良き国鉄時代㉖~米原界隈のDLたち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から1976年にかけて、米原駅と田村駅で撮影したディーゼル機関車たちの特集です。自分が中学生から高校生の頃には米原~坂田間に直流から交流に切り替わる「デッドセクション」がありました。そのために機関車牽引列車は米原から田村の間は、どの列車でもディーゼル機関車が牽引していました。私が知っている時代の前には蒸気機関車のE10やD50、D51がその任務についていました。そして交直両用の試作電気機関車ED30も活躍していた線区でした。バラエティに富んだ機関車たちが米原と田村の間を走っていたようです。そんな時代を撮影して見たかったものですが、鉄道模型では何時でも再現することができるので嬉しいです。ちなみにこの米原田村間で活躍していた機関車は模型で全て所有しています。今回取り上げるのはディーゼル機関車になり、1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたようなディーゼル機関車が在籍していたようです。

 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は1975年に撮影した米原から到着したDD50形ディーゼル機関車牽引の北陸本線の普通列車になります。古豪のDD50は北陸線の柳ケ瀬、山中越えの峠用に開発された国鉄最初の電気式ディーゼル機関車です。当初は茶色塗装でしたが、1964年頃に現在の朱色とグレーの塗装になりました。この頃は最後の活躍をしていたと思います。やがて米原駅構内に全機留置されていました。入線した時の音は大変迫力あるもので、スイスのスルザー社と三菱で開発されたエンジンの音を間近で堪能することができました。

写真を見ると、この日は田村寄りが5号機で米原寄りが6号機の重連でした。この重連でD51形と蒸気機関車と同じパワーらしいです。たまたま撮影できた大変貴重な現役のDD50でした。この機関車狙いでもっともっと撮影に通っておいたら良かったと後悔しています。

上の画像は田村駅に到着後、直ぐに客車を離れて中線へと引き上げていく後ろ姿になります。次にやってくるのが交流機関車のEF70になります。

上の画像は1974年に撮影した、当時この区間の主役だったDE10形ディーゼル機関車になります。米原からやって来た1019号機のようです。米原側が2エンド、田村側は1エンドで運転されていました。全機が米原機関区に所属して、この区間だけで運用されていました。貨物列車を牽引しています。

上の画像は1974年に撮影した大阪行き寝台特急「日本海」を牽引して米原に向かうDE101095です。20系寝台特急で運転されていた「日本海」も、ここ田村で運転停車して機関車の交換をしていました。2エンドが先頭になり、個人的にはこの2エンド側が先頭になる方のが好きな運転スタイルでした。

上の画像は1976年に米原駅近くの踏切から撮影したDE10517牽引の大阪行き急行「きたぐに」になります。青森発大阪行きの寝台車付きの客車急行列車でした。10系客車で編成されていた時代で、米原向きに郵便車+グリーン車+12系客車5両+10系寝台車(オロネ10含む)5両で運転されていました。今回の模型動画で再現しています。

上の画像は1976年に撮影したDE101727牽引の同じく急行「きたぐに」になります。米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影しています。「きたぐに」の米原到着時刻は6時23分でしたので、この日は米原駅で朝撮りしていたのでしょう。

上の画像は1974年に撮影したDE10518牽引の貨物列車になります。コキフ50000が見えるので、北陸本線から東海道本線に入っていく「フレートライナー」だと思います。この50000系のフレートライナーは当時よく見かけるようになっていました。EF70が牽引しているのを幾度か撮影していました。米原からはおそらくEF65形直流電気機関車が牽引していったのでしょう。

上の画像は1975年の雪の日に撮影した米原発北陸方面行きの普通列車になります。牽引しているのはDE101727号機になります。この1000番台には製造当初からSG(蒸気暖房装置)を備えていたので、真冬の客車も暖かかったと思います。ちなみに0番台や500番台にはこの蒸気暖房装置は搭載されていませんでした。なお先に紹介したDD50形ディーゼル機関車にもこのSGは無くて、たとえ米原から田村間といえども冬場の乗客は寒い思いをされていたのだろうと思います。田村からは暖房車が連結されたり、SG付きの交流電気機関車なので蒸気暖房が効いていました。

上の画像は寝台特急「日本海」の最後部に、珍しく切妻タイプのナハネフ23が使われていた日になります。DE10は米原からの仕業を終えて中線に転線した時の写真です。そして米原側へと中線を移動し、また米原に向けての仕業に着くことになります。

