赤沢森林鉄道訪問記

2023年10月2日(月)、家内の友人も一緒に家族旅行を兼ねて長野県木曽郡上松町にある赤沢森林鉄道に行ってきました。早朝5時に自宅を出発して、晴天の下、下道をのんびりと長野県を目指しました。そして休憩をとりつつ、予定通りの10時過ぎに到着することができました。受付を済ませると大きな駐車場があり、大きな観光バスも来ていました。ここまでかなり狭い道なのによくぞここまで来ているなと感心しました。

まず目をひいたのが展示されていたモーターカー。5号でしょうか、

11時の森林鉄道に乗ることにし、「木曽ひのき」で作られた記念切符を買いました。待ち時間に「森林鉄道記念館」を見学することにしました。木曽森林鉄道の歴史についての展示がされていて、奥には貴重な保存車両が沢山展示されていました。ここの鉄道も線路幅762mmのナローゲージで、どの車両も大変可愛らしく見えました。

木曽森林鉄道を代表するディーゼル機関車、122号。
こちらはボギー式両運転台の大型のディーゼル機関車、136号。
122号の反対側。
客車も展示されていました。

どの展示車両も大変美しく整備されていて、今にも動き出しそうな様相を呈していました。あっという間に発車時刻となり、5両ある客車の先頭車両に乗車しました。発車時刻の直前にディーゼルエンジンが始動し、ゆっくりと走り出しました。スピードは時速8キロというゆっくりとした走行で、右側に迫る渓谷を見ながら森の中を列車は進んでいきました。鉄橋も7ヵ所あって川の流れも真下に見られて楽しかったです。森林鉄道記念館前から丸山渡停車場までの片道1.1キロメートルを往復で乗車する観光路線になっています。

気持ちの良い天候の中の森林鉄道は森の息吹を感じながらの至福の時間でした。終点の丸山渡では係員の方がディーゼル機関車の連結を手早く解除され、機関車が離れていきます。そしてまた係員の方が手早くポイントを切り替えられると、機関車は客車の横を通っていきました。いわゆる「機廻し」作業を見ることができました。機関車は反対方向に走るために最後尾の客車に連結されます。本当に久しぶりに機廻し作業を見ることができて心が弾みました。そして帰りは最後部からまた森林鉄道の景観をじっくりと楽しむことができました。森林鉄道記念館駅に着いてからは、もう一度ゆっくりと森林鉄道記念館を見学しました。

左がボールドウィン。右は保存鉄道のDL。

木曽森林鉄道は江戸時代からの河川を用いた木材運搬を近代化し、大正時代初期に森林鉄道が木曽谷に敷かれました。当初はアメリカ型蒸気機関車(ボールドウィン)が運材に活躍していました。このボールドウィンも森林鉄道記念館近くにディーゼル機関車と一緒に展示されていました。昭和35年1960年にボールドウィンは引退し替わってディーゼル(内燃機関)機関車が活躍することになりました。最盛期には木曽森林鉄道だけで総延長400キロに及ぶ路線があったようです。やがて道路が整備されるようになりトラックの性能も上がっていったことから、運材はトラックに代わっていきました。そして昭和50年(1975年)に森林鉄道は終焉を迎えました。森林鉄道を残していくべきだという声が地元を中心に強く、まもなく赤沢に森林鉄道記念館が完成し、昭和62年(1987年)に森林鉄道の復活となったようです。

出発駅に「森林鉄道フェスティバル」のポスターが貼ってありました。10月8日に近くにある王滝森林鉄道で保存されているモーターカーや客車や運材貨車を牽く機関車を見学することができたり、体験乗車できたりするイベントの告知でした。また来年にはこのもうひとつのこの森林鉄道フェスティバルに是非行ってみたいと思っています。日帰りの赤沢森林鉄道への旅でしたが、お昼は現地の美味しい山菜蕎麦を食べたり、帰りに岐阜市のログハウス展示や美味しい海老天ぷらも食べたりと家族ともども大いに楽しめた日帰り旅でした。

