良き国鉄時代㊸~名古屋駅界隈1980年の撮影から~

今回の「良き国鉄時代」は、1979年から1980年にかけて名古屋駅界隈で撮影したブルートレインや寝台電車の紹介になります。当時の自分は大学生となり、大学は名古屋市昭和区にあった日本福祉大学の社会福祉学部に通っていました。親元を離れて、最初は大学に近い昭和区の八事に下宿をしていました。4畳半1部屋で、歌「神田川」に出てくるような部屋に居ました。風呂は下宿棟に1つあった共同風呂でした。大学に入り、親に原付バイクを買ってもらっていたので、下宿から大学まではバイクで通学していました。入学してから気の合った友人たちと「鉄道研究会」を作ろうという話になり、旗まで作ったのを覚えています。確か私を含めて4人で結成?していました。鉄研といっても鉄道に詳しいのは自分だけで、活動はあまり長く続くことは無く、自然に活動をしなくなっていました。一度だけ全員で、といっても4人で夜の名古屋駅に出向いて、ブルートレインを観察したものでした。その当時、中学や高校の修学旅行に寝台特急が利用されていたこともあり、名古屋に到着した九州方面行きの寝台特急に学生たちが乗っている場面に出くわしたことがありました。自分たちが鉄研の旗を持っていると、その修学旅行生たちに笑われたものでした。残念ながらその観察会の写真はありません。今となっては大変懐かしい思い出です。その頃から自分の鉄道熱が醒めて行き、やがてギターを始めた頃から「フォークソング音楽」や、当時「ニューミュージック」と呼ばれていた音楽にのめり込んでいきました。イルカさん、南こうせつさん、吉田拓郎さん、浜田省吾さんの曲をギターで弾き語りしたものです。

上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した長崎・佐世保発東京行きの寝台特急「さくら」になります。14系寝台客車で運転されており、牽引機はこの頃はEF65 1100番台でした。1977年から牽引を担当するようになり、ブルートレイン牽引になって4年目くらいでしょうか。

上の画像は専務車掌さん、通称「カレチ」が列車の後方確認されているところのようです。客車はスハネフ14のようで、車掌室からの姿が大変かっこ良かったものです。

上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した博多発名古屋行き寝台特急「金星」になります。581・583系特急形寝台電車は当時国鉄車両の中で1番好きな車両でした。やや後方から見た姿も好きでも、よくこのアングルで撮影していました。

この「月光形」と呼ばれた581・583系の前面スタイルは後に房総特急として登場した183系直流特急形電車に引き継がれました。共に全面扉を設置しており、分割併合運転に用意された装備でした。その後は交直両用特急形電車の485系にも引き継がれることになります。正に国鉄を象徴する洗練されたデザインに思います。

上の画像は1980年に名古屋駅近くのビルの屋上から撮影した長崎・熊本発東京行き寝台特急「みずほ」になります。どこのビルかは忘れましたが、「みずほ」の発車時刻にはカメラを構えていたのでしょう。135ミリの望遠レンズで撮影していました。

上の画像は同じ場所から撮影した「さくら」になります。名古屋駅の0番ホームから発車していたので、ビルからも狙いやすかったと思われます。しかしながら、当時よくこんな撮影場所を見つけられたものだと思います。

寝台特急「金星」が仕事を終えて、神領電車区に引き上げていく様子も、同じような場所から撮影していたようです。1980年なので「金星」のトレインマークは絵入りのマーク、イラストのマークになっていました。

上の画像は撮影していた場所からの名古屋駅になります。0番ホームには発車したばかりの寝台特急「みずほ」が見えています。その左側にはEF58の姿を見ることができます。そしてその左側には名古屋に到着したばかりの寝台特急「金星」の姿が見えます。1番左には湘南色のクモニかクモユニが2両編成で居ます。当時の165系普通電車等には、よくこのような荷物電車が繋がれていたものです。鉄道模型ではクモユニ74とクモニ143を持っています。クモユニ74は古いカツミ製、クモニ143はエンドウ製になります。ともにモーターはついていないトレーラーです。

上の画像は1979年に笠寺駅近くの陸橋から撮影した上り寝台特急「みずほ」になります。自分の下宿からバイクにカメラを積んでこの場所までやってきて撮影していました。朝の光を浴びながら東京を目指すブルートレインは魅力的でした。