上の画像は1974年、米原駅に到着寸前に自分が客車から身を乗り出して撮影した1枚です。牽引しているDE10もしっかりと映っています。普通列車米原行きに長浜から乗車していたのでしょう。旧型客車のオハフ33の重く大きなジョイント音が聞こえてきそうな写真です。長浜から米原に行くだけで途中機関車の交換が楽しめた良き時代でした。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。今回も最後までお読み頂きましてありがどうございました。

急行「きたぐに」青森行き、米原での機関車交換風景。機関車はカトー製、客車はトミックス製とカトー製。

自宅レイアウトで離合するDE10牽引の急行「きたぐに」とDD50牽引の貨物列車。DE10はカトー製、客車はトミックス製の10系とカトー製の12系。グリーン車と郵便車は天賞堂製。DD50はカツミ製。貨車はエンドウ製やカトー製にホビーモデルのキット組み等。

自宅レイアウト新線の製作記②シーナリィの製作~自宅レイアウト①までの製作記

製作中の線区を試運転する485系(トミックス製)とEF70(トラムウェイ製)+ED70(カツミ製)牽引の普通列車(カトー製オハ35系客車)

今回は当ブログの「シーナリィの製作~自宅レイアウト①」までの製作記となります。これから固定式レイアウトの製作をされようとしておられる方に少しでも参考になれば嬉しく思います。自宅レイアウトの東側にあたる線区をシーナリィ付きの線区にするための大工事は去年の12月にスタートしました。年末の頃になるとレイアウトのベースがほぼ出来上がりました。私の固定式レイアウトでは線路の下に敷く「コルク道床」は一切使ってしません。実際はバラストの所は盛ってあり、その上に線路が敷かれています。そうすればより実感的になりますが、現在そのコルク道床が手に入らなくなったこともあり、レイアウト南にある大カーブもカントをつけたこと(曲線部分の内側をプラ棒の1mmを使って嵩上げしています)もあり、線路は直にベース板のOSB材にスパイクしています。この木材は非常に固くてしっかりしており、水平を出すにはもってこいです。ヒントは以前大きなレンタルレイアウトを経営しておられた店長さんにお聞きしました。今回の新線も線路をベース板に直接犬釘で固定していっています。板が大変固いので、1mm径位のピンバイスで少し穴(約5mm位)を開けてから、ベンチで押し込むようにして犬釘をスパイクします。感覚は10㎝くらいとし、曲線部分は5㎝くらいに間隔をつめて留めていきます。大変根気のいる作業になります。あとから気づいたことですが、ベース板に直に線路を付けたことで、ジョイント音が程よく大きめに聞こえます。鉄道模型は走行音も大事なのでこのやり方で良かったと自負しています。

2022年12月28日

上の画像は線路をスパイクしたあとに、張り出しの部分を製作する準備をしているところになります。レイアウトと家のガラス障子との間に模型を眺められるスペースが欲しいので、なんとか椅子1つ置ける広さを確保しています。木材でレイアウトの裾部分を支える骨組みを作りました。ボンドで固定したり、木ねじで固定しています。

2022年12月28日

ベース板の上に、35mmの角材を置き、さらにOSB材の板を付けて、レイアウト線路と同じ高さにしています。ベース板の下には支柱があり、それらを上手く加工しながらレイアウトを支える強度を確保していきます。正に「大工仕事」となります。かつて自分も仕事に必要な教材を木工で作って来たので、その時の経験が生かされている感じがしました。

2023年1月5日

棒状の木材を足していき、張り出し部の強度を確保しつつ、シーナリィを製作するための下地をイメージして骨組みを製作していきました。画像には架線柱があります。今年の正月はこの架線柱を製作していました、カトー製の「複線架線柱」を使い、柱は地元の北陸本線にも使われている錆色の物をモチーフにタミヤのラッカースプレーの「艦底色」で塗装しました。細部もシルバーで筆塗りしています。また高さはそのままだと低くなってしまうので、同じ柱を切り出して約10mmほど継ぎ足して長くしています。

2023年1月5日

上の画像は架線柱を置いて北側から撮影したものになります。間隔は「車両2両分」を目安として設置しています。

2023年1月5日

内線部分の架線柱は当然外側とは高い位置に設置していくことになります。この線区の内側線と外側線の高低差は後々、大変効果的な「演出」に繋がるものになりました。線区が実に立体的に見えて、山線のイメージにマッチしたものになっていったのです。

