大阪セメント伊吹専用線~思い出と現在の姿~

1996年頃だったと思います。その頃は東海道本線の近江長岡から大阪セメントの伊吹工場まで3.7キロの貨物専用線がありました。その頃まだ走っていた茶色の可愛らしい電気機関車とタンク貨物列車の撮影に行ったことがありました。伊吹山で掘削される石灰石を運搬する専用線で、単線で電化されており、いぶき501号機といぶき502号機の2両の電気機関車が働いていました。国鉄のEF15等のデッキ付き電気機関車の趣をもっており、動輪が4つのED形の電気機関車でした。専用線内は600ボルトで運転され。近江長岡駅構内では1500ボルトで運転されていました。日立製作所水戸工場で1956年に製作されました。茶色のボディーの箱型50トンの可愛らしい機関車でした。貨車はセメント専用貨車のタキ1900やホキ3500が使われていました。以前にはトキ25000も使われて石灰石の輸送もあったようです。

上の画像は近江長岡駅構内で入れ替えをしているいぶき501号機になります。この区間は1500ボルトでの運転をしていたことになります。駅の東側、柏原駅寄りにタンク貨物が沢山いた留置線があったと記憶しています。そこでいったりきたりして入れ替えをしている電気機関車を見るのが好きでした。鉄道模型でもこの伊吹号をワールド模型製で所有しており、タンク貨物はトミックス製のタキ1900を何両か持っています。大阪セメントのシンボルマークである「ライオン」の顔をコピーしてそれらしく製作したものです。

上の画像はタキ1900を3両連ねて、入れ替え作業中のいぶき501号になります。今では小さな駅構内での貨車の入れ替え風景は見られなくなってきましたが、当時はいたるところで見ることができたものでした。鉄道ファンにとってはたまらないシーンが展開されていたことになります。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。

上の画像は、近江長岡駅でセメント貨物列車を組成して、大阪セメント伊吹工場へと向かう様子になります。機関車の車体が大変美しいのが解ります。機関車のボディー裾に描かれた白帯もなかなか格好良いです。

近江長岡駅を出て、新幹線のガードをくぐると大きな右カーブにさしかかっていきます。綺麗なセメント列車のシルエットを楽しむことができました。鉄道ジオラマでもありそうなロケーションです。

上の画像は、今度はセメント工場から近江長岡駅に戻ってくるセメント貨物列車になります。大きなカーブを帰りは左に曲がりながら近江長岡駅構内まで入線してきます。だいたい10両以上の長大編成で運転されていたと記憶しています。この可愛らしい電気機関車、いぶき501号と502号は、1999年にこの専用線が廃止になるまで活躍し、その後は2両とも大井川鉄道に移籍しました。形式はED501形となり、それぞれ501号機と502号機として活躍していたようです。そして中部国際空港の建設が始まると、502号機は三岐鉄道が購入して、貨物列車の運用に就かせたそうです。2002年に三岐鉄道での活躍を終えると、その後同機は三岐鉄道の西藤原駅のウィステリア鉄道で大切に保存されているようです。大阪セメント伊吹工場には以前に蒸気機関車が展示されていた頃がありました。この蒸気機関車は102号機で、かつて三岐鉄道でセメント輸送に活躍していた機関車でした。その後、ここへ移り1956年に電化される前まで活躍していたようです。永らく大阪セメント伊吹工場で保存されていましたが、2001年の三岐鉄道70周年記念事業として三岐鉄道に里帰りして復元修理され、西藤原駅に502号と一緒に静態保存されているようです。

