敦賀赤レンガ~鉄道模型ジオラマ訪問記~

2024年6月13日(木)に、福井県敦賀市にある敦賀赤レンガ」に行ってきました。この場所には過去に何回か訪れていて、毎回素晴らしいジオラマの展示運転を楽しませて頂いていました。北陸新幹線敦賀延伸後は初めての訪問となり、ジオラマ展示の動画映像にも手を加えておられるのかも?と思って今回の訪問を考えました。平日の木曜日に行ってきましたが、中学生の団体客が見学に来られており、館内はたいへん賑わっていました。また訪れた日は、「昭和レトロなおもちゃ展」も開催されていて、たいへん懐かしいブリキの玩具を見ることができました。

赤レンガ倉庫の歴史が紹介してありました。1905年(明治38年)に石油貯蔵用倉庫として建設されたようです。

2009年には国の登録有形文化材になったようです。現在の南棟はレストラン館になり、北棟はジオラマ館になっています。

敦賀の特産品や海産物のお土産が販売されて、カフェに海鮮物の食堂と洋風レストランがあります。

南館と北館の間のスペースはこんな感じになっています。

お昼前にキハ28形気動車に迎えられて館内に入ると、お土産コーナーやカフェにレストラン、海鮮の飲食販売コーナーがありました。その奥に16番ゲージのジオラマ館があります。入館料金は大人400円で、1日ジオラマ館には何回も出入りすることができます。入館したらジオラマの映像による展示運転がちょうど始まったところでした。展示運転の様子はYouTubeにあげており、この記事の最後に貼っていますので良かったらご覧になってください。全編ではないですが、雰囲気はお解りいただけると思います。係の方に許可を得て撮影させて頂きました。

このジオラマは明治後期から昭和初期にかけての敦賀の懐かしい街並みを80分の1スケールで再現されています。ジオラマの中央には敦賀駅が鎮座しており、大きな扇形庫もあります。このジオラマは大変大きくて、全長が27.6メートル、奥行きが7.5メートルの「鉄道と港のジオラマ」になっています。

ジオラマのテーマが「敦賀」ということで、手前には敦賀駅そしてバックには敦賀湾が表現されています。上の画像はジオラマに向かって右手に展開されている「スイッチバック」の表現にある駅になります。キハ58系が自動運転でスイッチバックを通る様子が再現されています。

スイッチバックの所にはスイッチ操作で来館者が運転できるコーナーも設置されています。C11型蒸気機関車の列車を運転できます。

ジオラマのテーマになっている敦賀駅の全景。駅の手前には大きな扇形庫があります。

上の画像はジオラマの中にある橋梁になります。これは自分の自宅レイアウトの川の製作をするのに大変参考にした部分です。川面の表現が秀逸でした。

敦賀駅の左手にある小さな機関区になります。給水施設と給炭施設、そして車庫があります。蒸気機関車とディーゼル機関車が佇んでいます。

ジオラマの左手には大きなループ線があり、見事な山肌が表現されています。この山肌も自宅レイアウトを製作する際の参考にさせていただきました。

敦賀駅の前に作られた大きな扇形庫とホームになります。

ジオラマの左手、ループ線の方には。東洋紡の会社のストラクチャーがあります。フルスクラッチして製作された見事な建物です。

ジオラマのバックにある敦賀湾の方に展開されている街並みのストラクチャーも見事で、神社や学校も忠実に再現されていました。

金ヶ崎の港にはウラジオストクに行く船が停泊しています。そこまで敦賀港線が繋がっていました。ここからフランスのパリに繋がる国際列車に乗れたわけです。何とロマンに満ちた旅だったことでしょう。

