大阪セメント伊吹専用線~思い出と現在の姿~

1996年頃だったと思います。その頃は東海道本線の近江長岡から大阪セメントの伊吹工場まで3.7キロの貨物専用線がありました。その頃まだ走っていた茶色の可愛らしい電気機関車とタンク貨物列車の撮影に行ったことがありました。伊吹山で掘削される石灰石を運搬する専用線で、単線で電化されており、いぶき501号機といぶき502号機の2両の電気機関車が働いていました。国鉄のEF15等のデッキ付き電気機関車の趣をもっており、動輪が4つのED形の電気機関車でした。専用線内は600ボルトで運転され。近江長岡駅構内では1500ボルトで運転されていました。日立製作所水戸工場で1956年に製作されました。茶色のボディーの箱型50トンの可愛らしい機関車でした。貨車はセメント専用貨車のタキ1900やホキ3500が使われていました。以前にはトキ25000も使われて石灰石の輸送もあったようです。

上の画像は近江長岡駅構内で入れ替えをしているいぶき501号機になります。この区間は1500ボルトでの運転をしていたことになります。駅の東側、柏原駅寄りにタンク貨物が沢山いた留置線があったと記憶しています。そこでいったりきたりして入れ替えをしている電気機関車を見るのが好きでした。鉄道模型でもこの伊吹号をワールド模型製で所有しており、タンク貨物はトミックス製のタキ1900を何両か持っています。大阪セメントのシンボルマークである「ライオン」の顔をコピーしてそれらしく製作したものです。

上の画像はタキ1900を3両連ねて、入れ替え作業中のいぶき501号になります。今では小さな駅構内での貨車の入れ替え風景は見られなくなってきましたが、当時はいたるところで見ることができたものでした。鉄道ファンにとってはたまらないシーンが展開されていたことになります。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。

上の画像は、近江長岡駅でセメント貨物列車を組成して、大阪セメント伊吹工場へと向かう様子になります。機関車の車体が大変美しいのが解ります。機関車のボディー裾に描かれた白帯もなかなか格好良いです。

近江長岡駅を出て、新幹線のガードをくぐると大きな右カーブにさしかかっていきます。綺麗なセメント列車のシルエットを楽しむことができました。鉄道ジオラマでもありそうなロケーションです。

上の画像は、今度はセメント工場から近江長岡駅に戻ってくるセメント貨物列車になります。大きなカーブを帰りは左に曲がりながら近江長岡駅構内まで入線してきます。だいたい10両以上の長大編成で運転されていたと記憶しています。この可愛らしい電気機関車、いぶき501号と502号は、1999年にこの専用線が廃止になるまで活躍し、その後は2両とも大井川鉄道に移籍しました。形式はED501形となり、それぞれ501号機と502号機として活躍していたようです。そして中部国際空港の建設が始まると、502号機は三岐鉄道が購入して、貨物列車の運用に就かせたそうです。2002年に三岐鉄道での活躍を終えると、その後同機は三岐鉄道の西藤原駅のウィステリア鉄道で大切に保存されているようです。大阪セメント伊吹工場には以前に蒸気機関車が展示されていた頃がありました。この蒸気機関車は102号機で、かつて三岐鉄道でセメント輸送に活躍していた機関車でした。その後、ここへ移り1956年に電化される前まで活躍していたようです。永らく大阪セメント伊吹工場で保存されていましたが、2001年の三岐鉄道70周年記念事業として三岐鉄道に里帰りして復元修理され、西藤原駅に502号と一緒に静態保存されているようです。

