夢の5インチゲージ運転

自分が初めて自分でコントロールできる5インチゲージの乗用模型に乗ったのは、今から20年前くらいになる「野辺山ポッポランド」での体験でした。当時、まだ幼かった息子を乗せて長い周回線路を運転させてもらったのが初めての運転でした。これまで鉄道模型は走行を見るものという認識であり、自分が乗って運転するということは考えてもおらず、風を感じて走った野辺山の5インチゲージには感動を覚えたものでした。それから何年もたった2018年にオークションで割と手ごろな値段で5インチゲージのバッテリーロコが出ていたので、思い切って購入しました。送られてきた段ボール箱は大変大きくて、5インチのバッテリーロコも大変大きな機関車でした。木で作られていて、さてどんな塗装にしようかと悩んでいたものです。とりあえず、自宅離れの前に約6メートル程の直線線路を敷いて前後の試運転をしていました。機関車だけだったので、知り合いから頂いた台車と簡易台車を購入して、運転席のあるトレーラーを自作しました。

我が家に5インチゲージがやってきました。

機関車の塗装はあれこれと迷いました。駅で見かけた黄色の移動車も良いし、軽便鉄道の機関車の色も魅力的です。結局、形から直ぐに連想できた新幹線の保守用ディーゼル機関車にすることにしました。色を合わせるために、新幹線の米原駅近くで保守用車両をよく見に行きました。どうやらMO-〇〇〇〇という形式であることがわかり、自分の機関車はMO-7とすることにしました。7とはラッキーセブンの7です。5インチゲージの機関車の塗装は、ダイナミックな作業でした。新聞紙とマスキングテープを使い黄色を塗ってから青を塗っていきました。レタリングシールで形式番号を付けて、窓枠をカットして白色プラバンでガラスを表現し、木でワイパーも付けました。トレーラーの方は大きな木材を切って枠を作り、初めは息子が中学生の時に技術家庭の授業で製作した椅子を載せていました。これはのちには座面を木材で製作して、椅子のクッションを付けています。だんだんと5インチゲージらしくなってきました。

塗色は新幹線の保守用車両をモチーフとしました。形式名はMO-7です。

車両が形になってくると6メートルの線路を行ったり来たりの運転ではつまらなくなってきました。やはり広々とした線路で走ってみたくなります。近所に5インチゲージが運転できる場所もなかなかありません。そんな時に、5インチゲージの台車を譲ってくれた知人から、5インチゲージの線路を譲ってもらえる話が来ました。残念な事に、後にこの知人は膵臓がんで亡くなってしまわれ、断捨離の意味でたまたま敦賀鉄道フェスティバルで知り合いになった私に線路を格安で譲ってくれたのだと思います。2019年7月27日に知人の住む大津市坂本まで線路を引き取りに行ってきました。全部でたったの3万円で譲ってもらえました。また線路と一緒に作りかけの機関車の上部とトレーラー用のボギー貨車トキ15000形式の上部をいただきました。軽トラで喜んで引き取りに行ったことを覚えています。正に「夢の荷物」でした。

今は亡き知人から譲り受けた5インチゲージの線路等。

幸いなことに自宅裏には畑があって、なんとかこの線路が敷けるスペースがありました。ずっとマルチをしたままだったので、その上から仮に敷設することにしました。畑なのでなかなか水平を取るのが難しく、その年の夏休みは早朝から畑を平らにしていく作業をしました。そしてなんとか8月半ばに5インチゲージをオーバルで敷設することが出来たのです。夢に向かっての汗だくの力作業は全く苦になりませんでした。

自宅裏の畑に開通した5インチ鉄道。
半径4.5メートルのオーバル線路を敷設しました。

連日にわたって早朝か夜に試運転を繰り返しました。やはり地面が平らになっていない区間では脱線してしまいます。木材で線路の下にスペーサーを入れたりしながら調整していきました。そしてようやく脱線せずに周回できるようになってきました。そうなってくると、もう1両人が乗れるトレーラー、客車を作りたくなりました。知人から頂いた貨車にボギー台車を2つ購入して取り付ける作業をしました。そして人が乗れるトレーラー、トキ15000形式が生まれました。自分だけの乗用鉄道の誕生に喜びを隠すことができず、何人か友人を呼んで乗ってもらったり、完成祝いの運転会を行ったりもしました。大きな夢の一つが叶ったように思いました。線路はいずれは下のベース部をコンクリート製にしていき、引き込み線も作りたいと考えています。 ※自宅裏の5インチゲージは2024年現在、諸事情で線路を撤去しております。