上の画像も笠寺駅近くの陸橋から撮影した寝台特急「さくら」になります。ちょうど名古屋で下宿一人暮らしを始めて慣れた頃に、早朝少し遠出をして撮影に行ったのでしょう。無事に撮影できると嬉しくて気持ちよくバイクを運転して下宿に帰ったものでした。

次からの画像3点は今回特集した1980年より以前の1975年に名古屋駅で撮影した381系振り子式特急形電車になります。名古屋と長野を結んでいました。まだデビューして間もない頃に名古屋に行って撮影していたのだろうと思っています。当時は9両編成で運転されていました。亡き父親にこの「しなの」で松本へ連れていってもらったものでした。鉄道模型では晩年に活躍していたエンドウ製の「パノラマしなの」6連を持っています。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

EF65 1000番台牽引の14系寝台特急「さくら」号が往く。

良き国鉄時代㊷~ブルトレ名古屋駅撮り1975~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に名古屋駅で撮影したブルートレインの写真の紹介になります。当時の自分は中学3年生で、この撮影は親に内緒でこっそりと夜中に出掛けて名古屋へ行った時のものです。あとで親に大叱られしたことは言うまでもありません。今となっては大変懐かしいですが、大変苦い思い出の撮影行でした。確か一人では出かけたのではなく、中学校の仲の良かった友人と一緒に2人で出掛けたのだと記憶しています。夜に家をこっそりと抜け出して友人と自転車で長浜駅に行きました。夜の普通列車で米原へ行き、そこからはおそらく113系の普通電車で名古屋に行きました。大垣で乗り換えがあったかもしれないです。夜の名古屋駅に着いてからは、到着してくる東京発の寝台特急「さくら」から撮影しました。そして仮眠して朝方には東京を目指していく寝台特急を夢中になって撮影していたものでした。そんな撮影行で撮りためた懐かしいブルートレインの写真を紹介していきます。

上の画像は名古屋21時26分発の1レ、長崎・佐世保行き14系寝台特急「さくら」になります。この「さくら」だけは下りの寝台列車を撮影していました。この時刻に間に合うように自分と友人は名古屋駅に着いていたようです。そして夜を通してのブルートレインの撮影をしていたわけです。この「さくら」を撮影した後、上りのブルトレを撮影するまで時間があったので、確か駅のベンチで仮眠していたと思います。夏場の撮影なので全く寒くはなく、むしろ熱帯夜で暑かったのではないかと思っています。

上の画像は上り宇野発東京行きの16レ、20系寝台特急「瀬戸」になります。1975年当時は20系で運転されていたようです。深夜なので客扱いは無く、運転停車をしていました。運転停車では客車のドアは閉まったままで、機関士さんが交代していました。

上の画像は上りの下関発東京行き、14レの20系寝台特急「あさかぜ2号」と思われます。この「あさかぜ」も名古屋では客扱いが無く、運転停車のみでした。1975年当時の寝台特急は東京機関区のEF65 500が牽引していました。この日の撮影の狙いはもちろんEF65形500番台、直流電気機関車の牽くブルートレインの撮影でした。

機関車の次位には20系のナハネフ22が繋がれています。20系は丸みを帯びた美しいデザインで登場し、「走るホテル」と呼ばれていました。機関車の仕業札に「13-14」とあり、この機関車は下り「あさかぜ3号」と「上りあさかぜ2号」に充当されていたことが解ります。「東」の札は「東京機関区」所属を表しています。機関車の排障器右側のホース等は20系寝台特急列車牽引専用の装備です。

上の画像は「あさかぜ」の最後尾の電源車カニ21になります。トレインマークはまだ文字だけの時代でした。

上の画像は名古屋5時13分発の上り8レ、24系25形寝台特急「富士」になります。西鹿児島・大分と東京を結んでいた、当時最長距離を走るブルートレインでした。

上の画像は「富士」の最後尾の電源車カニ24になります。この寝台客車には銀色のステンレス製の帯が車体に巻かれていました。この電源車には2本の帯が巻かれており大変恰好良かったです。鉄道模型でもカツミ製とカトー製を所有しています。

上の画像は名古屋5時37分発の上り4レ、24系25形寝台特急「はやぶさ」になります。西鹿児島・熊本と東京を結んでいました。

この「はやぶさ」にも24系25形寝台客車が使用されていました。当時の時刻表には3つ星マークがついてあり、2段式寝台車を表していました。またこの編成には個室寝台車も連結されていました。当時としては大変豪華な寝台列車でした。

