JRの撮り鉄①

今回は2000年前後に東海道本線の近江長岡~柏原間で撮影した鉄道写真になります。残念ながら正確な撮影日時が解りませんが、あくまで写真を楽しんで頂くことが主ですのでご容赦願いたいと思います。また車両の形式などで間違いがあるかもしれません。この点につきましてもご了承いただければと勝手ながら思います。この撮影ポイントは何といっても伊吹山(高さ1337メートル)をバックに鉄道写真が撮れる場所として、昔から有名な場所になります。151系の「こだま」やEF58牽引の特急「つばめ」や「はと」といった名車もこの場所でよく撮影されていました。国鉄時代の写真によく見かけたものです。冬場の雪が積もった伊吹山をバックにした写真は大変魅力的に思いました。自分もここのポイントへはまだ幼かった息子も連れて自家用車で撮影に訪れたものでした。

上の画像は近江長岡~柏原間を走る東海道本線上り貨物列車になります。牽引機はハイパワー過ぎて短命だったEF200形直流電気機関車になります。冬の撮影では雪をかぶった伊吹山が見事な背景になりました。EF200の塗色は初期のものになります。「インバータ・ハイテク・ロコ」と機関車側面に英語で描かれていたのを思い出します。

上の画像は、117系直流近郊形電車の東海道本線上り電車になります。

上の画像は、EF65形1000番台直流電気機関車が牽く東海道本線上りのタキ貨物列車になります。赤ナンバーのPFが牽引するこんな貨物列車も見られた頃です。1999年の1月31日に撮影していたらしいです。

上の画像は、同じ場所で撮影したEF66形直流電気機関車牽引の東海道本線上り貨物列車なります。この頃は66もこの更新色を纏っていました。

上の画像は、313系直流近郊形電車による東海道本線上り大垣、岐阜、名古屋、豊橋方面の「新快速」電車になります。列車種別サインが赤のバックに白い文字で「新快速」描かれていました。登場間もない頃になるでしょうか。

上の画像は、117系の東海道本線上り普通電車になります。

上の画像は、211系直流近郊形電車による東海道本線上り電車なります。211系が懐かしいですね。行先表示は「豊橋」になっていました。

上の画像は、113系近郊形電車による東海道本線の上り普通電車になります。綺麗な6両編成で、行先は「大垣」になっています。カボチャ電車がまだ健在の時代でした。

上の画像は、EF65形直流電気機関車が牽引する東海道本線の上り貨物列車になります。この貨物列車は全車がワム80000形有蓋車で、2軸の貨車でした。大変リズミカルなジョイント音を覚えています。確か積み荷は静岡方面に運ぶ「パルプ関係」ではなかったかと記憶しています。長大なワム80000の貨物列車でした。編成に所々ある青い貨車はワム380000という形式です。

上の画像は、211系の東海道本線の上り普通電車になります。大垣行きの珍しい3両編成でした。

上の画像は、485系交直両用特急形電車の特急「しらさぎ」名古屋行きになります。まだボンネットスタイルの先頭車を見ることができた時代でした。米原寄りの先頭車はゲンコツタイプのようです。

上の画像は、485系の特急「しらさぎ」名古屋行きになります。7連になっていてヘッドマークも「絵入り」の時代でした。青地に白鷺が描かれ、黄色の文字が描かれていました。

上の画像も、485系特急「しらさぎ」名古屋行きになります。485系の先頭車は貫通扉がある初期型のクハ481のようです。

上の画像は、485系特急「しらさぎ」を遠くから全景を撮ったものになります。ゆったりとしたカーブが近江長岡寄りにあって、編成全体を撮影するのにも好都合な撮影ポイントといえそうです。

上の画像は、同じ撮影ポイントで撮ったEF210形直流電気機関車の牽く、東海道本線上り貨物列車になります。104号機でした。今ではこの電気機関車が東海道を走る貨物列車の「顔」になりました。この電気機関車が登場して間もない頃のように思います。

