名鉄パノラマカーを追って

2006年春頃、当時小学生だった息子と名鉄のパノラマカーに乗るために名古屋に出かけたことがありました。ちょうど名鉄7000系パノラマカーがそろそろ引退してしまうという時期であり、無くなる前に乗っておこうというものでした。自分もパノラマカーのことは知っていましたが、前面展望のできる一番前の車両には乗ったことが無く一度乗ってみたいと思っていました。自分はこれまであまり私鉄には興味がなく、ずっと国鉄ファンでした。滋賀県には近江鉄道という私鉄も走っているのですが、やはり興味は向きませんでした。息子は小学生の頃はプラレールをたくさん集めていました。親子で夢中になって遊んでいた頃が大変懐かしく思い出されます。このプラレール遊びがやがてNゲージの鉄道模型趣味に発展していくことになります。当時の息子にとってこのパノラマカーとの出会いが、「名鉄ファン」になっていった要因といつか話してくれました。

2006年5月4日に撮影した7000系パノラマカー。新可児行き急行。
憧れだったパノラマカーの一番前の座席。素晴らしい展望でした。

2006年のゴールデンウィークに息子共ども念願だった7000系パノラマカーの前席に座ることができました。はじめての前面展望に感激して、名古屋からパノラマカー運用の終点まで行ったり来たりと、ずっと乗り続けていたように思います。全く飽きのこない展望で、素晴らしいシーンが次から次へと目に飛び込んできました。7000系の運転席はご存知展望席の上にありました。駅での運転士の交代時は、運転士さんが梯子を伝って降りてこられ、登っていかれる姿がまたかっこ良かったものです。前面展望が楽しめる一番前の座席の前には、下の画像のような注意書きもありました。ついつい大きな気分になって足を伸ばして置いた方もいたのでしょうか?

運転士さんの交代シーン。さっそうと乗り込まれる姿に見惚れました。
すこし意外に思えた前面展望席の注意書き。

2006年に行ったのを皮切りとして、翌年2007年と翌々年2008年の春休みにも息子と名鉄乗り放題の旅行に出かけていました。毎回使っていたのが「乗り放題切符」でした。他の私鉄でもあると思いますが、1日どこまで乗っても同じ料金のフリー切符になります。何回か行くことで、名鉄のほとんどの路線を乗車することができました。なかなか昼食にありつくことができずに、乗り続ける息子と口論になってしまうこともありました。今では懐かしい思い出になっています。この頃になると息子は電車の音をレコーダーに取りためていくという趣味になっていました。旅を終えると音をCDに焼いてはレーベルを作って楽しんでいたように思います。パノラマカーにスタートした名鉄への思いは膨らんでいったものと思います。今でもそのCDを沢山保存しています。この名鉄パノラマカー、残念ながら2009年に7011Fの運転をもって引退してしまいました。さよなら運転には行くことができませんでした。

そして次に追いかけるようになったのは、パノラマカーの兄弟として活躍していた7700系でした。2009年の夏頃から今度は名鉄名古屋本線の知立に通うことになり、三河線で最後の活躍をしていた7700系を撮影していました。パノラマカーと併結して特急として活躍していた頃もあり、その頃は車体に白帯を巻いていました。「三つ目」の顔立ちがチャーミングな電車でした。

名鉄知立駅にて。7700系2連の猿投行き。

7700系の車内は7000系とほぼ同じレイアウトになっていました。側面の窓の形状も7000系と同じで大きな窓が採用されており、展望が大変良かったです。特急列車に乗っている感が満載でした。知立まで行くと猿投方面、碧南方面へとこの7700系に揺られる電車旅を続けて楽しんでいました。お昼ご飯でお世話になったのが知立駅の立ち食いそばでした。おばあさんが美味しいそばを手を震わせながら出して下さったことを覚えています。おいしいそばを食べさせていただきました。

