13ミリゲージ春の運転会に向けて

久しぶりの鉄道模型記事になります。自宅レイアウトの鉄道模型のサイズは80分の1で、線路の幅(ゲージ)は16.5mmとなっていますが、80分の1は正確には16.5mmではなく13mmがスケールとなります。16.5mmゲージでは模型を正面眺めると国鉄が採用している狭軌(線路幅1067mm)ではガニ股になってしまいます。実物の私鉄の京浜急行や阪急、京阪、近鉄の様に標準軌(線路幅1435mm)を取り入れている鉄道車両なら、またはスケールは87分の1サイズになりますが新幹線車両であれば線路幅16.5ミリはぴったりと決まるということになります。今から12年前にもなる2012年の9月29日に「じゃりちゃん鉄道」さんの紹介で、初めて「関西合同運転会」に行かせてもらって、13mmゲージ同好会さんのレイアウトと車両を見てから、13mmゲージのことを知りました。当時、北陸線のED70を13mmゲージで作られていた方からも大いに刺激を受けて、自分も手持ちの北陸線に関わる車両から、少しずつ足回りを16.5mmから13mmへの改造を始めていきました。2015年には自分も北陸線の電気機関車ED70のキット(カツミ製)を13mmゲージにして製作して運転会で走らせて頂きました。このED70と1年後に製作したEF70の両2はTMS鉄道模型趣味という雑誌主催のコンペで努力賞を頂くことができました。

この角度から見た13mmゲージの蒸気機関車。正に狭軌鉄道の感じが良く出ています。

関西合同運転会で13mmゲージと出会わせて頂いた「13mmゲージ同好会」の十三クラブさんは毎年春に大阪で運転会もされていて、関西合運以来、都合がつけば春の運転会にも行かせて頂いていました。合わせて素晴らしいモデラーさんとも知り合うことができました。昨年の夏に広島でお会いしたTさんもそのお1人になります。13mmゲージの車両製作もさることながら、ジオラマ製作を得意とされる広島在住の方です。去年の春に十三クラブの運転でお会いして、夏に広島に行くことができたのですが、そこでの話に寝台急行「安芸」を再現しよう!ということになりました。Tさんが子どもの頃に地元である呉線で急行「安芸」を毎日のように見ておられて、鉄道模型でもやりたいとの思いがきっかけになります。

2023年夏に広島で見たC59161
広島のTさんが製作されたジオラマの1例

夏以来、Tさんはフジモデルのキット、マシ38を製作されていました。もちろん13mmゲージで3軸台車の旧型食堂車で内装まで作り込まれた秀作です。自分の方はトミックス製の10系寝台客車を13mmゲージに改軌して編成を整えました。そして呉線を走っていた蒸気機関車のC59は、たまたま所有していた13mmゲージの完成品に手を加えて161号機にしたいと思い立ったわけです。このC59161は広島の原爆資料館近くの公園に静態保存されており、去年夏に2人して見に行きました。2人の合作?の寝台急行「安芸」を次の土曜日に大阪で行われる十三クラブ春の運転会で走らせられるようにこの間準備をしていたわけです。

上の画像が今回の「安芸」再現に使ったアダチ製のC59形蒸気機関車になります。たまたま数年前に13mmのC59をオークションで手に入れていました。これを広島で見た161号機にプチ改造しました。

まずはランボードの色指しから始めていきました。マスキングテープを付けてから、ホワイトのタミヤラッカー塗料を筆塗りしていきました。本当はマスキングしてからエアブラシで塗装するとよりシャープな線が描けたと思われます。前後しますが、161号機の特徴である先従輪を前にスポーク車輪、後ろにはボックス車輪へと改造しました。

ランボードに白色のラインを付けると、これで一歩161号機に近づいたように思えました。

手持ちのC59にはテンダーにライトが付いていなかったので、何と天賞堂のプラスティック製のEF16から拝借してテンダーに接着しました。EF16は動力を取ってトレーラーにしていた部品取り用の模型になります。また1つそれらしくなりました。

