良き国鉄時代②高校時代の撮り鉄

最近は10月に開催が予定されている高校の同窓会の話題で、SNS上のやり取りが大変盛り上がっています。3年前に同窓会開催の予定があったのですが、コロナ禍であった為に延期されたままとなっていました。この度、有志の方々が動いて下さり、この秋には開催の運びとなり、現在着々と準備をして下さっています。今から本当に楽しみでなりません。

高校時代、1977年に同じクラスに鉄道ファンがいました。その方は現在ではJR西日本の幹部になられていると思います。確か自分の子どもさんにも「みずほ」、「さくら」という特急列車の名前をつけておられたように記憶しています。現在は大阪の方に住んでおられます。その同級生と京都の近く山崎付近に撮影に行ったことがありました。当時は「山崎の大カーブ」といわれていた撮影ポイントがあり、大阪方面から次々にやってくる列車を撮影するにはもってこいの場所でした。中学生の時、親に買ってもらったアサヒペンタックスSPFと135ミリの望遠レンズを持って行って撮影したものでした。特急「白鳥」、「彗星」、気動車急行、14系座席車の臨時急行、自動車運搬貨物列車等、まったく飽きることなく同じ場所での撮影を楽しむ事ができました。その時に撮影した写真の一部が以下に載せた画像になります。

特急「白鳥」は485系交直両用特急形電車で運行されていました。高校の修学旅行でも青森から敦賀まで乗車することができた思い出の特急電車になります。この写真は大阪を出発し、はるかなる終着駅青森を目指して走り出した雄姿です。

同じ場所で撮影した寝台特急「彗星」です。この写真は宮崎から新大阪までの長旅を終えて向日町の留置線に向かう回送列車なになります。大好きな電車で、地元では寝台特急「金星」の合間運用の特急「しらさぎ」をよく撮影していたものです。もちろん鉄道模型でもこの塗色と末期の急行「きたぐに」に使用された更新色の2編成を持っています。

この気動車による長大編成は、キハ58系で運転されていた急行「ゆのくに・越後」だと思われます。当時は大阪から和倉へ行く編成と、新潟まで行く編成が併結されて運行されていました。堂々たる12両編成での運転でした。当時は急行「大社」という名古屋発大社行きの気動車急行列車も運転されていて、名古屋から米原を経て敦賀を経由して小浜線、舞鶴線、宮津線を経て豊岡から山陰本線に入って大社に向かうという気動車急行もありました。途中の天橋立で編成を切り離して、身軽になって終点を目指していたようです。列車の分割併合は気動車にとっては大変やり易く、都合の良いものだったといえます。終点までなぜか大変大回りしていく旅路に、今はすごくロマンを感じます。

写真は14系座席客車による急行「阿蘇・くにさき」になります。名称のように熊本~新大坂、大分~新大阪を結んでいた夜行列車でした。九州の門司まで長大編成で運転されていて、門司からはそれぞれの行先に分割して運転されていました。この14系座席車には自分も一度だけ乗車した経験がありました。特急列車のようなクロスシートで見晴らしの良い長い窓でしたが、簡易リクライニングシートで、身体で背もたれを押していないと元に戻ってしまいました。夜行列車だったと思うのですが、寝ようとしていたらシートが戻ってしまって起こされ、たいへん寝辛い思いをした苦い記憶が残っています。車両のデザインは大変スマートなので気に入っていました。もちろん模型でもカトー製品を持っています。北陸線でも客車急行末期の急行「きたぐに」にも寝台車の14系と併結されて運転されていました。

最後の写真は、EF60形直流電気機関車の牽く「自動車運搬車」貨物列車になります。空荷なので返却回送列車だと思います。このEF60形直流電気機関車は500番台といって、特急列車牽引用に作られた機関車になります。20系寝台特急客車編成を牽引するのに必要な装備が付けられていました。この写真と違う特急色をまとっていたのですが、末期はこのように一般色に塗色変更されて活躍していました。自動車運搬車は「ク5000形式」の貨物車両で当時は自動車を運搬するために各地で活躍していた車両になります。オレンジ色に塗られて、今で言うカーキャリアーのような形状でした。北陸線でも小松方面に向かう車運車貨物列車を見ることができました。鉄道による自動車輸送が無くなった頃には、米原駅の貨物操車場に沢山集められて留置されていました。模型では天賞堂製品の車両をオークションで集めて10両程持っています。当時の貨物列車では異彩を放つ列車でした。