7700系2連による碧南行き。
7700系にも終焉がやってきました。7700×3の記念列車。阿久比にて。

そしてまた残念な事に、この7700系も2010年3月21日にラストランの日を迎えることになってしまいました。引退を前にして、7700系2連が特別に3編成連結されて記念列車が運転されました。この「7700系3重連イベント 7700×3」の撮影には、自分1人で名古屋に向かいました。この画像は内海まで行って発車を撮影してから電車で追いかけて、阿久比で撮影した画像になります。金山まで運転されて豊明に回送されました。沿線には沢山のファンが撮影に見えていました。この7700系の引退により、7000番台の電車が姿を消すことになりました。名鉄の一時代を代表する車両であったパノラマカー一族が完全に姿を消すことを表すことになってしまいました。

7000系パノラマカーの追いかけにはじまり、7700系の見送りに一旦名鉄撮り鉄の旅は終わりました。この間に撮りためた、あるいは録りためた名鉄の電車の記録は今も大切に自分のレイアウトルームに保存してあります。鉄道模型では、もちろん息子は中学生時代にNゲージで名鉄電車のほとんどの形式を集めて、自宅の2階にコンパネ2枚分のレイアウトを作っていました。また名鉄の部品市では行先表示機やら運転台の機器、1000系と1600系の座席まで購入してしまいました。これは現在のレイアウトルームに置いて使っています。自分もHOゲージで7000系に7700系、7100系、2000系ミュースカイ、1000系パノラマスーパー、6800系、6000系を所有して時々自宅レイアウトで運転を楽しんでいます。

7000系の車内。

良き国鉄時代⑤~米原界隈の写真から~

自分にとって米原駅は写真を撮り始めた頃からの聖地であり大好きな駅です。小学校の頃は亡き父親が車で「汽車見」に連れて行ってくれたものでした。米原駅を俯瞰できる陸橋に車を停めてもらい、自分はひたすら陸橋の上から米原駅に出入りする列車を眺めていたものです。おまけは、米原駅の待合室にあった「ひかり食堂」でのラーメンでした。醤油ベースの大変あっさりしたラーメンで、父親はお酒を飲んでいました。おおらかな時代でした。小学校4年生の時には、小学校の課外授業で「米原機関区の見学」がありました。EF58の運転席を見学させてもらった記憶があります。中学生以降は早朝に自転車で米原駅近くまで行って、上りのブルートレインを撮影したものでした。1996年から走り始めたSL北びわこ号の撮影には、毎回と言っていいほど米原駅にも出向いて撮影をしていました。この頃に駅構内が大きく変わっていく様子も撮影しました。今回はそんな米原駅界隈で撮影した写真を集めてアップしてみました。

上の画像は1975年に撮影した米原機関区になります。当時はEF65の特急色がずらりと並んでいて圧巻でした。このEF65形直流電気機関車500番台は、F形という高速貨物列車用の機関車でした。しかしながら東京発着のブルートレインを牽引していたEF65 500と同じカラーリングであり、見ていて大変かっこ良かったです。それも沢山いたので、正に「東京機関区」を彷彿とするシーンでした。鉄道模型では天賞堂製を持っています。

上の画像は同じく米原機関区での写真になりますが、この日は米原機関区が特別に一般公開された1985年の春の写真になります。自分はこのイベントには行っておらず、この写真は高校の友人が撮ってくれたものになります。当時、米原機関区には大変美しく整備されていたEF58形直流電気機関車が沢山在籍していました。自分は行かなかったこのイベントですが高校時代の友人がプレゼントしてくれました。沢山のギャラリーの方々が線路の近くに居られるのが解ると思います。自分も行くべきでしたが、この頃は鉄道趣味から離れていた時期になります。

上の画像は真冬に米原に撮影に行ったついでに、東海道線に乗って醒ヶ井まで行った時に、通過する下り荷物列車を撮影したものです。牽引機はEF58形直流電気機関車になります。雪を蹴りながら轟音と共に通過していく58はかっこ良かったです。前にも書きましたが、もっともっとこの電気機関車を撮影しておけば良かったとつくづく後悔している次第です。鉄道模型では天賞堂製とカトー製で沢山持っています。

