北陸本線の撮影ポイント~新疋田駅での撮影から~

今回は、自分がかつて撮影した2000年頃の鉄道写真を紹介してみたいと思います。撮影地は北陸本線の新疋田駅。ここは鉄道ファンの有名な撮影ポイントになっています。ホームの待合室の壁には、この駅で撮影された鉄道写真が数多く飾られていたものでした。現在はどうなっているのかは解りません。撮影に行ったこの日は、確か自家用車で駅まで行って撮影していたと記憶しています。2面3線のカーブになったホームの端から、上り下りの列車を撮影していました。撮影日時と順番は不明ですが、画像で当時を楽しんで頂けたなら幸いです。また形式や行き先等の表記が間違っているかもしれません。この点はご容赦して頂き、あくまで「画像」をお楽しみ頂けたらと誠に勝手ながら思います。

今は無き豪華寝台特急「トワイライト・エクスプレス」、札幌発大阪行きになります。まだこの豪華寝台特急も存分に撮影できた良き時代でした。敦賀で電気機関車の交換を終えて、大阪へのラストスパートです。美しいピンク色のヘッドマークが深緑の車体に映えます。

自分も1度だけ家族旅行で札幌から敦賀まで乗った経験がある列車です。素晴らしい贅沢な列車旅が日常的に出来た良い時代でした。

こちらは485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。美しい雷鳥の絵入りヘッドマークがたいへん懐かしいです。

同じく特急「雷鳥」に登場したパノラマ展望車。このパノラマ車両は特急「しらさぎ」に使用されていた時期もありました。

特急「雷鳥」には、貫通扉が後付けされたクハ481形も使われていました。クハが中間車に組み込まれていた編成に使用されていて他のJR西日本の特急にも使われていました。貫通扉上部の国鉄のシンボルマークは塗装で表現されていたのが印象に残っています。

元581系交直両用寝台特急電車を近郊形電車に改造して生まれた、419系「食パン電車」も元気に走っていました。米原寄りも「食パン電車」のクハ418のようです。

ボンネットスタイルのクハ481形を先頭にした485系特急「雷鳥」になります。以前に「ゆうとぴあ和倉」という大阪から和倉温泉行き2両編成の観光気動車を併結して走っていた頃の名残が、スカートの切り欠き部分に残っています。一度見てみたかったものです。

こちらは旧塗色時代の683系「サンダーバード」になります。6両の基本編成に3両の付属編成で組成された9連の編成です。ブルーのラインだけのシンプルな登場時の塗色時代です。

こちらは後追いの写真。クロのライト周辺の形状から683系のようですね。のちに窓枠がブラック、その下にブルーのラインの新塗色になりました。雷鳥のロゴも2両に渡って大きく表現されるようになりました。

こちらは貨物列車の先頭に立つ、EF81形交直両用電気機関車になります。トンネルを抜けて新疋田駅に進入してくるところです。オリジナルなローピン81(パーイチ)になります。

まだまだ富山に居たEF81が元気に走っていた頃になります。白帯を巻かれた更新色以外にもこのようなオリジナルの81が活躍していました。敦賀方面行きの北陸本線下り貨物列車、コンテナ貨物です。大阪方面からは湖西線を走って来ていました。

こちらもEF8129牽引のコンテナ貨物列車になります。JRになってからの運転席窓のHゴムはブラックになっています。国鉄時代はグレーのものが使われていました。これは65PF等の電気機関車にも言えることです。

こちらは更新機の白帯を巻いた81になります。39号機が牽引するコンテナ貨物列車で、見にくいですが機関車の次位はEH500が繋がれていました。西日本へ回送されていくようです。やがてこれらの81は700番台を名乗るようになっていきました。

上の画像は683系2000番台8連による特急「しらさぎ」になります。この形式が485系に代わって「しらさぎ」に使われるようになった頃の撮影です。斬新なデザインと静寂な走りに感銘を覚えた新型車両でした。