上の画像は、遠くに新幹線が走っているのがお判りいただけると思います。この新幹線を良く見ると何と500系新幹線でした。今でも山陽新幹線で活躍していてくれるのは大変嬉しいことですが、この頃は東海道新幹線を走っていました。ジェット戦闘機を思わせるフロントビューのカッコいい新幹線です。東海道本線の上りには、小さく映っているのはキハ85系の特急「ひだ」と思われます。以上、自分がこれまで近江長岡と柏原の間で撮影した写真を特集して紹介させていただきました。いかがだったでしょうか?現在ではこの撮影ポイントへ撮影に行くことはなくなってしまいました。313系電車や683系電車、そして貨物列車くらいが被写体でしょうか?時々珍しい甲種回送等が走るので、またここで撮影してみても楽しいかもしれません。自分もまたいつかこの場所へ行って見たいと思います。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

中京圏で活躍していた懐かしい電車が快走。

HOナローの鉄道模型を増設しました。

 このブログで紹介している鉄道模型のスケールは、80分の1がメインで16番ゲージ、線路幅が16.5mmの鉄道模型になります。 自宅の離れ約20畳に展開している自宅レイアウトもこの16.5mmゲージです。あとは80分の1で線路幅が13mmで狭軌感が秀逸の13mmゲージも少しだけですが線路を敷いて楽しんでいます。以前にこのブログで「ナローゲージ」について書いたことがありましたが、そのナローゲージの鉄道模型も走ることができる環境を作ろうと思い立ち、このほど手掛けてみることにしました。製品としてはトミックス製にHOナローの「猫屋線シリーズ」というものがあり、スケールは80分の1で、線路幅が9mmの軽便鉄道シリーズが各種発売されています。「HOナロー」と呼ばれています。既存の9mmゲージの線路がそのまま使えるのが大きな魅力です。

今から2年ほど前に、石川県小松市の「いしかわ子ども交流センター小松館」にある尾小屋鉄道の保存鉄道でもある「なかよし鉄道」を訪れてからナローゲージに興味を持ち、尾小屋鉄道のナローゲージ模型がトミックスから発売されていたので、まずこれを買って運転を楽しんでいました。

軽便鉄道の書籍は、この2冊を持っています。

ディーゼル機関車121形と客車、そしてキハ1形の気動車がラインアップされていて、どれも購入しました。そして車輪を金属製のパーツに交換し、機関車にはNゲージの動力ユニットを組み込み、気動車にも専用のNゲージ動力ユニットを取り付けて小さなレイアウトを作って走行を楽しんでいました。それはそれで運転も出来て楽しかったものです。

以前はこの小さなレイアウトでHOナローを運転していました。

自宅レイアウトのシーナリィ線区を拡大していくプランの中で、レイアウトの南側の建物が並ぶ部分の整理を始め出してから、ふとこの部分にHOナロー線を敷くことができないものか?と考えて今回の工作に繋がっていきました。

白川郷にあるような茅葺の古民家を「歴史民俗博物館」として終点にとます。
レイアウトの外側にパワーバックを置いて運転します。

まずはレイアウトに雑多に置いてあった建物ストラクチャーを全て取り除いて、地面部分を拡張しました。扇形庫近くまでを地面スペースとして、建物は後ろに持っていくことにしました。既存のカーブ部分の地面の高さに合わせて、新たに地面を作っていくことにしました。例によって35mmの角材をベースにして、厚さ10mmのOSB材を使って地面のベース作りをしていきました。また各建物は市販の情景建物のプラモデルで、80分の1より大きかったり、小さかったりしますが、そこは拘らずにそのまま手直しして使うこととしました。プラモデルの台座は全て外しています。地面に建物だけを置くとそれなりに以前より実感的になりました。以前に鉄道模型友人から頂いた白川郷にあるような茅葺の古民家は、「歴史民俗博物館」にしてトンネルの近くへと移動させました。

レイアウトにベースとなるOSB材を置いていきます。
こちらはターミナル駅に隣接する側になります。
ナローゲージの終点は「歴史民俗博物館」とします。

建物の大体の配置を考えたら、OSB材に建物照明を組み込むための10mm幅の穴を開けました。この穴を開けたOSB材は地面製作後も固定せずに、メンテナンス用に外せるようにしたいと思います。