上の画像はへ北陸本線からの上り急行「きたぐに」を米原駅北側の踏切から撮影したものになります。田村まではEF70形交流電気機関車に牽かれ、そこから米原まではこのDE10形ディーゼル機関車が牽引していました。まだこの頃には古豪のDD50形ディーゼル機関車も活躍していたと思います。米原から大阪まではEF58形直流電気機関車かEF65 1000番台直流電気機関車が牽引していました。鉄道模型では天賞堂製とカトー製を持っています。13ミリゲージに改造したカトー製も所有しています。

上の画像はテーマの国鉄時代とは離れてしまいますが、「特別なトワイライトエクスプレス」が米原駅に入線してくる写真になります。いつものトワイライトエクスプレスとは違って、オロネ24がずらりと連結されていました。当時、米原経由で運転されていて米原駅でじっくりと撮影することができました。鉄道模型では機関車はトミックス製と天賞堂製を所有しています。客車はトミックス製を持っています。

上の画像は米原駅の新幹線ホームに入線してきた300系新幹線になります。東海道新幹線から引退する日が近づいていた頃の撮影になり、よくビデオとカメラを持って新幹線の入場券を買ってホームから撮影していたものです。鉄道模型ではカツミ製を16両のフル編成で持っています。

上の画像も米原駅で撮影した500系新幹線電車になりのす。大変美しいフォームである500系が東海道新幹線から引退することになり、米原駅新幹線ホームに通って撮影をしていたものです。鉄道模型ではカツミ製を8連で持っています。

上の画像は冬の日に米原駅で撮影した700系新幹線電車になります。上りの通過列車を撮影しています。ラストランの直前に名古屋から京都まで「のぞみ」に乗りました。おりしもその直後から新型コロナウィルスが流行しだして、結局3月のラストランは中止になってしまいました。鉄道模型ではカツミ製を10連で持っています。

上の画像は最近引退した117系直流近郊型電車になります。米原から豊橋方面への普通電車として活躍していました。クハ117-1がこのほど京都鉄道博物館の展示車両に加えられました。関東方面で活躍した185系直流近郊型電車と同時期に製作された電車で、関西の新快速電車として活躍しました。中京地区ではオレンジのラインを纏って活躍していましたが、今では引退してしまっています。自分はこの新快速が走り始めた時に乗った経験があります。スピーディーな走行と木目を基調としたウッディな室内が大変印象に残っています。鉄道模型は宮沢製品とエンドウ製品、カツミ製品で持っています。近々、トミックスからも新製品として発売されるようです。

最後になりますが、上の画像はかつて近江長岡駅から大阪セメント伊吹工場を結んでいたセメント列車専用線を走るいぶき501号牽引のセメント列車になります。1999年6月に専用線は廃止されています。こちらももっと足を運んで撮影していたら良かったと思っています。現在、廃線跡は「伊吹せんろみち」という遊歩道になっています。

今回は米原駅界隈と題して撮りためていた古い写真をアップしてみました。いかがだったでしょうか?まだまだ古い写真のストックは沢山ありますので、今後もテーマを決めながらアップしていこうと思います。

1975当時の米原駅東口。右の建屋に待合室があり、ひかり食堂もありました。

夢の5インチゲージ運転

自分が初めて自分でコントロールできる5インチゲージの乗用模型に乗ったのは、今から20年前くらいになる「野辺山ポッポランド」での体験でした。当時、まだ幼かった息子を乗せて長い周回線路を運転させてもらったのが初めての運転でした。これまで鉄道模型は走行を見るものという認識であり、自分が乗って運転するということは考えてもおらず、風を感じて走った野辺山の5インチゲージには感動を覚えたものでした。それから何年もたった2018年にオークションで割と手ごろな値段で5インチゲージのバッテリーロコが出ていたので、思い切って購入しました。送られてきた段ボール箱は大変大きくて、5インチのバッテリーロコも大変大きな機関車でした。木で作られていて、さてどんな塗装にしようかと悩んでいたものです。とりあえず、自宅離れの前に約6メートル程の直線線路を敷いて前後の試運転をしていました。機関車だけだったので、知り合いから頂いた台車と簡易台車を購入して、運転席のあるトレーラーを自作しました。