上の画像は683系6連+3連+3連、12連の特急「サンダーバード」になります。

上の画像は681系6連+3連、9連の特急「サンダーバード」大阪行きになります。

その特急「サンダーバード」の後追い写真です。

あっという間に新疋田駅南側にある深坂トンネルに吸い込まれていきました。

683系2000番台の特急「しらさぎ」富山行きになります。

懐かしい485系「スーパー雷鳥」もまだ走っていました。専用のカラーリングが素敵でした。

681系特急「サンダーバード」富山行きになります。

683系2000番台の5連、基本編成による特急「しらさぎ」名古屋行きになります。

以上、北陸本線の新疋田駅で撮影した鉄道写真、お楽しみ頂けたでしょうか?撮影日時も写真にてご判断頂くしかない写真ばかりで大変申し訳なく思っております。もう今では見られなくなった画像をお楽しみ頂けてもらっていたらたいへん嬉しく思います。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

鉄道雑誌「国鉄時代」への投稿から

今回は、自分がかつて鉄道雑誌「国鉄時代」に投稿した北陸本線についての投稿原稿を紹介させていただこうと思います。投稿は残念ながら雑誌には採用されませんでした。私なりに好きな北陸赤罐についてもまとめた写真の原稿になります。撮影した時代はどれも国鉄時代の写真になり、このブログでもメインのカテゴリーにしています。大変懐かしい交流電気機関車と特急・急行電車の写真をまとめていますので、今回少し改めて追記をさせて頂いて記事にしています。懐かしい画像をお楽しみ下されば幸いです。当然、画像はこれまでの再掲出になってしまっていますことをどうぞご了承をお願いいたします。

雑誌国鉄時代「北陸本線」へ各写真データとコメント

① EF70牽引の急行「きたぐに」。1975年。懐かしい10系+12系の客車列車でした。自宅近くの踏切から撮影していました。早朝6時前にこの列車はやって来ました。近所なのでよく写真を撮っていたものです。「ナナマル」は1次型が牽引しています。

②冬の日に雪の線路を走るEF70牽引の普通列車米原行き。1977年。「ナナマル」の晩年の姿で前照灯がシールドビームになった20号機です。雪の中の力走はカッコ良かったですね。懐かしい荷物車も連ねています。

③ 田村駅に着いた寝台特急「日本海」。糸魚川から牽引してきたEF70、1000番代もここでお役目終了です。1975年。20系寝台特急の牽引機として活躍していた「ナナマル」の1000番台。残念ながら美しいヘッドマークは付けられていませんでした。早朝に自転車で「日本海」の撮影にこの田村駅に行っていたものです。

④ED70の終焉が近い頃に近江塩津駅に入線してくる米原行き普通列車。この日はEF70との重連でした。1974年。この日は「ナナマル」と古豪の重連運用で、ラッキーな汽車旅を楽しむことができました。

⑤田村まで普通列車を牽引してきた古豪ED70。ここから終点の米原まではDE10にバドンタッチします。1974年。古豪の終焉が近づいていた頃で、よくこのED70を狙って撮影していたものです。なかなか運用がつかめず、出会えた日はラッキーでした。

⑥客車急行「きたぐに」大阪行き。この日はEF70 1000番代が牽引しました。1976年。近所の踏切から撮影しています。この日の「きたぐに」は「ナナマル」の1000番台が担当していました。ブロック形のナンバープレートが新鮮でかっこよく思えました。

⑦当時は特急「しらさぎ」も1往復が583系で運用されていました。それを狙ってよく米原駅に足を運んでいました。1976年。当時、一日に一往復だけ特急「しらさぎ」は583系で運転されており、これは博多~名古屋を結んでいた寝台特急「金星」の間合い昼行運用でした。当時の一番好きな特急形電車でした。

⑧当時、新しく走り始めた米原~金沢間の特急「加越」。7連と軽快な編成でした。1975年。485系の新しいタイプの485系300番台がデビューしたての頃になります。貫通扉の無い先頭車は、ファンの間で「ゲンコツ」、「電気釜」とも呼ばれています。

⑨475系で運転されていた急行「ゆのくに」。よく自分も乗りました。1976年。大阪駅前の阪急百貨店へ鉄道模型を買いに行った時の帰りに、15時代に発車していたこの急行「ゆのくに」金沢行きに乗って、長浜まで帰っていました。大変軽快な走りを今も良く覚えています

⑩583系の特急「しらさぎ」が敦賀に向かいます。1977年。自宅近くの国道8号線の陸橋から撮影しています。少し高い位置から俯瞰して撮影できるポイントになります。SL北びわこ号も、この場所でよく撮影していました。

