林鉄フェス2024に行ってきました~王滝森林鉄道

林鉄フェスのチラシ。

2024年10月6日に長野県木曽郡王滝村にある松原スポーツ公園で開催された「林鉄フェス2024」というイベントに今回初めて行ってきました。去年の秋に「赤沢森林鉄道」に行った時に、このイベントが王滝村の方で開催されていることを知って、今年は是非行ってみたいと思っていました。「林鉄フェス2024」は10月6日(日)の9時から15時まで開催され、運材列車の再現やB型客車列車体験乗車、林鉄バイク体験などが楽しめるイベントになっています。イベントのパンフレットによると王滝村の復活保存軌道敷設は、2005年から有志のボランティア活動で始まったそうです。活動の資金は全国の方々からの寄付と長野県と大滝村の助成から集められ、建設が進められました。

復活森林鉄道が敷設された運動公園は、王滝川右岸に昭和50年から整備されてドームを備えた運動総合施設として作られました。平成10年からは1984年に起きた長野県西部地震により牧尾ダムに溜まった548万㎥の土砂の除去作業で埋め立てられて、現在の復活線路は以前の軌道敷の20メーター上になるそうです。線路敷設は平成22年に山沿いの832メートルが完成し、令和2年には公園を1周する線路、1385メートルが完成しました。たいへん大きなナローゲージの復元森林鉄道といえます。

前泊したペンション「遊基地」さん。

10月初めの週末ということで、前泊してゆっくりと楽しむことにしました。10月5日(土)にゆっくりと愛車ジムニーで高速を使わずに下道を長野に向かいました。今回も家内と一緒に出掛けました。美濃市、関市を通って郡上八幡でお昼を取りました。この日は良い天気で運動会が開催しているとあり、軒並み食事をとれる店は臨時休業でした。やむなくパンで済まして、宿を取った開田高原を目指しました。家内が取ってくれた宿は可愛らしい外観のペンションでした。親切なご主人が出迎えて下さり、近くの日帰り温泉も案内してもらいました。御岳山が近く、土湯系のよく温まる湯に癒されました。ご主人の作られたフルコースの夕食も美味しかったです。ペンションのある場所の標高は1600メートルで、外気温も18度と寒く感じました。夜はヒーターを入れてもらいました。翌日は朝食を頂いてから王滝村の林鉄フェスの会場に向かいました。会場には9時頃に到着することができました。

関西電力のモーターカー。

会場に着くとかなり沢山の車がグランドに停められていました。全国各地から来られていました。この日の前日には木曽郡上松町にある「ひのきの里総合文化センター」で「第2回全国森林鉄道サミットin木曽」が開催されていました。森林鉄道にまつわる記念講演と活動報告等があったようでした。受付を済ませると早速撮影タイムとなりました。そして体験乗車の抽選会にも臨みましたが、自分は外れて家内は当選してB型客車に乗ることができました。

体験乗車の切符

客車列車を撮影するポイントにはファンが沢山カメラを構えておられ、まるで記念列車が走る日の撮り鉄の風景がそこにありました。私もポイントで走ってくる列車を撮影していました。低速で走っているので撮影やり易かったです。お昼はキッチンカーの「おにぎり」を買って食べました。

管理棟の一室には「木曽モジュール倶楽部」と題した鉄道模型の展示がありました。9mmゲージの木曽森林鉄道がジオラマ付きのモジュールを繋いでオーバルで表現展示運転されていました。こちらの写真も撮らせてもらったのですが、カメラの画素数が極端に小さくなってしまっていて、残念ながら紹介させて頂くことができません。たいへん申し訳なく思います。とにかく細部まで作り込まれた素晴らしいモジュールレイアウトでした。

運良く乗れた林鉄バイク。

会場で知り合いになった方は、埼玉県秩父市から来られたご夫婦で、ご主人は5インチゲージのライブスティームを趣味にしておられる方でした。5インチゲージ鉄道模型の話ですっかり打ち解けることができました。そしてこのご夫婦と、何と会場の線路を1周できる「林鉄バイク」に乗ることができました。またまた家内が抽選に当選したもので、線路上を足漕ぎで走ることができる「林鉄バイク」を楽しむことができました。私はゆっくり後部座席に乗せてもらい、ナローゲージの運転風景を楽しませてもらいました。列車での線路の1周はされていませんでしたが、この林鉄バイクでは1周することができました。

