかったようです。今回の私が撮ったDC特集、いかがだったでしょうか?今は自宅レイアウトでこれらのDC特急の鉄道模型を走らせることで、当時にタイムスリップすることができます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走するDC特急たち。キハ181系9連はエンドウ製、キハ82系7連はカツミ製、キハ81系8連はカトー製。

自宅レイアウト新線の製作記④ シーナリィの製作~自宅レイアウト①までの製作記・最終回

今回は当ブログの「シーナリィの製作~自宅レイアウト①」までの製作記となります。これから固定式レイアウトの製作をされようとしておられる方に少しでも参考になれば嬉しく思います。川の深さを確保すべく下に掘り下げた工作もなんとか終わりました。次にガーダー橋周辺の土木工事をしました。ガーダー橋の両端には紙粘土で成形していきました。ベース板とにもしっかりと付けることができて良い素材といえます。土手部分も紙粘土でそれらしく成形しました。川の岸には石膏で作った崖をボンドで固定してみました。ずいぶん河川の雰囲気が出てきたと思います。河川部分には自宅にあった適当な大きさの小石をそのまま置いています。橋脚は前にも書きましたが、スタイロフォームを切り出して、ニュートラルグレイで塗装しています。

2023.2.7
2023.2.10

河川部分の成形の次は背景となる山肌部分の成形をしました。上の画像のようにボール紙で作った骨組みに水に漬けた新聞紙を貼り合わせていきます。ひとつの大きさは手のひらサイズ位にして、ペタペタと貼っていけば大丈夫です。満遍なく張り付けていきました。

2023.2.10

濡れた新聞紙を張り付けた画像が上の画像になります。敷設している線路に新聞紙を敷いて汚れるのを防いでいます。製作の順序としては、最初に山肌を作っておくのが作業がやり易いとは思いますが、どうしてもレイアウトの線路を繋いだ状態を作っておきたかったので、あとから山肌の基礎作りをしました。

2023.2.10

石膏で製作した崖部分の位置を決めて、紙粘土とも合わせながら固定していきました。ボンドは石膏を付けるものに加えて、スタイロフォームの接着には「発泡スチロール接着剤」を使用しています。

2023.2.12

山肌に新聞紙を張り付けた後は、裾部分の製作と同様に石膏を溶いた水にキッチンペーパーを付けた物を新聞紙の上から張っていきました。石膏(プラスター)が染みたキッチンペーパーは新聞紙の上からだと、より上手く張り付けることができるようです。線路の勾配部分の横には、紙粘土を付けていって線路の盛り土を表現していきました。レイアウトが「白一色」となり、まるで「雪景色」のようになりました。しばらくはこの状態で模型運転を楽しんでいました。「雪の中を走る列車」が再現出来て大変楽しかったです。模型友人の中には「このままで冬景色の線区にすれば」と言う方もいました。

2023.2.12

上の画像は河川周辺にプラスターを塗って、川底にも色を塗るためにプラスターを塗ったところになります。河川の岸には自宅で拾った小石をそれらしくに置いています。

2023.2.12

上の画像は、ロックシェード周りの状態です。ロックシェードの上には山肌が迫っている感じを表現してみました。擁壁とのバランスもまずまずのようで、この線区の1つの見せ場になっています。

2023.2.12

ここまで下地作りの作業が進んでくると、この線区のイメージがはっきりとしてきました。後の作業は線路にバラストを敷いていく作業に、地面づくり、裾野部分の表現と山肌の表現という流れになってきます。まずは白一色の「冬景色」の線区で、好きな北陸線本線を走っていた列車を走らせては楽しんでいました。

2023.2.12

新しい線区をレイアウトの南側から全体を撮影しました。手前には持っていた踏み切りのストラクチャーを置いてみました。踏切板は1mmの木材から自作して、レッドブラウンで塗装しています。ここの踏み切りの奥には、後に素晴らしい神社が建立することになります。ひとつの「物語」が生まれようとしています。今回、自宅レイアウトの東側の線区を思い切って作り直し、シーナリィ付きの線区にしようと製作を開始しました。このことを自分の鉄道模型友人たちに発信していくことで、友人たちからストラクチャーを提供してくれたりして線区をもっともっとリアルなものにしていくという大きな励みを頂くことができました。また後にこの線区がある程度完成する頃になってくると、昔からの鉄道模型友人たちが次々と模型を持ってあそびに来てくれるようになりました。この現象は当初予想していなかったことで、鉄道模型趣味の冥利に尽きると思います。自分は自宅に居ながら、いろいろな鉄道模型を見ることができ、また鉄道談義に花を咲かせることができるようになりました。本当に有難いことだと思っています。今回からの製作の続編は、すでに当ブログの「自宅レイアウトの紹介」で詳しく紹介していますので、また併せてご覧いただければと思います。今年製作したこの新しいシーナリィ付きの線区は正に鉄道模型車両の「舞台」だと痛感します。これまで所有していた模型も、この線区を走るとすごくカッコ良く見えてきます。「鉄道模型=役者」の見え方が変わり、少しウェザリンクを施したり、車内には室内灯に加えて乗客人形を乗せたくなってきます。舞台と役者の相乗効果ともいえるでしょうか。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