我が家に5インチゲージがやってきました。

機関車の塗装はあれこれと迷いました。駅で見かけた黄色の移動車も良いし、軽便鉄道の機関車の色も魅力的です。結局、形から直ぐに連想できた新幹線の保守用ディーゼル機関車にすることにしました。色を合わせるために、新幹線の米原駅近くで保守用車両をよく見に行きました。どうやらMO-〇〇〇〇という形式であることがわかり、自分の機関車はMO-7とすることにしました。7とはラッキーセブンの7です。5インチゲージの機関車の塗装は、ダイナミックな作業でした。新聞紙とマスキングテープを使い黄色を塗ってから青を塗っていきました。レタリングシールで形式番号を付けて、窓枠をカットして白色プラバンでガラスを表現し、木でワイパーも付けました。トレーラーの方は大きな木材を切って枠を作り、初めは息子が中学生の時に技術家庭の授業で製作した椅子を載せていました。これはのちには座面を木材で製作して、椅子のクッションを付けています。だんだんと5インチゲージらしくなってきました。

塗色は新幹線の保守用車両をモチーフとしました。形式名はMO-7です。

車両が形になってくると6メートルの線路を行ったり来たりの運転ではつまらなくなってきました。やはり広々とした線路で走ってみたくなります。近所に5インチゲージが運転できる場所もなかなかありません。そんな時に、5インチゲージの台車を譲ってくれた知人から、5インチゲージの線路を譲ってもらえる話が来ました。残念な事に、後にこの知人は膵臓がんで亡くなってしまわれ、断捨離の意味でたまたま敦賀鉄道フェスティバルで知り合いになった私に線路を格安で譲ってくれたのだと思います。2019年7月27日に知人の住む大津市坂本まで線路を引き取りに行ってきました。全部でたったの3万円で譲ってもらえました。また線路と一緒に作りかけの機関車の上部とトレーラー用のボギー貨車トキ15000形式の上部をいただきました。軽トラで喜んで引き取りに行ったことを覚えています。正に「夢の荷物」でした。

今は亡き知人から譲り受けた5インチゲージの線路等。

幸いなことに自宅裏には畑があって、なんとかこの線路が敷けるスペースがありました。ずっとマルチをしたままだったので、その上から仮に敷設することにしました。畑なのでなかなか水平を取るのが難しく、その年の夏休みは早朝から畑を平らにしていく作業をしました。そしてなんとか8月半ばに5インチゲージをオーバルで敷設することが出来たのです。夢に向かっての汗だくの力作業は全く苦になりませんでした。

自宅裏の畑に開通した5インチ鉄道。
半径4.5メートルのオーバル線路を敷設しました。

連日にわたって早朝か夜に試運転を繰り返しました。やはり地面が平らになっていない区間では脱線してしまいます。木材で線路の下にスペーサーを入れたりしながら調整していきました。そしてようやく脱線せずに周回できるようになってきました。そうなってくると、もう1両人が乗れるトレーラー、客車を作りたくなりました。知人から頂いた貨車にボギー台車を2つ購入して取り付ける作業をしました。そして人が乗れるトレーラー、トキ15000形式が生まれました。自分だけの乗用鉄道の誕生に喜びを隠すことができず、何人か友人を呼んで乗ってもらったり、完成祝いの運転会を行ったりもしました。大きな夢の一つが叶ったように思いました。線路はいずれは下のベース部をコンクリート製にしていき、引き込み線も作りたいと考えています。 ※自宅裏の5インチゲージは2024年現在、諸事情で線路を撤去しております。

