今回の「良き国鉄時代」は、1979年から1980年にかけて名古屋駅界隈で撮影したブルートレインや寝台電車の紹介になります。当時の自分は大学生となり、大学は名古屋市昭和区にあった日本福祉大学の社会福祉学部に通っていました。親元を離れて、最初は大学に近い昭和区の八事に下宿をしていました。4畳半1部屋で、歌「神田川」に出てくるような部屋に居ました。風呂は下宿棟に1つあった共同風呂でした。大学に入り、親に原付バイクを買ってもらっていたので、下宿から大学まではバイクで通学していました。入学してから気の合った友人たちと「鉄道研究会」を作ろうという話になり、旗まで作ったのを覚えています。確か私を含めて4人で結成?していました。鉄研といっても鉄道に詳しいのは自分だけで、活動はあまり長く続くことは無く、自然に活動をしなくなっていました。一度だけ全員で、といっても4人で夜の名古屋駅に出向いて、ブルートレインを観察したものでした。その当時、中学や高校の修学旅行に寝台特急が利用されていたこともあり、名古屋に到着した九州方面行きの寝台特急に学生たちが乗っている場面に出くわしたことがありました。自分たちが鉄研の旗を持っていると、その修学旅行生たちに笑われたものでした。残念ながらその観察会の写真はありません。今となっては大変懐かしい思い出です。その頃から自分の鉄道熱が醒めて行き、やがてギターを始めた頃から「フォークソング音楽」や、当時「ニューミュージック」と呼ばれていた音楽にのめり込んでいきました。イルカさん、南こうせつさん、吉田拓郎さん、浜田省吾さんの曲をギターで弾き語りしたものです。
上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した長崎・佐世保発東京行きの寝台特急「さくら」になります。14系寝台客車で運転されており、牽引機はこの頃はEF65 1100番台でした。1977年から牽引を担当するようになり、ブルートレイン牽引になって4年目くらいでしょうか。
上の画像は専務車掌さん、通称「カレチ」が列車の後方確認されているところのようです。客車はスハネフ14のようで、車掌室からの姿が大変かっこ良かったものです。
上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した博多発名古屋行き寝台特急「金星」になります。581・583系特急形寝台電車は当時国鉄車両の中で1番好きな車両でした。やや後方から見た姿も好きでも、よくこのアングルで撮影していました。
この「月光形」と呼ばれた581・583系の前面スタイルは後に房総特急として登場した183系直流特急形電車に引き継がれました。共に全面扉を設置しており、分割併合運転に用意された装備でした。その後は交直両用特急形電車の485系にも引き継がれることになります。正に国鉄を象徴する洗練されたデザインに思います。
上の画像は1980年に名古屋駅近くのビルの屋上から撮影した長崎・熊本発東京行き寝台特急「みずほ」になります。どこのビルかは忘れましたが、「みずほ」の発車時刻にはカメラを構えていたのでしょう。135ミリの望遠レンズで撮影していました。
上の画像は同じ場所から撮影した「さくら」になります。名古屋駅の0番ホームから発車していたので、ビルからも狙いやすかったと思われます。しかしながら、当時よくこんな撮影場所を見つけられたものだと思います。
寝台特急「金星」が仕事を終えて、神領電車区に引き上げていく様子も、同じような場所から撮影していたようです。1980年なので「金星」のトレインマークは絵入りのマーク、イラストのマークになっていました。
上の画像は撮影していた場所からの名古屋駅になります。0番ホームには発車したばかりの寝台特急「みずほ」が見えています。その左側にはEF58の姿を見ることができます。そしてその左側には名古屋に到着したばかりの寝台特急「金星」の姿が見えます。1番左には湘南色のクモニかクモユニが2両編成で居ます。当時の165系普通電車等には、よくこのような荷物電車が繋がれていたものです。鉄道模型ではクモユニ74とクモニ143を持っています。クモユニ74は古いカツミ製、クモニ143はエンドウ製になります。ともにモーターはついていないトレーラーです。
上の画像は1979年に笠寺駅近くの陸橋から撮影した上り寝台特急「みずほ」になります。自分の下宿からバイクにカメラを積んでこの場所までやってきて撮影していました。朝の光を浴びながら東京を目指すブルートレインは魅力的でした。
上の画像も笠寺駅近くの陸橋から撮影した寝台特急「さくら」になります。ちょうど名古屋で下宿一人暮らしを始めて慣れた頃に、早朝少し遠出をして撮影に行ったのでしょう。無事に撮影できると嬉しくて気持ちよくバイクを運転して下宿に帰ったものでした。
次からの画像3点は今回特集した1980年より以前の1975年に名古屋駅で撮影した381系振り子式特急形電車になります。名古屋と長野を結んでいました。まだデビューして間もない頃に名古屋に行って撮影していたのだろうと思っています。当時は9両編成で運転されていました。亡き父親にこの「しなの」で松本へ連れていってもらったものでした。鉄道模型では晩年に活躍していたエンドウ製の「パノラマしなの」6連を持っています。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。