上の画像は名古屋6時12分発の上り6レ、14系新寝台特急「みずほ」になります。長崎・熊本と東京を結んでいました。この14系寝台客車は1つ星マークでした。3段式の寝台車を表していました。A寝台には「プルマン式」とよばれた2段式客車のオロネ14が使われていました。

上の画像は博多発名古屋行きの22M、581系寝台電車特急「金星」になります。6時10分に終点の名古屋に到着していました。ちなみにこの寝台電車のマークは2つ星でした。基本は3段式の寝台でしたが、パンタグラフの下だけは2段式寝台となっていました。この寝台を指定して乗られる乗客も居られたようです。

以前にも当ブログの記事で書いていましたが、この581系寝台特急「金星」は名古屋に到着、神領運転区に戻ると車内が寝台から座席に変えられて特急「しらさぎ」に仕立てられ富山を往復していました。夕刻に富山から名古屋に戻ると、今度は座席から寝台に変えられて、夜の「金星」として博多へ夜行列車として往復していたわけです。ゆっくりと休む間もなく働いていた「働き者の電車」でした。この「金星」を撮影してから帰路につきました。朝の電車で居眠りをしながら米原に戻り、北陸線の普通列車で長浜に帰りました。自転車で帰宅後に両親からの大目玉をもらうことになりました。その時の親の気持ちは、自分が親になった今となっては大変良く解ります。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF65 500牽引の20系寝台特急「あさかぜ」が自宅レイアウトを快走します。

「JR西日本希少車両撮影・見学ツアー」に参加しました。

今回のイベントの記念切符。

2024年3月3日(日)に、JR西日本と日本旅行が共同で企画された「JR西日本希少車両撮影・見学ツアー」に参加してきました。ネットで今回の企画発売を知り、以前に購入しておいたものです。朝から天気も良く、長浜6時30分発の新快速に乗って新大阪を目指しました。新大阪では集合場所を確認し、8時50分になると日本旅行のスタッフがパネルを持って受付を始められました。そして9時に中型JRバスで新大阪駅を出発して、10分程で宮原総合運転所に到着しました。今回の参加者は自分も含めて17名でした。運転所では社員さんたちに歓迎されて、事務所会議室でオリエンテーションがありました。宮原総合運転所の紹介ビデオを見せて頂いたり、会議室内に展示されていたヘッドマークや行先方向幕、トワイライトエクスプレスの食堂車の食器などを見させて頂きました。新快速電車の前面列車種別表示幕も見せて頂けました。

上の画像は会議室に展示されていたトワイライトエクスプレスのヘッドマークになります。日本海の海風のためでしょうか、錆が出ていたり年代を感じました。後方には同客車の方向幕も飾られていました。

こちらは冬季の運転されていたスキー客用の臨時列車「シュプール号」のヘッドマークになります。雪だるまがスキーをしているイラストが可愛いですね。自分は583系と485系が貫通扉を使って繋がれていたシュプール号を地元の踏切で深夜に見たことがありました。このヘッドマークは電気機関車かディーゼル機関車が付けていたと思われます。大糸線を14系客車をDE10形ディーゼル機関車がプッシュプル運転で走っていた写真を見たことがありました。

「サロンカーなにわ」のヘッドマークの他、滋賀県湖北地方を走っていた「北びわこ号」のヘッドマークも展示されていました。このデザインは廃止になる直前のデザインのようでした。他に「だいせん」、「あかつき」、「明星」、「日本海」のトレインマークも飾られていました。

「サロンカーなにわ」ヘッドマークの裏側には「大鉄局宮原機関区」と書かれていました。係員さんは「この表記は大変貴重ですよ」と教えて下さいました。国鉄時代から使われていたヘッドマークです。

上の画像は、24系寝台客車に使われていた「行先方向幕」だと思います。寝台特急「日本海」もありました。

上の画像は信号とポイントを遠隔操作するためのコントロールボードになります。説明書には「連動制御盤」とありました。

上の画像は、トワイライトエクスプレスコーナーに展示されていた食堂車「ダイナープレアデス」で使われていた各種食器になります。このお皿で豪華フランス料理のフルコースが楽しめていたのでしょう。一度だけでもダイナープレアデスの車内でフランス料理を食べてみたかったものです。