現在の大阪セメント伊吹工場跡付近。

伊吹山を仰ぎながら「せんろみち」が続きます。

途中には短いトンネルが2ヵ所あります。

専用線を偲ぶ廃線跡。

愛車のバイクで再訪してみました。(2010年) ここはかつて踏切があったところです。

近江長岡駅近くの橋梁に付いてあった銘板。

終点にはこんな説明板がありました。

現在、このセメント列車専用線は廃線となり、廃線跡を綺麗に整備されて「伊吹せんろみち」として生まれ変わっています。当時の専用線をそのまま遊歩道にされており、当時を偲びながら散策することができるようになっています。2010年5月30日(日)に、かつて訪ねたことのある大阪セメント伊吹専用線の廃線跡を愛車のオートバイ(ホンダシルクロード1981年製CT250S)に乗って再訪してみました。線路のあとは綺麗な遊歩道になっていました。またセメント工場跡地に保存されてあった蒸気機関車102号機は、残念ながらもう撤去されてしまっていました。現在は三岐鉄道の西藤原駅のウィステリア鉄道に静態保存されているようです。再訪した帰り道は専用線跡をかつては踏み切りがあったところまでたどってみました。何とそこには短いトンネルが2つもあったことに今更ながら驚きました。いつかはゆっくりと近江長岡駅から終点の大阪セメント工場駅跡地までハイキングしてみたいものです。大阪セメント跡地がある終点近くには「伊吹薬草の湯」という薬草を使っている温泉施設もあります。ハイキングで疲れた足腰をきっと癒してくれることでしょう。3.7キロメートルの短いセメント貨物専用線がその歴史と共に形を変えて今に残っていることは感慨深いものがあります。鉄道模型でも再現して最初に訪れた日を再現してみたいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走る「いぶき501」牽引のセメント貨物列車。雰囲気をお楽しみください。

名鉄の部品販売会~2009年頃から~

今から10年以上前の話になります。その頃、中学生だった息子が名古屋鉄道が大好きで、休日には親子で名鉄1日乗り放題切符を使って名鉄の乗り鉄を楽しんでいました。その時の様子もこのブログで記事に書いているので、併せて見て頂けたらと思います。息子が名鉄を好きになったきっかけは、「パノラマカー」だったことを後で教えてもらいました。そういえば小学生の頃にトイレールのパノラマカーを気に入っていたのを思い出しました。中学生になるとトイレールからリアルなNゲージ鉄道模型の方に進んでいきました。ベニヤ板2枚の上にカトー製の線路を敷いて、レイアウトを作り自分も一緒になって遊ばせてもらっていたものです。今でも当時コレクションしたNゲージの名鉄の鉄道模型は大切に残してあります。私はあまり私鉄には興味を持っていなかったので、当時の「名鉄」は新鮮に感じていました。大学時代を名古屋で過ごしたので、名駅などで車両を見る機会はよくありました。当時はほとんどの名鉄電車は「スカーレット」という赤色一色に塗られており、特徴的なカラーリングの電車でした。その頃に名鉄のホームページで知ったのが、「名鉄部品販売」という実車の部品を購入できるイベントでした。はじめて部品販売会に行ったのは、2009年の12月に犬山遊園駅東口で開催された時でした。受付時間前には駅まで行って長い行列に並びました。皆さん名鉄の部品を求めて、遠方からも来られているのが会話から解りました。受付で札をもらうと番号が書いてあり、内覧会の順番を示していました。なかなか若い数字を引くことができなかったのを覚えています。まずは内覧会に入って部品をチェックしておき、2回目に入場した時には購入できることになります。名鉄電車の実物部品の人気商品にはすぐに「売約済み」の札が付けられてしまっていました。息子共々大変ワクワクしたイベントでした。併せてこのイベントで当時随分と散在してしまっていたのを覚えています。

一番上の画像は2010年12月13日に名鉄犬山遊園駅の東口で行われた「部品販売」で展示されていた部品になります。7000系パノラマカーのヘッドマークや7700系のヘッドマークに札差し等がところ狭しと展示されていました。これらは会場でオークションが開催された大変価値のある物になります。パノラマカーの「逆富士」と呼ばれたヘッドマークは確か30万以上の値段になっていたように思います。庶民には参加できないオークションでした。上の画像は部品販売会で購入した5300系、モ5401の前面上部にあった行先表示灯になります。しばらくは自宅の洋間のカウンターに置いていました。

上の1000系パノラマスーパーの座席は、2010年の部品販売で購入したものになります。宅配してもらいましたが大変大きく重たいので部屋への設置に苦労しました。今は自宅レイアウトルームに置いて実際に使っています。

上の画像は2011年の部品販売で出品されていた部品になります。7000系パノラマカーの運転席部ドアにヘッドライト、ヘッドライトカバー等が並んでいました。見ているとどれも欲しくなってしまいました。

上の画像も2011年のものになります。名鉄電車6000系、7700系等の前面貫通扉に掲げられていた大形の行先表示板です。自分もこれまでにパノラマカー用と併せて4枚程購入していました。1枚はだいたい1万5千円位していました。

上の画像も2011年のものになります。こちらは1000系パノラマスーパーの先頭車の前面の部品になります。そして1000系のマスターコントローラーも当時沢山出品されていました。

