リニア鉄道館訪問記~2024夏

2024年8月3日(土)に、愛知県名古屋市にある「リニア鉄道館」行ってきました。この施設には開業時とその後数回訪れていました。最近はもっぱら京都鉄道博物館に足を運ぶことが多くなっていましたが、今回たまたま名古屋に行く用事ができたのでそのついでに久しぶりに見学してみることにしました。ただこの日の名古屋は猛暑で、エアコンが効いている館内でも汗が吹き出してしまいました。暑いので少し足早で回りましたが、見てきた様子を紹介させて頂きます。

JR名古屋駅から「あおなみ線」に乗車して、終点の「金城ふ頭」で下車したらもうこの建物が見えてきます。

入場料は1000円。京都鉄道博物館より500円も安いので、何か得した気分になりました。入館したらうす暗いスペースに東山公園にいたC6217号機と新幹線試作車両の300X、そしてリニアの試験車両がお出迎えしてくれました。新幹線の映像がバックに映し出されていました。ドラマティックなエントランスといったところです。

エントランスの壁には歴代の蒸気機関車のナンバープレートが奇麗に展示されていました。こうみると蒸気機関車のナンバープレートは意外にカラフルだったようです。

300系新幹線の試験車両の300X。この車両のお陰で新幹線270キロ時代を切り開いたといえるでしょう。

館内に進むと色々な車両が展示されています。まずは新幹線車両を紹介していきます。上の画像はご存知初代0系新幹線。東海道新幹線開業時の車両になります、自分も米原駅からこの新幹線に乗って旅に出たものです。中学3年生時の修学旅行でも0系で東京まで行きました。

上の画像は100系新幹線になります。バブル期に登場して、2階建て車両も繋いでいました。当時「シンデレラエクスプレス」というJR東海のコマーシャルが流れていました。自分も教員時代に小学部6年生の児童を引率して神戸に修学旅行に行った時にも乗りました。自分が1番好きな新幹線です。「こだま」でのラストランの時には2階建てのグリーン車に乗ったのを覚えています。

100系新幹線の車内になります。

こちらは100系新幹線の168型で、2階建ての食堂車になります。

2階席からの眺望を楽しみながらの食事は、さぞや美味しかったことでしょう。

1階部分を通る通路になります。

食堂車には国鉄車両のエッチング板が飾られていました。

1階の厨房から2階食堂へ食事を上げ下げするエレベーターがあります。

上の画像は300系新幹線の試作車両になります。

その横には700系新幹線の先頭車が展示されていました。

そして屋外にはN700系新幹線が先頭車と普通車、そしてグリーン車の3両で展示されていました。室内はエアコンが良く効いていて涼しく座席にも座れるので、たくさんの入館者が休憩されていました。さながら現在の新幹線に乗っているような錯覚を覚える車内でした。

リニア鉄道館のN700系新幹線の運転シミュレーター。実物大の運転席に座って、大迫力の走行映像を見ながら運転できます。人気が高く、この日も予約で一杯でした。在来線の運転シミュレーターは入口で待っていたら運転ができるようでした。