自分が乗って運転できるのが魅力の5インチゲージ。

その後、5インチゲージが運転できる場所をじっくり探していて、京都の亀岡市にある「保津川ライブスティームクラブ」にたどり着くことができ、2022年の4月に自分の5インチゲージバッテリーロコとトレーラー一式を軽トラに積み込んで運転に行くことが出来ました。ちょうど自分が退職した春のことで、仕事や時間を気にせずに遊びに行くことができました。そこでクラブの方々と知り合いになり、以後の5インチゲージのプライベートな運転会にも誘って頂けるようになりました。今年の5月に、京都の運転会で5インチゲージのライブスティームを運転させて頂くことが出来たのもクラブの方の紹介のお陰です。そしてこの9月17日から18日には富山県小矢部市の「クロスランドおやべ」で開催される5インチゲージのイベント、「ミニSLフェスタinおやべ」に初めて参加することになりました。また新たな出会いに胸を膨らませている今日この頃です。

2022年4月には亀岡市の「保津川ライブスティームクラブ」の線路を存分に走行できました。

自宅5インチゲージ運転展望動画

良き国鉄時代④~北陸本線の赤い電機~

地元長浜での大きな鉄道模型イベントも無事に終わって、またいつもの日常が戻ってきました。ほぼ毎日、午後には運転会場の長浜慶雲館に足を運んでいたので少し寂しい気分になる今日この頃です。今回のブログ記事は、これまで自分が撮りためていた写真のコレクションのなかから懐かしい国鉄時代の画像をアップさせていただこうと思います。1975年当時、自宅近くの踏切は交流電化されていました。田村からは敦賀第二機関区所属の「赤い電機」が活躍していて、自宅近くでよくこの「赤い電機」を撮影していたものです。時には自転車で田村駅まで撮影に行ったり、普通列車で近江塩津や敦賀まで行っては撮影をしていたものでした。今回は大好きな「赤い電機」のED70形交流電気機関車とEF70形交流電気機関車を特集したいと思います。

上の画像は1974年に交流電気機関車ED70を機関車交換駅の田村で撮影したものです。敦賀方面からこのED70が旧形客車の普通列車をここ田村駅まで牽引してきて、この先に交流から直流に変わるデッドセクションがあるために、ディーゼル機関車のDE10形(DD50形もまだ活躍していました)に機関車交換するわけです。当時そろそろこの古豪ED70が引退するという話を聞いて、この機関車撮影目当てにあちこちに行っていました。この機関車は交流電化のパイオニアであり、日本ナショナルトラスト様のお力添えでED70形交流電気機関車のトップナンバーが「長浜鉄道スクエア」に静態保存されています。

上の写真は交流電気機関車の同じくED70形交流電気機関車の牽く普通列車の米原行きを近江塩津の駅で撮影したものになります。この機関車の次位にはもう1両電気機関車が映っています。この日はEF70との重連での牽引だったようです。当時新製で敦賀第二機関区に配置されたEF81形交直両用電気機関車とED70との重連運用もありました。鉄道雑誌の「鉄道ファン」の1974年11月号の表紙の写真にもなりました。新旧の罐の重連が大変魅力的で鉄道模型でもよく再現しています。

上の写真は、交流電気機関車のEF70の1次型を自宅近くの踏切から撮影したものになります。虎姫~長浜間になり、列車は青森発大阪行きの急行「きたぐに」です。当時はまだ客車時代で大阪寄りからオユ12+スロ62+12系客車5両+10系寝台客車5両の12両編成で運行されていました。自分は夏休みの繁忙期に亡き父親と青森から長浜まで12系客車のボックス席に乗車したことがあります。全車両が12系座席車で、ぐっすりとは眠れなかった夜行列車の旅でした。早朝6時前に自宅付近を通過していました。夏期だけ撮影できた急行「きたぐに」でした。

上の写真は虎姫~長浜間を真冬に走る米原行き普通列車になります。米原寄りの5両は郵便車と荷物車のようですね。北陸本線では郵便、荷物列車は米原寄りに連結されていました。撮影当時は高校2年生だと思います。まだまだEF70が走っていたものです。活躍の晩年にあたり、ヘッドライトが1灯タイプから2灯タイプのシールドビームになっています。他の国鉄の電気機関車にもこのシールドビームは次々と採用されていました。当時ヘッドライトが1灯タイプだったEF58形直流電気機関車やEF60形直流電気機関車にも採用されていたのを思い出します。