現在の大阪セメント伊吹工場跡付近。

伊吹山を仰ぎながら「せんろみち」が続きます。

途中には短いトンネルが2ヵ所あります。

専用線を偲ぶ廃線跡。

愛車のバイクで再訪してみました。(2010年) ここはかつて踏切があったところです。

近江長岡駅近くの橋梁に付いてあった銘板。

終点にはこんな説明板がありました。

現在、このセメント列車専用線は廃線となり、廃線跡を綺麗に整備されて「伊吹せんろみち」として生まれ変わっています。当時の専用線をそのまま遊歩道にされており、当時を偲びながら散策することができるようになっています。2010年5月30日(日)に、かつて訪ねたことのある大阪セメント伊吹専用線の廃線跡を愛車のオートバイ(ホンダシルクロード1981年製CT250S)に乗って再訪してみました。線路のあとは綺麗な遊歩道になっていました。またセメント工場跡地に保存されてあった蒸気機関車102号機は、残念ながらもう撤去されてしまっていました。現在は三岐鉄道の西藤原駅のウィステリア鉄道に静態保存されているようです。再訪した帰り道は専用線跡をかつては踏み切りがあったところまでたどってみました。何とそこには短いトンネルが2つもあったことに今更ながら驚きました。いつかはゆっくりと近江長岡駅から終点の大阪セメント工場駅跡地までハイキングしてみたいものです。大阪セメント跡地がある終点近くには「伊吹薬草の湯」という薬草を使っている温泉施設もあります。ハイキングで疲れた足腰をきっと癒してくれることでしょう。3.7キロメートルの短いセメント貨物専用線がその歴史と共に形を変えて今に残っていることは感慨深いものがあります。鉄道模型でも再現して最初に訪れた日を再現してみたいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走る「いぶき501」牽引のセメント貨物列車。雰囲気をお楽しみください。

名鉄の部品販売会~2009年頃から~

今から10年以上前の話になります。その頃、中学生だった息子が名古屋鉄道が大好きで、休日には親子で名鉄1日乗り放題切符を使って名鉄の乗り鉄を楽しんでいました。その時の様子もこのブログで記事に書いているので、併せて見て頂けたらと思います。息子が名鉄を好きになったきっかけは、「パノラマカー」だったことを後で教えてもらいました。そういえば小学生の頃にトイレールのパノラマカーを気に入っていたのを思い出しました。中学生になるとトイレールからリアルなNゲージ鉄道模型の方に進んでいきました。ベニヤ板2枚の上にカトー製の線路を敷いて、レイアウトを作り自分も一緒になって遊ばせてもらっていたものです。今でも当時コレクションしたNゲージの名鉄の鉄道模型は大切に残してあります。私はあまり私鉄には興味を持っていなかったので、当時の「名鉄」は新鮮に感じていました。大学時代を名古屋で過ごしたので、名駅などで車両を見る機会はよくありました。当時はほとんどの名鉄電車は「スカーレット」という赤色一色に塗られており、特徴的なカラーリングの電車でした。その頃に名鉄のホームページで知ったのが、「名鉄部品販売」という実車の部品を購入できるイベントでした。はじめて部品販売会に行ったのは、2009年の12月に犬山遊園駅東口で開催された時でした。受付時間前には駅まで行って長い行列に並びました。皆さん名鉄の部品を求めて、遠方からも来られているのが会話から解りました。受付で札をもらうと番号が書いてあり、内覧会の順番を示していました。なかなか若い数字を引くことができなかったのを覚えています。まずは内覧会に入って部品をチェックしておき、2回目に入場した時には購入できることになります。名鉄電車の実物部品の人気商品にはすぐに「売約済み」の札が付けられてしまっていました。息子共々大変ワクワクしたイベントでした。併せてこのイベントで当時随分と散在してしまっていたのを覚えています。

一番上の画像は2010年12月13日に名鉄犬山遊園駅の東口で行われた「部品販売」で展示されていた部品になります。7000系パノラマカーのヘッドマークや7700系のヘッドマークに札差し等がところ狭しと展示されていました。これらは会場でオークションが開催された大変価値のある物になります。パノラマカーの「逆富士」と呼ばれたヘッドマークは確か30万以上の値段になっていたように思います。庶民には参加できないオークションでした。上の画像は部品販売会で購入した5300系、モ5401の前面上部にあった行先表示灯になります。しばらくは自宅の洋間のカウンターに置いていました。