蒸気機関車には実に様々な部品が付いています。精密な高級模型ではその一つ一つまで表現されていますが、自分はあくまで「自分が納得できるレベル」まで作り込めたら良しとしています。今回はとりあえずドーム前に鉄のガードを作りました。真鍮線を曲げて取り付けただけになりますが、雰囲気は少し変わりました。

そして前面の連結器の両サイドに埋め込まれている標識灯を新たに増設することにしました。これはパーツを購入して塗装してから、穴をピンバイスで開けて取り付けました。当時の映像を見ていると、寝台急行「安芸」を牽引していたC59やC62には前面に赤の標識灯が埋め込まれていました。それを表現したかったわけです。

「あき」のヘッドマークはたまたま手持ちにあったものですが、いささかオーバースケールのようです。まあ、これで良しとしたいと思います。前面標識灯を付けるとさらに161号機に近づいたように感じました。これで牽引機の改造は終わりです。なお、書き忘れましたが161号機のナンバープレートはオークションで見つけたのを入手して貼り替えています。

次は客車の方です。手持ちのトミックス10系寝台車は台車の車輪を13mmの車輪に交換しました。「長軸改軌」という方法で、単に車輪だけを交換しています。不足していた車両の食堂車以外はオークションで買い足しました。

トミックス製のオロネ10には1等の淡緑色の帯がありません。仕方なく帯だけを作ることにしました。Tさんがシール紙を提供してくださり、そこにマッハカラーを今度はエアブラシで塗装しました。

色を付けたシール紙から帯を切りだして側面にはりつけて完成です。シール紙にしたのはいつでも帯なしの車両に戻せるからでもあります。

食堂車のマシ38はTさんが製作して下さっていて、今週末の運転会で初めて連結して寝台急行「安芸」を再現します。

今週の土曜日に大阪で行われる十三クラブの運転会が楽しみです。また運転会の模様を紹介したいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊾~国鉄車両アラカルト~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年に撮影した写真になります。自分は中学2、3年生だったの鉄道写真で、つたないものばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。当時私は親に買ってもらった一眼レフカメラのアサヒペンタックスSPFと135ミリの望遠レンズを持って、あちこちに撮影に出かけていました。親戚がカメラ屋さんでしたので、現像してからプリントするネガを選ぶのではなく、ほとんど毎回「同時プリント」で注文していました。親からは「皆、同じような写真ばかりやから、選んでからプリントしなさい」とよく注意されていたものです。

上の画像は1974年夏に父親と行った紀伊半島一周の旅で撮影した紀勢本線のDF50形ディーゼル機関車になります。撮影した駅は、前日に名古屋から夜行ディーゼル急行「紀州5号」に乗って、2人とも寝過ごしてしまって降りた駅の「周参見」になります。朝の駅構内に悪臭が漂っていたのを覚えています。当時の客車のトイレからは所謂「垂れ流し」状態で汚物が線路に落ちていました。トイレには「停車中は使用しないでください」との注意書きがあったのを覚えています。駅には黒色の太いホースがあり、もし汚物が落ちていたら水で洗い流していました。朝なので洗い流しの作業がまだされていなかったのかもしれません。汚い話をしてしまい申し訳ありません。おおらかな時代であったことは確かです。

DF50は、北陸本線のED70と同じような前面スタイルが好ましかった電気式のディーゼル機関車でした。デビュー当時から北陸線の山中越えにも補機として活躍していました。敦賀第一機関区に所属していて、当時は茶色一色の塗色になっていました。このディーゼル機関車を撮影したのは後にも先にも、この1回だけでした。鉄道模型では朱色と灰色スタイルが1両でトミックス製、茶色が2両でトミックス製と天賞堂製で所有しています。

上野画像は1974年に京都駅で撮影したDD51形ディーゼル機関車牽引の普通列車になります。当時は非電化だった草津線に京都発で乗り入れる普通列車かもしれないです。オハ35系の旧型客車で編成されていました。京都発柘植行きだったと思われます。

上の画像は1974年に大阪駅で撮影したEF65 1000番台直流電気機関車になります。おそらくこの機関車は14系座席車の臨時特急「しおじ5?号」ではないかと推測します。後ろに繋がっている客車は14系座席車だったと思われます。多客期に運転された大阪発広島・下関行きの臨時特急でした。EF65 500でも運転されていました。