オリエンテーションの後は事務所の屋上に案内して頂きました。天気も良く、走り抜けていく新幹線や683系サンダーバードが骨休みしている様子を見ることができました。

さて、いよいよ希少車両撮影・見学ツアーのメインになります。まずは車庫に留置された12系客車と14系客車を見学しました。どちらの編成もディーゼル発電機が稼働していて、独特の大きな音をたてていました。1975年頃に夜の駅で聞いたことのある、停車しているブルートレインの電源車の音そのものでした。大変懐かしい音でした。

14系客車は1983年に14系客車を改造して生まれた「サロンカーなにわ」編成で、7両でフル編成ですが、この日は2両を減車した5両編成で展示されていました。車内も全車両自由に見学することができました。3列の座席には当時の新幹線0系のグリーン車の座席が使われていました。

「なにわ」の車内。3列シートには0系グリーン車と同じ様な座席が使われています。

カウンターのある客車にはエレクトーンが備え付けられていました。登場時には確かアップライトのピアノが置かれていたと思います。この日のイベントに関わる各種グッズを販売されていました。

こちらは12系5両で、「北びわこ号」として活躍していた編成になります。外観は少し痛みがあるものの、まだまだ活躍できそうに感じました。先週、2月28日(水)に東海道線を宮原から米原までDD51牽引で走った通称「米原訓練」にもこの編成が使われているとのことでした。行先表示幕の回転も披露されて、なつかしい行先表示を堪能することができました。

宮原区に所属しているDD51形ディーゼル機関車も稼働状態で展示されていました。運転席にも入らせて頂くことができました。ノッチを3まで投入することができ、エンジン音が高い音に変化する様子を体感することができて楽しかったです。先頭部には寝台特急「出雲」のヘッドマークが掲出されていました。

DD51の車体横にあるハッチが開放してあり、中のエンジンを見ることができるようになっていました。

そしてこちらはEF65 1124の展示になります。65PFの通称で呼ばれている代表的な直流電気機関車です。この1124号機はトワイライト専用カラーに塗色変更された機関車で実際に「特別なトワイライト」を牽引したり、「北びわこ号」の回送にも活躍していました。今回、間近に見られ運転席にも座らせて頂くことができました。

現役の電気機関車の運転席に座り、ノッチハンドル(右の銀色のハンドル)やブレーキ弁(左の金色のハンドル)を触らせてもらうことができて良かったです。そして、11時40分に全員が集合して宮原総合運転所の職員さんにお礼を言って、またバスで新大阪駅まで戻りました。天候にも恵まれ大いに鉄分補給ができたイベントとなりました。今回の企画に関わって下さった全ての皆様に、この場をお借りしてお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊶~北陸本線田村駅のナナマル~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年に地元の北陸本線田村駅で撮影した写真になります。いよいよ今月16日には北陸新幹線が敦賀までやってきます。これにより敦賀~金沢間は第3セクターとなり、北陸本線は「米原から敦賀まで」の大変短い路線になってしまいます。そうなると「北陸」という名称もふさわしくないように感じてしまいます。今回も国鉄時代には米原から直江津までの本線路線だった「北陸本線」に思いを馳せながらご覧いただけたらと思います。これまで未発表の田村駅でのEF70形交流電気機関車(ナナマル)の写真を紹介させていただきたいと思います。しかしながら以前に紹介した写真が混じっている可能性もあるかもしれません。どうかご容赦願いたいと思います。

上の画像は1975年の冬季に田村駅にて撮影した寝台特急「日本海」大阪行きになります。この頃は中学3年生の時で、真冬でしたが田村に午前6時05分までに着けるように自転車で頑張って行ったものです。EF70は1007号機で残念ながらヘッドマークは掲げられていませんでした。ホームの待合室の片隅に「日本海」のヘッドマークをみかけたことがありました。駅員さんが話しかけてくれて、当時田村駅にあった信号扱いの建物の中を見せて頂くことができました。独特のパネルにポイントを操作するスイッチの付いた路線のボード(継電連動装置)を見せていただきました。良き国鉄時代の一コマのように思います。

寝台特急「日本海」田村発車をバルブ撮影。

1975年当時の「日本海」には20系寝台客車が使われていました。大阪寄りはカニ21が連結されていて、大きな発電機の音がしていたのを覚えています。今から思うと20系を間近でみられる良い機会でした。当時の田村駅には特急列車も「機関車つけ替え」の為に運転停車していました。