以上、高校時代に友人と出かけた山崎への撮影旅行の振り返り記事でした。撮影ポイントに行くにあたってなるべく早く着きたかったので、米原から京都までは新幹線(当時は0系)を使って行きました。米原発は朝の7時代でしたが自由席に座ることができず、ドアのあるデッキ部に立っていた記憶があります。おそらく「ひかり」号だったのでしょう。帰路はおそらく113系電車に乗って帰ったように思います。この友人とは、ブルートレインを撮影する為に上京したこともありました。自分とは違って大変写真撮影が上手い友人で、雑誌の「鉄道ファン」の写真コンテストにも入賞していたことを思い出しました。

この頃の写真は今も運良く残しているので、デジタル化して皆さんにも見てもらうことができます。分厚いアルバムが4冊程あり、どれも大変懐かしい鉄道写真ばかりです。また順次懐かしい国鉄時代の画像を、エピソードを交えながら紹介させていただこうと思います。

Kトレインワールド訪問記

2023年6月24日(土)に、かねてから訪れてみたかった香川県三豊市にある「Kトレインワールド」に行ってきました。館長さんは元中学校の体育の教師で、自分と同じくらいの年齢の方です。自分も教師をしていたので、親近感も湧いていました。フェースブックでも繋がっているので、事前に訪問することをお伝えしていました。ちょうど家族旅行で四国にも行く旅程を組んでいたので、土曜日に伺う予定を組んでこの日に訪れました。

場所はJR予讃線の「比地大駅」の駅前にありました。大変可愛らしい平屋建ての建物でも周囲には5インチゲージの線路が敷かれていました。実物の踏切警報機や観音寺の駅票にホームにある時計、ポイント信号機等が置かれており、0系新幹線の先頭部カバーや8000系特急形電車の先頭部カバーも飾られていました。ワクワクする館外のディスプレイの数々でした。期待に胸を膨らませながら、館内に入っていき受付を済ませました。

館内には所狭しと鉄道関連グッズが飾られており、16番ゲージとNゲージのジオラマレイアウトが目に飛び込んできました。そして館長さんは16番ゲージの車両をメンテナンスしておられました。声をかけさせてもらい名刺を渡して挨拶しました。予想通りの大変優しいお人柄のスポーツマンタイプの方でした。しばらくKトレインワールドのお話をお聞きして、館内を巡っていきました。そこには正に誰もが夢中になれるものばかりでした。

16番ゲージのジオラマレイアウト。

館内展示は特集コーナーを設けておられ、今回は「英国の鉄道」を特集した展示をされていました。館長さんは英国にも行かれたことがあり、大変興味を持たれているようでした。展示コーナーには英国のホーム表示の実物や各種蒸気機関車の模型、写真などが飾られていました。また片隅には館長さんが鉄道模型にのめり込まれた原点とも言うべき「初代プラレール」も大切に展示されていました。自分も持っていたので、大変懐かしく見させてもらい幼い頃に思いを馳せられました。16番ゲージのジオラマは地元のパノラマ展示を兼ねており、スイッチを押すと三豊市近辺の観光スポットが赤いランプで光るようになっていました。またジオラマカフェにもなっていて、コーヒーや紅茶にパイ等を楽しみながら見られるようになっていました。たいへん作り込まれた見ごたえのあるジオラマレイアウトでもこの日は外国形の車両が山線を快走していました。

今回の企画展示コーナーは「英国の鉄道展」。

自分のレイアウトの片隅にも電気機関車の運転台を模したコーナーを作っているのですが、ここにはキハ58形気動車の運転台さながらのマスコンハンドル(主幹制御器)とブレーキ弁ハンドル、メーターパネルも置かれていました。制服を着て制帽をかぶったら、四国を走っていた気動車の運転士気分になれます。また四国を走っていたディーゼル特急の本物のヘッドマークも沢山飾られていました。

館の奥の方には、キッズコーナーがあり、小さな子どもさんがプラレールで自由に遊ぶことができる場所もありました。あわせて電車の模型を走らせるゲームも置かれていました。さすがは長年にわたり教員生活をされていたからでしょうか、子どもさんにも楽しめるコーナーも充実していました。Kトレインワールドのテレビ放映番組で知ったことですが、ここの屋外にある5インチゲージの鉄道模型に乗った幼いカップルさんが、乗車にご縁があって大人になってから結婚されたという事があったようです。なんとも素敵なロマンに満ちた話に思いました。館の外周に敷設された5インチゲージは、別料金で乗ったり運転したりすることができるようでした。館長さんに車庫を見せて頂き、中には沢山の電動5インチゲージが格納されていました。毎回車両を変えながら運転されておられるようでした。石炭で走る蒸気機関車、ライブスティームも持っておられて、鉄道記念日等の特別な日にはご自身が運転されるようです。