上の画像は1974年に京都駅1番線で撮影した、EF58形直流電気機関車牽引の東海道本線上りの荷物列車だと思います。2号機というEF58の若番機が牽引していました。

上の画像は1975年名古屋駅で撮影したEF64形直流電気機関車になります。名古屋からの中央線の客車列車や貨物列車の牽引に当たっていました。「山男」という愛称が付いていました。台車はなぜかEF70と同じ形式の物を履いていました。

上の画像も、同じく名古屋駅で撮影したEF64になります。牽引していた列車は、客車列車だと当時は急行「ちくま」がありました。独特の大きなブロアー音が印象的でした。鉄道模型でもカツミ製と天賞堂製カンタム仕様を持っています。家族旅行で訪れたことがある「勝沼ぶどう郷」駅前に18号機か展示されています。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した名古屋発大阪行き急行「比叡」になります。当時は153系電車7連位で運転されていて、グリーン車も1両繋いでいました。大型のヘッドマークが使われており、黄色地と水色地がありました。終点大阪に到着したところを撮影していました。

上の二つの画像は1975年に大阪駅で撮影したEF58形直流電気機関車の60号機になります。この日は東海道本線上りの荷物列車を牽引していました。60号機はお召列車牽引用の機関車でした。61号機の予備機として作られた機関車になります。鉄道模型では天賞堂製を所有しています。旧製品で旧式のモーターですがよく走ってくれます。

上の画像は、1975年に大阪駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「日向」になります。大阪と宮崎を結んでいた特急だと思います。ロングラン昼行特急電車でした。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した581系交直両用特急形寝台電車の特急「しおじ」になります。大阪と広島・下関を結んでいました。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「みどり」になります。大阪と大分を結んでいたロングラン特急でした。

上の画像は1975年に米原駅で撮影し165系直流急行形電車の東海道本線上りの普通電車になります。当時は80系電車も活躍していましたが、この165系や155系、153系が使われていました。

上の画像は1975年に大垣駅で撮影した165系直流急行形電車の大垣発東京行きの普通電車、通称「大垣夜行」になります。普通列車でしたがグリーン車(サロ165)が2両繫いでありました。自分は何回か大垣から終点東京まで乗車したことがありました。おそらくこの日もこの大垣夜行のグリーン車に乗って東京へ行ったと思います。今回は以上になります。最後までお読みいただきましてありがとうございました。




良き国鉄時代㊽~1975年東北旅行での撮影~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に亡き父親に連れて行ってもらった東北への旅で撮影した鉄道写真になります。自分は中学3年生だったと思います。確か夏休みの旅行で、岩手県の中尊寺にも行きました。とぎれとぎれの記憶ですが、475系の急行「もりおか」に乗った記憶がありますし、ED75牽引の旧型客車による普通列車に乗ったことも覚えています。宿は平泉の旅館で、窓から花火大会を見ていました。翌日には青森まで行って、青森からは12系客車急行「きたぐに」で長浜まで帰ったように思います。夏の繁忙期で寝台車は繋がれておらず、全車12系客車でした。当時、父親は日本電信電話公社(現在のNTT)に勤めており、鉄道好きな自分の為にあちこちと鉄道旅行に連れて行ってくれていました。宿は電電公社の公共宿舎を利用していたようです。どの写真も車窓から撮影した写真が多くあり、あまり良い写真とは言えませんが、少しでも良き国鉄時代を懐かしんで頂けたら幸いです。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF57形直流電気機関車牽引の普通列車になります。「ゴナナ」がまだ元気に東北本線で活躍していた時期でした。デッキ付きの茶色い機関車でパンタグラフが前方に出っ張っている勇ましい姿に圧倒されました。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車牽引の普通列車になります。常磐線の列車だと思われます。EF81と同様にローズピンクの車体は魅力的でした。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF58形直流電気機関車牽引の普通列車になります。前面窓の上に大きな庇がついた上越タイプは大変魅力的でした。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したEF65 1000形直流電気機関車になります。その後、東京~九州間を結ぶブルートレインの牽引機になる電気機関車です。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したEF57形直流電気機関車とEF58形直流電気機関車になります。残念ながらどこの駅だったかは解りません。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したEF65 1000形直流電気機関車になります。パンタグラフが大形なので、1次車だと思います。こちらもどこの駅だったかは残念ながら思い出せません。