⑪1974年、湖西線開業にともないEF81が敦賀第二機関区に配置されました。夏頃から練習運転として田村に顔を出してくれていました。1974年。たまたま田村駅に撮影に出かけていた時に出くわした印象的なシーンになります。ピカピカの81は新製されたばかりの新車で、大変綺麗でした。カラー写真で撮れていなかったのが心残りです。

⑫485系1500番代が使われていたロングラン特急「白鳥」が敦賀を目指します。1975年。この撮影ポイントも自宅近所の国道8号線の陸橋になります。少し高い位置から俯瞰して撮影できるポイントになり、1500番台の「白鳥」を撮影することができました。大阪発青森行きになります。

~国鉄によせて~

国鉄時代の車両は、どれもスタイルが良くてセンス抜群の車両たちが活躍していました。星晃さんをはじめ素晴らしい開発者、デザイナーに恵まれていました。国有鉄道は安全な公共鉄道として安全性も高かったと思います。職員さんもおおらかにファンに対応してくれていました。敦賀第二機関区へ「アポ無し」で撮影に行った時も、快く撮影を許可してもらったことが大変嬉しかったです。寝台特急「さくら」の専務車掌さんにサインをしてもらうことができました。半面、当時は国労と動労があって、よくストライキもあって電車がストップしていた事もあったように記憶しています。赤字路線も当然ありましたが、現在のように赤字をJR各会社単位で抱えることは無く、黒字路線からの補填も可能だったと思います。自分は当時国鉄の「機関士」になりたいと思っていました。残念ながら他の進路に進み、鉄道模型の運転に夢の形を変えています。自分の憧れと夢を頂けた日本国有鉄道に感謝しています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

        

EF70 1000牽引、20系寝台特急「日本海」
485系1500番台の特急「白鳥」

懐かしの「SL北びわこ号」

『夢を運んでくれた列車』

 「この夏休みに米原から木ノ本間にSLが復活するらしい。」そんな話題で盛り上がっていた1995年の夏。そしてついに「SL北びわこ号」の1番列車の走る日がやってきた。

当時、独身を謳歌していた私は姉川の鉄橋付近で1番列車にカメラを向けていた。現役の蒸気機関車を見るのは、今は亡き父に連れて行ったもらった草津線のデゴイチが最後で、久しぶりの蒸気機関車の運転に胸が躍っていた。そして久しぶりに緊張してシャッターを押していた。その日以降、季節ごとに地元を走り抜けるSL北びわこ号にカメラを向け続けていた自分がいた。

翌年に結婚した私は好きな鉄道趣味に没頭する時間は減ったものの、男の子が生まれてくれたことで子守がてらに、撮り鉄・乗り鉄・模型鉄が見事に復活する運びとなった。初めて乗車したのは息子が2歳の時だったと記憶している。長浜から木ノ本まで隣の息子そっちのけで楽しんでいたように思える。運転日には息子を自転車の前座席に乗せて長浜発車を見に行ったものだ。

激しく揺れる自転車の振動と大きな汽笛とで大泣きさせてしまったことも思い出してしまう。その後は町の子ども会でもSLに乗って木ノ本に行くという小旅行が企画され、小学生になった息子は喜んで参加していた。北びわこ号が、だんだんと湖北の人たちの生活に溶け込んでいったように思える。春はゴールデンウィークの頃に鯉のぼりを見ての運行。夏は夏休みの終わりにひまわりを横目に走る。秋は稲刈りの終わった田んぼを見ながらの運行。そして冬は雪景色の中をモクモクと黒い煙を吐いて走ってくれた。中でも冬は撮影には最高のロケーションだった。