午後に運転された運材列車。
車両基地。

午後からはまた森林鉄道の運材列車の再現走行があり、再度じっくりと撮影させて頂くことができました。そして閉会式より早く14時前に会場を後にしました。帰りも上松から木曽を通り、岐阜県に抜けて下道を帰りました。途中に沢山の「道の駅」があり、何ヵ所か立ち寄りながら野菜や晩御飯を買って午後7時には帰宅することができました。良い天気の中「林鉄フェス」を満喫することができました。「林鉄フェス2024」に関わられた関係者の方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

復活線路を走るB型客車列車と関電モーターカー。

JRの撮り鉄③

今回は2003年くらいに撮影した鉄道写真から紹介したいと思います。ちょうど小浜線が電化開業した位の時期になります。そして485系の特別記念列車や懐かしい貨物列車等の写真も見て頂こうとかと思います。2003年くらいは息子が6歳の頃で、よく一緒連れて電車に乗って出かけたりしていました。後に私が息子に誘われて名古屋鉄道に乗りに行くようにもなりました。2003年は小浜線の敦賀から東舞鶴までが電化開業した年になり、一緒に敦賀まで行ってから電化された小浜線で小浜まで行きました。駅前の食堂でお昼ご飯を食べて、また小浜線に乗って敦賀に戻り北陸線で長浜に帰ったと記憶しています。初めて乗った真新しい125系電車の軽快な走りも良く覚えています。敦賀では小浜線に投入された綺麗な塗色の113系や北陸線のジョイフルトレイン「わくわく団らん」も撮影することができました。

上の画像は、敦賀駅で見かけた当初の小浜線用に充当された113系になります。たいへん鮮やかな塗色で「小浜線カラー」として登場した113系7700番台です。113系の体質改善車ということですが、この塗色は新鮮で好きでした。

上の画像は小浜線のクモハ125形直流電車になります。電化開業時には8両が新製されたようです。223系のような前面で、両運転台の電車でもちろんトイレもある単行用の電車です。現在は小浜線はこの125形が活躍しています。

上の画像は、小浜駅での125形になります。この電車の終点は東舞鶴でした。かつてのキハ58等の気動車王国の小浜線も新製の直流電車が走る路線となりました。もっともっと利用客が増えていくことを願いたいです。そういえば。10月5日から最新型185系気動車による豪華観光列車「はなあかり」が城崎から小浜線経由で敦賀まで運行されることになっています。

上の画像は、その当時「小浜線電化開業」の記念ヘッドマークを掲出した419系交直両用の近郊形電車になります。通称「食パン電車」として活躍したこの電車もいつの間にか消えてしまいました。

上の画像は、小浜線開業時に敦賀駅で偶然に見かけた12系客車の「わくわく団らん」号になります。牽引しているのは敦賀運転派出所属のEF81形交直両用電気機関車です。このジョイフルトレインは1982年にJR西日本の金沢支社が作った客車で、松任工場で誕生しました。2006年まで活躍していました。編成両端の2両がスロフ12系800番台で、中間4両の車両はオロ12系800番台となり、全6両編成で運用されていたようです。国鉄時代に福井客車区に所属していたスロ81系お座敷列車と同じような各車両の名前が付けられていたようです。ちなみに「若狭」、「越前」、「加賀」、「能登」、「越中」、「越後」の名前が付けられていました。6両編成の北陸のジョイフルトレインでした。以上が小浜線電化開業時の撮影となります。ここからはその他の電車や貨物列車の紹介をさせて頂きます。

上の画像は、DD51牽引の「SL北ぴわこ号」回送列車を追い抜いていく485系交直両用特急形電車の特急「加越」になります。485系300番台が使われ、金沢と米原の間を走っていました。北びわこ号の終点、木ノ本駅にて撮影しています。