2023年1月5日

そして今回はこの架線柱はマグネット式として、脱着ができるようにしました。板にはジョイント用金属パーツ(組立式線路を繋ぐときのパーツとして使用しています)を接着しています。架線柱の裏側には板マグネットをカットしたものを接着しています。これにより線路クリーニングも容易にできると考えたからです。またあとで鉄道模型友人が「架線柱と蠅たたきが楽しめるものにしたら」というアイデアをくれました。蠅たたきとは昔の鉄道通信用の電柱のことで、たいていの線路の横にあった電柱です。なるほどと思い、後に製作しました。

2023年1月5日

架線柱も設置するとだんだん線区のイメージができあがり、また試運転がてら模型運転を楽しみました。内線と外線の具合を確認したり、走行状態で滑らかでない部分を改修したりしました。苦労したのが線路の少しの上下の歪みを修正することでした。ジョイント部も軽く半田付けしています。動画を見ながらチェックしていきました。

2023年1月8日

次に、橋をかける部分の製作に移りました。橋げたを支える部分は「スタイロフォーム」を切って何回も試作して線路下に合わせていきました。この製作に当たり、鉄道模型友人が「ガーダー橋を作りたい」と申し出てくれました。喜んでお願いして高さ等の仕様を伝えると、直ぐにペーパーで製作して正月休みに自宅まで届けてくれました。ペーパー製なので強度も考えてくれて1つの橋を2分割して製作してくれました。色は緑のシーナリィに会うようにと「赤色」で製作してくれました。大変リアルで美しいガーダー橋ができたことで、新線区製作の大きなモチベーションとなりました。大変気に入った橋となりました。

2023年1月9日

レイアウトに素晴らしいガーダー橋がやってきて、また試運転を繰り返して楽しみました。眺めているうちに、明らかに川の深さが不足していることが判明しました。これではガーダー橋が全く映えません。急遽橋下を掘り下げる工事をしました。

2023年1月12日

線路のベース板と下のベース板を、何とこの状態でジグソーでカットしました。線路も一部分外しての大工事でした。そしてベース板の下に板を棚の様に取り付けて川底としました。大きな山場となる修正工事は何とか無事に終わりました。長文になってしまいました。今回はここまでの紹介とします。この続きは次回にお届けします。最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウト新線の製作記①シーナリィの製作~自宅レイアウト①までの製作記

シーナリィ付き新線を作る以前の自宅レイアウト東側の様子。鉄道模型愛好家とうやさんのC53牽引特急「つばめ」か快走。2022年10月14日鉄道記念日に。

今回は当ブログの「シーナリィの製作~自宅レイアウト①」までの製作記となります。これから固定式レイアウトの製作をされようとしておられる方に少しでも参考になれば嬉しく思います。

自宅レイアウトの東側直線部分の改良工事を始めたのが、1年前の12月からでした。機関区や大カーブ等シーナリィを作りながら製作してきた部分がレイアウトにはあって、その製作の延長としてこの東側の長い直線部分をレイアウトの見せ場になるようなシーナリィ付きの線区にしたいという思いからコツコツと製作してきたわけです。完成イメージは北陸本線倶利伽羅峠風として緩いS字カーブを作り、ガーター橋等も入れていくこと、背景は山が迫る感じにしたいことを膨らませていきました。事前に久しぶりにフレキシブルレールを購入しました。引き続いてフレキシブルレールが入手できて良かったです。家内の職場の方に製作していただいたOSB材のベース台もカットしながら製作を進めていくことになりました。昨年は少しの期間だけ全線運休として大掛かりな工事を開始しました。よってしばらく本線は運休となりました。まずはベース板をジグソーでカットしていく工作からスタートしました。去年の12月9日のことです。綺麗に作って下さったベースをカットしていくことは大変心苦しいものでしたが、生まれ変わる線区を夢に見て思い切ってジグソーを使いカットしていきました。

2022年12月9日

カットしたボードをこれまでの台に乗せて合わせていきました。そしてビニールテープを貼ってカーブのイメージを作っていきました。最初はかなりきつめなカーブになってしまいました。ビニールテープを曲げながら、イメージ合った曲線を模索していきました。実際の鉄道線路の緩いカーブは、直線に近いものがあります。鉄道模型ではどうしても曲線がきつく、つまりカーブの半径が小さくなりがちです。