旅の途中での慌ただしい訪問となりましたが、快く案内してくださった館長さんにこの場をお借りしてお礼申し上げます。また次回は腰を据えてゆっくり滞在させていただく予定です。

Kトレインワールドのホームページへはこちらからどうぞ。

ホームの照明をリニューアル

自宅レイアウトの駅のホーム照明には、これまで白色LED室内灯を連ねていましたが、鉄道模型友人が余った12ボルト用のテープLEDを譲ってくれたので、リニューアル工事をすることにしました。これまでの雰囲気も決して悪いというものではなく、夜の演出をしてくれていましたが、室内灯をむき出しで連ねていたので厚みがあり、しかも均一な照らし方には程遠いものがありました。そして配線もむき出しで見栄えも悪いお粗末なものでした。

今回はこの室内灯を撤去して、テープLEDにしていく作業をしてみました。まずは現状の照明の撤去からです。模型友人に手作りしていただいたこのホームは紙と木材で作られていて、屋根部が取れるようになっており分解ができます。しかも驚いたことに、ホームの屋根下には12ボルトのテープLEDが収まるように溝が作ってありました。おかげでぴったりと溝に納めながら貼っていくことができました。今回はマスキングテープでの仮取り付けなので、後には両面テープでしっかりと固定させていきたいと思います。

実は今回が初めてのLEDテープの使用になりました。よく見るとところどころに半田付けで連結している箇所があり、そこで切断しても使用には大丈夫ということも実験してわかりました。また給電は12ボルトまでの電圧で走行用のパワーパックから行う方法にしています。その際に+と-の極性があり、間違えないように結線する必要がありました。いろいろ勉強になることも多くて楽しい工作となりました。パワーパックで給電するので、好みの照度に調整することができます。だいたいパワーパックの8目盛りくらいの出力で良さそうでした。

ホーム途中の階段とエスカレーターがあるの部分は、LEDテープを仮に通しているのではみ出しています。今後は、部分ごとに短くしたLEDテープを半田付けで繋いでいき、すっきりさせたいと考えています。LEDテープ化したホームは照度が均一になり、ホームに作られた飲み物の自動販売機やお弁当屋さん、階段とエスカレーター、そして椅子などが生き生きと照らし出されて大変実感的に見えるようになりました。LEDの色も暖色系なので、良い具合に照らしてくれています。この時発見したことがありました。何と階段の一段一段には注意喚起の文字や広告まで表現されていたのです。

米原駅新幹線ホームの独特の風防ガラスの表現も大変リアルにライトアップされるようになりました。実は、今日このホームを製作してくださった方が自宅にお見えになり、改めて照明をリニューアルしたホームを見てもらうことができました。製作者も大変喜んでおられました。ようやく照明を変えることができて良かったと思っています。これからも少しずつレイアウトのバージョンアップをしていきたいと思います。

電源荷物車カニ24見学記

2023年6月17日から京都鉄道博物館でカニ24の特別展示が始まるという情報を京都鉄道博物館のホームページで知り、ネットで事前に入館券と特別展示会のセットを購入しておきました。これまで鉄道博物館の外にある屋外留置線に置かれていて、車体の老朽化に伴い、現行の展示方法で必要となってくる構内の入れ替え作業等が困難になってきたことを理由に、展示を終了するとのアナウンスがありました。そして最終展示として特別に車内の見学もできるように特別展示として開催されることになったわけです。本日6月16日から18日、23日から25日の10時15分から16時40分まで公開されます。車両の展示は6月27日限りで終了されます。自分は今日、2023年6月16日の午後1時30分からの展示会に行ってきました。

このカニ24形12号車はいわゆる寝台特急客車列車の電源荷物車で、1976年製の車両になります。この塗色は晩年、「トワイライトエクスプレス」の編成に組み込まれた際に、同客車と同じ塗色にされたものです。本来は24系客車の電源を担う目的で1973年から製造が開始されました。車内には各車両に電気を供給するための2基の発電用ディーゼルエンジン(DMF31形エンジン)を搭載しています。ブルートレインと呼ばれた寝台特急の24系客車の端には、必ず連結されていた大事な任務を受け持つ車両といえます。