これまでの地面と面一になるようにベースを作っていきます。

ここまで作業を進めていくと地面にHOナロー線を敷く舞台が出来てきたように思います。線区は自宅レイアウトの南端部にナローの駅を製作します。そこにはポイントを設置し留置線を作ります。HOナローは、建物を横目に自宅レイアウト本線の内側を通って終点の「歴史民俗博物館駅」へと繋ぐ路線としました。残念ながら周回はできず、行ったり来たりの運用となります。実際に小松市にある「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」で運営されている資料館や「いしかわ子ども交流小松館」にある「なかよし鉄道」のような「保存鉄道」にしようと思いました。

尾小屋鉄道風の汽車がのんびり走ります。
観光地区のナローゲージ保存鉄道として位置づけます。

車両の大きさが80分の1なので、本線を走る列車とのバランスがマッチしてなかなか面白い線区になりそうです。「鉄道ジャーナル」の1975年5月号に紹介されていた北陸本線の糸魚川近くあった「東洋活性白土」という会社の専用線に小さな蒸気機関車が走っていて、そのチビロコと一緒に写っているEF81の写真を思い出しました。ちなみに、この専用線の線路幅は600mmでナローゲージの762mmより狭い線路が使われていたようです。さてHOナローゲージの線路ですが、今回初めてイギリスのPECO社製品のフレキシブルレールとカーブポイントを購入しました。地面に合わせて手曲げで路線を作りました。大変精巧に出来ている線路で、ジョイント部分も精巧に作られていました。ポイントの転換部分もしっかりした動きで、このまま手動で使用することとしました。次にこの線路にタミヤカラーのレッドブラウンで塗装しました。いつものように塗装してからシンナーで線路上部を拭き取りました。ただ9mmゲージなので相当しっかりと塗料を落とさないと通電不良を起こしてしまいました。ポイントも同様で接点部にはマスキング液をたっぷりとつけてから塗装しました。

プラモデルを利用した街並み。いずれは建物に灯りを入れます。
蒸気機関車は以前にオークションで入手しました。客車はトミックス製猫屋線シリーズです。

現在は建物を仮置きして、HOナローの線路仮敷設を終わった段階です。ただナローゲージの模型運転の方が面白くて、もっぱら行ったり来たりの運転を楽しんでいる状態です。これまでに集めていた蒸気機関車2両も大変スムーズに低速から走るので見ていて大変楽しいです。今後は地面づくりと建物を加工して照明を組み込むこととナローの駅を製作していくことになります。建物の様子からこの部分は「観光地区」ということにしたいと思います。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読み頂きましてありがとうございました。

自宅レイアウトにナローゲージを増設しました。・

敦賀赤レンガ~鉄道模型ジオラマ訪問記~

2024年6月13日(木)に、福井県敦賀市にある敦賀赤レンガ」に行ってきました。この場所には過去に何回か訪れていて、毎回素晴らしいジオラマの展示運転を楽しませて頂いていました。北陸新幹線敦賀延伸後は初めての訪問となり、ジオラマ展示の動画映像にも手を加えておられるのかも?と思って今回の訪問を考えました。平日の木曜日に行ってきましたが、中学生の団体客が見学に来られており、館内はたいへん賑わっていました。また訪れた日は、「昭和レトロなおもちゃ展」も開催されていて、たいへん懐かしいブリキの玩具を見ることができました。

赤レンガ倉庫の歴史が紹介してありました。1905年(明治38年)に石油貯蔵用倉庫として建設されたようです。

2009年には国の登録有形文化材になったようです。現在の南棟はレストラン館になり、北棟はジオラマ館になっています。

敦賀の特産品や海産物のお土産が販売されて、カフェに海鮮物の食堂と洋風レストランがあります。

南館と北館の間のスペースはこんな感じになっています。

お昼前にキハ28形気動車に迎えられて館内に入ると、お土産コーナーやカフェにレストラン、海鮮の飲食販売コーナーがありました。その奥に16番ゲージのジオラマ館があります。入館料金は大人400円で、1日ジオラマ館には何回も出入りすることができます。入館したらジオラマの映像による展示運転がちょうど始まったところでした。展示運転の様子はYouTubeにあげており、この記事の最後に貼っていますので良かったらご覧になってください。全編ではないですが、雰囲気はお解りいただけると思います。係の方に許可を得て撮影させて頂きました。

