良き国鉄時代⑯~東京駅ブルトレ撮影行⑵~

今日は鉄道記念日ですね。先日9年ぶりに行われた高校の同窓会。そこで再会できた鉄道趣味友人と2人で、高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影旅行に行ったことがありました。前回は東京駅で撮影したブルートレインの写真でした。今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した東京駅撮り写真以外の写真を紹介していきます。その時の撮影旅行の目的がブルートレイン撮影だったので、全て寝台特急・ブルートレインの写真になります。牽引機は直流電気機関車のEF65 500番台が活躍していた「良き国鉄時代」です。今回は東海道本線の根府川駅付近と平塚駅付近で撮影した写真を紹介していきます。一部、当ブログにて掲載している画像がありますことをご了承願います。

☆写真が大変古く、色褪せていたので画像をデジタル加工しています。

前回のブログ記事の中で、同窓会での会話では2人とも当時どうやって関東方面へ撮影旅行に出かけたのかが思い出せないと書きましたが、上の写真が大きな手掛かりになりそうです。深夜の駅でEF58直流電気機関車牽引の上り寝台特急「紀伊・出雲2号」を撮影したものと思われます。どこかの駅で撮ったと思うのですが、考証していくとおそらく深夜の熱海駅ではないかと推測されます。停車している時刻は4時40分でした。このことから当時の2人はおそらく「大垣夜行」を使って東海道本線を東京に向かっていたのではないかと推測されます。そして熱海には深夜の2時48分に下車して、自分は上の写真を撮影したのでしょう。こんな事を書いているうちに、何故か西村京太郎の鉄道推理サスペンスのような話になってきました。時刻表は手持ちの「時刻表復刻版1978年10月号 JTBパブリッシング刊」を使っています。当時の時刻表の復刻版が発売されることは、私のような国鉄ファンには大変ありがたいことで、この時刻表復刻版を書店に見つけた時には、即購入していました。

上の画像は当時の撮影名所である根府川鉄橋付近で撮った東海道本線上り寝台特急「瀬戸」と「あさかぜ2号」になります。当時の時刻表を見ると、「瀬戸」は朝6時過ぎに、「あさかぜ2号」はその約6分過ぎくらいに通過していたと思われます。この時間帯にこの撮影地に居たという事は、やはり大垣夜行で熱海まで行き、熱海から始発普通電車で根府川まで移動して撮影したと思われます。となると前掲の「紀伊・出雲2号」は熱海駅で撮影したことが証明されます。これで闇に包まれていた真相が見えてきたように思います。次に一緒に撮影に行った友人に会う機会があったら報告できそうです。自分は撮影するテクニックは無くて、根府川鉄橋で撮影しているのに、肝心の鉄橋が上手く撮れていませんでした。友人の撮った写真は少し離れたところから撮っていて、美しい鉄橋も入れながら撮影しており感心したものです。ちなみに彼の撮影する鉄道写真はどれも大変素晴らしく、月刊鉄道雑誌主催の写真コンテストにも見事に入選もされていました。北陸本線の新疋田~敦賀のループ線で交差する485系特急電車を撮られた写真が今でも思い出されます。

上の写真は根府川鉄橋で撮影を終えてから、根府川駅から東京方面の普通電車に乗って平塚駅まで行って、駅近くを歩きながら撮影ポイントを探していたのだろうと思われます。そして程よいアウトカーブから撮影できる場所を見つけて、撮影したものと思います。時間的にも「あさかぜ4号」が平塚駅通過するまでには、この場所まで移動する時間がありました。「富士」の平塚通過は当時の時刻表で見ると9時過ぎ位でした。「富士」、「はやぶさ」、「みずほ」、そして「さくら」と立て続けにこのポイントで撮影していたようです。全て撮影してから2人は東京へ向かったのでしょう。東京へ向かう九州方面からのブルートレインを次から次へと撮影できたのですから、今となれば正に「夢のような撮影」だったと思います

さて、もう1枚おそらく平塚駅付近で撮影した写真が出てきました。上の画像は寝台特急「出雲」になります。この列車も「あさかぜ」と同じような比較的平塚駅に使いところで撮影しているようです。この「出雲」は熱海発車が5時30分なので6時頃にはここを通過してしまっていることになります。それをこの時間に撮影できたのは大きな疑問が残りますが、おそらく何らかの理由でこの日の「出雲」は大きく遅延していたのではないかと思われます。このことも次回友人と会った時に確認してみたいところです。だとすれば大変ラッキーなことだったのでしょう。赤いヘッドマークは大変綺麗で機関車によく似合っていました。