敦賀駅近くの住宅街も一軒一軒製作された建物で大変リアルに表現されていました。

上の2つの画像は、ジオラマを見下ろすことができる2階部分から撮影しました。このジオラマが如何に大きなものなのかがよくお解りいただけると思います。このジオラマにはジオラマの下を潜って行って顔がだせる仕掛けがループ線の所と海の所にあります。ジオラマの中から見ることができるので、また違った見え方になろうかと思います。なかなか面白い演出になっています。敦賀の映像は敦賀湾の上部、2ヵ所に映し出されます。その動画映像ですが、以前は「もうすぐ北陸新幹線がここ敦賀にやってきます」というところが、北陸新幹線が3月16日に敦賀延伸開業したので「夢が現実のものとなって北陸新幹線となってやってきました」と編集されていました。ジオラマをゆっくり見た後は持参したお弁当でお昼をとり、敦賀駅の南側にある特急専用線への新線を走る683系を動画撮影して帰宅しました。何回来ても大変満足した気分になれるのが「敦賀赤レンガ」のジオラマです。自分がこれまで知っている鉄道ジオラマの中で、一番気に入っているのがここのジオラマになります。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

良き国鉄時代・最終回 No.57~これまで未掲載の写真から~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に撮影した写真になります。自分は中学3年生の時期で、どれもつたない写真ばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。それから毎回書いていることですが、車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと誠に勝手ながら思います。ご理解の程、どうぞよろしくお願いいたします。当ブログの鉄道写真趣味カテゴリーのメインとして連載をしてまいりました「良き国鉄時代」は、今回の投稿をもちましてひとまず終了とさせていただきます。このシリーズを投稿することで、画像を皆さんに楽しんで頂き、自分の手持ちの鉄道写真が全てデジタル化出来た事は、大変意義深いものであったと自負しております。これまでの投稿をまた見直して頂いたり、鉄道模型の製作等にも参考にして頂けたなら大変嬉しく思います。ではさっそく今回も懐かしい写真を紹介させていただくことにします。

上の画像は1975年に今は亡き父親に連れて行ってもらった東北旅行の時に、移動中の急行「津軽」の車中から撮影した583系交直両用寝台特急形電車の特急「はつかり」になります。トレインマークは字だけの時代でした。ちなみに自分が高校の修学旅行で上野から青森まで乗ったのも、この583系特急「はつかり」でした。特急電車のボックス席は広くて、乗り心地も大変良かったのを良く覚えています。長旅も全く気になりませんでした。

上の画像は同じく1975年に東北旅行の移動中の列車から撮影した583系交直両用寝台特急形電車による東北本線の特急「はつかり」になります。昼に夜に大活躍していたのが583系でした。

上の画像は1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「はつかり」になります。夏休み中だったので、ホームには旅行客が溢れんばかりでした。対面には青い旧型客車も停車中で、なかなか良き時代の一コマといえそうです。旧型客車には当然のことながら冷房は無く、窓を開けて涼を取っていました。真鍮製のつまみを両手で握って、上に上げていく大変重たかった窓を思い出してしまいます。

上の画像も1975年、東北旅行で乗車している急行「津軽」の車中から撮影した485系交直両用特急形電車の上野行き特急「はつかり」になります。貫通扉が付いている初期型のタイプです。

上の画像は1975年に東北本線の何処かの駅で撮影した485系交直両用特急形電車による特急「やまびこ」になります。夏休みでこの駅も行楽客で溢れていました。発車していく列車を見送る駅員さんの姿が好ましく見えます。特急の停まる駅はたいていが大きな駅で、どの駅も活気にあふれていたように記憶しています。

上の画像は1975年に父親と東北旅行に行った時に青森駅で撮影した20系の寝台特急「あけぼの」になります。この20系の緩急車は窓の数から判断して、ナハネフ23形寝台客車かと思います。20系の切り妻形緩急車でした。青森駅のホーム近くに留置してありました。