上の画像は、自宅近くの踏切で撮影した木ノ本へ向かう「SL北ぴわこ号」と離合する485系の特急電車になります。485系はボンネットスタイルのようです。当時は近所の踏切が気軽な撮影ポイントでした。

上の3つの画像は、2002年の10月に撮影した485系による「琵琶湖環状列車・北びわこ号」になります。SL牽引の12系客車による北びわこ号とは違って、こちらは交直両用の特急形電車でした。東海道線と北陸線、湖西線を通って琵琶湖を1周する観光列車として運転されていました。どの写真も長浜~虎姫間の自宅近所の踏切から撮影していました。

上の2つの画像は、2003年9月に東海道線米原経由で運転された大阪発金沢行きの「懐かしの雷鳥号」なります。485系のボンネットスタイルが使われていました。前面のスカートの大きな欠きは、特急雷鳥と和倉温泉行きの気動車「ゆうとぴあ和倉」を併結するために施されていました。「雷鳥」のヘッドマークが字だけのものが掲出されていました。上の写真は、長浜~虎姫間の自宅近くの踏切から撮影しています。下の写真は長浜駅近く、田村寄りの踏切から撮影しています。

かわって、上の画像は東海道線米原~醒ヶ井間で撮影した117系直流電車4連、JR東海カラーの初期の塗色になります。

上の画像は、かつて近江長岡でセメント貨物の扱いがあった頃に撮影した、東海道線下りのセメント貨物列車になります。牽引しているのはEF65形2000番台、直流電気機関車で1000番台に貨物牽引用の装備を追加しているので赤いナンバープレートになっています。新鶴見機関区の所属機です。

このようなセメント貨物列車ももう見かけなくなってしまいました。セメントを積むタキの貨車は近江長岡駅常備とあります。かつて大阪セメント伊吹専用線で活躍していた頃の写真といえます。撮影した日は残念ながら解りませんでした。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

米原駅電留線増設工事の記録~2010夏-2011春

今回は米原駅の醒ヶ井駅寄りにある電車留置線が増設された時の記録を紹介させて頂きたいと思います。もう10年以上前のことになりますが、当時新しい電留線が作られていく過程を画像で保存して記録していました。鉄道模型ではあっという間のレール敷設ですが、実物はそう簡単にはいきません。2010年の夏頃から2011年の春までの工事の様子を、画像で紹介させて頂こうと思います。何もない更地に新しい留置線がだんだん出来上がっていくプロセスをお楽しみいただければ幸いです。どの画像も画素数が低く、見苦しいかと思いますがご了承頂きたいと思います。

2010年の夏休み(当時は特別支援学校の教師をしていました)に何気なくバイクで米原駅に撮影に行ったら、古い陸橋の北側にある電車の留置線がまた新しく作られている様子が見受け取れました。ちょうど工事が始まったばかりだったので、これは完成まで記録してみようと思い立ったわけです。それまで9線あった電留線の東側に新たに2線が追加で作られるようでした。さらに多くの電車を休ませることが出来るようになるようです。上の画像は2010年8月21日の様子になります。更地が重機で整備されているのが見受けられます。

上の画像は、2010年8月22日の工事進捗状況になります。線路の下にある路盤の工事が進んでいて、排水溝の工事が出来上がってきています。コンクリート枕木も沢山積まれていて、線路敷設の準備が進んでいる様子でした。

上の画像は、2010年9月12日の工事現場の様子になります。架線柱が立ち並んで、架線を張る準備が出来ていました。バラストも全てまかれて、線路も1線敷設準備されていました。また右ポイントも1つ設置されていました。留置線へ進入していく線路は、昔よくSL北びわこ号を京都から牽引してきた宮原運転所のDD51が休んでいた留置線から延長して繋ぐようです。ヤード2線を増設していく工事のようです。

上の画像は、2010年9月25日の工事状況になります。今日は沢山の作業員さんたちがポイントの据え置き作業をされていました。やはり2線が増設されるようです。従来の留置線からの延長部分も線路が組まれていました。2線が作られる様子で、1線は線路が敷設されていました。次は右側の線路の敷設作業になります。軌道兼用作業車が留置線の奥の方へ走行していきました。この作業車が動いている様子も初めて見ることができました。

