良き国鉄時代No.51~懐かしの風景たち~

1974年に京都駅で撮影した103系電車。

今回の「良き国鉄時代」は、1974年から1976年に撮影した写真になります。自分は中学2年生、高校1年生だった頃の鉄道写真でどれもつたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。そして電車の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと勝手ながら思います。今回の写真はいろいろな駅や沿線で撮影した鉄道写真になります。

上の画像は、1974年に大阪駅で撮影した東海道本線緩行線の103系電車になります。当時は関西圏でも103系は大活躍していた時代でした。路線カラーはスカイブルーでした。

上の画像は、1974年に京都駅で撮影した1枚になります。手前の左側には103系電車、奥には153系電車の「新快速」が写っています。そした手前の右には茶色の旧型国電の姿が見えています。73系電車のクモハ73だと思われます。当時はまだ旧型国電の姿も見られていたようです。103系の時代の前に京都~西明石の緩行線で活躍していたようです。

上の画像は、1974年に大阪駅で撮影した大阪環状線の103系になります。大阪環状線の路線カラーはオレンジ色でした。

上の画像は、1975年におそらく上野駅で撮影した常磐線の103系になります。行先が「取手」となっています。路線カラーはエメラルドグリーンでした。当時は103系がカラフルな路線カラーを纏って大活躍していた良き時代でした。

上の画像は、1975年に東北旅行の際に、おそらく石巻駅で撮影した仙石線のモハ72系電車になります。東京の山の手線カラーであるウグイス色の旧型国電が走っていたのが印象的でした。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に乗車した列車の車窓から撮影した客車列車の編成になります。乗車していたのは、おそらく急行「十和田」上野発常磐線経由の青森行きではなかったかと思います。列車の後方に淡緑色の帯を巻いたグリーン客車が繋がれているのが解ります。形式はスロ62でしょうか。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に、東北本線のどこかの駅で撮影した583系特急形寝台電車になります。愛称表示が色飛びしていて列車名は解りませんが、「はつかり」ではないかと思われます。

上の画像は、1975年に東北旅行に出掛けた際に、自分たちの乗っているED75牽引の客車列車(おそらく急行「十和田」)から撮った583系の特急「はつかり」上野行きになります。運転席から手を出しておられる乗務員さんのアクションが印象に残っています。普通列車の機関士さんにでも挨拶していたのでしょうか?

上の画像は、1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した583系の特急電車の上野行きになります。先頭車から2両目にグリーン車のサロ581が繋がれています。当時の編成表から、東北本線を走る583系交直両用特急形寝台電車使用の特急電車では、上野寄り先頭車から2両目にグリーン車が繋がれていました。「はつかり」、「はくつる」、「ゆうづる」、「みちのく」になります。

上の画像は、1975年に青森駅で撮影した青函連絡船になります。ここから函館までは連絡船に乗らなければならない時代でした。自分も修学旅行で初めて乗船し、20代後半に職場の友人と行った北海道旅行でも乗船したと思います。片道約4時間の船旅でした。

上の画像は、1975年に青森駅で撮影した同じく青函連絡船になります。煙突に描かれた「JNR」のマークが懐かしいです。手前には連絡船に貨車を積む込む際に必要になる「控車」や空の無蓋車が停まっていました。控車は、「ヒ」という形式になります。船に貨車を積み込んでいく際に使われた車両でした。ヒ600形でしょうか。

上の画像は、1975年に新潟駅で撮影した急行「きたぐに」大阪行きになります。これは父親との東北旅行の際に青森から長浜まで乗車しました。夏の多客期だったので、寝台車は無くてすべてが12系客車で運転されていました。増結車両も12系でした。12系のボックス席に座って一晩を過ごしました。

上の画像は、自分たちが乗車した急行「きたぐに」が、翌日の朝6時に長浜に到着して発車していく様子を撮影したものです。当時の長浜駅には上り線と下り線の間に、貨物列車等が停車していた中線がありました。

上の画像は、1975年に自宅近くの踏切で撮影した通常の急行「きたぐに」大阪行きになります。先頭には郵便車が繋がれ、2両目はグリーン車でした。そして12系が6両繫がれて、後よりは10系寝台車が5両繫がれていて13両で運転されていた頃の写真です。