2回にわたって特集した1977年の友人との撮影行。古いアルバムに写真が残っていて本当に良かったです。友人も「写真をそろそろ整理せなあかん」と話していました。46年前にもなる写真になり、色褪せている写真が多いです。スキャナーでデジタル化しておくと思い出の列車も後世に残せることになろうかと思います。あわせて鉄道模型で当時のブルートレインを再現して走らせる事で当時の雄姿を見ることができます。

良き国鉄時代⑮~東京駅ブルトレ撮影行⑴~

先日、高校の同窓会があり、前回から9年ぶりの開催でした。鉄道趣味の友人たちとも久しぶりに会うことができ、懐かしい話や現在の話で盛り上がりました。高校の修学旅行がほとんど電車を使った北海道旅行だったので、鉄道好きだったせいか自分が班別活動の班長になったことがありました。その時の記録係だった同級生は、当時の「旅のしおり」を持ってきてくれて見せてもらいました。大変懐かしい思い出が蘇り、胸が一杯になりました。また鉄道関係に進んだ友人とも話せて、このブログのことも紹介しておきました。彼とは高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影に行ったことも話題になり、今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した写真を紹介していくことにしました。ほとんどが寝台特急・ブルートレインの写真になります。それも牽引機が直流電気機関車のEF65 500番台の良き国鉄時代です。まず今回は東京駅で撮影した駅撮り写真を紹介します。 ☆写真が大変古く色が褪せていたので画像をデジタル加工しています。

上の画像は東京発16時30分の1レ寝台特急「さくら」になります。当時、この「さくら」から東海道を下る寝台特急のオンパレードが始まりました。新橋方面からやって来たブルートレイン回送は東京到着後に機関車が神田方向へ機廻しされて、中線を通過してから有楽町寄りに連結されて発車を待ちます。いつまでも飽きることなく見ることができました。まさに「ブルトレ・ゴールデンタイム」が毎日見られたのです。

上の画像は東京発16時45分の寝台特急「はやぶさ」になります。先頭を撮影した写真が無く、どこかへ紛れてしまったのでしょうか。後部だけ写真がありました。

上の画像は東京発17時発の寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「さくら」と同形式の客車14系が使われていました。今では九州新幹線の愛称として使い続けられています。

上の画像は東京発18時の寝台特急「富士」になります。機関車を撮影した写真はおそらく新橋駅を通過する同列車を撮影したものと思うのですが、後部を撮影した写真は東京駅で撮ったものに思えます。時間があったので撮影場所を変えていたのでしょうか?疑問が残ります。それとも別日に撮影した写真を一ヵ所にまとめていたのかもしれませんね。

上の画像は18時20分発の寝台特急「出雲1号」になります。この出雲の牽引機は京都までの担当だったので、機関車の両側、両エンド正面にヘッドマークを付けていました。当時、京都駅で機関車の前後に「出雲」のヘッドマークを付けて留置されていたのを見たことがありました。有楽町方面からの入線時も美しいヘッドマークを掲げていました。そして中線を通って先頭に機廻しされていきました。

上の画像は東京発18時25分の寝台特急「あさかぜ1号」になります。夜になってくると写真も鮮明でなくなっていました。デジタル加工して何とか見られるようになっています。当時の「あさかぜ」にはまだ20系寝台客車が使われていたようです。

上の画像は東京発19時25分の寝台特急「瀬戸」になります。こちらもまだ20系寝台客車が使われていました。当時の夜間撮影ではストロボを平気で使用していたようですね。今も残る寝台特急サンライズの愛称に使われています。当然当時は瀬戸の終点は高松ではなく岡山県の宇野線終点の「宇野」でした。

上の画像は東京発20時40分の寝台特急「紀伊・出雲3号」になります。いよいよ東京駅での撮影もこの列車で最後のようです。牽引機はEF58形直流電気機関車でした。名古屋で分割されて紀伊勝浦行きと出雲市行きに分割・併合されて運転されていました。

