四国鉄道文化館に行ってきました~鉄道歴史パークin SAIJO訪問記

2024年5月13日(月)に、JR予讃線の伊予西条駅に隣接している「四国鉄道文化館」に初めて行ってきました。月曜日のお昼前に行きましたが、月曜日ということで来場者はほとんど居られずゆったりと見て回ることができました。駅を挟むようにして北館と南館があり、北館にはお土産を販売している観光交流センターと新幹線生みの親として有名なご当地出身の十河信二記念館がありました。入館したらちょうど南館の鉄道ジオラマの運転時間だったので、南館から見ることにしました。係の方が南館のジオラマのスタッフに私が行くまで運転をスタートしないようにとわざわざ電話して下さいました。

北館に展示されている車両。
北館の全景。

四国鉄道文化館北館の全景です。受付があり、中にはDF50形電気式ディーゼル機関車と0系新幹線が保存されています。長浜の鉄道文化館に似た作りの館でした。

十河信二の胸像

北館には西条市出身の十河信二の胸像がありました。その向かい側に十河信二記念館があり、無料で見学できます。

まず最初に南館にあるジオラマを見ました。解説の音声と一緒に四国を代表する鉄道車両の模型が走ります。スケールは80分の1サイズの鉄道模型になります。コンパクトな大きさで見やすく、美しいジオラマでした。海水浴客や海の表現も素晴らしかったです。8000系アンパンマン列車が走っています。

シーナリィやストラクチャーも綺麗で、たいへんすっきりしています。向こう側には瀬戸大橋ほイメージした吊り橋があり、中を車両が走っていました。

立派な「だんじり」が出る「西条まつり」も人形が動くギミックがあり、大変リアルに表現されていました。ライティングの演出も見事でした。

朝から夕方、そして夜へと時間が動いていき、夜景になるとバックにはCGで花火が上がります。音もあって大変リアルな花火になっていました。そのあとは月が出ていました。なかなか見ごたえのあるジオラマでした。

四国鉄道文化館の鉄道ジオラマ。
音と映像が加わって見事なジオラマ展示運転でした。

ジオラマの前には四国にまつわる鉄道車両の模型(80分の1サイズ)がズラリと展示されていました。

ジオラマのある南館にはフリーゲージトレインが展示されています。その横には駅前広場があり、この広場と駐車場に5インチゲージの線路が敷設されていました。イベントの時には、この線路に5インチゲージの乗用鉄道模型が走るようです。いつか見てみたいと思いました。さぞや楽しい親子で楽しめるイベントになることでしょう。

南館の中に展示されてあるC57形蒸気機関車。44号機になります。SLの各部に名称を示すラベルが貼られており、たいへん解りやすく展示されていたのが印象的でした。

そしてキハ65気動車も展示されていました。車内にも入ることができ、ボックス席に座って暫し気動車の旅行気分に浸りました。余談ですが、自分は大学受験の時に高知大学を受験しました。共通テスト開始された元年で、いろいろと思案した結果受験しましたが落ちました。その時に高松から高知まで乗ったのがこの気動車も確か繋がれていたディーゼル急行「土佐」でした。

そしてキハ65の横には馴染みのあるDE10形ディーゼル機関車の1号機が展示されていました。このトップナンバーのDE10は一貫して四国で活躍していた機関車とのことでした。

そして屋外にはフリーケージトレイン、軌間可変電車(GCT01-201)が展示されていました。この電車は新幹線の線路も在来線の線路も走ることができる電車の試作車両になります。春に敦賀まで延伸開業した北陸新幹線に、もしこのフリーゲージトレインが活躍したなら敦賀からは北陸本線で米原を経て大阪へ、また敦賀から途中から湖西線を走って大阪へつなげられたのではないかと思ってしまいます。現在、敦賀から大阪までのルートは未定の様で工事着手に至っていませんが、車輛の工夫をすることで解決できるという事もあるのだと思いました。