上の1000系パノラマスーパーの座席は、2010年の部品販売で購入したものになります。宅配してもらいましたが大変大きく重たいので部屋への設置に苦労しました。今は自宅レイアウトルームに置いて実際に使っています。

上の画像は2011年の部品販売で出品されていた部品になります。7000系パノラマカーの運転席部ドアにヘッドライト、ヘッドライトカバー等が並んでいました。見ているとどれも欲しくなってしまいました。

上の画像も2011年のものになります。名鉄電車6000系、7700系等の前面貫通扉に掲げられていた大形の行先表示板です。自分もこれまでにパノラマカー用と併せて4枚程購入していました。1枚はだいたい1万5千円位していました。

上の画像も2011年のものになります。こちらは1000系パノラマスーパーの先頭車の前面の部品になります。そして1000系のマスターコントローラーも当時沢山出品されていました。

上の画像も1000系パノラマスーパーの行先表示の部品です。この部品も1つ購入しました。自分で家庭電源100ボルトでも動くように配線しています。

名鉄部品販売会で入手した1000系の行先表示。

上の画像は警笛ペダルと新旧の検電アンテナになります。ちなみにこの検電アンテナは新型を購入しています。後にオークションで旧型も入手しました。両方とも今は自宅レイアウトルームに置いてあります。

上の3つの画像は2011年6月25日の部品販売になります。この時は引退が近かった5300系、5700系セミパノラマカーの部品が沢山出品されていました。この時には息子が整理番号の若番を引き当てたので、一番上の5300系のモ5401の前面行先表示器を購入しました。今は離れ2階の部屋に置いています。こちらも家庭用電源100ボルトで動くようにしています。専用のコネクターをヤフオクで購入して100ボルトに繋ぎました。赤い製造銘板もこの時に購入しました。小さいのに高価だったのを覚えています。

名鉄部品販売で購入した5300系、モ5401の前面表示。

上の画像は2012年12月10日の部品販売で入手した運転士用のスタフ差しになります。実際に使われている物で結構高価でした。持ち帰ってから、以前入手していたスタフを入れ、時計は手持ちの懐中時計を差し、運転概況表はパソコンでそれらしく作成して入れてみました。リアルに仕上がったと思っています。

名鉄部品販売とヤフオクで入手した検電アンテナには、ボディカラーと同じスカーレット色で台を作って展示できるようにしました。かなり大きいですが、レイアウトルームの隅に置いており、遊びに来られた方の注目を集めています。以上、今回は名鉄の部品収集を取り上げてみました。こうしてみると名鉄の部品に、かなり散財しているとつくづく思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

赤沢森林鉄道訪問記

2023年10月2日(月)、家内の友人も一緒に家族旅行を兼ねて長野県木曽郡上松町にある赤沢森林鉄道に行ってきました。早朝5時に自宅を出発して、晴天の下、下道をのんびりと長野県を目指しました。そして休憩をとりつつ、予定通りの10時過ぎに到着することができました。受付を済ませると大きな駐車場があり、大きな観光バスも来ていました。ここまでかなり狭い道なのによくぞここまで来ているなと感心しました。

まず目をひいたのが展示されていたモーターカー。5号でしょうか、

11時の森林鉄道に乗ることにし、「木曽ひのき」で作られた記念切符を買いました。待ち時間に「森林鉄道記念館」を見学することにしました。木曽森林鉄道の歴史についての展示がされていて、奥には貴重な保存車両が沢山展示されていました。ここの鉄道も線路幅762mmのナローゲージで、どの車両も大変可愛らしく見えました。

木曽森林鉄道を代表するディーゼル機関車、122号。
こちらはボギー式両運転台の大型のディーゼル機関車、136号。
122号の反対側。
客車も展示されていました。

どの展示車両も大変美しく整備されていて、今にも動き出しそうな様相を呈していました。あっという間に発車時刻となり、5両ある客車の先頭車両に乗車しました。発車時刻の直前にディーゼルエンジンが始動し、ゆっくりと走り出しました。スピードは時速8キロというゆっくりとした走行で、右側に迫る渓谷を見ながら森の中を列車は進んでいきました。鉄橋も7ヵ所あって川の流れも真下に見られて楽しかったです。森林鉄道記念館前から丸山渡停車場までの片道1.1キロメートルを往復で乗車する観光路線になっています。