上の画像も1000系パノラマスーパーの行先表示の部品です。この部品も1つ購入しました。自分で家庭電源100ボルトでも動くように配線しています。

名鉄部品販売会で入手した1000系の行先表示。

上の画像は警笛ペダルと新旧の検電アンテナになります。ちなみにこの検電アンテナは新型を購入しています。後にオークションで旧型も入手しました。両方とも今は自宅レイアウトルームに置いてあります。

上の3つの画像は2011年6月25日の部品販売になります。この時は引退が近かった5300系、5700系セミパノラマカーの部品が沢山出品されていました。この時には息子が整理番号の若番を引き当てたので、一番上の5300系のモ5401の前面行先表示器を購入しました。今は離れ2階の部屋に置いています。こちらも家庭用電源100ボルトで動くようにしています。専用のコネクターをヤフオクで購入して100ボルトに繋ぎました。赤い製造銘板もこの時に購入しました。小さいのに高価だったのを覚えています。

名鉄部品販売で購入した5300系、モ5401の前面表示。

上の画像は2012年12月10日の部品販売で入手した運転士用のスタフ差しになります。実際に使われている物で結構高価でした。持ち帰ってから、以前入手していたスタフを入れ、時計は手持ちの懐中時計を差し、運転概況表はパソコンでそれらしく作成して入れてみました。リアルに仕上がったと思っています。

名鉄部品販売とヤフオクで入手した検電アンテナには、ボディカラーと同じスカーレット色で台を作って展示できるようにしました。かなり大きいですが、レイアウトルームの隅に置いており、遊びに来られた方の注目を集めています。以上、今回は名鉄の部品収集を取り上げてみました。こうしてみると名鉄の部品に、かなり散財しているとつくづく思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

懐かしの花月園運転会

今から20年以上前の話になります。ちょうどインターネットが普及して、いろんな情報もメーリングリストで情報発信が盛んになっていた頃でした。鉄道趣味もインターネットを通して趣味が同じ人たちがオフ会と題してミーティングイベントを開催していた頃になります。そして、1998年春にとある発起人さんのお声掛けがあり、静岡県伊豆の修善寺にある鉄道模型の宿「花月園」に行きました。初代の幹事さんは兵庫県三田市におられたKさんでした。自分もその頃は若くて仕事もバリバリしていた現役の頃でした。

初回の運転会には、やはり地元の交流電気機関車EF70と客車列車編成を大きなバッグに詰め込んで持って行ったのを覚えています。午後3時頃に現地に到着して、それぞれ持参した車両をシーナリィ付きの素晴らしい大きなレイアウトで走らせました。毎回20人くらいが集って趣味の話題で1泊2日の趣味時間を堪能していました。その当時は運転会場で美味しい夕食が食べられました。女中さんも線路を跨いで料理を運んでくれていました。レイアウトの中で食べる宿の夕食は正に最高でした。その時間帯に1人1人の自己紹介があったのを覚えています。

当時、貨物列車を走らせることもブームになっていて、皆F〇〇とハンドルネームを持っており、自分は「F70」という称号を頂きました。70とはEF70からとったものです。夕食の後も夜10時頃まで運転を楽しみ、部屋の灯りを消しての夜行運転を楽しむ「ナイトラン」というイベントもありました。模型部品即売会等もあり各人が提供した部品を格安で入手できたものでした。修善寺の名湯よりも鉄道模型の運転が楽しみなお宿でした。翌日は日の出から運転することができ、5時くらいから運転しておられる方もいました。1998年当時は、朝食も運転会場でいただくことができました。「鯵のフライ」がとても美味しかったのを覚えています。そしてお昼前にはそれぞれ解散となっていました。参加者の中には後泊と題してもう1泊される方もおられました。夕食と朝食の提供は、残念ながらその後お宿の都合で無くなってしまいました。

自分は2日目にはよく東京に出て行き、鉄道模型友人と会って一緒に模型店を巡ったりしてから夜に新幹線で帰ることが多くなりました。この花月園運転会は毎年春と秋に開催されていましたが、私は毎年仕事の都合で秋は忙しかったので、春だけ参加していました。アナウンスがあれば毎年参加して楽しませてもらっていました。しかしながらコロナ禍を契機に開催が無くなってしまい、宿の運営形態も変わり、残念ながら現在では「花月園」は昼間だけのレンタルレイアウトとして営業されています。年に1度の花月園運転会は自分にとっては1年分の元気を頂いた至福の運転会でした。