自分が乗って運転できるのが魅力の5インチゲージ。

その後、5インチゲージが運転できる場所をじっくり探していて、京都の亀岡市にある「保津川ライブスティームクラブ」にたどり着くことができ、2022年の4月に自分の5インチゲージバッテリーロコとトレーラー一式を軽トラに積み込んで運転に行くことが出来ました。ちょうど自分が退職した春のことで、仕事や時間を気にせずに遊びに行くことができました。そこでクラブの方々と知り合いになり、以後の5インチゲージのプライベートな運転会にも誘って頂けるようになりました。今年の5月に、京都の運転会で5インチゲージのライブスティームを運転させて頂くことが出来たのもクラブの方の紹介のお陰です。そしてこの9月17日から18日には富山県小矢部市の「クロスランドおやべ」で開催される5インチゲージのイベント、「ミニSLフェスタinおやべ」に初めて参加することになりました。また新たな出会いに胸を膨らませている今日この頃です。

2022年4月には亀岡市の「保津川ライブスティームクラブ」の線路を存分に走行できました。

自宅5インチゲージ運転展望動画

良き国鉄時代④~北陸本線の赤い電機~

地元長浜での大きな鉄道模型イベントも無事に終わって、またいつもの日常が戻ってきました。ほぼ毎日、午後には運転会場の長浜慶雲館に足を運んでいたので少し寂しい気分になる今日この頃です。今回のブログ記事は、これまで自分が撮りためていた写真のコレクションのなかから懐かしい国鉄時代の画像をアップさせていただこうと思います。1975年当時、自宅近くの踏切は交流電化されていました。田村からは敦賀第二機関区所属の「赤い電機」が活躍していて、自宅近くでよくこの「赤い電機」を撮影していたものです。時には自転車で田村駅まで撮影に行ったり、普通列車で近江塩津や敦賀まで行っては撮影をしていたものでした。今回は大好きな「赤い電機」のED70形交流電気機関車とEF70形交流電気機関車を特集したいと思います。

上の画像は1974年に交流電気機関車ED70を機関車交換駅の田村で撮影したものです。敦賀方面からこのED70が旧形客車の普通列車をここ田村駅まで牽引してきて、この先に交流から直流に変わるデッドセクションがあるために、ディーゼル機関車のDE10形(DD50形もまだ活躍していました)に機関車交換するわけです。当時そろそろこの古豪ED70が引退するという話を聞いて、この機関車撮影目当てにあちこちに行っていました。この機関車は交流電化のパイオニアであり、日本ナショナルトラスト様のお力添えでED70形交流電気機関車のトップナンバーが「長浜鉄道スクエア」に静態保存されています。

上の写真は交流電気機関車の同じくED70形交流電気機関車の牽く普通列車の米原行きを近江塩津の駅で撮影したものになります。この機関車の次位にはもう1両電気機関車が映っています。この日はEF70との重連での牽引だったようです。当時新製で敦賀第二機関区に配置されたEF81形交直両用電気機関車とED70との重連運用もありました。鉄道雑誌の「鉄道ファン」の1974年11月号の表紙の写真にもなりました。新旧の罐の重連が大変魅力的で鉄道模型でもよく再現しています。

上の写真は、交流電気機関車のEF70の1次型を自宅近くの踏切から撮影したものになります。虎姫~長浜間になり、列車は青森発大阪行きの急行「きたぐに」です。当時はまだ客車時代で大阪寄りからオユ12+スロ62+12系客車5両+10系寝台客車5両の12両編成で運行されていました。自分は夏休みの繁忙期に亡き父親と青森から長浜まで12系客車のボックス席に乗車したことがあります。全車両が12系座席車で、ぐっすりとは眠れなかった夜行列車の旅でした。早朝6時前に自宅付近を通過していました。夏期だけ撮影できた急行「きたぐに」でした。

上の写真は虎姫~長浜間を真冬に走る米原行き普通列車になります。米原寄りの5両は郵便車と荷物車のようですね。北陸本線では郵便、荷物列車は米原寄りに連結されていました。撮影当時は高校2年生だと思います。まだまだEF70が走っていたものです。活躍の晩年にあたり、ヘッドライトが1灯タイプから2灯タイプのシールドビームになっています。他の国鉄の電気機関車にもこのシールドビームは次々と採用されていました。当時ヘッドライトが1灯タイプだったEF58形直流電気機関車やEF60形直流電気機関車にも採用されていたのを思い出します。