新幹線等の標準軌1435mmと在来線の狭軌1067mmの異なる軌間に車輪の左右間隔を自動的に変換して直通運転ができる電車になります。

前面の形状は、何故か「サンダーバート゛」や「しらさぎ」に使われている683系電車の非貫通形先頭車に似ているように思いました。

見学の後半に北館に戻って見学しました。四国を代表する電気式ディーゼル機関車のDF50が展示されていて、運転席が見学できるようになっていました。1号機で最後は四国の高松機関区で活躍していました。予讃本線、土讃本線で大活躍した機関車です。

運転台も自由に見学することができました。毎回思うのが、ディーゼル機関車の主幹制御器の形状が細いということです。以前に見学したDD51やDD54も細いマスコンハンドルでした。運転台は長浜鉄道スクエアに展示されているED70に似ています。当時の貫通形の機関車に採用された前面デザインは個人的に大変気に入っています。

DF50の横には、新幹線生みの親にちなんだ0系新幹線電車の先頭車21-141が展示されていました。車両の前方だけをカットされたものですが、車内と運転台を見学することができました。そう言えばこの0系新幹線のスタイルをしたキハ32形気動車が予土線に走っているのも、新幹線生みの親に因んで作られたのかと納得しました。初めて訪れた四国鉄道文化館、見所満載で楽しませて頂くことができました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

伊予西条駅で見かけた7000系直流近郊形電車。両運転台付きの単行電車です。

私が撮影した惜別の列車たち

今回はこれまで自分が撮影した「廃止になった列車」をいくつか紹介させていただきます。ダイヤ改正等で姿を消す列車は、その最終運転日が近づいてくると急に撮影するファンが増えていきます。そして列車の最終運転の日には「葬式鉄」と呼ばれる鉄道ファンでホームが溢れんばかりの状況になります。自分はなるべくラストランの前に、撮影するようにしてきました。それでも列車目当ての鉄道ファンは当然居られます。

上の画像は2012年1月4日の冬休みの最終日に、長浜発7時の521系で終点敦賀まで行った時のものです。当時のダイヤでは、途中近江塩津で新快速の京都方面行きにうまく連絡しているので湖西線方面に撮りに行くのにも便利な電車です。行きの道中から撮り鉄の方々も乗車されていました。到着して6番ホームの先端でカメラを構えて入線を待ちました。あいにくの冷たい雨の中「日本海」はやってきました。EF81101が牽引してきて、敦賀でEF81107にスイッチしました。たくさんのファンに見送られ、ローズピンクの81は大阪目指して出発していきました。ラストランまでにまた撮影に出向きたいと思っています。(2012年当時のブログ記事より)

上の画像は、冬休み最終日に来春のダイヤ改正で姿を消す寝台特急「日本海」を撮りに敦賀まで行って来た時のものです。7時発の敦賀行きで撮影に間に合うのでまた撮影に行きたいものです。寒空の敦賀に定刻8時2分に「日本海」はやってきました。(2012年当時のブログ記事より)

上の画像は無くなる前に、京都駅に入線してくる上り大阪行きの寝台特急「日本海」を撮影したものになります。ローズピンクの機関車にはブルーを基調とした「日本海」のヘッドマークが大変よく似合っていました。長い歴史のある寝台特急「日本海」、私も昔に家族で敦賀~秋田まで乗りました。

上の画像は583系の寝台急行「きたぐに」が彦根駅に入線して来たところになります。
急行「きたぐに」は現役583系運用最後の列車。大津から職場の宴会の帰りに長浜までよく利用させてもらいました。座り心地の良いシートなので、居眠りをしてしまって敦賀まで行ってしまった苦い思い出もあります。3月までにまた機会を見つけて、最後の勇姿を撮影したいと思っています。(2012.3.17ダイヤ改正で廃止)~2012年当時のブログ記事より~

上の画像は東海道本線の醒ヶ井~米原間を走る117系電車になります。JR東海のカラーを纏って走っていました。

上の画像も米原駅近くのカーブを往く117系電車になります。米原発大垣行きの電車になります。

上の画像は2013年1月26日に、留置線から出てくる117系4連を撮影しました。いつか、オリジナルカラーの編成を撮ってみたいものです。この年の春のダイヤ改正で姿を消してしまいました。(2013年当時のブログ記事より)