上の画像は、1976年に米原駅で撮影したDD50形電気式ディーゼル機関車になります。この頃になると米原~田村の運用から離脱しており、駅構内に留置されていた姿を撮影したものになります。1次型の重連のようです。左手には転車台が写っています。

上の画像は、1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したEF81牽引の下り臨時急行「加賀」、大阪発金沢行きになります。「サントリーカーブ」に撮影に行った時に撮った1枚です。以前に紹介していますが、1枚出てきたので紹介しました。

上の画像は、1974年に自宅近くの北陸本線で撮影した特急「白鳥」になります。上りの大阪行きを撮ったものです。今回は以上になりますが、国鉄時代を楽しんでいただけたでしょうか。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊿~私が撮った113、153、159系電車~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年に撮影した写真になります。自分は中学2、3年生だった頃の鉄道写真で、どれもつたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。そして、これまでの「良き国鉄時代」の記事の中で、電車の形式等についての記述に誤りがあるかと思いますが、このブログでは懐かしい画像を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦願いたいと勝手ながら思います。今回の写真は米原駅と京都駅をはじめ、いろいろな駅で撮影した電車になります。

上の画像は1974年に米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影した113系電車になります。近郊形電車で、車内はセミクロスシートでした。当時は米原~西明石間で活躍していました。この頃は屋根には丸形のベンチレーターが並び、冷房装置はありませんでした。車内には天井に扇風機がまわっていたのを覚えています。ヘッドライトは大形のものでした。

上の画像は1974年に同じく米原駅を俯瞰できる陸橋の上から撮影した159系電車だと思われます。この電車は修学旅行用として作られた電車で、中京圏で活躍していました。当時、朱色とレモン色の修学旅行色も見かけたように記憶しています。当時は東海道本線の中京圏で普通電車として活躍していました。

上の画像は1974年に京都駅で撮影した113系電車になります。この電車には屋根に冷房装置が搭載されています。奥に見えるのは懐かしいスカイブルーの103系電車になります。

上の画像は1974年に京都駅で撮影した湖西線の113系になります。半自動扉、前面タイフォンへのシャッター設備などの寒地対策をした700番台でした。湖西線はこの年の7月20に開業していました。真新しい113系の列車種別表示には赤地に白色の路線名が掲げられていました。

上の画像は1974年に湖西線の駅で撮影した113系700番台になります。おそらく近江今津に入線する時に車内から撮ったのではないかと思われます。真新しい線路と架線柱が印象的でした。

上の画像は1974年に湖西線の近江今津駅で撮影した113系700番台になります。湖西線が開業した日に、父親に連れて行ってもらいました。113系700番台は近江今津までの運用で、そこから先の近江塩津方面へは永原~近江塩津間に交直セクションがあったために、キハ26の2両編成で運転されていました。

上の画像は1974年に京都駅で撮影した153系急行形電車による「新快速」です。当時、このブルーライナーと呼ばれた青いラインの入った153系電車か6両編成で京都から西明石を結んで走っていました。大形のヘッドマークと美しいブルーの塗装、そして特急並みの走りが自慢の「新快速」には、当時自分も京都から大阪まで何回か乗車した思い出があります。

こちらも153系の「新快速」になります。この高運転台の他に低運転台の先頭車がありました。鉄道模型ではエンドウ製とトミックス製を持っています。

上の画像は1975年の冬に撮影した113系電車になります。非冷房の時代でした。米原と西明石の間で普通電車として活躍していました。

上の画像は1975年に米原駅に北側にある電車留置線に留置されていた113系電車になります。よく見ると後ろの編成には冷房用機器が屋根上に見られます。当時この場所へは道が続いていて、電車を間近に撮影することができました。この写真は135mmの望遠レンズで撮影したのを何故か良く覚えています。

上の画像は1975年に東海道本線の醒ヶ井駅か近江長岡駅で撮影した153系急行形電車になります。当時は東海道本線米原から豊橋間の普通電車として153系や165系が使われていました。