上の写真は田村駅で撮影しました。当時の田村駅はホームとホームの間の2線に沢山の交流電気機関車が留置されていたものです。中学生の頃にはよく自転車で田村駅へ行って、飽きることなく機関車の入れ替えを見ていたものでした。田村駅に行けば間近にED70やEF70に会うことができました。現在は内側の2線のレールは外されていて、下りホームと上りホームの間がやけに広々としています。こんな時代の田村駅を知っている現在の乗客はおられるでしょうか?当時の田村駅は客扱いのない無人駅で自由にホームに入って撮影していました。

上の写真は虎姫~長浜間にある国道8号線の陸橋から撮影した普通列車の米原行きです。自宅から北の方に国道8号線があり、北陸本線を跨ぐ陸橋があります。当時の鉄道雑誌でもここから撮影した写真がよく紹介されていました。列車を上から俯瞰する形で撮影することができました。現在では、この場所はコンクリートになってしまっています。旧形客車6両編成の軽快な編成でした。

上の写真は早朝の田村駅に到着した寝台特急「日本海」になります。糸魚川からこの交流電気機関車EF70 1000番台が牽いてきました。客車は20系客車による寝台列車、正に憧れの寝台特急でした。写真は中学3年生の冬に自転車で田村駅に行き、三脚を使ってバルブ撮影しています。この寝台特急「日本海」か登場した頃には美しい「日本海」のヘッドマークが前面に掲げられていました。この写真を撮影した頃の晩年はヘッドマークは無くなってしまいました。ここからはディーゼル機関車DE10が牽引し、米原から終点大阪まではEF58形直流電気機関車が牽引していました。大好きな交流電気機関車、ED70とEF70。もちろん鉄道模型でも所有しています。EF70は1次型、2次型、1000番台と所有しており、ED70も4両所有しています。13ミリゲージでも3両あります。自分にとってはメインとなる機関車になり、このブログでもテーマの画像にしている次第です。現存する実機はED701が「長浜鉄道スクエア」に、EF701001が「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されています。

長期にわたった長浜慶雲館での運転会が終了

2023年7月15日から始まった「鉄道模型と遊ぼう~夏休み!」のイベントが8月27日をもちまして終わりました。1か月以上に及ぶ鉄道模型のイベントとなり、STMC滋賀鉄道模型愛好会が始まって以来の最長の運転会でした。自分もこの運転会に合わせて、新たに組みたて式線路やポイントモジュールを製作したり、いろいろと準備しており、それらの全てが最終日まで活躍でき、多くの子どもさん達に鉄道模型運転体験を楽しんでもえたことに大変満足しています。運転会は週末だけでしたが、会場が自分の地元だったので、平日も午後から閉館時間まで会場に出向いてメンテナンスをしたり、子どもさんが見えたら展示運転だけさせて頂いたりしていました。慶雲館のスタッフの方々も平日に自分が顔を出すと大変喜んで下さり「やっぱり列車が動いていると良いね」と声をかけて下さいました。この館でスタッフさんといろんな話をさせて頂くことができて楽しかったてす。ほぼ毎日、午後に会場の慶雲館に足を運んでいると、自分もここで働いているような錯覚に陥りました。酷暑の中でも館の中は快適で、涼しく過ごさせていただきました。明日からはここに来れないと思うと寂しさがこみ上げてきます。