上の画像は2019年6月に、ラストランを前にした201系電車を急遽大阪に行って撮影した時のものになります。お目当ては明日ラストランを迎える大阪環状線の201系電車を撮影することでした。最後の編成LB9が34Mの外回り運用で活躍する様子を残せて良かったです。

    2015年3月14日、息子の大学受験送迎の日がちょうどトワイライト・ラストランの日だったので、送迎の合間をみて米原に車を預け、特急「しらさぎ」で敦賀往復撮影行を敢行しました。さすがに最終日とあり、沿線各地に多くのファンがおられました。今回は罐をじっくり動画撮りしたかったので駅近くの駐車場から撮影することにしました。発車の際はホイッスルを長めに鳴らして最後の旅路へと走り去って行きました。「さよならトワイライト・エクスプレス!」

「ありがとうトワイライトエクスプレス!」

上の画像は廃止の日、ラストランの下り列車を敦賀駅で撮影したものになります。

2014年5月28日、残念ながらついに発表されました。20年間も走り続けて車両の老朽化が大きな要因と出ていましたが、北陸新幹線開業にともなう北陸線区内の糸魚川~金沢間の第3セクター化も大きな要因といえるでしょう。今のうちに撮影しておきたいですね!今日まで撮影に行くつもりはなかったのですが、本業の大きな仕事が終わり余裕ができたので昼前から急遽電車で敦賀に行って来ました。目的は来週で姿を消すトワイライトエクスプレスの撮影です。下りの敦賀到着を狙って出掛けました。実車には15年程前に家族で札幌から敦賀まで乗りました。そう思うと結構長く走り続けていたのですね。これからは16番の鉄道模型で夢の続きを見ることにします。(2014年当時のブログ記事より)

自宅レイアウトを快走するトワイライトエクスプレス

上の画像は米原駅の近くで撮影した300系新幹線電車になります。この300系新幹線は2012年3月16日がラストランになりました。先頭車にラストランのロゴを纏って走りました。ちらみに300系新幹線のラストラン前に、米原から京都までを往復で乗車しました。新幹線のスピードを一気に時速270キロにまで引き上げた素晴らしい功績を残しました。名古屋のリニア鉄道館に先頭車が保存展示されています。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトのホームが良く似合う300系新幹線。このホームのモデルは東海道新幹線の米原駅です。

良き国鉄時代No.53~大阪駅ブルトレ撮影行1975年~

EF5837の牽く寝台特急「彗星」

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に大阪駅で撮影したブルートレインの写真の紹介になります。自分は中学3年生の時だったので、どの鉄道写真もつたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。そして車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと勝手ながら思っております。1975年当時の大阪で見ることができた寝台特急(ブルートレイン)は、まだEF58形直流電気機関車がヘッドマークを付けて運転されていた誠に良き時代でした。ホームから次々に到着してくる列車の撮影は、胸が躍って大変充実していたのを覚えています。当時大阪まで行って撮影することは滅多にないことで、大阪駅ではホームを駆けまわって撮影していたように記憶しています。

上の画像は大分・都城と新大阪を結んで走っていた寝台特急「彗星」になります。下関からは広島鉄道管理局、下関運転所のEF5837が牽引していました。このゴハチは庇と小窓が大変格好良かったです。24系の寝台客車で運転されていたようで、「彗星」という文字だけのトレインマークも大変好ましいものでした。

上の画像も寝台特急「彗星」になります。ゴハチは78号機で、名古屋鉄道管理局、米原機関区の所属でした。米原機関区特有のワイパーカバーが取り付けてあり、格好の良いゴハチでした。右側ホームには車体裾部にクリーム色の帯がある475系交直両用急行形電車による急行「立山」が停車していました。

上の画像は寝台特急「彗星」の電源車カニ24になります。このカニ24にはトレインマークの横の飾りが2重になっていて個人的に好きな電源車でした。集中電源方式の24系客車で運転されていました。

上の画像はこの日に撮影した寝台特急の最後部に繋がった寝台車の緩急車でオハネフ24ではないかと思います。回送の車両だったのでしょうか?標識灯が付けられた大変珍しい後ろ姿を撮影することができてラッキーだったと思います。