上の画像は1975年に東北本線、小牛田駅で撮影した471系交直両用急行形電車の急行「もりおか」になります。北陸本線でも馴染みのあるローズピンクの大変好ましいカラーリングの電車でした。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車牽引の普通列車になります。東北旅行では旧型客車の乗り心地を十分楽しませてもらいました。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED71形交流電気機関車になります。鉄道模型でも、ED71はトラムウェイ製とモア製で所有しております。北陸線の古豪に似ていて、好ましいスタイルと言えます。黒磯駅構内ではないかと思います。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車の重連になります。東北本線の貨物列車を牽引していました。残念ながら、どこの駅で撮影したのかを覚えておりません。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車の重連になります。貨物列車の先頭には有蓋車が連結されており、車扱い貨物列車の黄金時代でした。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車牽引の普通列車になります。父親との東北旅行で乗った青森行きの普通列車でした。旧型客車による普通列車で、重いジョイント音が楽しめて乗り心地も良かったです。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車牽引の普通列車になります。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車牽引の普通列車になります。父親と行った東北旅行で宿泊していた宿の近くで撮影したと記憶しています。

上の画像は1975年に東北本線で撮影したED75形交流電気機関車になります。この写真も、どこの駅で撮影したのかは申し訳ありませんが解りません。

上の画像は1975年に青森駅で撮影したED75 700番台交流電気機関車牽引の大阪行き急行「きたぐに」になります。ここ青森から遠路自宅のある長浜まで乗車しました。12系客車のボックス席で一夜を過ごした思い出があります。なかなか眠ることはできませんでした。

上の画像は1975年に青森駅で撮影したED75形700番台の交流電気機関車牽引、急行「きたぐに」になります。青森から秋田までは交流電気機関車ED75 700番台の牽引になります。

上の画像は同じく1975年に青森駅で撮影したED75 700形交流電気機関車牽引の急行「きたぐに」の写真になります。この列車に青森から一度乗ってみたくて、父親に切符を購入してもらいました。先程も書きましたが、ボックス席での長旅。しかも夜行列車なのでゆっくりと眠ることが出来ませんでした。そして私と父親の対面席には若い女性が2人で乗っておられ、故郷の秋田から大阪へ行って看護師をされると聞きました。父親が親しげに話しかけて、夜な夜なお二人とのおしゃべりを楽しんでいたように記憶しています。「袖すりあうも他生の縁」とでも言いましょうか。今では大変良い思い出となっています。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。







良き国鉄時代㊼~1974年、1980年の京都・田村・敦賀界隈での撮影~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年と1975年、それに1980年に撮影した写真を紹介します。自分が中学生の時と大学2年生に撮影した鉄道写真になります。大変懐かしい写真で良き国鉄時代を振り返って頂けたら幸いです。これまでに紹介した写真と同じような写真もありますが、どの写真も当ブログでは未発表のものとなります。

上の4つの画像はいずれも1974年に京都駅にて撮影したものになります。京都駅の1番ホームに入って来たのは、何と485系1500番台と300番台が繋がれた試運転列車でした。大阪方面から入線してきて、先頭の方は485系1500番台でした。先頭車が中間に繋がれて、後寄りには485系300番台が繋がれていました。予期せぬ電車の登場に慌ててシャッターを押していたように思います。メーカーで完成して試運転の後は、特急「白鳥」として大阪から青森で運転されていました。

上の画像は京都駅の中線を通過する新製間もないEF81形交直両用電気機関車になります。敦賀第二機関区所属の109号機のようで、これから先は湖西線に入って行くのでしょう。ピカピカの美しいピンクの車体が印象的でした。

上の画像は京都駅の東海道本線下りホームに入線するEF81牽引の14系の客車列車になります。当時、14系が使用された急行「加賀」や「雷鳥」なども走っていました。湖西線からやって来たものと思われます。