このジオラマは明治後期から昭和初期にかけての敦賀の懐かしい街並みを80分の1スケールで再現されています。ジオラマの中央には敦賀駅が鎮座しており、大きな扇形庫もあります。このジオラマは大変大きくて、全長が27.6メートル、奥行きが7.5メートルの「鉄道と港のジオラマ」になっています。

ジオラマのテーマが「敦賀」ということで、手前には敦賀駅そしてバックには敦賀湾が表現されています。上の画像はジオラマに向かって右手に展開されている「スイッチバック」の表現にある駅になります。キハ58系が自動運転でスイッチバックを通る様子が再現されています。

スイッチバックの所にはスイッチ操作で来館者が運転できるコーナーも設置されています。C11型蒸気機関車の列車を運転できます。

ジオラマのテーマになっている敦賀駅の全景。駅の手前には大きな扇形庫があります。

上の画像はジオラマの中にある橋梁になります。これは自分の自宅レイアウトの川の製作をするのに大変参考にした部分です。川面の表現が秀逸でした。

敦賀駅の左手にある小さな機関区になります。給水施設と給炭施設、そして車庫があります。蒸気機関車とディーゼル機関車が佇んでいます。

ジオラマの左手には大きなループ線があり、見事な山肌が表現されています。この山肌も自宅レイアウトを製作する際の参考にさせていただきました。

敦賀駅の前に作られた大きな扇形庫とホームになります。

ジオラマの左手、ループ線の方には。東洋紡の会社のストラクチャーがあります。フルスクラッチして製作された見事な建物です。

ジオラマのバックにある敦賀湾の方に展開されている街並みのストラクチャーも見事で、神社や学校も忠実に再現されていました。

金ヶ崎の港にはウラジオストクに行く船が停泊しています。そこまで敦賀港線が繋がっていました。ここからフランスのパリに繋がる国際列車に乗れたわけです。何とロマンに満ちた旅だったことでしょう。

敦賀駅近くの住宅街も一軒一軒製作された建物で大変リアルに表現されていました。

上の2つの画像は、ジオラマを見下ろすことができる2階部分から撮影しました。このジオラマが如何に大きなものなのかがよくお解りいただけると思います。このジオラマにはジオラマの下を潜って行って顔がだせる仕掛けがループ線の所と海の所にあります。ジオラマの中から見ることができるので、また違った見え方になろうかと思います。なかなか面白い演出になっています。敦賀の映像は敦賀湾の上部、2ヵ所に映し出されます。その動画映像ですが、以前は「もうすぐ北陸新幹線がここ敦賀にやってきます」というところが、北陸新幹線が3月16日に敦賀延伸開業したので「夢が現実のものとなって北陸新幹線となってやってきました」と編集されていました。ジオラマをゆっくり見た後は持参したお弁当でお昼をとり、敦賀駅の南側にある特急専用線への新線を走る683系を動画撮影して帰宅しました。何回来ても大変満足した気分になれるのが「敦賀赤レンガ」のジオラマです。自分がこれまで知っている鉄道ジオラマの中で、一番気に入っているのがここのジオラマになります。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

良き国鉄時代・最終回 No.57~これまで未掲載の写真から~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に撮影した写真になります。自分は中学3年生の時期で、どれもつたない写真ばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。それから毎回書いていることですが、車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと誠に勝手ながら思います。ご理解の程、どうぞよろしくお願いいたします。当ブログの鉄道写真趣味カテゴリーのメインとして連載をしてまいりました「良き国鉄時代」は、今回の投稿をもちましてひとまず終了とさせていただきます。このシリーズを投稿することで、画像を皆さんに楽しんで頂き、自分の手持ちの鉄道写真が全てデジタル化出来た事は、大変意義深いものであったと自負しております。これまでの投稿をまた見直して頂いたり、鉄道模型の製作等にも参考にして頂けたなら大変嬉しく思います。ではさっそく今回も懐かしい写真を紹介させていただくことにします。