上の画像は581系交直両用特急形寝台電車による寝台特急「明星」になります。熊本と新大阪・京都を結んで走っていました。終点を目指して「もう一走り」といったところでしょうか。電車の寝台特急も全盛期の時代といえます。

上の画像はEF65形直流電気機関車1022号機の牽引する寝台特急「あかつき」になります。西鹿児島・佐世保、熊本・長崎と新大阪を結んで走っていました。この機関車は広島鉄道管理局、下関運転所に所属していました。1000番台の前期形で、初期に製造された大形のパンタグラフを付けているタイプになります。「あかつき」の青いヘッドマークが大変良く似合っていました。

右側のホームには489系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」の姿が見えています。写真でもお解り頂けるように、この頃の線路はかなり汚れていた印象があります。線路と線路の間には黒いホースがありました。このホースは洗浄用か車両への給水用かと思われます。当時の大きな駅に見られた施設でした。

上の画像は寝台特急「あかつき」の後追い写真、列車の後ろ姿になります。途中の駅で分割併合を行う寝台特急には「分散電源方式」の14系寝台客車が使われていました。東京発の寝台特急では寝台特急「さくら」と寝台特急「みずほ」も14系寝台客車で運転されていました。

上の画像も同じく寝台特急「あかつき」の後ろ姿になります。14系寝台客車の電源を担っていたスハネフ14になります。

上の画像は寝台特急「あかつき」の先頭に立つ、EF65形直流電気機関車500番台、502号機になります。この機関車も広島鉄道管理局、下関運転所の所属でした。まるで東京発着の寝台特急の様相を呈していました。

上の画像も同じEF65502になりますが、ホームの下の方から撮影していたようです。今なら絶対に出来ない様な撮影が1975年には出来たようです。実におおらかな時代であったと思います。

上の画像はEF58形直流電気機関車12号機が牽引する寝台特急「あかつき」になります。原形大窓の美しいゴハチが「あかつき」のヘッドマークを誇らしげに付けていました。このゴハチは東京北鉄道管理局、宇都宮運転所か東京南鉄道管理局、東京機関区の所属だったかと思われます。ピントが合っていない写真で申し訳ありません。左側には銀色の帯を巻いた茶色のゴハチが停車しています。おそらくお召し予備機の60号機が牽引していた東海道本線上りの荷物列車かと思います。

上の画像は寝台特急の電源車でマヤ24かと思われます。集中電源方式の寝台列車に繋がれていて、24系の編成に組み込まれていました。白帯が巻かれていて少し車体が短いのが特徴です。

上の画像が最後になりました。大阪駅に到着した青森からの寝台特急「日本海」になります。牽引したのはEF58だったと思われます。20系寝台客車の時代で、この日の緩急車は切妻タイプでした。窓の数が多いことからナハフ21を改造したナハネフ21かと思われます。今回は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF58牽引が牽引する寝台特急「彗星」が自宅レイアウトを快走!

良き国鉄時代N0.52~モノクロ写真の国鉄車両たち~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年頃に撮影した白黒写真になります。自分は中学2年生か3年生の頃だったので、どの鉄道写真もつたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。そして電車の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうかご容赦頂きたいと勝手ながら思います。今回の写真は米原駅や田村駅、大阪駅そして自宅近くの北陸本線沿線で撮影した白黒写真(モノクロ写真)になります。その当時はカラーフィルムと一緒に白黒フィルムも売られていました。カラー写真に比べてリーズナブルに使えたので、たまに白黒写真にもしていました。当ブログでも過去に一回特集して紹介しています。そちらも併せてご覧いただくと良いかと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影しました。左が583系特急電車で、トレインマークが白地になっていますが、おそらく大阪発着の北陸特急の「雷鳥」ではないかと思います。右側は485系の特急「雷鳥」になります。ちょうど顔を揃えたところを撮っていました。ホームには少年カメラマンたちが写っています。大阪駅では北陸方面への特急電車がやはり人気だったようです。