上の3枚の画像は、1975年に青森駅で撮影した大阪発青森行き寝台特急「日本海」になります。当時は白帯の24系寝台客車で運転されていました。この終点青森には11時45分に到着していました。この写真も今は亡き父親といった夏の東北旅行で撮った写真で、自分たちは寝台特急「日本海」が到着したあと発車することになる、12時40分発の急行「きたぐに」大阪行きに乗車して、一夜を通して長浜まで帰ったのだと思います。この寝台特急「日本海」には大学生の時に岩手の友人を訪ねた後に青森から敦賀まで乗車しています。そして結婚してからもまだ幼い息子と一緒に敦賀から秋田まで乗ったことがあります。この時も岩手の友人に会っています。

上の画像は1975年に敦賀駅へ撮影に行った時に撮ってもらった当時の私になります。当時自分が通っていた中学校は、男子は全員が頭髪を丸刈りにしないといけない時代でした。今では考えられない校則ですね。写真には485系特急「雷鳥」と一緒に写る嬉しそうな自分が居ます。首からかけているカメラは愛用していたアサヒペンタックスSPFで、これまでの「良き国鉄時代」の写真はこのカメラで撮影していました。バックの雷鳥のテールランプが点灯しているように見えるので、大阪行きの「雷鳥」と一緒に撮ってもらったのでしょう。誰に撮ってもらったのかは覚えておらず、当時の鉄道好きの友人か、白黒写真なのでひょっとすると今は亡き父親に撮ってもらったのかもしれません。

これまで当ブログ「良き国鉄時代」の記事をご覧いただいたことに感謝いたします。自分でもこれまでの鉄道写真のデジタル化が出来て大変有意義でした。これからもまた懐かしい記事に、時々お立ち寄り頂けたなら幸いです。今回の記事は以上になります。まとまりのない内容で申し訳ありませんでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代No.56~これまで未掲載の写真から~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年から1980年にかけて撮影した写真になります。自分は中学3年生から大学2回生の時期で、どれもつたない写真ばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。それから毎回書いていることですが、車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと誠に勝手ながら思います。ご理解の程、どうぞよろしくお願いいたします。では早速懐かしい写真を紹介させていただくことにします。

上の画像は、1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したEF58形直流電気機関車81号機(広)牽引の寝台特急の回送になります。バックに見えるのがサントリー山崎蒸留所になり、撮り鉄さんにはこのあたりの撮影ポイントを「サントリーカーブ」と呼ぶらしいです。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎駅付近で撮影したEF58形直流電気機関車93号機(宮)牽引の14系座席急行列車の回送になります。最後尾にはマニ37形荷物車を連結しています。当時、新大阪と九州を結んでいた座席車による夜行急行列車が運転されていました。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎付近で撮影した485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」の回送になります。ボンネットの先頭車で字だけの愛称版が好ましかったものです。

上の画像も1976年に東海道本線の山崎付近で撮影した581系交直両用寝台特急用電車による寝台特急「明星」の回送になります。当時この撮影ポイントに行けば、次々にやってくる優等列車を撮影することができました。高校2年生の時に鉄道好き友人と撮影に出かけた時の写真です。

上の画像は1980年に東京駅で撮影した大阪行き寝台急行「銀河」になります。車掌室の横に展望スペースがあったナハネフ22形寝台客車は大変魅力的で、東京から米原まで乗車した時も、この展望スペースから東京の流れる夜景を楽しんだものでした。

当時は20系寝台客車が使用されていました。客車のサイドには20系独特の丸みを帯びた各種の表示窓がありました。

同じ寝台急行「銀河」を縦構図で撮影したものになります。字で「急行EXPRESS」と表示されていました。この20系の字だけの急行表示も好きでした。

上2つの画像は1980年に撮影した山手線の103系直流通勤形電車になります。103系の高運転台が活躍していた頃で、当時私は大学2年生の頃になります。この写真はその当時東京の大学に行っていた友人を訪ねて行った時に撮影しました。ウグイス色の103系を見ると「東京に来たんだな」という気持ちになったものでした。