撮影を終えて、自分と友人はこの日の東京発22時45分、寝台急行「銀河」に乗車して米原へ帰りました。20系寝台客車が急行に格下げして使用されるようになり、憧れの20系に乗れることがとうとう叶いました。友人と一緒に、最後部に連結されていたナハネフ22形寝台客車の展望窓から眺めた東京の街の灯は、今でもはっきりと覚えています。翌朝の6時8分に米原に着いて、北陸本線でそれぞれ自宅のある長浜、高月まで普通列車で帰ったと思われます。今も忘れ得ぬ東京撮影旅行は、褪せた写真とともに今見事によみがえりました。同窓会で鉄道趣味友人と再会できたことで、また当時にタイムスリップすることができ良かったと感じています。この場をお借りして、コロナ禍で延期になっていた高校の同窓会を今回企画して開催してくれた同窓会の幹事の方々にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

次回はこの時に東海道本線の平塚あたりでも撮影した上りのブルートレイン写真がありますので、それらを一部は再掲になってしまう写真もありますが紹介したいと思います。同窓会でも話していたのですが、帰りは「銀河」に乗ったことは覚えているのですが、2人ともどうやって行ったのかが思い出せませんでした。根府川で撮影しているので、ひょっとしたら大垣夜行で東京へ行ってから、根府川まで戻っていたのか?撮影に間に合うような早朝の新幹線があったのか?この答えは次に彼と会った時に解決してみたい?と思っています。

赤沢森林鉄道訪問記

2023年10月2日(月)、家内の友人も一緒に家族旅行を兼ねて長野県木曽郡上松町にある赤沢森林鉄道に行ってきました。早朝5時に自宅を出発して、晴天の下、下道をのんびりと長野県を目指しました。そして休憩をとりつつ、予定通りの10時過ぎに到着することができました。受付を済ませると大きな駐車場があり、大きな観光バスも来ていました。ここまでかなり狭い道なのによくぞここまで来ているなと感心しました。

まず目をひいたのが展示されていたモーターカー。5号でしょうか、

11時の森林鉄道に乗ることにし、「木曽ひのき」で作られた記念切符を買いました。待ち時間に「森林鉄道記念館」を見学することにしました。木曽森林鉄道の歴史についての展示がされていて、奥には貴重な保存車両が沢山展示されていました。ここの鉄道も線路幅762mmのナローゲージで、どの車両も大変可愛らしく見えました。

木曽森林鉄道を代表するディーゼル機関車、122号。
こちらはボギー式両運転台の大型のディーゼル機関車、136号。
122号の反対側。
客車も展示されていました。

どの展示車両も大変美しく整備されていて、今にも動き出しそうな様相を呈していました。あっという間に発車時刻となり、5両ある客車の先頭車両に乗車しました。発車時刻の直前にディーゼルエンジンが始動し、ゆっくりと走り出しました。スピードは時速8キロというゆっくりとした走行で、右側に迫る渓谷を見ながら森の中を列車は進んでいきました。鉄橋も7ヵ所あって川の流れも真下に見られて楽しかったです。森林鉄道記念館前から丸山渡停車場までの片道1.1キロメートルを往復で乗車する観光路線になっています。

気持ちの良い天候の中の森林鉄道は森の息吹を感じながらの至福の時間でした。終点の丸山渡では係員の方がディーゼル機関車の連結を手早く解除され、機関車が離れていきます。そしてまた係員の方が手早くポイントを切り替えられると、機関車は客車の横を通っていきました。いわゆる「機廻し」作業を見ることができました。機関車は反対方向に走るために最後尾の客車に連結されます。本当に久しぶりに機廻し作業を見ることができて心が弾みました。そして帰りは最後部からまた森林鉄道の景観をじっくりと楽しむことができました。森林鉄道記念館駅に着いてからは、もう一度ゆっくりと森林鉄道記念館を見学しました。

左がボールドウィン。右は保存鉄道のDL。

木曽森林鉄道は江戸時代からの河川を用いた木材運搬を近代化し、大正時代初期に森林鉄道が木曽谷に敷かれました。当初はアメリカ型蒸気機関車(ボールドウィン)が運材に活躍していました。このボールドウィンも森林鉄道記念館近くにディーゼル機関車と一緒に展示されていました。昭和35年1960年にボールドウィンは引退し替わってディーゼル(内燃機関)機関車が活躍することになりました。最盛期には木曽森林鉄道だけで総延長400キロに及ぶ路線があったようです。やがて道路が整備されるようになりトラックの性能も上がっていったことから、運材はトラックに代わっていきました。そして昭和50年(1975年)に森林鉄道は終焉を迎えました。森林鉄道を残していくべきだという声が地元を中心に強く、まもなく赤沢に森林鉄道記念館が完成し、昭和62年(1987年)に森林鉄道の復活となったようです。