上の画像は、1975年当時の米原駅になります。駅を俯瞰できる陸橋の上から撮影していました。手前にはボンネットスタイルの北陸方面への特急電車が停まり、次の停車駅は「敦賀」といったところでしょぅか。奥のホームにはキハ58系のディーゼル急行列車が停車しています。急行「越後・ゆのくに」か「大社」でしょうか。キロ28形のグリーン車も編成に入っているのが見えます。

上の画像は、1975年に米原駅のホームから撮影した、DD50形電気式ディーゼル機関車になります。この頃から米原~田村の運用をDE10に譲って、休車になっている姿を見かけていました。この重連は手前が1号機から3号機の1次型で、右側には4号機から6号機の2次型で組成されています。このディーゼル機関車をもっとしっかりと記録しておくべきだったと後悔しています。

上の画像は1974年に撮影した、夜の田村駅になります。夜に出掛けて、三脚にカメラを据えてバルブ撮影をしていました。電気機関車の留置線にはEF70に混じってED70の姿を見ることができました。機関車の付け替え作業をする辺りには、ホーム下に蛍光灯が設置してありました。当時の田村駅は客車列車と貨物列車にとっては牽引する機関車を必ず交換しなければならない大事な駅でした。

上の画像は1974年に田村駅にて、米原発敦賀方面行きの北陸本線下り列車の先頭車両から撮影したED70形交流電気機関車の4号機になります。田村まで牽引してきたDE10は編成から離れて引き上げて行き、次に交流電気機関車が連結されて、牽引を担当します。この機関車の交換シーンは大好きで、毎回先頭に行ってはその一部始終を見ていたものでした。

上の画像は1974年に、敦賀から米原行きの普通列車の中から撮影した当時の敦賀第二機関区になります。沢山のED70が留置されてあり、手前には1974年に良く見られた湖西線用に投入された新鋭の交直両用電気機関車のEF81と連結された状態のED70が居ます。この重連で1974年に北陸本線で普通列車の牽引に当たっていました。新鋭電気機関車EF81の練習運転が敦賀~田村で行われていたのでした。新旧の電気機関車の組み合わせが好きで、鉄道模型でも自宅レイアウトで走らせています。

上の画像は、1975年に自宅近くの踏切で撮影した581系交直両用特急形寝台電車を使用した特急「しらさぎ」になります。この日はトレインマークが無く、無地のままになっていました。これは下り列車の富山行きの後追い写真になります。

上の画像は、1975年に長浜~虎姫間で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。下りの富山行きを撮影しています。漢字で書かれた愛称パンが凛凛しくて格好良かったです。

国鉄時代のモノクロ写真紹介も、最後の写真になりました。上の画像は虎姫~長浜間、姉川鉄橋を渡ったところの485系交直両用特急形電車、特急「白鳥」、青森発大阪行きを撮影したものになります。上り列車なので夕刻、午後6時前に、このあたりを通過していました。撮影可能な夏場に撮っていたのだと思います。姉川鉄橋の上り線と下り線の間の場所から後追いで撮影しているようです。このあたりでは1995年8月から走り始めた「SL北ぴわこ号」をよく撮影していたものでした。橋梁までが上り勾配になっていたので、モクモクと煙を吐いて走ってくるC56形蒸気機関車を撮影することができたのでした。そんな「SL北びわこ号」もコロナ禍になった2021年5月21日には廃止になってしまっています。かろうじて梅小路運転区で整備された蒸気機関車の試運転コースとなったことは有難いことでした。先日の4月3日に山口線で走ることになっているD51形蒸気機関車200号機が米原~木ノ本間で試運転を行いました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代No.51~懐かしの風景たち~

1974年に京都駅で撮影した103系電車。

今回の「良き国鉄時代」は、1974年から1976年に撮影した写真になります。自分は中学2年生、高校1年生だった頃の鉄道写真でどれもつたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。そして電車の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと勝手ながら思います。今回の写真はいろいろな駅や沿線で撮影した鉄道写真になります。

上の画像は、1974年に大阪駅で撮影した東海道本線緩行線の103系電車になります。当時は関西圏でも103系は大活躍していた時代でした。路線カラーはスカイブルーでした。