上の画像は花月園にあるNゲージのレイアウトになります。たいへん大きなレイアウトでシーナリィも見事でした。運転会に参加された方の中では、Nゲージもなさっている方もおられて、このレイアウトで運転されていました。

上の画像はこの運転会に向けて、カツミ製の581系を改造して419系に仕立てた車両になります。当ブログの「食パン電車」の記事でも紹介していますが、この会には581系583系に大変詳しいモデラーさんのSさんがおられ、ご自身でも419系電車の本を出しておられました。その方の影響もあって改造してみた訳です。この運転会ではその方が紙で作られた583系電車や国鉄時代の赤い419系電車も紙で作られた模型を持ってこられていました。

上の画像はSさんの作られた赤い419系を自分の419系の先頭に繋いでみたものになります。自分の419系とは違って実物に忠実に製作され、細部までしっかりと作り込まれていました。

上の画像はそのSさんがペーパーで製作された583系電車のフル編成になります。とても紙製とは思えない真鍮完成品レベルの模型でした。Sさんはよく鉄道模型雑誌にも製作記事を掲載されておられるベテランモデラーさんです。

上の画像は花月園のレイアウトの機関区に佇む、自分の419系電車になります。レイアウトにはこの機関区をはじめ、三島駅をモチーフとした駅、トンネルに鉄橋、飯田線をイメージした路線に貨物線、そして長編成列車が何編成も留置できる大きなヤードといろいろと楽しめる夢のレイアウトでした。私が去年1年がかりで製作した自宅レイアウトも、この花月園に憧れて製作したといっても過言ではありません。

上の画像は1998年の春の運転会に持って行った天賞堂製のD51形蒸気機関車戦時タイプになります。この年の1月から3月にかけて単身赴任で神奈川県の久里浜に短期研修に行っていました。その時期に東京銀座の天賞堂本店で現金で買った思い出の模型です。大変高価な模型でしたが、思い切って入手してしまいました。自分が小学5年生の頃に亡き父親に連れて行ってもらった草津線のD51がこのタイプだったので思い切ったのだと思います。電気機関車ばかりの機関区にそっと置かせて撮影させてもらいました。

上の画像は機関区にびっしりと並べられた参加者の機関車になります。持ってきた機関車はとりあえずこの機関区に置くことがルーティーンになっていました。実に様々な機関車が並んでおり持ってきたメンバーの機関車に纏わる話を聞くのも楽しかったです。この「花月園運転会」には1998年の春より毎年参加し、最後の参加は2016年6月4日~5日でした。今後も「レンタルレイアウト花月園」として、末永く鉄道模型ファンを楽しませて頂きたいと思っています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

☆花月園の玄関。2022年6月1より完全予約制レンタルレイアウトになっています。

良き国鉄時代㉟~さようなら客車列車~

「良き国鉄時代」シリーズ。今回は1985年3月9日土曜日に米原駅にて行われた「さようなら客車列車」のイベント日の特集です。当時、私は大津市の堅田に下宿しており、大津市の特別支援学校に勤めだした頃でした。地元は長浜なので通うにはちょっと距離があり過ぎました。また鉄道趣味熱も下がっていた頃でしたので、このイベントがあることも全く知っておらず、今回の写真は、今は亡き父親が気を利かせて撮ってくれていた写真になります。今思うと是非行っておきたかった記念すべきイベントだったと思っています。この頃には北陸本線の普通列車は米原から敦賀方面へEF81形交直両用電気機関車が牽引していました。田村での機関車のつげ替えも無く、この機関車がスルーで直流から交流区間へ乗り入れて運転していたわけです。このことは高校時代の友人であるYさんからも手紙で知らせてくれていました。客車列車の後は419系近郊形交直両用電車や475系急行形交直両用電車が普通列車として活躍することになりました。この日の青色の旧形客車と荷物車を繋いだ10両編成が最後の客車による普通列車になってしまいました。米原発富山行きだったようです。

牽引機は敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車の101号機でした。この機関車は寝台特急「日本海」のラストランにも大阪から担当していました。列車のラストランに縁があったようです。この日の為に特製のヘッドマークが作られて掲げられました。後の米原機関区一般公開の日にもEF81の1号機に掲げられてもいました。美しいヘッドマークでした。このヘッドマークは自分でも鉄道模型用に写真から自作しています。

ラストラン担当の電気機関車と米原駅の駅員さんとの記念撮影でしょうか。

客車列車の別れを惜しむ鉄道ファンの姿が見えます。この列車は8番ホームからの発車でした。隣の東海道線上りホームにはEF62形直流電気機関車が映っています。下関に配置された山男が東海道の荷物列車の牽引に当たっていた頃でした。