上の写真は田村駅で撮影しました。当時の田村駅はホームとホームの間の2線に沢山の交流電気機関車が留置されていたものです。中学生の頃にはよく自転車で田村駅へ行って、飽きることなく機関車の入れ替えを見ていたものでした。田村駅に行けば間近にED70やEF70に会うことができました。現在は内側の2線のレールは外されていて、下りホームと上りホームの間がやけに広々としています。こんな時代の田村駅を知っている現在の乗客はおられるでしょうか?当時の田村駅は客扱いのない無人駅で自由にホームに入って撮影していました。

上の写真は虎姫~長浜間にある国道8号線の陸橋から撮影した普通列車の米原行きです。自宅から北の方に国道8号線があり、北陸本線を跨ぐ陸橋があります。当時の鉄道雑誌でもここから撮影した写真がよく紹介されていました。列車を上から俯瞰する形で撮影することができました。現在では、この場所はコンクリートになってしまっています。旧形客車6両編成の軽快な編成でした。

上の写真は早朝の田村駅に到着した寝台特急「日本海」になります。糸魚川からこの交流電気機関車EF70 1000番台が牽いてきました。客車は20系客車による寝台列車、正に憧れの寝台特急でした。写真は中学3年生の冬に自転車で田村駅に行き、三脚を使ってバルブ撮影しています。この寝台特急「日本海」か登場した頃には美しい「日本海」のヘッドマークが前面に掲げられていました。この写真を撮影した頃の晩年はヘッドマークは無くなってしまいました。ここからはディーゼル機関車DE10が牽引し、米原から終点大阪まではEF58形直流電気機関車が牽引していました。大好きな交流電気機関車、ED70とEF70。もちろん鉄道模型でも所有しています。EF70は1次型、2次型、1000番台と所有しており、ED70も4両所有しています。13ミリゲージでも3両あります。自分にとってはメインとなる機関車になり、このブログでもテーマの画像にしている次第です。現存する実機はED701が「長浜鉄道スクエア」に、EF701001が「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されています。

長期にわたった長浜慶雲館での運転会が終了

2023年7月15日から始まった「鉄道模型と遊ぼう~夏休み!」のイベントが8月27日をもちまして終わりました。1か月以上に及ぶ鉄道模型のイベントとなり、STMC滋賀鉄道模型愛好会が始まって以来の最長の運転会でした。自分もこの運転会に合わせて、新たに組みたて式線路やポイントモジュールを製作したり、いろいろと準備しており、それらの全てが最終日まで活躍でき、多くの子どもさん達に鉄道模型運転体験を楽しんでもえたことに大変満足しています。運転会は週末だけでしたが、会場が自分の地元だったので、平日も午後から閉館時間まで会場に出向いてメンテナンスをしたり、子どもさんが見えたら展示運転だけさせて頂いたりしていました。慶雲館のスタッフの方々も平日に自分が顔を出すと大変喜んで下さり「やっぱり列車が動いていると良いね」と声をかけて下さいました。この館でスタッフさんといろんな話をさせて頂くことができて楽しかったてす。ほぼ毎日、午後に会場の慶雲館に足を運んでいると、自分もここで働いているような錯覚に陥りました。酷暑の中でも館の中は快適で、涼しく過ごさせていただきました。明日からはここに来れないと思うと寂しさがこみ上げてきます。

子どもさん達に大変人気があった「トーマス」。バックマン製になります。

同じ時期に長浜鉄道スクエアにおいては「鉄道模型展示~北陸本線の車両を集めて~」が開催され、自分の所有している鉄道模型から展示させていただきました。これも今日で終わりになります。展示ケースに並べる時には、大変狭い展示コーナーに身体を横にしながら入っていき、まずは長い展示用線路をガラス板に置いてから車両を先頭車から繋いでレールに乗せていくという方法で展示していきました。撤収はその逆の行程で車両を引き抜いてから、線路を引いて撤収していく作業をしました。沢山の来館者の方々に見ていただくことが出来て良かったと思っています。展示を終えた北陸本線の列車は、また自宅レイアウトで活躍してくれることになっています。