上の画像は、2010年10月8日の様子になります。だいぶ工事が進んできました。2線目が敷設され始められていて、これまでの留置線に線路を繋ぐ準備もされていました。鉄道模型のレイアウトによく見かけるような大変シンプルな増設のようです。

上の画像は、2010年10月23日の工事進捗状況になります。線路は敷設を終え、架線柱も立ちました。バラストも撒かれていました。

上の画像は、2010年11月7日の様子になります。久しぶりに新設されている留置線を見に行きました。線路は敷設を終わり、架線用のビームと架線柱は設置を終えていました。そして、電車の屋上機器保守点検用の渡り板が出来ていました。電車の基地によく見る設備です。

上の画像は、2010年12月5日の工事の状況になります。新しく敷設された線路の中央には、電車の屋上機器関係の点検もできる設備が完成していました。また、架線柱も取り付けを終えて、後は架線を張ってポイントマシンを取り付けたら完成の様相でした。

2011年1月30日の様子になります。線路には雪が積もっていました。この日は「SL北びわこ号」の撮影がてら留置線の工事を撮影しました。架線も張ってあり、完成間近のようすです。まだポイント装置は未設置で、開通使用はされていませんでした。

上の画像は、2011年3月27日の様子になります。ずいぶんと久しぶりに様子を見に行ったところ、全ての工事が完了し、何とすでに留置線が使用されていました。ポイント機器に架線、各種表示なども完成しており、右側の線に223系8連が留置されていました。約7ヶ月の期間で2線の電留線が増設されたことになります。シンプルなポイント1つの留置線2線の工事が手に取るように解って大変面白かったです。

鉄道模型のヤード作りにも参考になったように思います。鉄道模型のレイアウト作りに於いて、新しい留置線を作っていく事は大変楽しい作業といえます。スペースを有効に工夫しながら利用し、そこに列車編成を留置できる線区ができたら嬉しいものです。実物の留置線増設工事を見ながら頭では自宅レイアウトの増設工事をイメージしていました。実物のような屋上機器点検用渡り板や各種の標識や架線柱などが模型でも再現できたらいいなと思ったりもしました。これから製作を予定している電気機関車の機関区とヤードの製作イメージにも思いを馳せている今日この頃です。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

新しい電留線へ向かう線路ができる前の様子。かつて北びわこ号が走っていた頃に機関車が留置されていました。
現在の電留線の様子。2024.9.27撮影
現在の電留線入口付近の様子。

私が撮影したドクターイエロー~引退によせて~

つい最近の大きな鉄道事故?ニュースになります。2024年9月19日の東北新幹線・古川~仙台間を走行中の「はやぶさ6号」・「こまち6号」の連結解放事故には大変驚いてしまいました。しかも時速315キロで走行中のことで、解放後は双方の新幹線に非常ブレーキが作動して300メートル離れて停車したようです。先日自分が参加してきた5インチゲージの祭典「ミニSLフェスタinおやべ」で、自分の5インチゲージが走行中に客車との連結が外れて開放してしまったことがあったばかりで、まさか実物の鉄道、しかも高速鉄道の新幹線の密着連結器で事故が起こるとは本当にびっくりしてしまいました。以前に大井川鉄道で、電気機関車と客車との間の自動連結器が外れて走行中に開放して客車が緊急停止したことがありました。この時は、すぐに「重大インシデント」として認定され、しばらく現場の状態がそのままに保たれて調査をされていました。今回の新幹線のケースは連結解放後、双方の列車が安全に停車していることから重大インシデントには認められなかったようです。しかしながら「密着連結器」での自然開放は極めて稀な事なので、電気系統のトラブルによるものか、機械的なトラブルによるものなのか、今後の原因究明が待たれるところです。密着連結器は新幹線だけでなく、あらゆる電車に使われているといえます。地元でいえば223系新快速電車も、毎日米原駅で増結と切り離し作業がなされており、先頭車同士の連結解放は日常茶飯事の駅での作業と言えるからです。