出発駅に「森林鉄道フェスティバル」のポスターが貼ってありました。10月8日に近くにある王滝森林鉄道で保存されているモーターカーや客車や運材貨車を牽く機関車を見学することができたり、体験乗車できたりするイベントの告知でした。また来年にはこのもうひとつのこの森林鉄道フェスティバルに是非行ってみたいと思っています。日帰りの赤沢森林鉄道への旅でしたが、お昼は現地の美味しい山菜蕎麦を食べたり、帰りに岐阜市のログハウス展示や美味しい海老天ぷらも食べたりと家族ともども大いに楽しめた日帰り旅でした。

展示されていた理髪車の内部
木曽ひのき製の記念切符。

鉄道模型ではトミーテック製品から9mmゲージの線路に1/80のナローゲージの車両を走行させる「HOナロー」の製品である「猫屋線シリーズ」が出ています。自分も尾小屋鉄道に興味をもってから、以前に製作しておいたNゲージ用線路に手を加えて「軽便鉄道ミニレイアウト」を作りました。ここに猫屋線の模型をトコトコ走らせたりしていました。今回、赤沢森林鉄道に行ってから、木曽森林鉄道の車両のモーターカーも走らせてみたいと思っています。手持ちの「酒井形モーターカー」のキットを完成させて見たいものです。このHOナローの世界は大変小さなスペースでもジオラマレイアウトが作れて、気軽に楽しめるのが良いです。スケールは1/80になり、傍にHOゲージを置いても大変マッチしますね。ミニトンネルにミニ鉄橋を配置し、駅を2つ置きました。ストラクチャーは市販の建物プラモデルを置いています。自動車はトミー製の「ハチマル」シリーズので1/80スケールの自動車です。引き込み線には軽便鉄道風の貨車や気動車、DL列車なんかも置いています。大きな本線レイアウトでの運転も楽しいですが、箱庭的に楽しめる「HOナロー」の世界もまた素敵です。少しずつ手を加えていってもっとリアルなジオラマレイアウトにしていきたいと思います。とりわけ「尾小屋鉄道」と今回訪れた「木曽森林鉄道」をテーマにして広げていきたいと思います。

良き国鉄時代⑭~米原駅撮り写真から⑵~

国鉄時代の米原駅は、自分にとっては「聖地」であり中学生頃から頻繁に撮影に出向いていました。今回は1975年から1977年頃に撮りためていた、米原駅で撮影した写真を紹介していきます。ストックが多いので、また何回かに分けながら紹介していきたいと思います。1975年は自分が15歳の中学生の頃になります。米原駅で朝から1日撮影をしていると次から次へと優等列車が入線してくるので、時刻表を見ながら大変忙しくかつ楽しく撮影していたと記憶しています。

上の画像は1975年冬に撮影したキハ181形特急形気動車による特急「しなの」になります。大阪発長野行きの上下1本の運用の列車になり、中央西線電化前の現役時代の写真です。これから名古屋に向かって関ケ原を越えていくことになります。この気動車と言えば、発車シーンが印象的でした。ラジエターを載せた屋根から、モクモクと黒煙を出しながら力強く発車して行きました。鉄道模型では旧製品にはなりますが、エンドウ製を「しなの」編成で持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した米原駅構内に佇むマンモス電機のEH10形直流電気機関車になります。パンタグラフが中央に寄っているので1号機から3号機の初期タイプになります。この電機を撮影した写真は以外にも少なくて、この1枚位になります。鉄道模型ではカツミ製の後期タイプと天賞堂製の初期タイプ、2両を持っています。ク5000や2軸貨車を牽かせて楽しんでいます。

上の画像は1975年に撮影した名古屋発大阪行きの急行「比叡」になります。153系直流急行形電車で運転されていました。この頃はグリーン車1両を含む7連で運転されていたと記憶しています。大型のヘッドマークがかっこ良かったですね。鉄道模型ではトミックス製を15両程持っています。自分は急行「伊吹」にして楽しんでいます。