上の2つは別の日に撮影した寝台特急「日本海」になります。だいぶ明るくなっているので、夏場でしょうか?下の画像はナハネフ21形になります。ナハフ21形から改造された寝台車で、20系寝台客車の切妻形の緩急車のひとつになります。

1974年に撮影した、田村駅を発車して米原に向かう寝台特急「日本海」。田村で留置してあるEF70を横目に米原へ向けて走り去りました。牽引機は田村から米原まではたいていがDE10形ディーゼル機関車でした。

上の2つの画像は「日本海」よりもずっと早く午前3時05分田村駅に着いていた20系寝台特急「つるぎ」になります。1975年に撮影しています。やはり夜中に自転車で田村駅まで行っていました。ホームに三脚を立てて、しかもフラッシュ撮影をしています。当時はこういった撮影も許されていたおおらかな良き時代でした。

上の画像は1975年に田村駅で撮影したEF70 1006号機になります。EF70形の22号機から28号機までを20系特急客車牽引用に改造された1000番台の機関車で、ナンバーはプレート式になっているのが特徴的です。当時田村駅ではこのような写真を間近で撮影することができ、外観をはじめ台車部分もじっくり観察することができました。この頃には古豪ED70を見かけることは難しくなっていたようです。

上の画像はEF70 1004になります。敦賀方向から見て田村方向が機関車の1エンドになりました。EF70は何時も2エンド側のパンタグラフを上げて運転されていました。その理由は定かではありませんが、機関区での仕事マニュアル上の都合と聞いています。ちなみにEF81については何時も進行方向後ろのパンタグラフを上げて運転されていました。そういえばEF81が前のパンタグラフだけを上げて交流区間を走っていた写真は見たことがありません。交流電気機関車はたいてい進行方向後部のパンタを上げていました。

上の画像は1974年に撮影したEF70 40号機牽引の臨時お座敷列車になります。スロ81系と呼ばれて、グリーンの帯が描かれていました。福井客車区に車籍をおいた特別な6両編成した。車内には一段高くなった畳の上に、座卓と座椅子がずらりと並んでいました。宴会にボードゲームにうってつけの車内だったといえます。鉄道模型でもトミックス製で持っています。以前にあげた鉄道模型動画ではED70に牽かせています。

ED70が牽引するのは金沢鉄道管理局、福井客車区のスロ81系客車6連。

上の画像は1975年に撮影した北陸線下り貨物列車の先頭に立つEF70 1006になります。左には古豪のDD50の姿が少し見えています。米原駅の隅で休車になる前の最後の活躍をしていた頃でしょう。

上の画像は1975年の冬季に撮影したEF70 56が牽引する北陸線下り普通列車になります。毎回機関車交換の時には駅係員さんが連結器の開放、エアホースの脱着等の作業をされていたのを思い出します。冬季はさぞや厳しい作業だったと思われます。余談になりますが、自分の亡き祖父は、駅で「連結手」として働いていたと亡き祖母から聞いたことがありました。田村駅だったかどうかは定かではありません。

今回の最後の画像になります。上の画像は1974年に撮影したEF70 42号機牽引の北陸線下りの貨物列車になります。貨物列車が「車扱い貨物」と呼ばれていた良き時代でありました。いまでは機関車が牽引する列車自体が大変少なくなり、列車のほとんどが電車になりました。自分的には機関車が客車や貨物列車を引っ張って走る列車のスタイルが好きです。これは鉄道模型でも同じことが言えそうです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走する「ナナマル」牽引列車。

「北陸本線の歩み」展示を見てきました

2024年2月24日(土)に福井県越前市にある「いまだて芸術館」で現在開催されている「北陸本線の歩み」展示会に行ってきました。福井出身の元職場の同僚から情報をいただき、是非行って見たいと思っていた展示会でした。家族のミニ旅行も兼ねて、家内と家内の親しい友人と3人で出かけました。自宅を8時に出発してまずは越前蕎麦の美味しいお店に行きました。「うるしや」さんは人気店のようで、開店時間前に並んで順番をとりました。珍しい少し辛めの茶蕎麦をいただきました。お店は福井県の伝統的建造物で築400年とお聞きしました。大変雰囲気のあるお店で、お蕎麦もたいへん美味しかったです。この越前市は「蕎麦の激戦区」と言われているようで、沢山の蕎麦屋さんがあります。店によって味と価格もいろいろの様でした。そして今回の自分の目的である「北陸本線の歩み」展を見学する為に「越前市いまだて芸術館に行きました。