上の画像は1975年に今は亡き父親に連れて行ってもらった東北旅行の時に、移動中の急行「津軽」の車中から撮影した583系交直両用寝台特急形電車の特急「はつかり」になります。トレインマークは字だけの時代でした。ちなみに自分が高校の修学旅行で上野から青森まで乗ったのも、この583系特急「はつかり」でした。特急電車のボックス席は広くて、乗り心地も大変良かったのを良く覚えています。長旅も全く気になりませんでした。

上の画像は同じく1975年に東北旅行の移動中の列車から撮影した583系交直両用寝台特急形電車による東北本線の特急「はつかり」になります。昼に夜に大活躍していたのが583系でした。

上の画像は1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「はつかり」になります。夏休み中だったので、ホームには旅行客が溢れんばかりでした。対面には青い旧型客車も停車中で、なかなか良き時代の一コマといえそうです。旧型客車には当然のことながら冷房は無く、窓を開けて涼を取っていました。真鍮製のつまみを両手で握って、上に上げていく大変重たかった窓を思い出してしまいます。

上の画像も1975年、東北旅行で乗車している急行「津軽」の車中から撮影した485系交直両用特急形電車の上野行き特急「はつかり」になります。貫通扉が付いている初期型のタイプです。

上の画像は1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した485系交直両用特急形電車による特急「やまびこ」になります。夏休みでこの駅も行楽客で溢れていました。発車していく列車を見送る駅員さんの姿が好ましく見えます。特急の停まる駅はたいていが大きな駅で、どの駅も活気にあふれていたように記憶しています。

上の画像は1975年に父親と東北旅行に行った時に青森駅で撮影した20系の寝台特急「あけぼの」になります。この20系の緩急車は窓の数から判断して、ナハネフ23形寝台客車かと思います。20系の切り妻形緩急車でした。青森駅のホーム近くに留置してありました。

上の3枚の画像は、1975年に青森駅で撮影した大阪発青森行き寝台特急「日本海」になります。当時は白帯の24系寝台客車で運転されていました。この終点青森には11時45分に到着していました。この写真も今は亡き父親といった夏の東北旅行で撮った写真で、自分たちは寝台特急「日本海」が到着したあと発車することになる、12時40分発の急行「きたぐに」大阪行きに乗車して、一夜を通して長浜まで帰ったのだと思います。この寝台特急「日本海」には大学生の時に岩手の友人を訪ねた後に青森から敦賀まで乗車しています。そして結婚してからもまだ幼い息子と一緒に敦賀から秋田まで乗ったことがあります。この時も岩手の友人に会っています。

上の画像は1975年に敦賀駅へ撮影に行った時に撮ってもらった当時の私になります。当時自分が通っていた中学校は、男子は全員が頭髪を丸刈りにしないといけない時代でした。今では考えられない校則ですね。写真には485系特急「雷鳥」と一緒に写る嬉しそうな自分が居ます。首からかけているカメラは愛用していたアサヒペンタックスSPFで、これまでの「良き国鉄時代」の写真はこのカメラで撮影していました。バックの雷鳥のテールランプが点灯しているように見えるので、大阪行きの「雷鳥」と一緒に撮ってもらったのでしょう。誰に撮ってもらったのかは覚えておらず、当時の鉄道好きの友人か、白黒写真なのでひょっとすると今は亡き父親に撮ってもらったのかもしれません。

これまで当ブログ「良き国鉄時代」の記事をご覧いただいたことに感謝いたします。自分でもこれまでの鉄道写真のデジタル化が出来て大変有意義でした。これからもまた懐かしい記事に、時々お立ち寄り頂けたなら幸いです。今回の記事は以上になります。まとまりのない内容で申し訳ありませんでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代No.56~これまで未掲載の写真から~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年から1980年にかけて撮影した写真になります。自分は中学3年生から大学2回生の時期で、どれもつたない写真ばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。それから毎回書いていることですが、車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと誠に勝手ながら思います。ご理解の程、どうぞよろしくお願いいたします。では早速懐かしい写真を紹介させていただくことにします。