上の画像は、1975年に撮影した485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」富山行きになります。湖西線開業直前の頃になるでしょうか。湖西線が開通するまでは大阪発の優等列車は全て米原経由で運転されていました。特急や急行がひっきりなしに発着して賑わっていた米原駅でした。鉄道模型ではカツミ製とトミックス製で20両程持っています。正に当時の北陸特急の代表格の列車でした。

上の画像は同じく特急「雷鳥」を冬場に撮影した写真になります。先頭車はボンネットタイプのクハ481でしょうか。このスタイルも国鉄特急らしくて好ましてものです。鉄道模型でもボンネットの先頭車両を4両持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した581系寝台特急電車による特急「しらさぎ」になります。名古屋から雪を付けてホームに入線してくる「月光形」は大変美しく魅力的でした。進行方向を変えて今度は北陸本線を北に向かって発車していきました。鉄道模型でも、この「しらさぎ」の編成でトミックス製を持っています。国鉄の大きなダイヤ改正だった 「43.10」(ヨンサントオ)で寝台特急「月光」としてデビューした581系電車。川崎車両で落成され、試運転には北陸本線の虎姫までやってきていたようです。デザインされたのは星晃さん。生前に長浜鉄道スクエア開館イベントの際に一度だけお会いすることができました。大変温厚な優しい方でした。頂いたサインは今も大切に保存しています。

上の画像は1975年冬に撮影した485系の特急「しらさぎ」になります。この頃はボンネットタイプも健在でした。トレインマークは字だけの頃になります。絵入りヘッドマークも青地に黄色のしらさぎの文字に鳥のイラストで大変素敵なマークでした。

上の画像は、時期が1976年になりますが、こちらは485系300番台の先頭車となった頃の写真になります。クハ481は登場時の貫通形タイプとき違って、非貫通タイプとなっています。特急「加越」も同じ形式になります。貫通タイプは電車の分割併合の為に設計されたものですが、実際に使われたのは大変少なかったと思われます。むしろ貫通タイプだと北陸の冬場の冷たい隙間風が運転台に入ってくるので、寒かったのではないかと思われます。

同じようなゲンコツタイプのこちらは381系直流特急形電車による大阪発長野行きの特急「しなの」になります。この写真も1976年に撮影したものになります。振り子式特急電車の先駈けの新鋭電車の通過していく姿を後追いして撮影しました。

上の画像は1977年に撮影した臨時特急「金星51号」になります。牽引しているのは、何と重連のEF58でした。当時はこのようなEF58の重連運用というのがあったようです。名古屋発博多行きの臨時座席特急列車で14系特急形客車が使用されていました。当時は繁忙期にこの14系座席車を使用した臨時列車が数多く走っていました。

上の画像は1975年冬に撮影した関西地区では大変珍しいスカ色カラーの先頭車を繋いだ113系普通電車が大垣方面から米原に到着した時の写真になります。関西の新快速の初期もこの横須賀色の113系が使われていたようですね。

最後は東海道新幹線0系の写真になります。新幹線は0系の時代で、中学生時代の修学旅行もこの0系新幹線で東京にいったものでした。現在は京都鉄道博物館で実車に会うことが出来ます。ということで自分が撮りためていた米原駅で撮影した写真の特集を2回にわたって特集しました。懐かしい思いに浸って頂けたら幸いです。

良き国鉄時代⑬~米原駅撮り写真から⑴~

国鉄時代の米原駅は、自分にとっては「聖地」であり中学生頃から頻繁に撮影に出向いていました。今回は1975年に撮りためていた、米原駅で撮影した写真を紹介していきます。ストックが多いので、また何回かに分けながら紹介していきたいと思います。1975年は自分が15歳の中学生の頃になります。米原駅で朝から1日撮影をしていると次から次へと優等列車が入線してくるので、時刻表を見ながら大変忙しくかつ楽しく撮影していたと記憶しています。いわゆる「駅撮り」をしていたわけで、昼頃にお腹がすいてくると決まってホームにあった「立ち食いそば」を食べては撮影を続けていたものでした。メニューを決めていて「たまごそば」ばかりを食べていました。