気持ちの良い天候の中の森林鉄道は森の息吹を感じながらの至福の時間でした。終点の丸山渡では係員の方がディーゼル機関車の連結を手早く解除され、機関車が離れていきます。そしてまた係員の方が手早くポイントを切り替えられると、機関車は客車の横を通っていきました。いわゆる「機廻し」作業を見ることができました。機関車は反対方向に走るために最後尾の客車に連結されます。本当に久しぶりに機廻し作業を見ることができて心が弾みました。そして帰りは最後部からまた森林鉄道の景観をじっくりと楽しむことができました。森林鉄道記念館駅に着いてからは、もう一度ゆっくりと森林鉄道記念館を見学しました。

左がボールドウィン。右は保存鉄道のDL。

木曽森林鉄道は江戸時代からの河川を用いた木材運搬を近代化し、大正時代初期に森林鉄道が木曽谷に敷かれました。当初はアメリカ型蒸気機関車(ボールドウィン)が運材に活躍していました。このボールドウィンも森林鉄道記念館近くにディーゼル機関車と一緒に展示されていました。昭和35年1960年にボールドウィンは引退し替わってディーゼル(内燃機関)機関車が活躍することになりました。最盛期には木曽森林鉄道だけで総延長400キロに及ぶ路線があったようです。やがて道路が整備されるようになりトラックの性能も上がっていったことから、運材はトラックに代わっていきました。そして昭和50年(1975年)に森林鉄道は終焉を迎えました。森林鉄道を残していくべきだという声が地元を中心に強く、まもなく赤沢に森林鉄道記念館が完成し、昭和62年(1987年)に森林鉄道の復活となったようです。

出発駅に「森林鉄道フェスティバル」のポスターが貼ってありました。10月8日に近くにある王滝森林鉄道で保存されているモーターカーや客車や運材貨車を牽く機関車を見学することができたり、体験乗車できたりするイベントの告知でした。また来年にはこのもうひとつのこの森林鉄道フェスティバルに是非行ってみたいと思っています。日帰りの赤沢森林鉄道への旅でしたが、お昼は現地の美味しい山菜蕎麦を食べたり、帰りに岐阜市のログハウス展示や美味しい海老天ぷらも食べたりと家族ともども大いに楽しめた日帰り旅でした。

展示されていた理髪車の内部
木曽ひのき製の記念切符。

鉄道模型ではトミーテック製品から9mmゲージの線路に1/80のナローゲージの車両を走行させる「HOナロー」の製品である「猫屋線シリーズ」が出ています。自分も尾小屋鉄道に興味をもってから、以前に製作しておいたNゲージ用線路に手を加えて「軽便鉄道ミニレイアウト」を作りました。ここに猫屋線の模型をトコトコ走らせたりしていました。今回、赤沢森林鉄道に行ってから、木曽森林鉄道の車両のモーターカーも走らせてみたいと思っています。手持ちの「酒井形モーターカー」のキットを完成させて見たいものです。このHOナローの世界は大変小さなスペースでもジオラマレイアウトが作れて、気軽に楽しめるのが良いです。スケールは1/80になり、傍にHOゲージを置いても大変マッチしますね。ミニトンネルにミニ鉄橋を配置し、駅を2つ置きました。ストラクチャーは市販の建物プラモデルを置いています。自動車はトミー製の「ハチマル」シリーズので1/80スケールの自動車です。引き込み線には軽便鉄道風の貨車や気動車、DL列車なんかも置いています。大きな本線レイアウトでの運転も楽しいですが、箱庭的に楽しめる「HOナロー」の世界もまた素敵です。少しずつ手を加えていってもっとリアルなジオラマレイアウトにしていきたいと思います。とりわけ「尾小屋鉄道」と今回訪れた「木曽森林鉄道」をテーマにして広げていきたいと思います。