2022年12月10日

上の画像は仮に貼ったビニールテープと中央部分には鉄橋を配置したいので、川の部分をカットして作ったところです。かなりアバウトな工作になってしまっています。

2022年12月12日

レイアウトが決まるとビニールテープの場所にフレキシブルレールを敷きました。そしてボードの裏側が障子なので、まずはベニヤ板で背景部分を製作して張り付けました。色はグリーンとブラウンのラッカースプレーで付けています。山らしく表現をしました。このことでずいぶんイメージが持てるようになってきました。この頃にはとりあえず線路を繋いでいたので、毎日工作の終わりには車両を走らせながら楽しんでいました。

2022年12月21日

そしてこの様子を自分のFBで発信していたら、昔からの鉄道模型友人から「山側の線路に緩い勾配をつけたら」というアドバイスをもらいました。確かに山線の雰囲気を持つ線区なので、山側の線路に1パーセント。10パーミルの勾配区間を作ることにしました。1mで1㎝上がっていく勾配になります。お座敷運転では勾配敷区間をつくる橋げたセットがあります。エンドウ製の道床付き線路に対応しているものですが、3パーセントくらいに考えられています。少しきつめの勾配になり、モーター車への負担を考えて、あえて緩い勾配にすることにしました。1パーセントくらいならモーターへの負担も少なく、どの車両もスイスイと登って行くと考えました。勾配を付けていくには線路を少しずつ上げていく工夫が必要になります。線路を固定する前に1mmから10mmまでの木材でスペーサーを作りました。線路の枕木の下に入れていき、だんだんと高くして10mmまでにします。何回も試行しながら高さを調整して、線路をレール留め用の犬釘でスパイクしていきました。

2022年12月25日

線路をスパイクしたらまた試運転を繰り返しました。毎回両端からビデオカメラで撮影して走行をチェックします。夜のゆったりした時間にリビングで見ることも楽しみとなりました。

2022年12月25日

線路をスパイクしたらまた試運転を繰り返しました。毎回両端からビデオカメラで撮影して走行をチェックします。やはりこの線区のイメージが北陸本線なので、北陸系の車両のEF70形交流電気機関車の牽引する列車やEF81形交直両用電気機関車の牽引する貨物列車を走らせながら路線のチェックをしていました。大変楽しい運転ができました。

2022年12月25日

自宅レイアウトの中には2ヵ所にカトー製の3色信号機を上下線に設置しています。ちょうどトンネル近くの外側線信号機がトンネル内方向に向いて効果が薄かったので、その信号機を新線の内側線に組み込むことを閃きました。勾配区間の中ほどに上手く組み込むことに成功したわけです。篠原のフレキシブルレールとカトーのユニトラックを半田付けして接続しました。これで信号のある山線ができました。この信号機は線路内側に接点スイッチがあり、そこを車両が通過するとスイッチが作動して「青」から「赤」に変わり、しばらくすると「黄」になってまた「青」に変わるという優れものの自動信号機です。

2022年12月25日

新線区の北端に渡りポイントがあり、内側線から外側線に転線ができるようになっていて、そのためのギャップスイッチが新線区間にありました。後から考えたら、別にこの箇所にギャップスイッチは付けなくても良かったのですが、とりあえず線路に絶縁ジョイントを入れて、スイッチでオンオフできる設備を組み込みました。このつづきは次回に続いていきます。今回も最後までお読み頂きましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉕~米原機関区の65F~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に米原機関区と米原駅で撮影したEF65形500番台(65F)直流電気機関車の特集です。ちょうど自分が中学3年生の時に撮影した写真になります。小学生までは自宅近所の踏切で見ていた電気機関車は交流電気機関車で車体は赤色でした。米原まで活動範囲が広がった時に見た青や黒の電気機関車には驚いたものです。当時電気機関車は「赤いもの」と思い込んでいたようでした。米原は直流区間になり、電気機関車の色は「青」が主体で、「黒」もありました。EF58形直流電気機関車にEF60形直流電気機関車、EF65形直流電気機関車にマンモス電機のEH10形貨物用直流電気機関車といったところになります。ディーゼル機関車はDE10形液体式ディーゼル機関車と、まだDD50形電気式ディーゼル機関車も居た頃になります。1974年に湖西線が開通してからは敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車が活躍を始め出すとこの米原機関区でもEF81を見られるようになりました。やがてこの米原機関区は1986年10月には廃止されてしまうことになります。