上の画像は一昔前のドクターイエロー922形になります。現在の車両も引退が発表され、2027年には全て廃止される様です。

歴代の新幹線車両の先頭車デザインの変遷も展示されていました。

ここからは在来線の展示を紹介します。これはホジ6005形式の蒸気動車です。片方の台車が動力車になっています。

ED11形電気機関車。

C57139のお召し列車牽引機。

ここからは館の奥に納められている車両たちになります。これはスニ30形荷物車。

寝台車や気動車が展示されています。

気動車キハ48000形式。初期の塗色を纏っています。

キハ82形気動車の特急「ひだ」。

かつて165系の大垣夜行にも2両連結されていたサロ165形グリーン車。

165系電車のクモハ165形。急行「東海」のヘッドマークが掲げられています。

こちらは117系近郊形電車のクハ117形。中京圏でも新快速として活躍していました。

オハ35型客車の車内。ドーム形の室内灯が懐かしかったです。

111系近郊形電車のクハ111-1。

キハ181形。特急「しなの」になります。

こちらは関西急行色の「流電」、モハ52形。以上がリニア鉄道館に展示されている大部分の車両の紹介になります。以下は、鉄道ジオラマの紹介をして行きます。

ジオラマは名古屋を中心に東京エリア、関西の京都、奈良、鳥羽、大阪エリアが大変リアルに作り込まれています。

夜の名古屋駅の表現。高層ビル群の灯りも映えて大変綺麗です。

ささしまライブの表現です。ライブ会場の表現は無数の人形が置かれていて圧巻です。

新幹線の保守車両もあり、夜間シーンで走行していました。

背景の富士山の表現が大変見事でした。

こちらは遊園地の表現になります。

名古屋駅周辺の表現になります。

三重県エリアにある伊勢神宮と春の山の表現。手前は伊勢湾でしょうか。

こちらは関西エリアの大阪駅をイメージした駅になります。どの部分にも架線と架線柱がリアルに作られていて大変リアルでした。

鳥羽の駅をイメージした海沿いの駅。海の表現が素晴らしかったです。大変見ごたえのある鉄道ジオラマで、今回久しぶりに楽しませてもらいました。

大変暑かったので足早に見て回り、直ぐに帰路に着きました。帰りに米原駅に着いたらちょうどドクターイエローT4の「こだま検測」があり、大勢の人が間近に引退間際の車両を見ておられました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

lリニア鉄道館の鉄道ジオラマ
ドクターイエローのこだま検測

良き国鉄時代・特別編~懐かしい記念切符①~

久しぶりに「良き国鉄時代」の特別編として、1972年から1973年にかけて収集していた国鉄の記念切符を紹介してみたいと思います。1972年は「鉄道100年」という記念イベントが各地で開催された年でした。自分は小学校6年生の頃になります。鉄道好きな私のために、今は亡き父親が国鉄各地の駅に返信用の封筒を同封して現金書留で記念切符を買い集めてくれていました。余談になりますが、当時父親は米原郵便局に勤務しており、記念切手が発売されると、これもまた買い集めてくれていました。切手の方は既に処分してしまいました。懐かしい記念切符で、また良き国鉄時代を楽しんで頂けたら幸いです。

中でも入手して一番嬉しかったのが1973年9月1日発行の「北陸線特急シリーズ」の金沢駅記念入場券でした。1973年の8月18日から10月14日まで、石川県金沢市で「日本海博」という催しがされた時の記念切符ということで発行されたようです。好きな北陸線の特急が扱われていて宝物のようにして保管していました。10種類の記念切符はどれも金沢駅の入場券で、料金は30円だったようです。なお切符の裏面に書かれてあった各特急の「おいたち」をそのまま画像の下に書き写させて頂きました。

■特急「白山」号のおいたち

〇昭和47年3月15日 金沢・上野間に昭和29年10月1日から運転されていた急行「白山」号を、特急電車に格上げして、特急1往復登場。
〇昭和47年11月24日 金沢・上野感1往復増発。(2往復)

■特急「しらさぎ」号のおいたち

〇昭和39年12月25日 北陸線富山までの電化完成とともに、北陸線初の特急電車として富山・名古屋間に登場。(1往復)
〇昭和43年10月1日 富山・名古屋間1往復増発。(2往復)
〇昭和46年4月26日 金沢・名古屋間1往復増発。(3往復)
〇昭和47年3月15日 北陸線初の月光型特急電車を投入して1往復増発、全列車を富山・名古屋間の特急とする。(4往復)

■特急「雷鳥」号のおいたち

〇昭和39年12月25日 北陸線富山までの電化完成とともに、北陸線初の特急電車として富山・大阪間に登場。(1往復)
〇昭和41年10月1日 富山・大阪間1往復増発。(2往復)
〇昭和42年3月18日 金沢・大阪間週末臨時1往復増発。
〇昭和43年10月1日 富山・大阪間1往復増発。(3往復)
〇昭和44年10月1日 金沢・大阪間1往復増発。(4往復)
〇昭和45年10月1日 富山・大阪間1往復増発。(5往復)
〇昭和46年7月30日 富山・大阪間臨時1往復増発。
〇昭和47年3月15日 富山・大阪間2往復増発。(7往復)
〇昭和47年6月 4日 富山・大阪間1往復増発。(8往復)
〇昭和47年10月2日 2往復増発、富山・大阪間8往復、金沢・大阪間2往復運転。(10往復)

■特急「北越」号のおいたち

〇昭和45年 3月1日 大阪・新潟間の特急電車゜として1往復登場。
〇昭和48年3月1日 大阪・新潟間1往復、金沢・新潟間1往復増発。(3往復)