上り「のぞみ」検測を米原駅で撮影。

今回のタイムリーなニュースはこの辺にしておいて、今回は「新幹線」に関わる記事をお届けしてみたいと思います。以前にも一度記事にしていますが、今回は引退が近い923系新幹線電気軌道総合試験車、「ドクターイエロー」のことを、自分なりに特集して紹介してみたいと思います。これまでに掲載している画像もあろうかと思いますが、どうぞご了承いただきたいと思います。

以前は「ドクターイエローを見たら幸せになれる」というキャッチフレーズが有名でしたが、だんだんとネット上で運行日が解るようになってきました。自分も、とあるサイトから運行予測情報を得るようになり、元職場の同僚と卒業生に知らせたりしています。自分も以前は運行日には米原駅近くの撮影ポイントや新幹線の米原駅に出掛けて撮影をしていたものです。最近になって「今年でドクターイエローが引退する」ニュースが流れてからは撮影する人も各撮影ポイントで増えたようです。自分も最近になって米原駅で「こだま検測」を撮影しました。

「こだま検測」の日は、923系7連が米原駅に停車して、ドクターイエローを本当に間近に見ることができるので、米原駅がアミューズメント施設のような様相になります。下り検測の日が週末に重なることも割とあって、ホームは親子連れや鉄道ファンで溢れんばかりになります。アナウンスは以前なら「回送列車が到着します」というものでしたが、前回は「ドクターイエローが到着します」というものに変わっていて驚いてしまいました。停車時間が5分以上あるので、その間は正に撮影タイムとなります。子どもたちの歓声が聞こえ、ホームを移動していく親子連れやファンの姿が目につきます。そして発車時刻がやってきます。発車の警笛(タイフォン)を鳴らしてくれる運転士さんもいて、クライマックスがやってきます。ドタクーイエローが発車し終わると、まるで「花火大会」が終わったかのような感じで皆さんホームから去って行かれます。

「こだま検測」の日の米原駅は、こういった感じになっています。自分もこれまで何回かこんな光景を見ながらドクターイエローを撮影していました。それも今年の冬あたりで終焉を迎えることになってしまいました。私のような鉄道ファンのみならず、多くの人たちに親しまれてきたドクターイエローのラストランもいよいよ近づいてきているようです。

自宅レイアウトのホームiにて。923系ドクターイエロー。

米原駅以外でよく通った撮影ポイントが、米原駅の南側、京都寄りにあるフジテックのエレベーター試験棟あたりになります。ドクターイエローの「のぞみ検測下り」をよく撮影していました。だいたい13時44分くらいに京都へ向けて走り去っていました。線路脇の障害物が少なめで、撮影もやりやすい場所になります。時間に間に合うように車で現地に向かい、車は堤防の側道あたりに停めて撮影していました。

フジテックの試験棟近くで撮影。
フジテック・エレベーター試験棟近くの撮影ポイントで。

私のドクターイエローの撮影は、動画での撮影が多かったように思います。これからの線路や架線の検測は現行のN700系に装備を取り付けて行うようですが、黄色の新幹線が無くなってしまうことは寂しい限りです。また先頭車両はどこかの鉄道博物館に展示されることになるのでしょうか?700系のスタイルをした試験車両は是非とも保存展示してもらいたいものです。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

近江長岡にて。伊吹山をバックに下りドクターイエロー。

1枚の切符から~国鉄回想旅日記~

切符も時代と共にその形を大きく変えてしまいました。そして現在は切符そのものが無くなるという時代になってしまっているようです。交通系ICカードも随分と普及してきました。新幹線もスマートフォンのアプリで予約して乗れる時代になりました。私が特急列車の指定席を使い始めた1970年代後半以降には、全国の主要駅に「緑の窓口」があって乗車する1ケ月前には駅の窓口に行って専用の用紙に列車名を第2希望まで記入して、駅員が「マルス」というコンピューター発券システムで出した切符を買ったものでした。無事に入手できた緑の切符は、使う日まで紙の入れ物に大事にしまっておいたものです。