上の画像は1975年に撮影したEF65形直流電気機関車500番台になります。排障器(スカート)の上部に、いかつい機器箱がありジャンパ栓もたくさんあります。連結器は後のEF66形直流電気機関車にも見られたように、自動連結器と密着連結器が併用できるものになっています。窓の上部には庇があってなかなか格好の良い顔をしている電気機関車です。この500番台は貨物用として登場した機関車で登場時は下関と東京、築地を結んでいた鮮魚特急貨物列車に重連で使用されていました。自分は見たことは無かったですが、年配の友人によると凄い迫力で駅を通過していたようです。1975年にはこの電気機関車が米原機関区に集中して配置されていました。米原機関区にずらりと並んだEF65の特急色を目当てに、よく撮影に行っていたものです。その風景はブルートレイン牽引機の基地だった「東京機関区」を彷彿とさせるものでした。

1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたような機関車が在籍していました。

 電気機関車
ED301 ※休車
EF5836   74   77   78   80   103   111   112   113   118  
EF60  28   75   77   80   86   96   97   98   99   107  108   109   115   119   120   121   125   
EF653   4   518   519   520   521   522   523   524   525   526   532   533   534
 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は夜の米原駅に佇むEF65 500。まるで今にも寝台特急の牽引に就きそうな雰囲気の写真です。後ろには荷物車のマニ60が映っています。米原機関区があった頃には米原客車区もありました。旧型客車が沢山在籍していて、北陸本線で活躍していました。記号は「名マイ」でした。

上の画像はEF65 500を真横から撮影したものです。鉄道模型を製作するのに大変参考になる写真かと思います。横にある2本の白帯はこのEF65 500の特徴となる塗装で、下の太い帯は12系、14系、24系の客車側面にある白帯と高さと太さがマッチしていました。電気機関車と客車の帯が揃うことで、独特の美しい編成美を見せてくれていました。ちなみに上の方の白帯は20系客車の上部白帯とうまく合わせられていました。今思うと「素晴らしい」の一言につきる一体感ある飾りの塗装で編成美を奏でていました。

米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影した東海道線の下り貨物列車。 EF65 526が牽引しています。機関車の窓上の庇はトンネルの氷柱切りとして付けられたものです。庇の上部は青色の車体色で塗られていて、下側となる窓側はクリーム色で塗装されていました。鉄道模型ではこのEF65 500F は、天賞堂製で持っています。大阪の中古模型店で買いました。大変気に入っている電気機関車のひとつです。車扱いの貨物列車を牽かせて楽しんでいます。以上がEF65 500F の特集になります。米原機関区にはこの65以外にも58や60等も在籍していました。またディーゼル機関車もDE10やDD50が在籍していました。下の画像はこの年には休車になってしまっていたDD50重連の写真になります。

6両の全車が最後はここ米原で最後を迎えました。米原駅の南側の端に留置されていたものです。写真は1次型で顔が独特でした。「海坊主」の愛称が付いていたようです。北陸線の峠越え用として初めて新製されて敦賀機関区に配置された電気式ディーゼル機関車の古豪。昔の山中越えや柳ケ瀬越えで活躍している動画をよく見ています。登場時は茶色一色で銀色の帯を巻いていましたが、晩年はオレンジ色と灰色のディーゼル機関車の塗装に変更されています。鉄道模型ではカツミ製で茶色と2色塗装の2種類を所有しています。大好きなディーゼル機関車で、1両くらいは是非静態保存してもらいたかった機関車だと思います。また今後このDD50の写真をアップして紹介させていただきたいと思っています。2両を連結して重連で使用されており、重連でD51形蒸気機関車1両分のパワーを持っていたようでした。1次型と2次型が重連になっていた姿も多く見られました。以上、今回は米原機関区にスポットを当てて、EF65 500 Fを特集してみました。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

16番ゲージの自宅レイアウトを快走するEF65526牽引の貨物列車とEF60牽引の貨物列車。電気機関車は共に天賞堂で重連の2両目はカトー製になります。

良き国鉄時代㉔~敦賀駅撮り写真から②雨の日に~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀は北陸新幹線が来春3月16日に開業するので、現在話題に上がっている駅です。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは1番上に作らざるを得なかったらしいです。また、一説には米原ルートや湖西ルートになった場合に福井滋賀県境の峠を通す際に必要となってくる高さが確保されているということです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ています。今回は1976年の何時かは判らないのですが、雨の日に敦賀駅にて撮影した何枚かの写真を紹介したいと思います。寝台特急「日本海」の写真と話題が中心になります。