上の画像も同じ時に東京で撮影した103系低運転台になります。総武線の各駅停車は、カナリア色の103系が活躍していました。ちなみに中央線の快速にはオレンジ色の103系が使われていました。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車牽引の寝台特急「ゆうづる」になります。常磐線経由で上野~青森を走っていました。残念ながらヘッドマークは取り付けられていなかった時になります。

こちらは上野に到着した寝台特急「ゆうづる」の最後尾になります。窓の数が多いので座席車ナハフ21を改造したナハネフ21だと思います。

終点に着いてこれから推進運転で尾久客車区へ回送されていくのでしょう。貫通扉が全開で開かれています。

上の画像は1975年に上野駅で撮影した485系300番台交直両用特急形電車になる東北本線の特急列車かと思われます。残念ながら愛称が見えていません。

上の画像は1975年に尾久客車区で撮影した20系の寝台特急「安芸」になります。この20系の呉線経由「安芸」は以前にも書きましたが短命な列車でした。

上の画像は1975年に撮影した20系寝台特急「あけぼの」になります。残念ながらどこの駅で撮影したのかが解りません。パンタグラフを撤去したカニ22が印象的でした。

上の画像は1980年に両毛線の佐野駅で撮影した115系直流近郊形電車になります。先頭に荷物電車を繋いでいる普通電車です。大学時代に友人の故郷を訪ねた時の写真です。

上の画像は1980年に撮影した165系直流急行形電車による急行「内房」になります。内房線の急行電車になりますが、どこの駅で撮影したのかが解りません。当時、シンガーソングライターの南こうせつさんが「房総西線」という曲をリリースされていて、歌詞の中に「内房5号」という列車名が出てきたのを覚えています。ひょっとしたら両国駅でしょうか?この曲が納められているアルバムは「旅立てばそこから男」というアルバムです。

上の画像は1980年に撮影した夜の東京駅になります。113系の横須賀線が停まっています。駅名表示もノスタルジックで良い雰囲気を醸し出しています。

上の画像はこの旅の途中で撮影した深夜の豊橋駅になります。おそらく大垣発東京行きの普通電車から降りて撮影したものと思われます。深夜の駅の情緒が伝わってくるような写真になっていました。車両以外の鉄道写真もなかなか良いものです。今回の投稿は以上になります。まとまりの無い投稿で申し訳ありませんでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウト、シーナリィ線区の延長工事。

新しいシーナリィ付き線路を走る683系とEF65牽引のブルートレイン。
シーナリィ付きの線路を延長しました。

自宅の離れ約20畳に展開している自宅レイアウト。昨年は約1年がかりでシーナリィ付きの線区を製作しました。1つ出来上がるとまた次の所に気が行くようになります。シーナリィ線区の電気機関車区に向かう線路(長さ約1メーター位)にまた新たにシーナリィを付けていくことにしました。今回は6月8日に鉄道模型友人が4人自宅レイアウトに遊びに来てくれることになっている事もありそれまでに少し手を加えてみることにしました。自宅レイアウトのシーナリィ線区は山線をイメージしてあるので、基本的にはその山線の延長工事をすることになります。ただ設置してある組み立て式線路部になるので、組み立て式線路区間にシーナリィを施すことになり、板ベースから製作するのとは勝手が大きく違いました。

まずは山肌を表現するバック板を付けました。ベニヤ板に緑色のラッカースプレーで着色し、レイアウトボードに自立するように取り付けました。次に組み立て式線路をレッドブラウンの缶スプレーでこげ茶色に塗装しました。段ボールで覆いながらそのままで塗装しました。あとからシンナーで線路の上に着いた塗料を拭き取っていきました。これでイメージは出来上がりました。

次に山肌の基礎になる部分の骨組みをスタイロフォームと工作用紙を紐状にして作りました。今回はスタイロフォームを多めに使いました。熱線カッターで切りとり、専用接着剤で固定していきました。裾の部分は今回は厚紙を使って面一になるように覆うことにしました。線路の周辺や凸凹しているところには紙粘土を使って埋めていきました。