■特急「はくたか」号のおいたち

〇昭和40年10月1日 北陸線初の気動車特急として昭和36年10月1日から大阪-青森・上野間に運転されていた白鳥号を分離し、金沢・上野(信越線経由)特急気動車はくたか号として単独運転登場。
〇昭和44年10月1日 北陸本線電化完成とともに、上越線経由の特急電車に変身。

■特急「日本海」号のおいたち

〇昭和43年10月1日 北陸を貫通する日本海縦貫線、大阪・青森間に、特急寝台列車として1往復初登場。
(付記)ブルートレイン特急「日本海」号は、約1000キロを機関車リレーで走破します。大阪・米原間EF65型、米原・田村間DE10型又はDD50型、田村・金沢間EF70型、金沢・秋田間EF81型、秋田・青森間ED75型

■特急「つるぎ」号のおいたち

〇昭和47年10月2日 大阪・新潟間、寝台急行「つるぎ」号を特急に格上げ、スピードアップ。(1往復)
(付記)「つるぎ」号の前身。昭和36年10月1日 高岡・大阪間、準急つるぎ号として登場。昭和38年4月20日 金沢・大阪間、急行に格上げ。昭和40年10月1日 富山・大阪間の夜行急行列車とする。昭和47年3月15日 急行つるぎ号、富山・新潟間延長、全車寝台列車とする。

■特急「白鳥」号のおいたち

〇昭和36年10月1日 北陸線に初めて特急(気動車列車)として大阪-青森・上野間(併結)に1往復登場。
〇昭和40年10月1日 金沢・上野間特急気動車「はくたか」号新設に伴い、大阪・青森間単独運転。
〇昭和47年10月2日 日本海縦貫線電化完成とともに、特急電車に変身。大阪・青森間1059.5キロを一気に走りぬく電車特急ロングランの世界記録を樹立。
〇昭和39年12月25日 北陸線富山までの電化完成とともに、北陸線初の特急電車として富山・名古屋間に登場。(1往復)
〇昭和43年10月1日 富山・名古屋間1往復増発。(2往復)
〇昭和46年4月26日 金沢・名古屋間1往復増発。(3往復) 〇昭和47年3月15日 北陸線初の月光型特急電車を投入して1往復増発、全列車を富山・名古屋間の特急とする。(4往復)

■特急「ひだ」号のおいたち

〇昭和43年10月1日 金沢・名古屋間(高山線経由)の特急気動車として1往復登場。
(付記)北陸線で「ひだ」の列車名が使われたのは、昭和33年3月1日高岡・名古屋間(高山線経由)に運転された準急気動車ひだ号に始まります。

今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

HOナローゲージ~その後

このブログで紹介してきている鉄道模型のスケールは80分の1がメインで、16番ゲージの線路幅16.5mmの鉄道模型になります。自宅の離れ約20畳に展開している自宅レイアウトもこの16.5mmゲージです。あとは80分の1で線路幅が13mmで狭軌感が秀逸の13mmゲージも少しだけですが離れの2階に線路を敷いて楽しんでいます。以前にこのブログで「ナローゲージ」について書いたことがありましたが、そのナローゲージの鉄道模型も走ることができる環境を作ろうと思い立ち、現在製作を続けているところです。

前回は線路の敷設とストラクチャーを大まかに配置していました。その後、ストラクチャーを並べる地面を作りました。建物には室内照明を組み込みたいので、ベース板の建物の下にドリルで直径10mmの穴を開けました。

地面はまずプラスターを板に塗りつけてから、扇形庫機関区の地面と大カーブの色合いにアクリル絵の具で着色していきました。毎回、この色作りに苦労します。まず茶色と黒、そして白を混ぜ合わせて薄い肌色を作ります。そしてその色水で着色していきました。一回塗ってから一晩乾燥させて、色に合わせて今度は薄いねずみ色の色水塗り重ねていきました。そしてようやく同じような色合いの地面になりました。

本線の大カーブの内側にスペースができ、今回は水田を表現することにしました。床用のカーペット素材を小さく裁断して敷いていきました。必ず通り道を空けるようにしていくのがポイントです。もっとリアルな素材を使って表現しようかとも思いましたが、この場所のトーンは建物にプラモデルをそのまま使ったりしており、少し遊び心がある場所なので、これで様子を見ようと思いました。

ストラクチャーの間にはバスやタクシー、自家用車を置いて観光地の街並み風を表現しています。またナローゲージの終点には「歴史民俗博物館」と称して、幟や立て看板そして100分の1のゼロ戦の模型も置いて雰囲気を作りました。よく温泉街の観光地にある資料館のような雰囲気を作ってみました。