上の画像は1975年の冬に米原駅撮影したスカ色の113系になります。写真を良く見ると4両編成で運転されていたようです。米原から東海道本線上り方面への普通電車かもしれません。米原では緑とオレンジ色のいわゆる「湘南色」の113系は見慣れていましたが、この横須賀線色は珍しかったです。余談になりますが、113系で運転されていた初代「新快速」には、このカラーの編成で運転されていたと思います。それを知っていてか、鉄道模型でもカツミ製の111系電車のスカ色に「新快速」の長方形のヘッドマークを付けて、草津で開催した運転会で走らせたことがありました。

今回の記事テーマとは外れてしまい申し訳ありません。今回の113系電車に因んで、上の画像は111・113系電車より一足先に登場した交直両用近郊形電車の401・403系になります。中学3年生の時に、東京へ撮影に行った時に上野駅に立ち寄って撮影した写真になります。交直両用のカラーのローズピンクを纏ったクリーム色の帯がある塗色は、475系にも通じる好きなカラーリングでした。鉄道模型でもエンドウから1979年に発売されていました。一昨年には最新のモデルとして発売されています。今回の記事は以上になります。自分も米原から大津まで電車通勤していた時代に、毎日乗っていた113系電車。当時はクロスシートの窓際には小さなテーブルと灰皿がついていました。電車の中でタバコが吸えた時代でした。現在では電車内はおろか、タバコを吸える場所が大変限られたものになってしまいました。おおらかで良き時代でした。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

153系新快速ブルーライナーの離合風景。

13ミリゲージ春の運転会に行ってきました

2024年4月6日(土)に13mmゲージ同好会の運転会に行かせてもらいました。この日は夏を思わせるような暖かな日となりました。長浜を朝7時代の新快速で新大阪まで車窓の桜を楽しみながら行くことができました。新大阪からは地下鉄で堺筋本町を降りると運転会場の大阪区民センターに到着しました。久しぶりに会う方が多く、しばらくは談笑を楽しみつつ、今回持ってきた13mmゲージの車両を出させてもらい線路に置かせて頂きました。

今回は手持ちのC59形蒸気機関車と10系客車とで寝台急行「安芸」を再現しました。食堂車を含む11両編成を大きなレイアウトで走らせて頂きました。ホームの直線部分で何故か第一動輪が脱線してしまうというトラブルに見舞われてしまいました。他の所は難なく走行しているのに、ホーム横を通過する時に、決まったところで脱線が生じました。線路を点検しても全く異常はありません。主催者の方にもチェックしてもらいましたが、原因が解りませんでした。だましだましの走行を続けていくと、ややスピードを上げると無事に通過することが解り、その後はややスピードを上げて周回させてもらいました。今回の運転会に準備していた寝台急行「安芸」がレイアウトを快走してくれて安心しました。

マシ38も良いアクセントになっています。

私の友人も、今回の寝台急行「安芸」に合わせて、カトー製のEF58を13mmゲージに改軌してくれて持参してくれたので、罐を替えての運転も楽しむ事ができました。これで今回のミッションは完了したことになります。大きなレイアウトをゆっくりと走っている様子を見ていると満足感に浸ることができました。2日目は地元の神社大祭があり参加できませんでしたが、当日撮り溜めたビデオ動画を見ては楽しませて頂いております。

自分としても、とりわけカトーのEF58が2両あるので、その1両を13mmゲージに改軌したいと考えています。改軌のやり方は、割とシンプルで簡単とのことでしたが、先台車の車輪の加工が一番大変だとお聞きしました。詳しくお聞きできたので、手元のEF58を改軌したいと思っています。今回、寝台急行「安芸」仕様にとカトーのEF58を持参してくれた友人の罐の下側が次の画像になります。

友人の13mmゲージのカトー製EF58

今回は1968年当時の寝台急行「安芸」を仕立ててみました。この頃の食堂車にはまだマシ38が使われており、次の年くらいからは10系のオシ17に変えられています。友人はこの日、改軌したカトーのEF58と一緒に、このオシ17が入ったもう一本の「安芸」を持って来ておられました。58が牽引する10系客車は良く似合いました。自分の編成の先頭にも立たせてもらい、糸崎から東京までの電化区間を走行していた姿も再現することが出来て楽しかったです。