いつの季節も北びわこ号の走る日は自ずとワクワクして、カメラを持って近所の踏切に向かったものだ。列車が通過したあとの、独特のコークスの香りがたまらなく好きだった。ごくまれに運転された貴婦人ことC57も素晴らしかった。運転当初に行われたC56との重連運転の時は大興奮したのを今でも覚えている。SL北びわこ号のことを鉄ちゃん目線から言うと、まず5両編成の青い客車が12系という今では大変珍しい形式がオリジナルで使用されていること。そして京都から回送される時に担当する機関車のことが興味深い。敦賀まで直流電化されるまでは、DD51形というディーゼル機関車だったのが、敦賀まで直流化された年よりEF65形という電気機関車が担当するようになった。この機関車はかつてブルートレインと呼ばれた大好きな寝台特急を牽引していた機関車なのである。東京発九州行き寝台特急の先頭に立つ姿を、美しいヘッドマークとともに鮮烈に覚えている。自分が中学生の時には、朝5時半の通過に間に合うように米原まで自転車に乗って撮影に行ったものだ。その機関車が北びわこ号と共にやってくるのだからたまらない。SLの汽笛に大泣きしていた息子も今では大学生となり、自分の夢を描きながら一人暮らしをしている。湖北路にSL北びわこ号が走り始めてはや22年という月日が流れたが、相変わらず元気なSLは私の心を掴み続けている。今でも運転日にはスマホを持って近所の踏切に出かけ動画を撮っている。そして今風だが、その様子を自分のフェースブックに上げることが常になってしまった。毎回なんともいえない満ち足りた気分にしてくれる。山口線で華々しくデビューしたD51も北びわこ号の先頭に立つ日が近いことだろう。ますますこれからの北びわこ号が楽しみでならない。私のような鉄道ファンをはじめ、地元の人たちに愛されて四季の一大イベントになっているSL北びわこ号。これからも私の夢と一緒に末永く走り続けて欲しい。

(北びわこ号運転20周年の記念冊子に投稿させて頂いた私の原稿)

526-0016     滋賀県長浜市十里町173番地

           金澤孝明(現在64歳)

電話  090-2283-0409

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自宅の離れの隠居20畳にHOゲージの鉄道模型レイアウトを作っています。

見学を希望される方がいらっしゃいましたら、「お問い合わせホーム」からご連絡を頂けたら調整の上対応させて頂きます。料金はレイアウトのメンテナンス代として半日滞在して頂いて3000円(1ドリンク付き)とさせて頂こうと思っておりますが、現在検討中であります。車両を持ち込まれての運転も同様とさせて頂きます。小さな子どもさんも、保護者様が同伴して下さった大丈夫です。ただし、当レイアウトを破損されたり、鉄道模型を傷つけられた場合には、それ相応の「弁償」を「現金」にてお支払い頂くことになりますので、この点はご注意をお願いいたします。年齢を問わずに鉄道好きの人には楽しんでいただけることと思います。

ORHC 応挙鉄道趣味の会

代表  金澤 孝明(会員番号70番)

今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

         

私が撮った新幹線電車その2~米原駅界隈

今回は私が撮影した新幹線電車特集の2回目をお届けします。子どもの頃から鉄道写真を撮影しに行っていた米原駅。新幹線の撮影においては、入場券を購入してホームに入りホームの端等で撮影していたものでした。新幹線ホームは、米原駅の一番西側にあり、下りの11番線と上りの12番線、13番線というホームがあります。構成はスタンダードなホームで、停車するホーム2線(11番線、12番線)の線路と、通過用の線路が内側に2線にあります。上り線にだけもう1線13番線があり、この線路は客扱い停車用と、併せて新幹線保守基地に繋がっている線路になります。このホームには稀に線路保守用の珍しい車両やレールを積載した車両を見かけることが出来ます。ホームは大変ゆったりとした大きなカーブの形を呈しています。ホームから撮影するには、比較的にうまく撮れるのですが、走行している写真を撮影するのはなかなか難しいと言えます。新幹線の高架には沢山のケーブルや騒音防止板等があるために、なかなか編成全体を捉えにくく、これらに邪魔されてしまうからです。今回の新幹線未発表写真は、駅から南に車で行った所の東側の田んぼ道から撮影した時のものを主としています。それ以外の写真は米原駅や近江長岡界隈での撮影になります。どの写真に於いても線路端のケーブルが被ってしまっています。この頃より随分と後になってから、駅西側にあるエレベーター製造会社の近くが比較的撮りやすいポイントであることがわかりました。この頃はまだそこにたどり着けずに、撮影ポイントを模索していた時期になります。とりあえずこのポイントで撮影していました。途中JR東海のパトロールカーが横を何回も通り過ぎたのを覚えています。今となったら懐かしい思い出です。今回の写真は歴代東海道新幹線の0系、100系、300系、500系、700系までの写真を、大変つたない写真でなおかつ車両についての説明等は省かせて頂いておりますが、どうぞ懐かしい画像を楽しんでもらえたら幸いです。どの画像も残念ながら撮影日時は解りませんが、おそらく1997年~2000年頃になるでしょうか?走行車両の形式から時期をご判断いただきますようお願いいたします。