地面を作った後はナローゲージのフレキシブルレールを犬釘で固定して、バラストを敷きました。HOゲージの本線で使用したものと同じパラストを撒いていきました。線路の下に隙間もあったので、ちょうどその隙間を埋めていく形でバラストを撒くことができて良かったです。やはり線路にバラストを敷くと線路が引き立ちます。結構好きな作業になりました。筆で枕木が見えるようにバラストを整えてから、中性洗剤を数滴たらした表面活性剤入りの水を線路全体にスプレーしていきました。そして最後は木工用ボンドを3~5倍に水で薄めた「ボンド水」を付けていきました。

一晩経つとバラストが敷かれた線路が完成しました。ただ、ボンド水がバラストを持ち上げている箇所もあったりするので、ピンセットで枕木の上に着いたバラストを取り除いていきました。今回、ナローゲージの線路はNゲージのものを使いましたが、枕木の間隔がやや広くなったナローゲージ用線路もあります。これにしても良かったのですが、実際の尾小屋鉄道の写真を見て、普通の線路を使うことにしました。線路にはもちろんタミヤのカラースプレー「レッドブラウン」で塗装を施してあります。

そして今回初めて「自動往復運転装置」なるものをこの線区に使ってみました。オークションに出ていたものを購入、線路の終点箇所にダイオードを半田付けして、併せて線路の片側に切り込みをいれます。模型の動力車はこの部分を通り過ぎた所に停車して、決められた時間が経つと来た方と反対方向に走り出していきます。パワーパックに装置を繋いで、線路にフィーダーを設けたら完了です。実に優れた装置で、停車している時間も自由に設定できます。この装置のお陰でパワーパックでの前進後進の運転をする必要が無くなるわけです。手放し状態で駅から駅までの運転ができます。本来ならナローゲージだけでオーバル線路が敷設できると良かったのですが、スペースが厳しいので諦めざるを得ませんでした。この往復運転装置の導入でまた新たな運転シーンを楽しむことが出来るようになりました。自宅レイアウトは本線2線と機関区とヤード入れ替え線の運転。そしてこのナローゲージと同時に4線の運転が可能となりました。

☆本線に短い橋を作りたかったので、ここは無理やり河川にしてみました。                 本線の橋梁はエンドウ製のストラクチャーを切断して加工しています。

ナローゲージの魅力はスケールが80分の1で、本線の鉄道模型のスケールと同じであること。そして違う軌間の線路が共存して、走行シーンが見られることで大変立体的な運転が楽しめることにあるかと思います。しかもNの線路に80分の1の車両を走らせるために狭軌感が秀逸です。

自宅レイアウトは計画時点では本線は13mmゲージで在来線を敷設し、新幹線だけは16.5mmゲージで作っていこうと考えていました。そのためメインの駅ホームは「新幹線の米原駅」がモチーフとなっています。いつかは本線の外側線だけでも、第3軌条を敷設して13mmゲージの車両を走行させたいという夢は持っていますが、どうなりますことやら。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

HOナローの尾小屋鉄道ができました。

米原駅リニューアル工事の記録

前回は旧米原駅ホームの解体直前の様子を紹介しましたが、今回は新しくなった米原駅の建設過程を紹介させて頂きます。工事は旧ホームが解体されて、新しい2番、3番ホームが使用され始めた後の2007年くらいから開始されました。ちょうどその頃は自分が仕事で長浜から近江八幡まで電車通勤していた頃になり、建設状況に変化があると撮影して記録していました。当時書いたブログ記事をほぼそのまま再掲載しているため、読み辛い内容になっていることをご了承していただきたいと思います。

上の画像は1975年に撮影した米原駅なります。33年前に米原駅を陸橋から撮影した1枚で、ボンネット485系の北陸線特急やキハ58系ディーゼル急行の姿が見られます。よくこの場所から駅の列車を眺めたものでした。東海道本線と北陸線本線、そして東海道新幹線に近江鉄道を繋ぐ「交通都市」を象徴する駅として機能してきた駅と言えます。この記事の最後にこの場所から撮影した現在の写真を載せていますので、昔と今を比較してご覧になると楽しいかと思います。

上の画像は、2007年5月から長浜駅に続いて、米原駅のバリアフリー化工事が進められている様子になります。平成20年春に完成予定ということです。駅は橋上駅舎になって装いを新たにします。