2023.11.18現在
2023.11.18現在

自宅レイアウト新線の製作記③シーナリィの製作~自宅レイアウト①までの製作記

今回は当ブログの「シーナリィの製作~自宅レイアウト①」までの製作記となります。これから固定式レイアウトの製作をされようとしておられる方に少しでも参考になれば嬉しく思います。川の深さを確保すべく下に掘り下げた工作もなんとか終わりました。内側線と外側線にできた10mmの高低差は後々その効果を発揮してくれることになります。また連日のように試運転を繰り返して楽しみました。

2023.1.12

内側線の緩い勾配部分には紙粘土を付けて盛り土風にしました。そして、この程内側線に設置を考えていた落石覆い「ロックシェード」を製作しました。北陸本線の山線によく見らせれるスノーシェードでも良かったのですが、屋根上に緑を表現したかったので屋根部分がフラットな落石覆いにしました。実際にも北陸線の南条〜王子保に同じようなものがあり、これをもモチーフとしています。実は今回の線区を製作するにあたり、北陸線の運転席展望ビデオをよく観ていてレイアウトにマッチしたこのロックシェードを製作しようと思ったわけです。

2023.1.25

大まかな形はNゲージの鉄道模型カタログのロックシェードを参考にして、スケールを1/80にして設計しました。現物合わせで大きさを決めて、実際に線路に車両を置いて高さを決めています。バルサ板と木工用角材を使って木工用ボンドでサクサクと作りました。まあまあ雰囲気が出せたと思っています。Nゲージでは大変豊富なストラクチャーが発売されており便利に使えて良いのですが、16番ゲージでのストラクチャーはホームや駅舎、機関区建物等が出ているだけで、ほとんどのストラクチャーは自作するしかありません。実際の写真を見ながら木材や紙で製作するしかないと思います。まあ無いものを作る楽しさは味わえるといえるかもしれないです。

2023.1.25

上の画像は、自作したロックシェードを「ニュートラルグレー」のタミヤ缶スプレーで塗装したものになります。実際には黒っぽい色だと思いますが、あえてグレーにしてみました。新線に新たなストラクチャーが出来たことで、また製作のモチベーションが上がりました。

2023.1.25

上の画像は内側線の勾配部分の線路に紙粘土を使って盛り土を表現したものになります。紙粘土はシーナリィ製作に大変有効に素材で、大変重宝しました。乾いたらアクリル絵の具で色が付けられるというのもメリットです。

2023.2.3

次に手掛けたのが、背景になる山肌部分の製作でした。山のスペースが僅かしかないので、かなり傾斜の強い山肌を作ることになりました。古典的なやり方になりますが、まず厚紙(工作用紙)を細く切ったものをたくさん用意して山肌部分にするところに付けていきました。厚紙は押しピン、画鋲で留めていきました。そして線区の下の部分、裾野にも細く切った厚紙を山肌と同じように上下に付けて。そのうえからボンド液(木工用ボンドを約3-5倍に溶いたもの)をたっぷり付けた新聞紙を貼っていきました。

2023.2.3

新聞紙は約20㎝四方に切ったものを重ねて張り付けていくことになります。満遍なく張り付けていきました。あとはしっかりと乾くのを待ちます。

そしてもう一つ作りたいものがありました。これは山の斜面にある山崩れを防ぐ擁壁です。自分がよく鉄道写真の撮影に行く、米原~彦根にあるものを参考にしてそれらしく木材で製作しました。ベニヤ板に5mmの角材を適当に付けた物になりますが、1つの四角の大きさを決める時には写真を見ながら大きさを決めていきました。どうやら一辺が車両ボディの半分くらいと判明して、その大きさにしています。上の画像は試作で四角の大きさが大き過ぎました。後からこの四角に木材を足して、この四角の半分の大きさに修正しました。

上の画像は川の奥に設置するために石膏で製作した「岩」になります。これを作るためのキットが発売されており、石膏を流し込む型も入っているので簡単に作ることができました。石膏(プラスター)を買い足して、2~3個同じような岩を作りました。プラスターは粉に対して半分くらいの水を入れながらつくります。必ず水を先に入れてから粉を少しずつ入れていくようにします。小麦粉を練ってお好み焼きを作っていくような感じになれば大丈夫です。それを型に入れて一晩経てば固まっています。

2023.2.7

上の画像は山肌のベースを作っている様子になります。ボール紙を切ったものは縦横に貼っていくと強度が出て良いです。今回、鉄橋の脚にも使用したスタイロフォームも適当な大きさに切って入れました。ボンドは発泡スチロール用を使用して張り付けました。また同時に新聞紙を張り付けた裾部分には今度はプラスターをたっぷりと付けた20㎝四方のキッチンペーパーを貼っていきました。外側線の架線柱の位置を変更しているのがお判りになられると思います。これは鉄道模型友人から「撮影するのに外側の架線柱が邪魔をするので、線路の内側に設置してみれば」というアドバイスを受けて変えています。内側にしても不自然ではないと思い変更しました。

2023.2.7

上の画像は製作した擁壁部分とロックシェード、そしてもう一つベニヤ板で作った擁壁を山肌部分に付けた様子になります。この3つが今回自分で作ってみたかった新線のストラクチャーになります。いずれもグレーで塗装しています。だんだんと形になってきた新線区間の製作です。今回は以上になります。あと1回だけ続けて紹介していこうと思っています。今回も最後までお読み頂きましてありがとうございました。