子どもさん達に大変人気があった「トーマス」。バックマン製になります。

同じ時期に長浜鉄道スクエアにおいては「鉄道模型展示~北陸本線の車両を集めて~」が開催され、自分の所有している鉄道模型から展示させていただきました。これも今日で終わりになります。展示ケースに並べる時には、大変狭い展示コーナーに身体を横にしながら入っていき、まずは長い展示用線路をガラス板に置いてから車両を先頭車から繋いでレールに乗せていくという方法で展示していきました。撤収はその逆の行程で車両を引き抜いてから、線路を引いて撤収していく作業をしました。沢山の来館者の方々に見ていただくことが出来て良かったと思っています。展示を終えた北陸本線の列車は、また自宅レイアウトで活躍してくれることになっています。

今回の運転会で使用したパワーパックとカトー製のサウンドボックス。
カトー製のサウンドボックスに対応した「サウンドカード」いろいろな列車の音が納められています。

今回の運転会ではカトー製品の「サウンドボックス」を使用しました。パワーパックとしては使用せずに、列車のサウンドのみの使用でした。よく使っていたのが、体験運転時にトミックス製の223系2000番台を使用している時に、列車の動きに合わせてこちらからドアが閉まる音、出発の警笛の音、停車前のATS動作音、ドアの音を出してあげました。メロディーホーンも使うと大変喜んでもらうことができました。大変リアルなサウンドが「サウンドカード」に納められており、スイッチボタンの操作で音をだせます。今回は出力端子に外部スピーカーを繋いで、音を大きくしてみました。子どもさんたちに大変好評でした。他には、新幹線N700系のチャイムや165系電車の警笛音と鉄道唱歌のオルゴール音も時々鳴らして、会場の雰囲気を作ったりもしていました。運転している時にその電車の音がしてくるのは大変効果的で、リアルな運転感覚を味わうことができます。運転している人のタイミングをしっかりと取って音を出していくわけです。

体験運転会の必須アイテムとなったコントローラ。

上の画像は体験運転用のコントローラになります。ゲームの「電車でGO!」で使用する専用コントローラを使って、鉄道模型のパワーパックに改造してある製品を20年以上前にオークションで購入したものになります。ハンドルを手前に倒すと力行、上に倒すと制動、その中間にノッチオフの「切」があります。このタイプのコントローラは小さな子どもさんにも扱い易く、コントロールを教える側にとってもやり易いものです。運転会ではずっと使っていて、時に手荒な操作にも遭遇しますがこれまで壊れることはありませんでした。体験運転会には無くてはならない「大切な機器」と言えます。コントローラの直ぐ上の線路に乗っているのは、今回の目玉企画、タカラトミー製のご存じプラレールを使った改造鉄道模型になります。下回りはインサイドギア方式の動力台車と、要らなくなった鉄道模型の金属製台車を取り付けています。走行は大変スムーズで高速走行ができます。

プラレールの情景パーツを改造した跨線橋。

上の画像は体験運転用線路に設営したホームの跨線橋になります。開催当初はむき出しの板をホームに見立てて行っていたのですが、やはり駅のホームらしく跨線橋を置くことにしました。これもタカラトミー製のプラレールの情景部品になります。落ち着いた色に塗装をして、ホームの上に置くことができるように高さを木材で調整しています。パンタグラフを上げたままでも約10mmの余裕があります。実はこの跨線橋は以前に自宅レイアウトのストラクチャーとして使っていたものです。

会の主宰が設営された体験運転コーナー。

上の画像も、今回の目玉企画になります。これは会の主宰が所有している今から約50年前のカツミ製とエンドウ製の鉄道模型で、今回は来場者が自由に運転できるようにセットしていました。このコーナーにもプラレールを使った鉄道模型を用意しました。線路磨きと脱線時の対応は慶雲館のスタッフに行ってもらいました。親子で楽しく運転される光景を沢山見させて頂くことができました。

夏休みを通して運転会ができました。

7月15日から一か月以上にわたって開催した鉄道模型運転会。終わってしまうと大変寂しく感じます。たくさんの子どもさんたちの笑顔と歓声。優しく見守って下さった親御さん達の姿。マニアックな質問をしてくださった模型ファン。飽きることなく走る列車を見てくれた青年。どれも自分には大変貴重な思い出となりました。この運転会に来てくださったすべての来場者の方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。