上の画像は、2007年8月に平成21年春の完成を目指して、米原駅の橋上駅舎化工事が進められている様子になります。鉄骨の骨組みもだいぶ作られ、外観をイメージできるようになってきました。長浜駅の工事を思い出してしまいました。

上の画像は、2008年1月10日現在の状況です。ずいぶんと全景がわかるようになってきています。中に照明等も付けられていました。新しい橋上駅舎にむけて工事は着々と進められています。いよいよ来年の春には完成する予定です。バリアフリーの人に優しい駅に生まれ変わります。

上の画像は、2008年2月7日現在の工事進捗状況になります。だいぶ橋上駅舎の全貌が現れてきています。各ホームには、エスカレーターが設置されました。バリアフリー化に向けて大きな進歩といえそうです。これまで西口からの登りと新幹線ホームにしかなかったエスカレーターがやっと在来線ホームに出来ました!駅のエスカレーターは専用の貨車で駅のホームまで運ばれると聞いていましたが、一度その搬入の様子を見てみたいものです。

上の画像は、米原駅2008年2月12日の様子です。いよいよ新しく作られた橋上駅舎のコンコースが使用され始めました。これまでの駅建物の取り壊し作業に伴う暫定的な使用です。長い歴史を持つ跨線橋もいよいよ取り壊されます。新橋上駅舎の自動改札や駅事務室、発券機などは未設置のままです。1枚目2枚目がコンコースの部分の様子で、3枚目は使用が始まったエレベーターです。4枚目は、東口からのエスカレーター設置の様子になります。5枚目はホームから見た駅舎の北側になります。左が683系2000番台の特急「しらさぎ」、右は223系の新快速敦賀行きです。いよいよ「生まれ変わりつつある米原駅」といえそうです。

上の画像は、2008年5月の様子になります。これまで多くの旅人や通勤、通学客が通った米原駅の跨線橋。いよいよ封鎖されて取り壊しを待つだけになってしまいました。一部木造の暖かみのある跨線橋で、よく小窓からホームに入ってくる列車を眺めたものです。ちょっと寂しい気がします。長い間お務めご苦労様でした。

2008年当時の米原駅構内を陸橋から撮影しています。

上の画像は、2008年の春に撮影した米原駅になります。北陸本線の特急は485系から683系になり、当時客車だった普通列車は223系電車になりました。駅構内東側のホームがずいぶん西側に移されたことになりました。荷物運搬のテルハと跨線橋も無くなって、新しい橋上駅に生まれ変わりました。

上の画像は、2008年の秋ぐらいでしょうか、駅の西口に下り専用エスカレーターが新しく出来た様子になります。たまたま西口に降りた時に発見したもので、新設されてからずいぶん経っています。これまでは登り専用のみだったので、降りる時は長い階段を使うしかありませんでした。これでまた新しい駅になったように感じました。いよいよ今年春に、リニューアルとバリアフリー化が完成の予定です。
(写真は2008.12.20に撮影)

2009.3.21現在、JR西日本・米原駅のバリアフリー化、リニューアル工事が完成しました。改札口が橋上化されたことで、駅の東西自由通路が完成。駅に入らなくても自由に行き来することができるようになりました。各ホームのエスカレーターやエレベーターも完成し、「人に優しい駅」に生まれ変わりました。これからも滋賀県湖北地方を代表するメイン駅として大いに活躍してくれることでしょう。今回の記事は以上になります。米原駅が生まれ変わる様子を楽しんでいただけたでしょうか。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

223系新快速が自宅レイアウトを快走!

かつての米原駅の思い出~旧ホーム解体前の記録から~

今回は私が撮影した一昔前の米原駅を紹介させていただきます。私が初めて米原駅に行ったのは1963年頃でした。今は亡き父親に連れられて「汽車見」に連れて行ってもらっていました。「汽車見」とは汽車を見ることを私が名付けたものです。自分が「汽車見に行きたい」と言えば、父親はオートバイか自家用車に乗せて連れて行ってくれました。1963年はまだ3歳の頃で、何故覚えているかと言うと蒸気機関車の汽笛が大変怖かったという理由からでした。当時は米原駅には蒸気機関車が活躍していた頃で、米原~田村で交直セクションを繋ぐ接続用としてD50やD51が活躍していました。その蒸気機関車の汽笛が突然大音量で聞こえて、泣いて怖がっていたのを良く覚えています。「3つ子の魂100まで」とはよく言ったものです。