上の画像は1998年頃に東海道線の近江長岡~柏原から望遠レンズで撮影した東海道新幹線上り0系新幹線電車になります。この頃はまだ初代東海道新幹線の0系が走っていました。そろそろ引退との話を聞いていた頃のように記憶しています。

上の画像は米原駅から南に行った場所の田んぼ道から撮影した下りの100系新幹線電車になります。撮影した時期は100系がまだ沢山活躍していた頃で、自分もよく京都まで乗っていました。個人的に新幹線電車の中で1番好きな新幹線電車です。

100系でよく乗っていたのは、2階建て車両でした。ビュッフェは営業されていませんでしたが、階下の場所の自販機コーナーの缶コーヒーを飲んで楽しんでいたのを覚えています。そしてラストランの時には名古屋~米原まで、初めて2階のグリーン車に乗りました。見降ろす感じのウインドビューイングは正に最高の眺めでした。今は無い岐阜羽島近くの大きなSANYOソーラーパネルも思い出されます。また自分が特別支援学校の教師だった時代に、この100系を修学旅行で使いました。個室にあって重宝させてもらいました。利用したのは小学部時代で米原~新神戸でした。

上の3枚はいずれも米原駅で撮影した上りの100系新幹線電車になります。

上の画像は米原駅から南に行った場所の田んぼ道から撮影した300系新幹線電車になります。よく見ると先頭部にはグレーの帯があり、車体裾部にもグレーの部品が認められるので初期の車両編成かと思われます。100系からの大幅なスピードアップがはかられた300系。これがデビューする前の写真を見て驚愕したのを覚えています。「これが新幹線?」「まるでスターウォーズのジェダイみたい!」と思ったものでした。初列車の上り300系は夜遅くに走っていて、ちょうど大学の友人2人と三河安城で同じビジネスホテル部屋の窓から見たものでした。あっという間に通り過ぎた光の筋、それが時速270キロで走り去る「のぞみ」号東京行きでした。この「のぞみ」というネーミングにもあまりにも斬新で驚いたものでした。後に私が特別支援学校の高等部を担当している時の修学旅行で京都~博多間で利用しました。

上の画像は米原駅から南に行った場所の田んぼ道から撮影した500系新幹線電車になります。現在も山陽新幹線で最後の活躍をしている500系新幹線は、スタイルがジェット戦闘機に似ていて大変かっこいいです。自分はまだ乗ったことがなく、ラストランまでには是非乗ってみたいと思います。友人から聞くと、車内は割と狭く感じられるようです。この頃は16連の堂々たる編成で走っていました。

上の画像は米原駅で撮影した下りの700系新幹線電車になります。東海道線の下り本線近くから望遠レンズを用いて米原から京都に向けて発車していく700系新幹線電車を撮りました。先頭車両の窓下には「AMBITIOUS JAPAN!」のロゴがありました。トキオの歌うイメージソングも蘇ってきます。またこの曲の車内チャイムも長く使用されていました。このチャイムは自分の一番お気に入りの新幹線チャイムでした。

米原駅から南に行った場所の田んぼ道から撮影した700系新幹線電車になります。700系新幹線のラストランはコロナ禍で見られませんでしたが、終わりの頃に名古屋から京都までのぞみ号のグリーン車に乗りました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。私の方、先週無事に退院することができました。ブログを書ける喜びをかみしめております。

JR長浜駅周辺のリニューアル工事記録~2006-2015

前々回の記事で「長浜駅直流化の工事」についての紹介をしましたが、今回は新しくなっていく長浜駅のリニューアル工事の様子を紹介させて頂こうと思います。国鉄時代からの古い長浜駅が取り壊されて、装いも新たな長浜駅が作られていく様子になります。直流化をきっかけとして長浜駅は現在の橋上駅に生まれ変わり、駅の周辺には新しいビルやショッピングセンターが出来ました。また駅前ビルを繋ぐように2つの大きな橋がかけられて現在の姿になりました。なお今回は更新時期が自分の入院治療の期間にあたるため、誠に申し訳ありませんが当時のブログをそのままリライトしています。大変読みにくい記事となっていますが、ご了承の方どうぞよろしくお願いいたします。無事に治療が終わって退院できましたなら、また鉄道と鉄道模型の記事を書かせていただこうと思っています。今後とも「応挙さんの鉄道ブログ」をよろしくお願いいたします。