上の画像は京都駅の東海道本線ホームに入線する、489系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。美しいボンネットスタイルの489系は鉄道模型でも持っています。この頃の字たげのヘッドマークが格好よかったものです。

上の画像は1975年、京都駅に停車中の489系特急形電車による、特急「雷鳥」になります。美しいボンネットスタイルの特急でした。このスタイルの489系は鉄道模型でも持っています。

上の画像は1975年に北陸本線の田村駅の上りホームを通過している、北陸本線上り特急「加越」を撮影したものになります。485系交直両用特急電車300番台で運転されたていました。グリーン車を真ん中に挟んでの4M 3Tの7連で米原~金沢・富山間で運転されていました。

上の画像は1974年に北陸本線の田村駅のホームで撮影した485系による下り特急「北越」、大阪発新潟行きになります。

上の画像は1974年に北陸本線の何処かの駅で撮影したEF70形交流電気機関車になります。この頃になると運用から離脱するEF70が居たようです。最後の頃は敦賀第二機関区横に何十両ものEF70が休車となり留置されていました。

上の画像は1974年にたぶん京都駅で撮影した485系の特急「雷鳥」と思われます。発車後を撮影した後追いの写真でした。駅構内の様子から米原駅ではなさそうです。

上の画像は1980年に北陸本線の敦賀駅で撮影した写真になります。583系交直両用特急形寝台電車による特急「雷鳥」富山行きです。当時583系は「雷鳥」にも使用されていました。右に居るのはEF70牽引の普通列車です。当時、このように旧型客車を使用した普通列車は福井、金沢、富山、直江津そして長岡までも運転されていました。だいたい富山から北の区間はEF81形交直両用電気機関車が牽引していました。

上の画像は1980年に北陸本線の新疋田~敦賀間で撮影したと思われる485系300番台使用の特急「白鳥」になります。残念ながら撮影ポイントははっきりと覚えていません。

上の画像は1980年に北陸本線の敦賀駅の敦賀第二機関区近くから撮影した485系特急「雷鳥」になります。敦賀を発車した京都方面行き上り列車は福井と滋賀の山越えに向けて、だんだんと高くなっていく築堤のような場所を走っていました。しばらくすると「はつ原ループ線」を上って行くことになります。

上の画像は1980年に北陸本線敦賀駅で撮影した485系特急「しらさぎ」富山行きになります。敦賀駅のホームは大きなカーブになっているので、長編成の列車の撮影に向いていたと言えます。

上の画像も同じく1980年に北陸本線敦賀駅で撮影した485系特急「白鳥」青森行きになります。この「白鳥」にはこの年の3年前に、高校の修学旅行で青森から敦賀まで乗車することが出来ました。今思うと大変ラッキーな修学旅行でした。はるか青森に向けての長旅も、まだ始まったばかりと言えそうです。

上の画像は1980年に撮影した北陸本線の普通客車列車の車内を映したものになります。天井には円形の蛍光灯が付けられていて明るいですが、この蛍光灯に変わる前は、グローブ球と言って暖色系の室内灯が付いていました。夜にこの旧型客車に乗るとたいへん薄暗かったことを良く覚えています。何か寂しい感じがしたものです。北陸本線が交流電化されたので、このような客車を交流電気機関車が牽引するスタイルが主流でしたが、もし直流電化だったら客車より直流の旧型電車が活躍していたのかもしれません。子どもの頃に乗り慣れていた客車こそ自分にとっては一番好きな「汽車」であったと思います。今回は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

ボンネットスタイルの485系特急が自宅レイアウトを快走。
485系北陸特急、「電気釡スタイル」が快走!