ナローゲージ~軌間762mm鉄道の魅力

2023年7月26日に親しい友人と家族とで長野県塩尻市に日帰りで行ってきました。目的は塩尻市にある好きなワイナリーに行くことでした。平日とあり、スムーズに目的地の「ごいちワイン」と「信濃ワイン」を巡ることができました、帰路は木曽路の下道を帰ることとして、途中で漆器のお店に立ち寄ったりしてのんびりしました。お店にトロッコ鉄道のポスターがあり、店の人に尋ねたら、車で1時間ほど走ったら森林鉄道に体験乗車できるとの情報をもらいました。赤沢自然休養林の中を赤沢森林鉄道が復活運転をされているとのことでした。今回は日帰り旅行なので立ち寄ることは無理なので、また日を改めてじっくりと見に行きたいと思います。1987年に観光客誘致のねらいもあり、ディーゼル機関車が客車を牽引するスタイルで運行されているようです。森林鉄道だけしか見られないアメリカ型ボールドウィンという蒸気機関車も静態保存されているようです。木曽森林鉄道は日本の森林鉄道では知名度が高く、長野県の木曽谷国有林を運搬していたようで、最盛期には総延長400kmにも及ぶ線路が敷かれていたようです。1916年に最初の鉄道区間が開通し、1976年まで運用されていたようです。レールの幅は762mmで、通称「ナローゲージ」の鉄道でした。

今回の旅行の帰りに、ネットで木曽森林鉄道保存車両を検索すると、中央線の薮原駅の近くにある「木祖村郷土館」の木工文化センターに木曽森林鉄道で活躍していたモーターカーが保存されていると知り、大変興味深いスタイルに魅かれて見に行くことにしました。すると木祖村郷土館の前に線路が敷かれていて、たいへん愛嬌のある顔をした木曽森林鉄道のモーターカーが運材台車2台と共に静態保存されていました。このモーターカーはNo.20ということでした。屋外での保存なので錆が出でおり、内部も朽ちてはいましたが可愛らしいスタイルが自分のハートを鷲掴みにしてしまいました。エンジンの上部分が昔のバスのようになっており、チェンジレバーもありました。おそらくガソリンエンジン仕様でクラッチ操作をしながらギアを変えて走っていたのでしょう。車内は運転席以外は8人乗りで、後部のドアから乗り降りしたのでしょう。後部にも前照灯らしきものが付いていました。昭和25年製とのことで森林作業者を運ぶのに使われていたのでしょう。鉄道模型でHOナローという規格があるので、是非線路幅9mm、縮尺1/80で模型化してみたいとも思いました。たいへん素敵な出会いがあった日帰り信州旅行でした。

モーターカーの車内。

線路幅762mmといえば、「ナローゲージ」ということになり、これまでに何か所か見に行ったことがあります。去年、家族旅行で能登に手かけた帰り、石川県小松市にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に立ち寄りました。この尾小屋鉄道は、石川県の新小松から尾小屋までの16.8キロを結んでいた地方鉄道で、1919年に開業して1977年に廃止されました。鉱山の鉱石輸送と沿線住民の生活の足として活躍していました。汽車展示館には蒸気機関車5号、客車ハフ1、気動車キハ3が展示されています。「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」が鉱山電車の体験乗車もできるようにされました。素晴らしい展示館になっています。 

⭐︎「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」のページはこちらから。

また素晴らしいことに、尾小屋鉄道の体験乗車ができることを知り、昨年の11月に北陸本線の粟津にある「いしかわ子ども交流センター小松館」まで行ってきました。「なかよし鉄道」と名付けられ、昭和59年8月1日から「なかよしの森」の473mを子どもたちを乗せて元気に走っていました。冬期間(12月中旬から3月中旬)の運休を除いて、水曜に1便、土日祝祭日に2便走っています。車庫にはディーゼル機関車や客車も保存されており、子どもの日と夏休みにはイベントとして走るようでした車両は大変綺麗に整備されており、エンジン始動からスタート、停止とスムーズな運転状態でした。