上の画像は、1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したEF58形直流電気機関車81号機(広)牽引の寝台特急の回送になります。バックに見えるのがサントリー山崎蒸留所になり、撮り鉄さんにはこのあたりの撮影ポイントを「サントリーカーブ」と呼ぶらしいです。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎駅付近で撮影したEF58形直流電気機関車93号機(宮)牽引の14系座席急行列車の回送になります。最後尾にはマニ37形荷物車を連結しています。当時、新大阪と九州を結んでいた座席車による夜行急行列車が運転されていました。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎付近で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」の回送になります。ボンネットの先頭車で字だけの愛称版が好ましかったものです。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎付近で撮影した581系交直両用寝台特急用電車による寝台特急「明星」の回送になります。当時この撮影ポイントに行けば、次々にやってくる優等列車を撮影することができました。高校2年生の時に鉄道好き友人と撮影に出かけた時の写真です。

上の画像は1980年に東京駅で撮影した大阪行き寝台急行「銀河」になります。車掌室の横に展望スペースがあったナハネフ22形寝台客車は大変魅力的で、東京から米原まで乗車した時も、この展望スペースから東京の流れる夜景を楽しんだものでした。

当時は20系寝台客車が使用されていました。客車のサイドには20系独特の丸みを帯びた各種の表示窓がありました。

同じ寝台急行「銀河」を縦構図で撮影したものになります。字で「急行EXPRESS」と表示されていました。この20系の字だけの急行表示も好きでした。

上2つの画像は1980年に撮影した山手線の103系直流通勤形電車になります。103系の高運転台が活躍していた頃で、当時私は大学2年生の頃になります。この写真はその当時東京の大学に行っていた友人を訪ねて行った時に撮影しました。ウグイス色の103系を見ると「東京に来たんだな」という気持ちになったものでした。

上の画像も同じ時に東京で撮影した103系低運転台になります。総武線の各駅停車は、カナリア色の103系が活躍していました。ちなみに中央線の快速にはオレンジ色の103系が使われていました。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車牽引の寝台特急「ゆうづる」になります。常磐線経由で上野~青森を走っていました。残念ながらヘッドマークは取り付けられていなかった時になります。

こちらは上野に到着した寝台特急「ゆうづる」の最後尾になります。窓の数が多いので座席車ナハフ21を改造したナハネフ21だと思います。

終点に着いてこれから推進運転で尾久客車区へ回送されていくのでしょう。貫通扉が全開で開かれています。

上の画像は1975年に上野駅で撮影した485系300番台交直両用特急形電車になる東北本線の特急列車かと思われます。残念ながら愛称が見えていません。

上の画像は1975年に尾久客車区で撮影した20系の寝台特急「安芸」になります。この20系の呉線経由「安芸」は以前にも書きましたが短命な列車でした。

上の画像は1975年に撮影した20系寝台特急「あけぼの」になります。残念ながらどこの駅で撮影したのかが解りません。パンタグラフを撤去したカニ22が印象的でした。

上の画像は1980年に両毛線の佐野駅で撮影した115系直流近郊形電車になります。先頭に荷物電車を繋いでいる普通電車です。大学時代に友人の故郷を訪ねた時の写真です。

上の画像は1980年に撮影した165系直流急行形電車による急行「内房」になります。内房線の急行電車になりますが、どこの駅で撮影したのかが解りません。当時、シンガーソングライターの南こうせつさんが「房総西線」という曲をリリースされていて、歌詞の中に「内房5号」という列車名が出てきたのを覚えています。ひょっとしたら両国駅でしょうか?この曲が納められているアルバムは「旅立てばそこから男」というアルバムです。

上の画像は1980年に撮影した夜の東京駅になります。113系の横須賀線が停まっています。駅名表示もノスタルジックで良い雰囲気を醸し出しています。

上の画像はこの旅の途中で撮影した深夜の豊橋駅になります。おそらく大垣発東京行きの普通電車から降りて撮影したものと思われます。深夜の駅の情緒が伝わってくるような写真になっていました。車両以外の鉄道写真もなかなか良いものです。今回の投稿は以上になります。まとまりの無い投稿で申し訳ありませんでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。