上の画像は、映画「駅」で電車特急「つばめ」が入線してくる1番ホーム。屋根を支える柱のデザインに歴史を感じさせてくれます。古い線路を材料とした柱もありました。1964年に岩波映画で制作された「駅」というドキュメンタリー映画があります。今でもたまに見たりしていますが、その舞台となっているのが米原駅です。昭和39年に製作されていて、まだ東海道新幹線が開通する前の時代でした。一番ホームにさっそうと入線するモハ20系(のち151系)の電車特急「つばめ」の姿が印象に残っています。その映画でも北陸本線に向かうD50蒸気機関車牽引の急行「立山」号が出ています。かつてC62形蒸気機関車が牽引していた特急「つばめ」号が停車していたホームがあった米原駅も、1998年頃から大規模な改修工事が始められ、古いホームがとり壊され、線路も外されていきました。同時に広大な貨物列車用の米原操車場も大改修されて更地になりました。そして現在のような構内に生まれ変わったのです。今後この広大な場所も整備されるようです。今回はその取り壊し工事の直前の様子を記録した写真を紹介させて頂こうと思います。

かつての米原駅はホームの下から入っていく形でした。出口看板の下にホーム下にある通路に繋がっていました。駅長事務室もこの1番線にありました。

ホームの洗面所には、家庭用洗面器に穴を開けてそのまま使われていました。大変懐かしい洗面所で、蒸気機関車から出る煙から顔に着く煤を洗うためにあったようです。蒸気機関車全盛期には「米原はスズメまで黒い」と言われていたようです。そういえば昔、米原駅東口の北側にあった神社の鳥居が黒かったのを覚えています。その辺りは、今は米原市役所が建っています。

1番線から西の方の2番線、3番線を見た様子になります。南側にあった跨線橋が見えます。

米原駅の南端には、荷物を各ホームに運搬するための「テルハ」と呼ばれた施設がありました。国鉄時代には主要な駅には必ずあった施設になります。鉄道による荷物輸送が盛んだったころの施設です。ホームにはターレット式駅構内運搬車もありました。

改修工事の頃に駅を俯瞰する陸橋から撮った駅構内になります。右端には名古屋に向かう485系特急「しらさぎ」が写っています。左端には新しく作られたホーム(現在の2番、3番線)が見えています。

新しいホームは以前の米原駅より西側に作られました。上の画像は中央に新しく作られた現在の2番、3番線ホームがあり、その左側つまり東側に取り壊されている旧米原駅のホームが見えています。

上の画像は米原駅構内の北側の線路配置になります。新しい配置になったホームへの新線にバラストが敷かれて整備されています。一番右に見える線路2線は後に撤去されています。

上の画像は、新線に切り替えられて、列車が走らなくなっていた3番ホームから5番ホームの様子になります。

上の画像は、跨線橋から撮影した新旧のホームになります。左側の2番線は主に東海道線の大垣方面からの電車が到着する番線になります。また東海道線を京都方面に行く貨物列車や優等旅客列車が通過しているホームです。右側が解体中の旧ホームで5番線の表示が見えています。奥の青い鉄橋は米原駅を俯瞰できる陸橋になります。よくこの陸橋から電車を撮影していました。

上の画像は、駅を俯瞰できる陸橋から撮影した駅構内になります。このエリアが現在の米原駅の構内になります。やがて跨線橋のあたりに立派な橋上駅舎が出来ることになります。221系は「新快速」として活躍していました。右奥の485系は特急「しらさぎ」です。

上の画像は、かつて米原駅の東口近くの旧近江鉄道米原駅舎近くにあったおでん屋さんの「想い出」になります。自分が若い時に、同僚と冬場に京都へ遊びに行った帰りに、このお店で美味しいおでんを食べたというまさに「想い出」があります。残念ながら今は無くなってしまっています。

上の画像は、跨線橋から解体中の旧ホームを撮影しています。茶色の三角屋根は旧米原駅の待合室や食堂があった建物です。

上の画像は、旧米原駅の東口になります。夜になると駅名が赤い文字で浮かび上がっていました。三角屋根の一階は広い待合室がありました。その奥には「ひかり」という食堂がありました。この食堂で今は亡き父親に中華そばを食べさせてもらうのが楽しみでした。今回の記事は以上になります。昔の米原駅を懐かしんでもらえたでしょうか?次回は新しくなっていく米原駅を紹介したいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを221系電車が快走。