上の画像は、1974年に京都駅で撮影した1枚になります。手前の左側には103系電車、奥には153系電車の「新快速」が写っています。そした手前の右には茶色の旧型国電の姿が見えています。73系電車のクモハ73だと思われます。当時はまだ旧型国電の姿も見られていたようです。103系の時代の前に京都~西明石の緩行線で活躍していたようです。

上の画像は、1974年に大阪駅で撮影した大阪環状線の103系になります。大阪環状線の路線カラーはオレンジ色でした。

上の画像は、1975年におそらく上野駅で撮影した常磐線の103系になります。行先が「取手」となっています。路線カラーはエメラルドグリーンでした。当時は103系がカラフルな路線カラーを纏って大活躍していた良き時代でした。

上の画像は、1975年に東北旅行の際に、おそらく石巻駅で撮影した仙石線のモハ72系電車になります。東京の山の手線カラーであるウグイス色の旧型国電が走っていたのが印象的でした。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に乗車した列車の車窓から撮影した客車列車の編成になります。乗車していたのは、おそらく急行「十和田」上野発常磐線経由の青森行きではなかったかと思います。列車の後方に淡緑色の帯を巻いたグリーン客車が繋がれているのが解ります。形式はスロ62でしょうか。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に、東北本線のどこかの駅で撮影した583系特急形寝台電車になります。愛称表示が色飛びしていて列車名は解りませんが、「はつかり」ではないかと思われます。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に、自分たちの乗っているED75牽引の客車列車(おそらく急行「十和田」)から撮った583系の特急「はつかり」上野行きになります。運転席から手を出しておられる乗務員さんのアクションが印象に残っています。普通列車の機関士さんにでも挨拶していたのでしょうか?

上の画像は、1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した583系の特急電車の上野行きになります。先頭車から2両目にグリーン車のサロ581が繋がれています。当時の編成表から、東北本線を走る583系交直両用特急形寝台電車使用の特急電車では、上野寄り先頭車から2両目にグリーン車が繋がれていました。「はつかり」、「はくつる」、「ゆうづる」、「みちのく」になります。

上の画像は、1975年に青森駅で撮影した青函連絡船になります。ここから函館までは連絡船に乗らなければならない時代でした。自分も修学旅行で初めて乗船し、20代後半に職場の友人と行った北海道旅行でも乗船したと思います。片道約4時間の船旅でした。

上の画像は、1975年に青森駅で撮影した同じく青函連絡船になります。煙突に描かれた「JNR」のマークが懐かしいです。手前には連絡船に貨車を積む込む際に必要になる「控車」や空の無蓋車が停まっていました。控車は、「ヒ」という形式になります。船に貨車を積み込んでいく際に使われた車両でした。ヒ600形でしょうか。

上の画像は、1975年に新潟駅で撮影した急行「きたぐに」大阪行きになります。これは父親との東北旅行の際に青森から長浜まで乗車しました。夏の多客期だったので、寝台車は無くてすべてが12系客車で運転されていました。増結車両も12系でした。12系のボックス席に座って一晩を過ごしました。

上の画像は、自分たちが乗車した急行「きたぐに」が、翌日の朝6時に長浜に到着して発車していく様子を撮影したものです。当時の長浜駅には上り線と下り線の間に、貨物列車等が停車していた中線がありました。

上の画像は、1975年に自宅近くの踏切で撮影した通常の急行「きたぐに」大阪行きになります。先頭には郵便車が繋がれ、2両目はグリーン車でした。そして12系が6両繫がれて、後よりは10系寝台車が5両繫がれていて13両で運転されていた頃の写真です。

上の画像は、1976年に米原駅で撮影したDD50形電気式ディーゼル機関車になります。この頃になると米原~田村の運用から離脱しており、駅構内に留置されていた姿を撮影したものになります。1次型の重連のようです。左手には転車台が写っています。

上の画像は、1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したEF81牽引の下り臨時急行「加賀」、大阪発金沢行きになります。「サントリーカーブ」に撮影に行った時に撮った1枚です。以前に紹介していますが、1枚出てきたので紹介しました。

上の画像は、1974年に自宅近くの北陸本線で撮影した特急「白鳥」になります。上りの大阪行きを撮ったものです。今回は以上になりますが、国鉄時代を楽しんでいただけたでしょうか。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。