今回の運転会で使用したパワーパックとカトー製のサウンドボックス。
カトー製のサウンドボックスに対応した「サウンドカード」いろいろな列車の音が納められています。

今回の運転会ではカトー製品の「サウンドボックス」を使用しました。パワーパックとしては使用せずに、列車のサウンドのみの使用でした。よく使っていたのが、体験運転時にトミックス製の223系2000番台を使用している時に、列車の動きに合わせてこちらからドアが閉まる音、出発の警笛の音、停車前のATS動作音、ドアの音を出してあげました。メロディーホーンも使うと大変喜んでもらうことができました。大変リアルなサウンドが「サウンドカード」に納められており、スイッチボタンの操作で音をだせます。今回は出力端子に外部スピーカーを繋いで、音を大きくしてみました。子どもさんたちに大変好評でした。他には、新幹線N700系のチャイムや165系電車の警笛音と鉄道唱歌のオルゴール音も時々鳴らして、会場の雰囲気を作ったりもしていました。運転している時にその電車の音がしてくるのは大変効果的で、リアルな運転感覚を味わうことができます。運転している人のタイミングをしっかりと取って音を出していくわけです。

体験運転会の必須アイテムとなったコントローラ。

上の画像は体験運転用のコントローラになります。ゲームの「電車でGO!」で使用する専用コントローラを使って、鉄道模型のパワーパックに改造してある製品を20年以上前にオークションで購入したものになります。ハンドルを手前に倒すと力行、上に倒すと制動、その中間にノッチオフの「切」があります。このタイプのコントローラは小さな子どもさんにも扱い易く、コントロールを教える側にとってもやり易いものです。運転会ではずっと使っていて、時に手荒な操作にも遭遇しますがこれまで壊れることはありませんでした。体験運転会には無くてはならない「大切な機器」と言えます。コントローラの直ぐ上の線路に乗っているのは、今回の目玉企画、タカラトミー製のご存じプラレールを使った改造鉄道模型になります。下回りはインサイドギア方式の動力台車と、要らなくなった鉄道模型の金属製台車を取り付けています。走行は大変スムーズで高速走行ができます。

プラレールの情景パーツを改造した跨線橋。

上の画像は体験運転用線路に設営したホームの跨線橋になります。開催当初はむき出しの板をホームに見立てて行っていたのですが、やはり駅のホームらしく跨線橋を置くことにしました。これもタカラトミー製のプラレールの情景部品になります。落ち着いた色に塗装をして、ホームの上に置くことができるように高さを木材で調整しています。パンタグラフを上げたままでも約10mmの余裕があります。実はこの跨線橋は以前に自宅レイアウトのストラクチャーとして使っていたものです。

会の主宰が設営された体験運転コーナー。

上の画像も、今回の目玉企画になります。これは会の主宰が所有している今から約50年前のカツミ製とエンドウ製の鉄道模型で、今回は来場者が自由に運転できるようにセットしていました。このコーナーにもプラレールを使った鉄道模型を用意しました。線路磨きと脱線時の対応は慶雲館のスタッフに行ってもらいました。親子で楽しく運転される光景を沢山見させて頂くことができました。

夏休みを通して運転会ができました。

7月15日から一か月以上にわたって開催した鉄道模型運転会。終わってしまうと大変寂しく感じます。たくさんの子どもさんたちの笑顔と歓声。優しく見守って下さった親御さん達の姿。マニアックな質問をしてくださった模型ファン。飽きることなく走る列車を見てくれた青年。どれも自分には大変貴重な思い出となりました。この運転会に来てくださったすべての来場者の方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。

良き国鉄時代③

自分は北陸本線の沿線で育ったこともあり、幼いころから近くの踏切で列車を見てきました。やはり好きな車両は国鉄型の優等列車になります。自分が中学生だった1975年から高校生になった1977年くらいにかけて、近所の踏切やま長浜駅、米原駅、そして近江塩津、余呉あたりまで足を延ばしてよく撮影していました。カメラといえば親に買ってもらったアサヒペンタックスSPFでした。135ミリの望遠レンズまで買ってもらっていました。現像とプリントは親戚のカメラ屋(金戸カメラ)さんでした。時に同時プリントと言って、フィルム1本をそのままプリントしてもらっていて、親から「同じような写真ぱかり」と叱責を受けたこともありました。デジタルカメラが主流となった現在では考えにくい事だと思います。撮影した写真は現像するまで見ることができず、フィルムを出して数日後にワクワクしてカメラ屋さんに向かったものでとした。うまく撮れたであろう写真が、被写体が遠くなってしまい小さかったりしてがっかりしたものでした。今では、撮影したら直ぐに画像を見ることが出来てしまいます。デジタル時代の成せる技といえます。