展示コーナーに入ると、まずは北陸本線で活躍していた懐かしい特急列車の写真が展示されていました。トワイライトエクスプレスや485系特急「雷鳥」など、自分も撮りためてきた列車の写真がお出迎えしてくれました。

どれも福井県内で撮影された写真でした。寝台特急「日本海」の写真や475系急行「ゆのくに」等の写真もあり、いかに北陸本線が特急街道として大事な役割を果たしていたかが解りました。3月16日からは北陸新幹線が敦賀まで延伸して、北陸本線に変わる新たな動脈として誕生することになります。

こちらは大変懐かしい普通客車列車の車体横中央に吊り下げられていた「サボ」になります。自分も何枚か購入してレイアウトルームに飾っています。ホーロー板という材質の鉄の板に書かれた行先表示は、大変趣がありました。どれも裏側にも行先が書かれています。昔、米原駅のホームに、これらのサボが縦にされて沢山入れられた箱があったものです。

上の画像はおそらく国鉄最後の日に列車の先頭に掲げられたヘッドマークだと思います。金沢鉄道管理局という表記も国鉄時代のものでした。大きさから見てEF81形電気機関車に飾られたのではないかと思います。

上の画像は先日の金沢への撮影旅の時に買った「かにめし」のパッケージになります。福井の駅弁として人気があります。蟹の形をした容器はずっと続いているようです。

駅弁のパッケージが奇麗に展示されていて、旅情を誘ってくれていました。北陸の食材を生かした弁当。中には特急列車の写真がパッケージになった記念弁当もありました。

上の画像は駅弁と一緒に売られていた「汽車土瓶」と「お茶入れ」になります。自分は汽車土瓶は知らず、左側に展示してあったポリ容器に入って売られていた「お茶」を買って飲んだ記憶があります。暖かい緑茶が入っていて、駅弁と一緒に買っていました。大変懐かしいパッケージです。

上の画像は国鉄時代の切符になります。当時は「硬券」といって、厚手の紙に印字された切符が使われていました。自分もこのような切符を使っていた記憶があります。改札では駅員さんがハサミで切符に切り込みを入れてくれたものです。

上2つの画像は、今回の展示の目玉といえる手作り蒸気機関車の設計図になります。大詳しくかつ精巧に書かれていました。

今回の展示の主役、橋本昭二さんは国鉄で蒸気機関車の機関士として仕事をされながら、10分の1の蒸気機関車の模型を全て手作りされていた方でした。

いわゆる実際に石炭を燃やして実物同様に走らせる蒸気機関車、ライブスティームを作られました。ゲージは107ミリゲージというものですが、実際の形をそのまま10分の1にして製作されているので、まるで5インチゲージのような大きなライブスティーム模型でした。C58形とD51形の2両が提示されていました。今にも動きそうな蒸気機関車たちでした。

出展者本人のプロフィールが書かれたパネル。
動輪からボイラ、車輪のパーツも提示されていました。すべて橋本さんが手作りされたものです。
石炭と水を積む炭水車の台車も、精巧な設計図を基にして手作りされていました。
左がD51、右はC58。
C58
D51

この日、偶然にも展示会に合わせて出展されている橋本さんのご親族が集まられていました。橋本さんの娘さんともお話させて頂くことができました。鉄道好きの父で家にはまだたくさんの蒸気機関車の模型や部品、工作機械が置いてあるそうです。20人くらいおられた故橋本昭二さんのご親族が展示模型の前で記念撮影をされていました。さぞや故人も喜んでおられたことでしょう。素晴らしい展示会に来させていただくことができて有意義でした。3月3日(日)まで無料で開催されています。美味しいお蕎麦も食べられるので、良かったら足をお運びください。帰りには福井鉄道福武線の北府駅に立ち寄り、美しく展示されている福井鉄道200系を暫し見学しました。美しく当時の姿に再現されており、北府駅鉄道ミュージアムのシンボルになっているようです。今度またゆっくりと訪れたいものです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

橋本さんが機関士として活躍されていた舞台。旧北陸線山中越えを再現しました。