ほとんど手作りされたというD51が重連で快走していました。

今回、実は荷物車のマニ36(実際は寝台急行「安芸」にはマニ32かカニ38という荷物車が使われており、このマニ36は使われていません)にエンドウ製の13mm用MPギア電動ユニットを組み込んでいました。というのも自宅の13mmゲージレイアウトでは半径が小さいためか、C591両で編成が引き出せず、動輪が空転してしまったからでした。動力ユニットをそのまま天賞堂のマニ36に付けて補助動力車にしていました。C59ともうまく強調して走ってくれていました。しかしながらこの十三クラブさんのレイアウトは大変緩いカーブで、C591両だけで走行ができました。その時にと用意した天賞堂製プラスティック製マニ60を繋いで周回させることが十分できたわけです。ただ、このマニ60の車輪に不具合があって、途中で脱線したりしてしまっていたので、また動力付きのマニ36で走行させていました。そしてC59161の大きな間違いが当日になってクラブの方の指摘で判明したのです。もともとC5952号機だったので、テンダーの形状が戦前型でした。161号機は戦後型の船底テンダーだったのです。また大失敗をやらかしてしまいました。テンダーをじっくり観察することが不十分な結果となってしまったわけです。幸いなことに家に天賞堂のC59戦後型があったので、帰宅後早速テンダーを交換してみました。教えて下さった先輩には感謝している次第です。運転会では自分より遥かに模型歴が長い先輩方がおられて、毎回いろいろと教えていただけるので良い勉強になります。そして如何に自分の知識に沢山の間違いがあったかという事実を知らされることになります。そしていろいろな模型作りのアイデアも教えて頂くことができます。何よりまた新しい鉄道模型友人ができることが嬉しい事です。この運転会で知り合わせて頂いた方も、自分のレイアウトを見たいと言って下さった方がおられたことが嬉しかったです。本当につたないレイアウトで16.5mmゲージですが、皆さまのお越しをお待ちしております。

帰宅後に同じC59の戦後型のテンダーに替えました。

運転会にお招きいただいた十三クラブの皆様、そして当日お会いできた皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。お世話になりまして、ありがとうございました。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

13ミリゲージ春の運転会に向けて

久しぶりの鉄道模型記事になります。自宅レイアウトの鉄道模型のサイズは80分の1で、線路の幅(ゲージ)は16.5mmとなっていますが、80分の1は正確には16.5mmではなく13mmがスケールとなります。16.5mmゲージでは模型を正面眺めると国鉄が採用している狭軌(線路幅1067mm)ではガニ股になってしまいます。実物の私鉄の京浜急行や阪急、京阪、近鉄の様に標準軌(線路幅1435mm)を取り入れている鉄道車両なら、またはスケールは87分の1サイズになりますが新幹線車両であれば線路幅16.5ミリはぴったりと決まるということになります。今から12年前にもなる2012年の9月29日に「じゃりちゃん鉄道」さんの紹介で、初めて「関西合同運転会」に行かせてもらって、13mmゲージ同好会さんのレイアウトと車両を見てから、13mmゲージのことを知りました。当時、北陸線のED70を13mmゲージで作られていた方からも大いに刺激を受けて、自分も手持ちの北陸線に関わる車両から、少しずつ足回りを16.5mmから13mmへの改造を始めていきました。2015年には自分も北陸線の電気機関車ED70のキット(カツミ製)を13mmゲージにして製作して運転会で走らせて頂きました。このED70と1年後に製作したEF70の両2はTMS鉄道模型趣味という雑誌主催のコンペで努力賞を頂くことができました。

この角度から見た13mmゲージの蒸気機関車。正に狭軌鉄道の感じが良く出ています。

関西合同運転会で13mmゲージと出会わせて頂いた「13mmゲージ同好会」の十三クラブさんは毎年春に大阪で運転会もされていて、関西合運以来、都合がつけば春の運転会にも行かせて頂いていました。合わせて素晴らしいモデラーさんとも知り合うことができました。昨年の夏に広島でお会いしたTさんもそのお1人になります。13mmゲージの車両製作もさることながら、ジオラマ製作を得意とされる広島在住の方です。去年の春に十三クラブの運転でお会いして、夏に広島に行くことができたのですが、そこでの話に寝台急行「安芸」を再現しよう!ということになりました。Tさんが子どもの頃に地元である呉線で急行「安芸」を毎日のように見ておられて、鉄道模型でもやりたいとの思いがきっかけになります。