工事が続けられてきた長浜駅が、いよいよ10月14日の「鉄道の日」に装いも新たにスタートします。橋上駅舎になり、エレベータとエスカレータも新設され、バリアフリー駅になります。外観のデザインは、鉄道スクエアのメインとなる旧長浜駅舎(現存の鉄道建築物では最古とされている)をモチーフにしています。二本ある煙突や窓枠、壁の色もそっくりの出来栄えです。開業が楽しみです。

2006.9.7

10月14日の完成に向けて、日々工事が進められている長浜駅。これは、ホームから撮影したものです。もうすぐ特殊貨物によって、エスカレーターが運ばれてくるでしょう。エレベータについては、駅の東側と西側にすでに設置されています。そして、現在ホームの高さを上げる工事も急ピッチで進められています。

2006.9.25

いよいよ敦賀までが直流化され、次は沿線の新しくなった駅舎がデビューします。長浜駅も外観はほとんどが完成したようです。10月14日の鉄道の日に、オープンします。当日は、いろいろとイベントも予定されているようで楽しみです。そして、10月21日からダイヤが改正されます。

2006.10.14

鉄道の日の今日、長浜駅が新しくなって開業しました。午前に関係者を集めての式典があり、いろいろなイベントが始まりました。さすがに開業日とあって、見物客も多く見られ大変な賑わいを見せていました。これまでの駅は封鎖になり、近く取り壊されるようです。そして、来週からいよいよ敦賀まで223系が乗り入れます。記念切符も発売され、敦賀駅では521系や125系、223系といった電車も展示される予定です。

2007.1.17

長浜駅が新しくなってずいぶん経ちましたが、これまであった旧長浜駅もその姿を無くしつつあります。写真は、2番ホームから撮った旧跨線橋が取り壊されている様子です。駅舎もほとんど形が無くなるまで取り壊されました。

2007.3.14

最近になって旧の駅舎がすっかり取り壊され、工事用のフェンスが取り除かれました。駅舎があったところは新地になっています。そして、ホームが見られるようになりました。西口も工事か進められていて、駐車場かロータリーでもできるのでしょうか?

2012.8.9

全景が解るように撮ってみました。どんな駅ビルになるのでしょうか?

オープンが楽しみです。

2012.9.8

9月1日にオープンした駅ビル。どうやらショッピングビルではなく、JR西日本関連のブライダル・ホテル施設でした(^^;;)なかなか気軽には立ち寄れないビルのようで、私的にはちょっと残念です。

2014.9.30

今年の春から長浜駅東側にあった駐車場を再開発する工事が始まっています。基盤工事が終わり、5月下旬くらいから重機が運び込まれて工事されていました。9月くらいから大きな鉄骨が運びこまれ、先週あたりから商業施設の概要が形になってきました。大きな商業施設が来年1月に駅に隣接してオープンする予定になっています。今から楽しみです。

2014.10.19

このところ大型トレーラーで鉄骨が運び込まれて工事のピッチがあがってきています。施設の外観が解るようにまで建設が進んできました。かなり大きなショッピングビルで仮称が「長浜フレンドタウン」と書いてありました。27年1月にオープンの予定です。屋上から列車も撮影できそうですね。

2014.12.20

2014年12月20日の様子になります。

外装が姿を現して内部の工事も急ピッチで進んでいる様子でした。

来年1月下旬にオープンの予定らしいです。

フレンドタウンという名称です。

2015.1.17

2015年1月17日(土)の様子になります。

建物はほぼ完成したようで昨夜は店内に室内照明が点いていました。

今月末にオープンの予定です。「フレンド・タウン」という商業施設です。

駅の2階(改札階)から直接店内に入れるようになるようです。

※現在は「モンデクール」という名称です。滋賀県湖北地方の方言で「帰ってくる」をアレンジされています。因みに「帰ってくる」→「もんでくる」、あるいは「もんできゃんす」、「もんできゃーる」と言ってます。

以上、2006年から2015年にかけてJR長浜駅と駅前が現在の姿になっていく様子を過去の自分のブログから紹介させて頂きました。18年前から現在に至る画像をお楽しみ頂けたでしょうか。今回の記事は以上となります。最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。