上の写真は1976年に近江塩津で撮影した485系特急「しらさぎ」になります。富山行きだと思います。当時はこの写真のように485系もボンネットタイプの先頭車がほとんどでした。ヘッドマークは字のみで、大変好ましく感じていたものです。堂々たる12両編成で、グリーン車2両に食堂車も繋がれていました。鉄道模型ではトミックス製のものを所有しています。この「しらさぎ」には乗車したことがありませんでしたが、同形式の特急「白鳥」には敦賀から高岡まで家族旅行で乗車したことがあります。車内から天井を見ると、大変大きなクーラーの吹き出し口があったことを覚えています。

上の写真は、同じく近江塩津で撮影した475系急行「ゆのくに」金沢行きになります。この急行列車も当時は堂々たる12両編成で、グリーン車を2両繋いでおり、半室がビュッフェになっている車両、サハシ455も繋がれていました。ヘッドマークが大きくて大変かっこよかったです。同じ急行電車では、急行「立山」と急行「兼六」が運転されていました。自分はこの急行「ゆのくに」が大変気に入っていて、中学生の頃に一人で大阪の阪急百貨店にHOゲージの鉄道模型(カツミ製のカニ24を買いに行きました)を買いに行った帰りに、駅弁を買って15時30分発の急行「ゆのくに」に乗車して、長浜まで帰ったことを覚えています。買った模型を眺めながら、駅弁を食べての旅は至福の時間でした。確か長浜には17時過ぎに着いたと思います。鉄道模型ではトミックス製とカツミ製のものを所有しています。

上の写真は急行「ゆのくに」と同形式475系の急行「くずりゅう」になります。2M1Tの3両が2つ繋がれ6連で運行されていました。米原と金沢を結んでいて、大変俊足の急行電車だったと記憶しています。新幹線と北陸を結んでいた急行で気軽に利用されていたように思います。国鉄末期になってくると普通列車としてもこの6両編成が使われていました。のちに赤色一色に白いラインに塗装変更され、JR西日本になると白色に青いラインが施されるようになり、新北陸色と呼ばれていました。現在は廃車となり、521系が後継車両として活躍しています。

上の写真は1977年に自宅の近くで雪の中撮影した485系特急「加越」になります。485系の300番台が使用されて、米原から金沢を結んでいました。新製車両が大変美しく、字のヘッドマークが大変美しかったです。この特急が誕生する前に、列車の名称を広く一般公募されていました。自分も応募していたと記憶していますが、どんな名称を応募したのか全く覚えていません。「加越」に決まった訳ですが、加は加賀の一字を取り、越は越前の一字を取り、合わせて加越にされたと聞きました。この特急が駆け抜ける県名の古い名称に落ち着いたわけです。鉄道模型ではトミックス製を3編成ほど所有しています。

上の写真は1975年にやはり自宅近くで撮影した485系特急「雷鳥」になります。1975年はまだ湖西線が開通しておらず、大阪発の北陸方面優等列車は米原経由で運転されていました。この「雷鳥」をはじめ「白鳥」、「北越」、「つるぎ」、「日本海」、急行「きたぐに」等も自宅近くで十分に撮影できたわけです。この485系は貫通扉があるタイプ(げんこつ形、あるいは電気釜と呼ばれました)になり。ボネット形に変わって登場した頃の形状です。好きだった581系の特急「しらさぎ」に先頭車の形が似ていて新鮮でした。581系が月光形と呼ばれていたので、自分は赤い月光形と呼んでいました。もちろん鉄道模型でもトミックス製を所有していますが、貫通タイプではなく非貫通タイプの300番台になります。

自分の好きな北陸線の優等列車たちは実車ではもう見ることができません。しかし、鉄道模型では、まだまだ現役の姿をいつでも見ることができます。自宅レイアウトをジョイント音を響かせて走りぬける姿は自分を「あの頃」に誘ってくれ、至福の時間と空間を提供してくれています。さあ、今日はどの列車を運転してみようか。