今回はそんな切符について、家の断捨離中にたまたま見つかった切符を紹介したいと思います。「良き国鉄時代」とリンクさせてご覧いただければ幸いです。

上の画像は国鉄時代に発売されていた「東北周遊券」になります。20日間も有効で、この切符1枚でゆっくり東北地方を旅行することが出来たようです。実にロマンに満ちた素晴らしい切符でしょう。当時は東京に行く時も「東京ミニ周遊券」を買って、都内を電車で自由に廻っていたのを覚えています。行き帰りは「大垣発東京行き」の普通電車の「大垣夜行利用」でした。

この切符を使った時代は自分が大学生の時になります。親しい友人が岩手県宮古市の出身で、その友人宅に遊びに行った時に使いました。大学時代に下宿していた名古屋からは東海道新幹線0系で東京まで出て、山手線で上野まで行き、そこからは東北本線を使って485系の特急「やまびこ3号」で盛岡まで行きました。そこからは山田線に乗り換えて宮古まで行ったのでした。友人は自家用車のホンダ・アコードで迎えてくれ、リアス式海岸の北山崎展望台にも連れて行ってくれました。夜は友人宅で豪華な海の幸のご馳走を頂いたのを覚えています。初めて食べたホヤや毛ガニにはびっくりしました。たいへん美味しく頂けたまでは良かったのですが・・・。次の日に駅まで送ってもらった後くらいから急にお腹が悲鳴を上げ出してしまったのです。

自分としては東北周遊券でのんびりと青森や秋田を廻って帰ろうと思っていたのですが、とにかく早く家に帰りたくなってしまいました。そこで当時では最速?で帰れる列車の寝台特急「日本海2号」をチョイスし、寝台券を敦賀まで青森駅で買ったのでした。夕刻の発車でしたがお腹の具合が悪く、折角の寝台特急の旅も楽しめないままに翌朝に敦賀へと到着したのでした。24系25形の2段式B寝台車での苦い初めての旅でした。この夏の思い出がこんなにリアルに思い出せたのも、今回見つかったこの切符のお陰だと思います。その後その友人は地元の福祉施設職員になりました。今から25年前に一度再会しましたが、現在では年賀状だけのお付き合いになっています。

ついでに見つかった同じような2枚の切符があります。寝台特急「北星」、盛岡発上野行きになっています。これは当時自分が鉄道好きと知って、その岩手の友人が東京の予備校時代に使った寝台券を私にくれたものになります。夜行列車でよく東京に戻っていたようでした。この切符も今回一緒に見つけることになりました。

自分が乗った列車の「切符」は鉄道ファンにとっては残しておきたいものです。改札を出る時に、駅員さんに「この切符、記念にもらいたいのですが」というと「無効印」というスタンプを押して下さったものでした。他にも沢山切符を残していたのですが、残念ながら見当たりません。今回はちょっといつもと切り口を変えた文章の多い記事になってしまいました。国鉄時代の「切符」が思い出させてくれたエピソードを紹介させて頂きましたが、いかがだったでしょうか?またこんなスタイルの投稿も交えていきたいと思っています。よろしかったらお付き合い下さればと思います。

☆以下は国鉄時代の懐かしい硬券を紹介させて頂きます。

上の画像は当時の急行券になります。100キロまでや200キロまでの利用をしていたようです。「米原➡100キロまで」は米原~京都での急行利用かと思います。急行「ゆのくに」の乗車か急行「比叡」乗車の時に使用したのでしょうか。料金は500円から700円の時代でした。ピンク色の硬券でした。

上の画像は北陸本線の普通列車に乗車した時に使用した切符になります。乗車した普通列車はどれもEF70形交流電気機関車が牽引しているオハ35系の旧型客車でした。鉄道写真の撮影のために乗車したものと思われます。当時は往復切符には往復のスタンプが押されているのが解ります。

上の画像は、以前に紹介させて頂いたことがある今は亡き父親に中学3年の夏休みに連れて行ってもらった東北旅行の際に、買っておいた東北本線の平泉駅の入場券になります。この駅で降りて中尊寺に見学に行ったものと思われます。今回見つかった切符から、亡き父親まで偲ぶことが出来ました。やはり切符には良き思い出を、よみがえさせてくれる力を持っているようです。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。