次は新聞紙を手のひらサイズに切って、薄いボンド水に浸してペタペタと貼っていく作業をしました。毎回行っている地面づくりの作業になります。乾いてから今度はキッチンペーパーにプラスターを溶いてボンドを加えたものを浸して貼っていきました。今回は薄いキッチンペーパーを使ったので破れやすかったです。やはり少し厚手のものが良さそうです。線路の間は木の端や紙粘土、厚紙等を使って埋めて行きました。今回は紙粘土を5袋位使いました。これで地面のベースは完成したことになります。

毎回シーナリィ製作の途中で現れる「雪景色」も今回は短い区間となりました。今回は時間がないので、雪景色での運転はしないで次の製作工程に移っていくことにしました。

そして次の行程として、線路にバラストを敷きました。毎回大変楽しみな作業です。まずは線路の上にバラストを大まかに撒いていきます。それから筆を使って、バラストが枕木の間に収まるようら作業します。作業のポイントは「バラストで枕木を隠してしまわない」という点になります。だいたい綺麗に撒けたなら、中性洗剤を数滴入れた水をバラストの上にスプレーをします。中性洗剤の活性作用で、あとから入れていくボンド水の染み込みが上手くいきます。ボンド水は木工用ボンドを水で3~5倍に溶いたものになります。後はボンドが乾燥するのに1晩おいておくことになります。乾いたらピンセットを使って、枕木に付いているバラストを丁寧に取り除いていく作業をします。乾いた後は冒頭の画像の様に、暫しの試運転を楽しみました。バラストを敷いたポイントの動きも大丈夫でした。

ここまで来たら後は山肌に草木を表現して、地面にも草木を表現する作業をしていくことになります。草木は以前にも紹介していますが、樹木のキットを使って沢山製作しなければなりません。6月8日のプライベート運転会までには出来そうもありませんが、準備はしていこうと思っています。新たなストラクチャーを製作して設置することもできます。一部分に短いガーダー橋を設置して、下に小川を作ることも良さそうに思います。製作途中に、あれこれと考えていくのが楽しいです。いずれはシーナリィー付き線区を増やしていって、ホーム部とヤード部にまで施工していきたいと考えています。レイアウト全体をシーナリィのあるレイアウトにしていくことが大きな目標になります。そこまでできたなら鉄道模型雑誌の「TMS鉄道模型趣味」が開催されている「レイアウトコンペ」に出展したいと思っています。これからも思いを巡らしながら楽しんで製作を進めていきたいと思います。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

2024年6月4日現在の工事区間。少し緑を表現してみました。
前回と同様に山肌の表現にはまた沢山の樹木が要りそうです。
新しいシーナリィ区間を早速試運転です。

良き国鉄時代No.55~未掲載の写真から~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年から1977年にかけて撮影した写真になります。自分は中学2年生から高校2年生の時期で、どれもつたない写真ばかりではありますが、良き国鉄時代を振り返って頂けたなら幸いです。それから毎回書いていることですが、車両の形式等についての記述に誤りがあるかもしれません。このブログでは懐かしい写真を楽しんで頂くことが主なので、どうぞご容赦頂きたいと誠に勝手ながら思います。ご理解の程、どうぞよろしくお願いいたします。では早速懐かしい写真を紹介させていただくことにします。

上の画像は、1976年に東海道本線の醒ヶ井~米原間で撮影した485系交直両用特急形電車による富山発名古屋行きの特急「しらさぎ」号になります。この撮影ポイントは米原を出て大きくカーブするところで、以前に紹介した東京行きのブルートレインを早朝に撮影した場所です。字だけのトレインマークは個人的に気に入っていました。

上の画像は、1976年に東海道本線の醒ヶ井~米原間で撮影した381系直流特急形電車(機械式振り子電車)による大阪発長野行きの特急「しなの」号になります。この撮影ポイントは米原を出て大きくカーブするところで、以前に紹介した東京行きのブルートレインを早朝に撮影した場所です。振り子式電車で、車体が内側に傾いている様子が良く解ります。