モノクロ国鉄時代~東さんと山本さんの写真から

私が今は廃校となっている近江八幡の特別支援学校で現職の教師をしていた頃、自分が大の鉄道ファンであることを知っておられて、職場の同僚から鉄道写真を譲り受けたことがありました。その方のお父様が国鉄に勤めておられて、お父様の友人からの沢山の鉄道写真があるとのことでした。喜んで頂くことにすると、その写真は全てモノクロ写真で四つ切サイズの大変迫力のある写真ばかりでした。どこかでしっかりと展示できるといいのですが、とのあえずは私のブログで少しずつ紹介させてもらうことにします。写真を撮られた東さんは、当時鳥取で機関士をされていたらしく、山本さんも加古川で国鉄に勤められていたそうです。国鉄で働きながら、全国各地に出向かれて鉄道の写真を撮りためられたようです。写真の枚数はかなり多く、なかなか全部の写真をブログに上げることは難しいので、自分が特に気に入った写真を紹介させていただこうと思います。どの鉄道写真も大変素晴らしく、時代的にも大変貴重なものです。

上の画像は、有名なシロクニ重連が牽引していた急行「ニセコ」の写真です。あまりにも有名な列車になります。函館本線の山線で冬に撮られたものになります。この函館本線も北海道新幹線開業時には廃線になるようです。雪の中を大型蒸機が重連で走る光景は、さぞやダイナミックで心に響くシーンだったと思います。写真集でしか見たことのない実際の写真を見ることができて感無量の思いです。

上の写真は、なんとC622とEF58の重連による何かの記念列車のようです。「電蒸運転」です。 どこを走っているのかはよく解りませんが、鉄道100年か何かのイベント列車のように思えます。それにしても、あまりにも贅沢な重連運転であり、さぞや沿線はファンのカメラで埋め尽くされたのではないでしょうか。自分も見てみたかった「電蒸運転列車」でした。

上の写真は、おそらく新疋田~敦賀で撮影されたEF70の牽く、臨時特急「日本海5?号」か臨時急行「加賀」だと思われます。パンタの上がり具合から、敦賀へ向かっている下り列車ですね。北陸本線の交流電気機関車は敦賀寄りの2エンドのパンタグラフを上げていました。理由ははっきりとは解りませんが、どうやら作業の統一化、簡素化のようです。普通、交流電気機関車は進行方向の後部のパンタグラフを上げていました。それにしても北陸本線の電気機関車は2エンドばかり使用していたので、集電板が減るのも2エンド側パンタグラフのみということになります。1975年当時、私もよくあちこちで14系客車の臨時列車を撮影していた記憶があります。EF70の赤色と14系座席客車のブルーが大変よく似合っていて、きれいな編成でした。新疋田のループ線は、やはり昔でも撮影の名所だったといえそうです。

この写真は、おそらく福知山線を走るDD54とC57の重連運転の貨物列車です。薄幸のディーゼル機関車といえるDD54も、当時は元気に走っていた頃のようですね。珍しい箱形の機関車で、ヨーロッパの雰囲気がある機関車でした。登場時から、エンジントラブルに見舞われて早く引退しました。でも、寝台特急「出雲」の先頭に立ったこともありました。現在では京都鉄道博物館に33号機が静態保存されています。この写真の機関車は2次型以降の機関車で、ヘッドライトが下にあるタイプになります。自分はヘッドライトが窓の上にある1次型のスタイルが好みです。

上の写真は米原から田村の間のデッドセクションを牽引していたD50型蒸気機関車になりまする米原を発車して坂田までの間で撮影された北陸本線の下り列車ですね。田村からは交流電化されていて、EF70かED70が牽引していました。この区間にはE10型蒸気機関車も活躍していた時期がありました。勾配専用の大型タンク形機関車でした。D50は田村から米原へはタンデーを前にした「バック運転」で運転されていたようです。信号の確認もたいへんやりにくかったと想像されます。

上の写真は中央西線に初めて振り子式電車の381系が入線して試運転をしている時のものです。カーブの多い線区を電車のスピードを落とさずに、車体を傾けながらカーブを走りぬけていく新しい方式が採用されました。これまでの181系ディーゼル特急「しなの」をこの新鋭381系電車に置き換えることでスピードアップが図られたものと思います。

最後になりますが、上の写真は583系特急形寝台電車の特急「しおじ」になります。新大阪から広島・下関の間を昼間に走っていた特急列車でした。14系客車でも運転されていましたが、この583系電車でも運転されていたようです。「しおじ」の文字でのサインが大変かっこよく感じられます。以上、今回は職場同僚から頂いた貴重な写真を何枚か紹介してきました。まだまだ沢山あってとても紹介しきれませんが、これからもたまには手に取って写真を眺めながら国鉄全盛期の当時を偲びたいと思います。またこの場をお借りしまして、元滋賀県立八幡養護学校の同僚に改めてお礼申し上げます。貴重な写真を沢山いただきまして、ありがとうございました。大切に残していきたいと思います。