上の画像は1975年に撮影したエル特急「加越」になります。ちょうどこの年にデビューして米原~金沢・富山を結んでいたエル特急でした。グリーン車1両を編成の中間に挟んだ7両編成で走っていました。1975年に湖西線が開通したことで大阪から敦賀方面へ行く特急が無くなり、急遽米原発着の敦賀方面特急が生まれました。やがて683系の特急「しらさぎ」に吸収される形で2003年に名称は消滅しました。鉄道模型では13ミリゲージに改軌したトミックス製を持っています。

上の画像は1975年に撮影した、ご存知583系特急「しらさぎ」の名古屋行きになります。この583系の「しらさぎ」は上下1本だけで、午前と夕方の1本に充当されていました。終点の名古屋に行った後は、また寝台特急「金星」として夜を博多に向けて発車していくことになります。この時間帯には金沢に向けてホームに入っている特急「加越」も並んで見えて、特急色の2バージョンを楽しむ事ができるように写真も撮っていたようです。鉄道模型では古いカツミ製を13ミリゲージに改軌して10両編成で持っています。またトミックス製は急行「きたぐに」のJR更新色10連と、国鉄色の12連でこの「しらさぎ」編成を持っています。当時から一番かっこいいと思った電車でした。

上の画像は1975年に撮影した、大阪発名古屋経由で長野を目指して走っていた特急「しなの」になります。1973年に中央西線が電化されて登場した、振り子式電車特急として活躍していました。毎日1往復だけが大阪発着で運転されていて、確か10時頃に米原を通過していたと記憶しています。空調機器を全て床下に設置し屋根がすっきりした形状の電車でした。デビューした年に今は亡き父親と一緒に名古屋~松本を往復して乗車した思い出があります。松本では何所にも観光に行くことなく、ひたすら駅で反対方向の「しなの」を待っていたので父親に呆れられたことを記憶しています。何時間か待っていたのでしょう。鉄道模型ではエンドウ製の6両編成を持っています。この編成は後に登場した「パノラマしなの」になり、パノラマタイプに改造されたクロ381-10番台が入っています。

上の画像は1975年に撮影した唯一の80系電車になります。東海道本線の大垣、名古屋方面に普通電車として4連で運転されていました。自分が中学3年生で受験に大垣に行った時にも、この電車に乗っていきました。湘南色の金太郎塗りの顔つきが時代を感じさせてくれます。この方面の運用電車はやがて165系や113系に変わっていきました。鉄道模型では宮沢製を4連セットで持っています。動力はエンドウ製のMPギアに代えて、エンドウ製のサハ80形式も1両持っていて5連にしています。

上の画像は1975年に撮影した、当時よく利用していた北陸本線に入る普通列車になります。敦賀行きでしょうか?米原客車区の旧型客車(オハ35系など)で編成されていて、米原から田村までは写真のDE10形ディーゼル機関車が牽引していました。今ではなかなかお目にかかれない旧型客車。停車中は大変静かで、走り出すと重々しいジョイント音を奏でてくれました。車内の音を録音した「北陸鈍行紀行」という鉄道CDを持っていてよく聴いていたりします。鉄道模型では機関車はカトー製と天賞堂製を持っており、客車はカトー製と13ミリゲージに改軌したフジモデル製のキットを組んだものを持っています。

上の画像は1974年に撮影した広島機関区に所属していたEF61形直流電気機関車の牽引する上り急行「阿蘇」になります。冬場なのでしょう機関車から蒸気暖房用の蒸気が出ています。米原駅の下りホームから遠くにいた東海道本線上りの当列車を慌てて撮影しました。ホーム近くまで行くには間に合わなかったのでしょう。旧形客車のスハ43系と10系寝台列車、グリーン客車で編成された長距離急行列車で、熊本と名古屋を結んでいました。これもたった1枚しか撮っていない貴重な写真になります。

同じく1975年に撮影したEF61が牽く東海道本線下りの荷物列車になります。こちらは近くから撮影することができました。機関助士さんが窓から顔を出して後方の確認をされているのでしょうか。鉄道模型では、天賞堂製を青色と茶色の2種を所有しています。青色塗装を購入した時は、確か手持ちの楽器(トロンボーン)を売却して資金にしていたように記憶しています。長い車体と一灯タイプの前面が魅力で好きな電気機関車です。米原駅撮り特集の1回目は以上です。この特集はまだ続いていきます。