自分が中学生の頃に名古屋駅で終夜にわたり、ブルートレインを撮影していたことがありました。その時、この電源車のエンジン音がものすごく大きかったことが大変印象に残っています。深夜の駅ホームに大きなエンジン音が響いていたものでした。今回はエンジン音こそ聞くことはできませんでしたが、初めて電源車の車内に足を踏み入れることができました。自分が選んでおいた時刻に車両の近くに行って受付を済ませると、係の方が車内に案内して下さいました。車内にも係の方が2名おられました。わずか4分間という見学時間ではありましたが、大きな発電用ディーゼルエンジンを大変間近に見られたことは貴重な体験となりました。荷物室のところからエンジンの真横を通って、窓のある最短部の乗務員室へと進みました。小さい座椅子があり、各種計器類と蛍光灯がありました。思っていたよりも狭い感じがしました。願わくはここから流れ去る都会の夜景を眺めてみたかったものです。

大阪から札幌を結んでいた豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」の電源荷物車、カニ24  12号車が6月末で姿を消してしまうのは誠に残念ですが、最後に今回の特別展示会で車内を見せて頂くことができて大変有意義だったと思います。あとは自宅レイアウトで鉄道模型を走らせながら、良き時代の素晴らしい寝台特急を再現して楽しみたいと思います。

米原・蒸気機関車避難壕探訪

かねてから訪れてみたかった米原市岩脇にある「蒸気機関車避難壕」なるものを見に行ってきました。第二次大戦末期の1944年4月から6月にかけて掘削工事がされました。東海道線と北陸線で物資や兵士を輸送していた蒸気機関車を米軍の空爆から守るために、岩盤を掘り進んで作られた避難壕(市指定文化財)になります。東側と西側に1本ずつ掘られていて、東側は130メーター掘られて貫通しており、西側は双方の入り口から52メートル掘られたところで貫通はしていません。洞窟は戦後放置されていてゴミ置き場になっていたところを、2008年10月から翌年8月にかけて地元の有志の方々で作られた「岩脇まちづくり委員会」が「戦争をわすれないために」とこつこつと整備されて保存されています。209年8月8日に避難壕の整備が完了しました。

米原駅は交通の要所であり、戦時中も軍事物資を運ぶ上では大変重要な駅でした。当然敵からすれば格好の攻撃目標になったわけです。輸送の立役者の蒸気機関車を空爆から守るべくして駅からほど近い岩脇山に避難壕を作られたわけです。一つの避難壕が未完成なのは工事中に終戦になってしまったからでした。岩脇山は岩盤は大変硬く、空襲の被害を逃れられたと考えられたのでしょう。掘削作業は当然手作業でなされ、当時は沢山の人が難作業に当たられたと思われます。「上下2段工法」という大変特殊な掘削方法で作業されたようです。また当時は作業員専用の宿舎まで作られていたらしいです。

整備された機関車避難壕の前には、大変立派な説明書きが建てられていました。

2008年から「岩脇まちづくり委員会」の方々が整備を始められて、2つ残されている機関車避難壕の近くには、立派な「資料館」も作られていました。中には「岩脇まちづくり委員会」の活動や避難壕の保全に関する資料が展示されています。また、整備中に見つけられた掘削用の火薬を詰めるパイプとかすがいも展示されていました。2017年7月27日に滋賀県内初の戦争遺跡として米原市の指定文化財に登録されました。

この蒸気機関車避難壕は、戦争遺跡を戦争の証言者、語り部として保存活用されています。地元の小学校の見学会の場所としても利用され、平和学習の教材として利用されているようです。全国的にも大変珍しい避難壕ということで、これから全国に向けてさらなる情報発信をしていただきたいと思いました。地元の新聞でこの情報を知り、ふらっと訪れてみた訳ですが、あの大きな蒸気機関車を隠すための洞窟を人の手によって掘られていたことに衝撃を受けました。もしこの蒸気機関車避難壕が完成していたら、D51形蒸気機関車の長さは約20メートルなので1つの避難壕の中に6両程を隠すことができたのでしょう。終戦により実際には完成することもなく使用されませんでしたが、これからも戦争の生きた語り部として、平和の尊さを発信し続けて欲しいと思います。