良き国鉄時代㊻~1975年北陸本線米原での撮影~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に米原駅で撮影した北陸本線の優等列車の紹介になります。自分が中学3年生の時に撮影した鉄道写真となります。どの写真も今一つの撮り方になりますが、懐かしい写真で国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。これまでに紹介した写真と同じような写真にはなりますが、どの写真も当ブログでは未発表のものとなります。去る3月16日に北陸新幹線が敦賀まで延伸開業して北陸本線の様相も一変してしまいました。敦賀以北で在来線特急列車が走ることもなくなり、特急「サンダーバード」と「しらさぎ」も敦賀までの「新幹線リレー号」になってしまいました。かつて米原から正に北陸地方といえる直江津までを結んでいた北陸本線も、米原から敦賀までの45.9キロメートルという短い路線となってしまいました。名前にそぐわない路線になってしまい、「湖西線」と同じように「湖北線」とした方がしっくりくるように思います。「北陸」と言うのには何故か大げさに感じてしまうのは私だけでしょうか。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。この「雷鳥」等の優等列車が湖西線周りになるのは1975年3月10日のダイヤ改正時からなので、その直前に撮影したものと思われます。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した485系の特急「しらさぎ」になります。485系300番台がデビューしたての時だと思います。非貫通スタイルのゲンコツ形が真新しかったのを覚えています。当時は名古屋と富山を結んでいました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した485系の特急「加越」になります。新幹線接続の特急として米原~金沢・富山を結んで運転されていました。この「加越」にも485系300番台が使われ始めていた頃でした。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した485系1500番台の特急「白鳥」になります。当時、トレインマークはシール紙に印刷されていました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した485系の特急「雷鳥」になります。敦賀方面から米原駅に到着するところを、米原駅を跨ぐ県道の陸橋から135ミリの望遠レンズを使って撮影していました。前面だけを捉えており、当時大変気に入っていた写真のようでキャビネサイズに引き伸ばして残していました。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した475系6連による急行「くずりゅう」になります。この急行は米原と金沢を結んで走っており、かなりの俊足だったと記憶しています。特急列車並みの表定速度で走っていました。

急行「くずりゅう」のサボ、裏面は米原。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した大阪発富山行きの485系特急「雷鳥」になります。ホーム先端の線路渡り板の上から撮影しているようで、大変迫力があります。現在では到底のような撮影は出来ません。貫通タイプの先頭車になります。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した富山発大阪行きの485系特急「雷鳥」になります。先頭車は貫通タイプになります。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した大阪発富山行きの485系特急「雷鳥」になります。同じく貫通タイプの先頭車です。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した大阪発富山行きの485系特急「雷鳥」になります。米原駅構内が俯瞰できる陸橋の上から撮影しています。先頭車は300番台の非貫通タイプです。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した475系による急行「立山」になります。この急行は大阪と富山を結んで走っていた急行列車でした。北陸急行専用の美しい大形のヘッドマークが雪で隠れてしまっていますが、うっすらと「立」という文字が見えています。

上の画像は1975年の冬季に米原駅で撮影した大阪発富山行きの485系特急「雷鳥」になります。485系の貫通タイプの先頭車です。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した米原発富山行きの485系特急「加越」の側面にある行先表示を撮ったものになります。余談になりますが、このサボの鉄道部品をレイアウトルームに飾っています。何時かの鉄道部品販売で1枚3000円で購入しました。

上の画像は1975年に米原から醒ヶ井に向かって走る、東海道本線上り区間で撮影した475系急行「兼六」になります。「しらさぎ」の急行版で、名古屋と金沢を結んで走っていました。

上の画像は1975年夕刻に米原駅で撮影した富山発名古屋行きの581系特急「しらさぎ」になります。夜行寝台特急「金星」の間合い運用でした。富山からの旅を、ここ米原で折り返して名古屋に向かおうとしている所です。

上の画像は1975年に米原駅近くの陸橋付近からで撮影した米原客車区と、遠くに東海道本線を東に向かう159系の普通電車が映っています。米原から大垣、名古屋方面の普通電車に、元修学旅行用の159系電車が塗色を湘南色に変えて活躍していた時代でした。また当時の米原駅には東の方に米原客車区があり、北陸本線の普通客車列車が何本か留置されて整備をされていました。当時、「名マイ」という記号が客車に書かれていました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した富山発大阪行きの485系特急「雷鳥」になります。貫通タイプの先頭車です。1975年3月14日からは特急「雷鳥」は湖西線経由になってしまいました。関西と北陸を結ぶ特急の米原経由最後の勇姿を撮影していたのでしょう。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

485系同士の離合、自宅レイアウトにて。
自宅レイアウトを行く、475系急行電車。