2023年夏に広島で見たC59161
広島のTさんが製作されたジオラマの1例

夏以来、Tさんはフジモデルのキット、マシ38を製作されていました。もちろん13mmゲージで3軸台車の旧型食堂車で内装まで作り込まれた秀作です。自分の方はトミックス製の10系寝台客車を13mmゲージに改軌して編成を整えました。そして呉線を走っていた蒸気機関車のC59は、たまたま所有していた13mmゲージの完成品に手を加えて161号機にしたいと思い立ったわけです。このC59161は広島の原爆資料館近くの公園に静態保存されており、去年夏に2人して見に行きました。2人の合作?の寝台急行「安芸」を次の土曜日に大阪で行われる十三クラブ春の運転会で走らせられるようにこの間準備をしていたわけです。

上の画像が今回の「安芸」再現に使ったアダチ製のC59形蒸気機関車になります。たまたま数年前に13mmのC59をオークションで手に入れていました。これを広島で見た161号機にプチ改造しました。

まずはランボードの色指しから始めていきました。マスキングテープを付けてから、ホワイトのタミヤラッカー塗料を筆塗りしていきました。本当はマスキングしてからエアブラシで塗装するとよりシャープな線が描けたと思われます。前後しますが、161号機の特徴である先従輪を前にスポーク車輪、後ろにはボックス車輪へと改造しました。

ランボードに白色のラインを付けると、これで一歩161号機に近づいたように思えました。

手持ちのC59にはテンダーにライトが付いていなかったので、何と天賞堂のプラスティック製のEF16から拝借してテンダーに接着しました。EF16は動力を取ってトレーラーにしていた部品取り用の模型になります。また1つそれらしくなりました。

蒸気機関車には実に様々な部品が付いています。精密な高級模型ではその一つ一つまで表現されていますが、自分はあくまで「自分が納得できるレベル」まで作り込めたら良しとしています。今回はとりあえずドーム前に鉄のガードを作りました。真鍮線を曲げて取り付けただけになりますが、雰囲気は少し変わりました。

そして前面の連結器の両サイドに埋め込まれている標識灯を新たに増設することにしました。これはパーツを購入して塗装してから、穴をピンバイスで開けて取り付けました。当時の映像を見ていると、寝台急行「安芸」を牽引していたC59やC62には前面に赤の標識灯が埋め込まれていました。それを表現したかったわけです。

「あき」のヘッドマークはたまたま手持ちにあったものですが、いささかオーバースケールのようです。まあ、これで良しとしたいと思います。前面標識灯を付けるとさらに161号機に近づいたように感じました。これで牽引機の改造は終わりです。なお、書き忘れましたが161号機のナンバープレートはオークションで見つけたのを入手して貼り替えています。

次は客車の方です。手持ちのトミックス10系寝台車は台車の車輪を13mmの車輪に交換しました。「長軸改軌」という方法で、単に車輪だけを交換しています。不足していた車両の食堂車以外はオークションで買い足しました。

トミックス製のオロネ10には1等の淡緑色の帯がありません。仕方なく帯だけを作ることにしました。Tさんがシール紙を提供してくださり、そこにマッハカラーを今度はエアブラシで塗装しました。

色を付けたシール紙から帯を切りだして側面にはりつけて完成です。シール紙にしたのはいつでも帯なしの車両に戻せるからでもあります。

食堂車のマシ38はTさんが製作して下さっていて、今週末の運転会で初めて連結して寝台急行「安芸」を再現します。

今週の土曜日に大阪で行われる十三クラブの運転会が楽しみです。また運転会の模様を紹介したいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊾~国鉄車両アラカルト~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年に撮影した写真になります。自分は中学2、3年生だったの鉄道写真で、つたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。当時私は親に買ってもらった一眼レフカメラのアサヒペンタックスSPFと135ミリの望遠レンズを持って、あちこちに撮影に出かけていました。親戚がカメラ屋さんでしたので、現像してからプリントするネガを選ぶのではなく、ほとんど毎回「同時プリント」で注文していました。親からは「皆、同じような写真ばかりやから、選んでからプリントしなさい」とよく注意されていたものです。

