今回は、自分がかつて鉄道雑誌「国鉄時代」に投稿した北陸本線についての投稿原稿を紹介させていただこうと思います。投稿は残念ながら雑誌には採用されませんでした。私なりに好きな北陸赤罐についてもまとめた写真の原稿になります。撮影した時代はどれも国鉄時代の写真になり、このブログでもメインのカテゴリーにしています。大変懐かしい交流電気機関車と特急・急行電車の写真をまとめていますので、今回少し改めて追記をさせて頂いて記事にしています。懐かしい画像をお楽しみ下されば幸いです。当然、画像はこれまでの再掲出になってしまっていますことをどうぞご了承をお願いいたします。
雑誌国鉄時代「北陸本線」へ各写真データとコメント
① EF70牽引の急行「きたぐに」。1975年。懐かしい10系+12系の客車列車でした。自宅近くの踏切から撮影していました。早朝6時前にこの列車はやって来ました。近所なのでよく写真を撮っていたものです。「ナナマル」は1次型が牽引しています。
②冬の日に雪の線路を走るEF70牽引の普通列車米原行き。1977年。「ナナマル」の晩年の姿で前照灯がシールドビームになった20号機です。雪の中の力走はカッコ良かったですね。懐かしい荷物車も連ねています。
③ 田村駅に着いた寝台特急「日本海」。糸魚川から牽引してきたEF70、1000番代もここでお役目終了です。1975年。20系寝台特急の牽引機として活躍していた「ナナマル」の1000番台。残念ながら美しいヘッドマークは付けられていませんでした。早朝に自転車で「日本海」の撮影にこの田村駅に行っていたものです。
④ED70の終焉が近い頃に近江塩津駅に入線してくる米原行き普通列車。この日はEF70との重連でした。1974年。この日は「ナナマル」と古豪の重連運用で、ラッキーな汽車旅を楽しむことができました。
⑤田村まで普通列車を牽引してきた古豪ED70。ここから終点の米原まではDE10にバドンタッチします。1974年。古豪の終焉が近づいていた頃で、よくこのED70を狙って撮影していたものです。なかなか運用がつかめず、出会えた日はラッキーでした。
⑥客車急行「きたぐに」大阪行き。この日はEF70 1000番代が牽引しました。1976年。近所の踏切から撮影しています。この日の「きたぐに」は「ナナマル」の1000番台が担当していました。ブロック形のナンバープレートが新鮮でかっこよく思えました。
⑦当時は特急「しらさぎ」も1往復が583系で運用されていました。それを狙ってよく米原駅に足を運んでいました。1976年。当時、一日に一往復だけ特急「しらさぎ」は583系で運転されており、これは博多~名古屋を結んでいた寝台特急「金星」の間合い昼行運用でした。当時の一番好きな特急形電車でした。
⑧当時、新しく走り始めた米原~金沢間の特急「加越」。7連と軽快な編成でした。1975年。485系の新しいタイプの485系300番台がデビューしたての頃になります。貫通扉の無い先頭車は、ファンの間で「ゲンコツ」、「電気釜」とも呼ばれています。
⑨475系で運転されていた急行「ゆのくに」。よく自分も乗りました。1976年。大阪駅前の阪急百貨店へ鉄道模型を買いに行った時の帰りに、15時代に発車していたこの急行「ゆのくに」金沢行きに乗って、長浜まで帰っていました。大変軽快な走りを今も良く覚えています
⑩583系の特急「しらさぎ」が敦賀に向かいます。1977年。自宅近くの国道8号線の陸橋から撮影しています。少し高い位置から俯瞰して撮影できるポイントになります。SL北びわこ号も、この場所でよく撮影していました。
⑪1974年、湖西線開業にともないEF81が敦賀第二機関区に配置されました。夏頃から練習運転として田村に顔を出してくれていました。1974年。たまたま田村駅に撮影に出かけていた時に出くわした印象的なシーンになります。ピカピカの81は新製されたばかりの新車で、大変綺麗でした。カラー写真で撮れていなかったのが心残りです。
⑫485系1500番代が使われていたロングラン特急「白鳥」が敦賀を目指します。1975年。この撮影ポイントも自宅近所の国道8号線の陸橋になります。少し高い位置から俯瞰して撮影できるポイントになり、1500番台の「白鳥」を撮影することができました。大阪発青森行きになります。
~国鉄によせて~
国鉄時代の車両は、どれもスタイルが良くてセンス抜群の車両たちが活躍していました。星晃さんをはじめ素晴らしい開発者、デザイナーに恵まれていました。国有鉄道は安全な公共鉄道として安全性も高かったと思います。職員さんもおおらかにファンに対応してくれていました。敦賀第二機関区へ「アポ無し」で撮影に行った時も、快く撮影を許可してもらったことが大変嬉しかったです。寝台特急「さくら」の専務車掌さんにサインをしてもらうことができました。半面、当時は国労と動労があって、よくストライキもあって電車がストップしていた事もあったように記憶しています。赤字路線も当然ありましたが、現在のように赤字をJR各会社単位で抱えることは無く、黒字路線からの補填も可能だったと思います。自分は当時国鉄の「機関士」になりたいと思っていました。残念ながら他の進路に進み、鉄道模型の運転に夢の形を変えています。自分の憧れと夢を頂けた日本国有鉄道に感謝しています。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。