発車が近づいていたのでしょうか?何枚もの前面を撮影した写真がありました。カメラは私のアサヒペンタックスを使っていたのか、父親のカメラを使っていたのか定かではありません。父親も親戚がカメラ屋さんだったので、多少は一眼レフカメラを使って写真を撮っていたのかもしれませんが、おそらく使い易い自分のインスタントカメラで撮っていたのかと思います。

出発前のお別れセレモニーでは米原中学校のブラスバンド演奏もされたそうです。「蛍の光」でも演奏されたのでしょうか?名古屋鉄道管理局のキャンペーンガール3人もお別れに華を添えていたようです。

「名マイ」の表記も懐かしい客車の表示には、手書きで作られたサボが差し込まれていました。「221レさよなら号」と書かれていました。

列車の出発までは客車の車体一杯に「さようなら客車列車」の横断幕が掲げられていたようです。鉄道模型でもこの横断幕を自作しています。客車に取り付けてこの最後の北陸線客車列車を再現していました。実際には見られなかった貴重な列車も鉄道模型なら何時でも再現することができます。

米原を発車して富山までの最後の運用についた旧型客車の後ろ姿になります。最後尾はマニ50形荷物車ですが、その前の3両はマニ44形パレット式荷物車のように思います。あとの編成はオハ46形やオハ35形等の雑多な旧型客車で組成されていて、あくまで推測ですが青色一色の美しい10両編成で運行されたのではないかと思います。

駅名表示にイベントの式次第が貼られていました。花束贈呈に機関士、専務車掌(通称カレチ)、車輛検査長とあります。この日をもって米原客車区もその任務を終えたのでしょう。当時は米原機関区の横には客車列車が何本も並んで留置されていた客車区があり、1976年には66両の客車を受け持っていました。代表的な形式はオハ35とオハフ33になり、マニ60もたくさん居たようです。自分も見ているはずなのですが、いつも機関区ばかりを見ていてあまり印象に残っていません。オヤ31やオエ61といった特殊な検測用の車両も在籍していたようです。客車区もしっかりと撮影しておけば良かったと後悔しています。

当日の駅改札に掲げられていた横断幕。午後1時から午後4時40分までのイベントだったようです。この列車の発車時刻は221列車のダイヤに1978年と大きな変化がなければ、午後4時28分で、終点の富山には午後11時38分に到着していたと思われます。米原を夕刻に発車して日付が変わるちょっと前に富山に着く普通列車。長距離鈍行列車にはすごくロマンを感じます。旧形客車のボックス席で、重たいジョイント音を聞きながらの長い旅。是非体験したかったものですね。この写真を残してくれた亡き父親には大変感謝しています。この写真以外にも同じ1985年3月13日に客車急行「きたぐに」がラストランを迎えており、その日の写真も撮っていてくれました。次の日からは583系電車に替わっています。最後にその写真を紹介して今回の記事を終わります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

長浜駅に入線する客車時代最後の急行「きたぐに」、青森発大阪行き。

14系の座席車と寝台車で編成されていました。郵便車のオユ10も繋がれていました。

最後尾はスハフ14形座席車でした。

1985年3月14日にダイヤ改正がされたようです。

1985.3.9さようなら客車列車を自宅レイアウトで再現してみました。

鉄道模型と出会った頃②1978年

今回は自分が1978年当時、高校生時代に鉄道模型で遊んでいた大変懐かしい写真を紹介したいと思います。私が小学5年生だった1972年頃には毎週末に友だちを集めて、離れの和室2部屋にエンドウの組み立て式金属道床線路を組み立てて遊んでいました。高校生時代になると主に鉄道写真撮影の方をやっていて、鉄道模型の方は気が向いた時に線路を組んで車両を走らせるという形に変わっていってしまいました。お座敷運転もその頃の自分の部屋だった離れの2階で時々楽しんでいたものです。もちろん線路を大きく組んで運転するときは、1階にレイアウトを作って運転していました。模型のコレクションはこの頃になると自由形では満足できなくて、実物を1/80にした本格的な鉄道模型のスケールモデルを買ってもらうように変わりました。まずはカツミ模型店のEF651000番台を入手しました。プラスティック製のギアボックスが2つあり、中央のモーターからユニバーサルジョイントを経て動力を伝える方式の模型でした。確か1万円くらいしたと思います。あこがれのスケールモデルとしては、ED70に次ぐものでした。ブルートレイン牽引機のEF65 500番台も発売されていましたが、客車も貨物も牽引できる客貨両用の機関車ということなので選んだのだと思います。買ったお店は当時、京都の丸物百貨店や大阪の阪急百貨店に鉄道模型売り場があったので、そのどちらかの百貨店で購入したものと思います。やはり好きなブルートレインを集めて買っていたようです。カツミ模型店製の24系の寝台客車を先頭(カニ24)と最後尾(オハネフ24)の客車だけ買って、中間は自由形を繋いで楽しんでいたようです。また貨物列車もボギー車のコンテナ貨物を数量買って当時のフレートライナーをイメージしながら65PFに牽かせて遊んでいました。