上の画像は上り寝台特急「日本海4号」になります。牽引しているのはEF81形交直両用電気機関車で敦賀第二機関区の所属です。トレインマークは残念ながら掲出されていなかった頃になります。当時の寝台特急「日本海」は下りが1号と3号、上りが2号と4号が運転されていました。1日に4本も寝台特急「日本海」を見ることができた素晴らしい時代でした。いずれも大阪と青森を結んでいました。客車は2段式B寝台の24系25形という寝台客車が使用されていて、電源車を繋いだ集中電源方式で運転されていました。ちなみに下りの「日本海1号」は大阪を17時15分に発車して終点の青森には翌日の8時41分に到着していました。「日本海3号」は大阪を20時15分に発車、青森には翌日の11時45分に到着していました。上りの「日本海2号」は青森を16時27分に発車して、終点の大阪には7時48分に到着していました。「日本海4号」は青森を19時23分に発車して、終点の大阪には翌日の10時46分に到着していました。私が敦賀駅で撮影した「日本海」いずれの写真も「日本海4号」でした。敦賀には8時42分に到着し、8時52分に発車していました。普通列車で敦賀に行くことのできる撮影時間帯ということになります。左のホームにキハ58系気動車が居ますが、当時の時刻表を見ると小浜線経由の急行「わかさ2号」かと思われます。西舞鶴で城崎発の「丹後8号」と併結して京都を目指して走っていました。

雨のホーム端から135mmの望遠レンズで敦賀駅入線を撮影しています。敦賀駅は大きくカーブしているので独特の絵面になります。機関車交換がされていたようで、線路横で駅員さんが待ち構えておられます。

この日の牽引機はEF81123号機でした。当時の交直セクションは今よりももっと南にあったので敦賀駅は交流電化でした。交流区間を走って来た81は前方のパンタグラフは下げています。ここで機関車を交換することになります。トワイライトエクスプレスが走っていた晩年まで、敦賀がEF81の所属区になっていて、日本海縦貫の仕業はここ敦賀から始まって、ここで終わっていたようです。

EF81123号機は客車から離れて、敦賀第二機関区へ引き上げていきました。機関車の付け替えですね。鉄道ファンにはたまらないシーンが展開されることになります。いつ見ても決して飽きることはありません。10分間のドラマが展開されます。

そして新たにEF81101が機関区の方向からやってきて「日本海」連結されました。ここからは湖西線の交直セクションを通過して直流区間に入っていくので、パンタグラフは前後2つ上げています。ここから鳩原ループ線を通り、近江塩津を経て湖西線に入っていきます。この101号機は寝台特急「日本海」のラストランでも牽引していました。

2段式B寝台車だけで編成された「日本海4号」の最後部。テールサインはまた字だけの時代になります。

当時の時刻表を見ると、日本海1号と4号は全てB寝台で運転されていました。電源車を含んで12両編成です。これが写真の24系25形の寝台車が使用され、2段式B寝台で11両で編成されていたようです。いわゆる銀帯車が使用されていました。日本海3号と2号にはA寝台が一両繋がれて、後の10両は客車3段式のB寝台車が使用されていたようです。電源車も繋がれているので24系の寝台車、いわゆる白帯車が使用されていたことになります。ブログを書くにあたって、当時の時刻表で新たに発見できることがあるので楽しくなります。

発車した列車を見えなくなるまで見送りました。今となっては見ることができなくなった寝台特急「日本海」、鉄道模型で再現して楽しむ事しかできません。模型ではEF81形交直両用電気機関車はカトー製、トミックス製、天賞堂製で持っていますちなみに国鉄時代は天賞堂製とカトー製になります。客車は24系25形をカトー製で12両程持っています。

上の画像は485系交直両用特急型電車による金沢発米原行きの特急「加越」になります。「日本海4号」の到着前の8時5分に発車した「加越2号」かと思います。ライトの光り方から「クロスフィルター」をレンズに付けて撮影していたのかもしれません。

上の画像は「日本海4号」が発車した後の、9時7分発の金沢発大阪行き475系交直両用急行形電車による急行「ゆのくに」になります。当時は湖東線、米原経由で運転されていました。今回は以上になります。最後までお読み頂きましてありがとうございました。

自宅16番ゲージレイアウトを快走するEF81牽引の24系25形寝台特急