上の画像は1976年に東海道本線の醒ヶ井~米原間で撮影した489系交直両用特急形電車による名古屋発富山行きの特急「しらさぎ」号になります。冒頭の2枚を撮影したポイントの線路を挟んで反対側から米原に向かう上り列車を撮影しています。大形のヘッドマークが字だけで好ましかったです。この頃の特急電車にはグリーン車の他、食堂車も繋いでいました。形式はサシ489形で、後々北斗星やトワイライトエクスプレスの食堂車に改造されて活躍しました。同様にサシ481も寝台特急の食堂車に改造されました。形式はスシ24でした。

上の画像は1977年に北陸本線の長浜~虎姫間で撮影した475系交直両用急行形電車による米原発敦賀方面行きの普通列車になります。この2M1Tの3両編成が2編成繋げられた編成は、米原~金沢を結んで走っていた急行「くずりゅう」と同じ編成でした。この電車は各駅停車の普通列車で、写真のヘッドマークは無地になっていました。

上の画像は1977年に北陸本線の長浜~虎姫間で撮影した489系交直両用特急形電車による金沢富山方面行きの特急電車になります。ヘッドマークが雪で隠れてしまっていて列車名は解りません。おそらく「しらさぎ」ではないかと思われます。

上の画像は、1975年に北陸本線の虎姫~長浜間で撮影した581系交直両用特急形寝台電車による特急「しらさぎ」富山発名古屋行きになります。博多と名古屋を結んでいた寝台特急「金星」号の間合い運用として名古屋から富山に1往復だけしていた「しらさぎ」になります。

上の画像は、1976年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した14系寝台特急「さくら」号、長崎・佐世保発東京行きになります。夏場だとこのブルートレインは米原付近でも撮影可能でした。5時35分頃に東京に向けて走り去っていきました。この時の牽引機は東京機関区のEF65形500番台直流電気機関車でした。

上の画像は、1976年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した東京発大阪行き寝台急行「銀河」号になります。20系で運転されており、最後尾はナハネフ22が繋がれていました。牽引機はEF58直流電気機関車でした。

上の画像は、米原駅で撮影した新潟発大阪行き寝台特急「つるぎ」号の電源車カニ21になります。この駅で田村から牽引していたDE10が離されて、牽引機はEF58に替えられることになります。残念ながら58の写真は出できませんでした。おそらく機関車がホーム端からずいぶん前に飛び出して連結されていたためと推測します。撮影するにもできなかったのでしょう。

上の画像も「つるぎ」号のカニ21になります。駅員さんが連結器の開放テコを操作されているようです。これは北陸本線の田村駅で撮影したものと思われます。

上の画像は、1975年に北陸本線の田村駅で撮影した青森発大阪行き寝台特急「日本海」の電源車カニ21になります。

上の画像は、1974年に撮影した上り大阪行き寝台特急「日本海」が北陸本線の田村駅を発車していくシーンになります。20系寝台客車で運転されていました。この緩急車はナハフ20形を寝台車に改造したナハネフ20形になります。改造車両で定員が少なかったこともあり、運用上も不便であったことから1975年に形式消滅したようです。廃車の1年前に撮れた貴重な写真といえそうです。

上の画像は、1975年に未明の米原駅で撮影した寝台特急「つるぎ」号が発車していく様子になります。20系の寝台客車ですが先頭には美しい米原機関区所属のEF58形直流電気機関車が立っていました。先ほども書きましたが、先頭に立つEF58形直流電気機関車はホームから離れて停車していて撮影できなかったと思います。当時は牽引するEF58形電気機関車の前面には、白地に剣山のデザインが施された「つるぎ」のヘッドマークを付けて運転されていました。写真が無いのが残念でなりません。今回の投稿は以上になります。まとまりの無い投稿で申し訳ありませんでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF58が牽引する20系寝台急行「銀河」になります。イメージです。