上の画像は1978年、自分は高校3年生の時に、離れの2階の自分の部屋で16番ゲージの組み立て式線路にて運転をしている時の写真になります。EF65 1000はカツミ製の1モーターで2つの動力台車を動かす方式の模型です。2両目はカツミ製のカニ24電源車です。この車両はこの頃に大阪の阪急百貨店の模型売り場で買ったものです。この時の帰りは1501Mの475系急行「ゆのくに」で大阪から長浜まで帰ったのをよく覚えています。ちなみにこの写真では全ての車両がスケールモデルのように見えますが、このカニ24から自由形の車両を繋いでいて最後尾だけオハネフ24を繋いでいました。奥にあるのはカツミ製の475系交直両用急行型電車になります。電車ではこの編成でクモハ+モハ+サハシ+サロ+クハの5連を当時持っていました。パーワーパックは関水金属(カトー)製のNゲージ用も使っていたようです。これは現在でもメンテナンス用として使っています。

上の写真にはカツミ製のED70にエンドウ製のキハ02が2両とエンドウ製のラッセル車キ100が映っています。このキ100は1974年に京都の丸物百貨店にて購入した車両でした。こうして見ると直流機と交流機が混在していて如何にも模型らしい写真になっています。ED70は珍しく貨物列車を牽いています。

上の3つの画像は、部屋の電灯を消して模型を走らせている時の様子をバルブ撮影したものになります。15秒くらい開放にして撮影していました。実車で米原駅を通過していくブルートレインを撮影したことがあり、それを鉄道模型でも再現してみようと撮影したように思います。走る模型の光線が綺麗に映っていて幻想的な写真に仕上がっています。エンドウ製のプラットホームにも電灯が点いているのも解ると思います。この頃から、いわゆる「ナイトラン」を楽しんでいました。

上の画像は同じような頃に、今度は一階の和室に金属道床線路でレイアウトを作って、同じ模型を走らせている様子になります。後ろにあるパワーパックKP23で給電しています。機関車の手前の線路に付けてあるのは、線路に電気を送る「フィーダー」で、ここから左右の線路にパワーパックから直流15ボルトまでを流しています。

上の画像は同じくEF65 1000の牽くコンテナ貨物、フレートライナーになります。先頭はエンドウ製のコキフ10000形コンテナ貨車、2両目はエンドウ製のコキ5500形です。こうやって見ると長いコンテナ貨物列車を想像してしまいますが、この2両の後、3両目からは雑多な貨物列車、車扱い貨物の貨車が連なっています。左下に電動ポイントのマシンが見えます。この頃は組み立て式線路のポイントを自動化にしていたようです。また左上には3色シグナルが見えます。自作したスイッチボックスで各色を点灯させて遊んでいました。

上の画像はEF65 1000とブルートレインの客車、カツミ製のオハネフ24形寝台客車になります。この写真だけ見ると長大なブルートレインの写真と想像してしまいますが、実はこのオハネフ24の後の編成は自由形ナハとナハニ、そして最後尾はカニ24になろうかと思います。こういう写真を撮ったのも、実物のような長大ブルートレインに憧れていたのがよく解ります。

上の画像が今回の最後の画像になります。少し離れて撮影しています。後ろの方にはキハ02にキ100形ラッセル車、そして自由形客車にED70とED100が見えます。右上のスイッチボックスはカツミ製の3色シグナルを操作するのに自作したものです。9Vの電池を使ってスイッチで点灯させていました。左に映っているDD13形ディーゼル機関車は当時発売されていた乾電池で動くプラモデルでモーターは使わずにトレーラーとして機関車に牽かせて遊んでいました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1978年に走らせていたカツミ製の65が2024年に快走しました。