上の画像は1974年夏に父親と行った紀伊半島一周の旅で撮影した紀勢本線のDF50形ディーゼル機関車になります。撮影した駅は、前日に名古屋から夜行ディーゼル急行「紀州5号」に乗って、2人とも寝過ごしてしまって降りた駅の「周参見」になります。朝の駅構内に悪臭が漂っていたのを覚えています。当時の客車のトイレからは所謂「垂れ流し」状態で汚物が線路に落ちていました。トイレには「停車中は使用しないでください」との注意書きがあったのを覚えています。駅には黒色の太いホースがあり、もし汚物が落ちていたら水で洗い流していました。朝なので洗い流しの作業がまだされていなかったのかもしれません。汚い話をしてしまい申し訳ありません。おおらかな時代であったことは確かです。

DF50は、北陸本線のED70と同じような前面スタイルが好ましかった電気式のディーゼル機関車でした。デビュー当時から北陸線の山中越えにも補機として活躍していました。敦賀第一機関区に所属していて、当時は茶色一色の塗色になっていました。このディーゼル機関車を撮影したのは後にも先にも、この1回だけでした。鉄道模型では朱色と灰色スタイルが1両でトミックス製、茶色が2両でトミックス製と天賞堂製で所有しています。

上野画像は1974年に京都駅で撮影したDD51形ディーゼル機関車牽引の普通列車になります。当時は非電化だった草津線に京都発で乗り入れる普通列車かもしれないです。オハ35系の旧型客車で編成されていました。京都発柘植行きだったと思われます。

上の画像は1974年に大阪駅で撮影したEF65 1000番台直流電気機関車になります。おそらくこの機関車は14系座席車の臨時特急「しおじ5?号」ではないかと推測します。後ろに繋がっている客車は14系座席車だったと思われます。多客期に運転された大阪発広島・下関行きの臨時特急でした。EF65 500でも運転されていました。

上の画像は1974年に京都駅1番線で撮影した、EF58形直流電気機関車牽引の東海道本線上りの荷物列車だと思います。2号機というEF58の若番機が牽引していました。

上の画像は1975年名古屋駅で撮影したEF64形直流電気機関車になります。名古屋からの中央線の客車列車や貨物列車の牽引に当たっていました。「山男」という愛称が付いていました。台車はなぜかEF70と同じ形式の物を履いていました。

上の画像も、同じく名古屋駅で撮影したEF64になります。牽引していた列車は、客車列車だと当時は急行「ちくま」がありました。独特の大きなブロアー音が印象的でした。鉄道模型でもカツミ製と天賞堂製カンタム仕様を持っています。家族旅行で訪れたことがある「勝沼ぶどう郷」駅前に18号機か展示されています。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した名古屋発大阪行き急行「比叡」になります。当時は153系電車7連位で運転されていて、グリーン車も1両繋いでいました。大型のヘッドマークが使われており、黄色地と水色地がありました。終点大阪に到着したところを撮影していました。

上の二つの画像は1975年に大阪駅で撮影したEF58形直流電気機関車の60号機になります。この日は東海道本線上りの荷物列車を牽引していました。60号機はお召列車牽引用の機関車でした。61号機の予備機として作られた機関車になります。鉄道模型では天賞堂製を所有しています。旧製品で旧式のモーターですがよく走ってくれます。

上の画像は、1975年に大阪駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「日向」になります。大阪と宮崎を結んでいた特急だと思います。ロングラン昼行特急電車でした。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した581系交直両用特急形寝台電車の特急「しおじ」になります。大阪と広島・下関を結んでいました。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「みどり」になります。大阪と大分を結んでいたロングラン特急でした。

上の画像は1975年に米原駅で撮影し165系直流急行形電車の東海道本線上りの普通電車になります。当時は80系電車も活躍していましたが、この165系や155系、153系が使われていました。

上の画像は1975年に大垣駅で撮影した165系直流急行形電車の大垣発東京行きの普通電車、通称「大垣夜行」になります。普通列車でしたがグリーン車(サロ165)が2両繫いでありました。自分は何回か大垣から終点東京まで乗車したことがありました。おそらくこの日もこの大垣夜行のグリーン車に乗って東京へ行ったと思います。今回は以上になります。最後までお読みいただきましてありがとうございました。