「なかよし鉄道」で活躍する尾小屋鉄道キハ1。
車庫内にはディーゼル機関車121型と客車ホハフ3とホハフ1が居ました。

ナローゲージといえば、以前に三岐鉄道の北勢線に乗りに行ったことがありました。この電車もレール幅は762mmですが、三岐鉄道の営業路線として現役で運転されています。車内は狭くて、遊園地の汽車に乗っている感じですが、スビートも時速45キロまで出てどこかのローカル電車に乗っている実感がわいてきます。アトラクション的な要素もあるかと思いました。終点には乗用鉄道模型の線路が敷かれていて、イベント時には模型の車両が走るものと思います。ちょっとした鉄道ミュージアム風になっていました。三岐鉄道北勢線は三重県桑名市の西桑名駅から三重県いなべ市の阿下喜駅までを結んでいる路線になります。こちらも大変可愛らしい黄色の電車4両編成が走っていて、いつでも乗ることができます。山間の線区もあってなかなか乗り鉄も楽しめました。

三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車。
ナローゲージの現役で活躍しています。
線路幅をついついメジャーで測ってしまいました。確かに762mmでした。

米原・蒸気機関車避難壕探訪

かねてから訪れてみたかった米原市岩脇にある「蒸気機関車避難壕」なるものを見に行ってきました。第二次大戦末期の1944年4月から6月にかけて掘削工事がされました。東海道線と北陸線で物資や兵士を輸送していた蒸気機関車を米軍の空爆から守るために、岩盤を掘り進んで作られた避難壕(市指定文化財)になります。東側と西側に1本ずつ掘られていて、東側は130メーター掘られて貫通しており、西側は双方の入り口から52メートル掘られたところで貫通はしていません。洞窟は戦後放置されていてゴミ置き場になっていたところを、2008年10月から翌年8月にかけて地元の有志の方々で作られた「岩脇まちづくり委員会」が「戦争をわすれないために」とこつこつと整備されて保存されています。209年8月8日に避難壕の整備が完了しました。

米原駅は交通の要所であり、戦時中も軍事物資を運ぶ上では大変重要な駅でした。当然敵からすれば格好の攻撃目標になったわけです。輸送の立役者の蒸気機関車を空爆から守るべくして駅からほど近い岩脇山に避難壕を作られたわけです。一つの避難壕が未完成なのは工事中に終戦になってしまったからでした。岩脇山は岩盤は大変硬く、空襲の被害を逃れられたと考えられたのでしょう。掘削作業は当然手作業でなされ、当時は沢山の人が難作業に当たられたと思われます。「上下2段工法」という大変特殊な掘削方法で作業されたようです。また当時は作業員専用の宿舎まで作られていたらしいです。

整備された機関車避難壕の前には、大変立派な説明書きが建てられていました。

2008年から「岩脇まちづくり委員会」の方々が整備を始められて、2つ残されている機関車避難壕の近くには、立派な「資料館」も作られていました。中には「岩脇まちづくり委員会」の活動や避難壕の保全に関する資料が展示されています。また、整備中に見つけられた掘削用の火薬を詰めるパイプとかすがいも展示されていました。2017年7月27日に滋賀県内初の戦争遺跡として米原市の指定文化財に登録されました。

この蒸気機関車避難壕は、戦争遺跡を戦争の証言者、語り部として保存活用されています。地元の小学校の見学会の場所としても利用され、平和学習の教材として利用されているようです。全国的にも大変珍しい避難壕ということで、これから全国に向けてさらなる情報発信をしていただきたいと思いました。地元の新聞でこの情報を知り、ふらっと訪れてみた訳ですが、あの大きな蒸気機関車を隠すための洞窟を人の手によって掘られていたことに衝撃を受けました。もしこの蒸気機関車避難壕が完成していたら、D51形蒸気機関車の長さは約20メートルなので1つの避難壕の中に6両程を隠すことができたのでしょう。終戦により実際には完成することもなく使用されませんでしたが、これからも戦争の生きた語り部として、平和の尊さを発信し続けて欲しいと思います。