展示されていた理髪車の内部
木曽ひのき製の記念切符。

鉄道模型ではトミーテック製品から9mmゲージの線路に1/80のナローゲージの車両を走行させる「HOナロー」の製品である「猫屋線シリーズ」が出ています。自分も尾小屋鉄道に興味をもってから、以前に製作しておいたNゲージ用線路に手を加えて「軽便鉄道ミニレイアウト」を作りました。ここに猫屋線の模型をトコトコ走らせたりしていました。今回、赤沢森林鉄道に行ってから、木曽森林鉄道の車両のモーターカーも走らせてみたいと思っています。手持ちの「酒井形モーターカー」のキットを完成させて見たいものです。このHOナローの世界は大変小さなスペースでもジオラマレイアウトが作れて、気軽に楽しめるのが良いです。スケールは1/80になり、傍にHOゲージを置いても大変マッチしますね。ミニトンネルにミニ鉄橋を配置し、駅を2つ置きました。ストラクチャーは市販の建物プラモデルを置いています。自動車はトミー製の「ハチマル」シリーズので1/80スケールの自動車です。引き込み線には軽便鉄道風の貨車や気動車、DL列車なんかも置いています。大きな本線レイアウトでの運転も楽しいですが、箱庭的に楽しめる「HOナロー」の世界もまた素敵です。少しずつ手を加えていってもっとリアルなジオラマレイアウトにしていきたいと思います。とりわけ「尾小屋鉄道」と今回訪れた「木曽森林鉄道」をテーマにして広げていきたいと思います。

良き国鉄時代⑭~米原駅撮り写真から⑵~

国鉄時代の米原駅は、自分にとっては「聖地」であり中学生頃から頻繁に撮影に出向いていました。今回は1975年から1977年頃に撮りためていた、米原駅で撮影した写真を紹介していきます。ストックが多いので、また何回かに分けながら紹介していきたいと思います。1975年は自分が15歳の中学生の頃になります。米原駅で朝から1日撮影をしていると次から次へと優等列車が入線してくるので、時刻表を見ながら大変忙しくかつ楽しく撮影していたと記憶しています。

上の画像は1975年冬に撮影したキハ181形特急形気動車による特急「しなの」になります。大阪発長野行きの上下1本の運用の列車になり、中央西線電化前の現役時代の写真です。これから名古屋に向かって関ケ原を越えていくことになります。この気動車と言えば、発車シーンが印象的でした。ラジエターを載せた屋根から、モクモクと黒煙を出しながら力強く発車して行きました。鉄道模型では旧製品にはなりますが、エンドウ製を「しなの」編成で持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した米原駅構内に佇むマンモス電機のEH10形直流電気機関車になります。パンタグラフが中央に寄っているので1号機から3号機の初期タイプになります。この電機を撮影した写真は以外にも少なくて、この1枚位になります。鉄道模型ではカツミ製の後期タイプと天賞堂製の初期タイプ、2両を持っています。ク5000や2軸貨車を牽かせて楽しんでいます。

上の画像は1975年に撮影した名古屋発大阪行きの急行「比叡」になります。153系直流急行形電車で運転されていました。この頃はグリーン車1両を含む7連で運転されていたと記憶しています。大型のヘッドマークがかっこ良かったですね。鉄道模型ではトミックス製を15両程持っています。自分は急行「伊吹」にして楽しんでいます。

上の画像は、1975年に撮影した485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」富山行きになります。湖西線開業直前の頃になるでしょうか。湖西線が開通するまでは大阪発の優等列車は全て米原経由で運転されていました。特急や急行がひっきりなしに発着して賑わっていた米原駅でした。鉄道模型ではカツミ製とトミックス製で20両程持っています。正に当時の北陸特急の代表格の列車でした。

上の画像は同じく特急「雷鳥」を冬場に撮影した写真になります。先頭車はボンネットタイプのクハ481でしょうか。このスタイルも国鉄特急らしくて好ましてものです。鉄道模型でもボンネットの先頭車両を4両持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した581系寝台特急電車による特急「しらさぎ」になります。名古屋から雪を付けてホームに入線してくる「月光形」は大変美しく魅力的でした。進行方向を変えて今度は北陸本線を北に向かって発車していきました。鉄道模型でも、この「しらさぎ」の編成でトミックス製を持っています。国鉄の大きなダイヤ改正だった 「43.10」(ヨンサントオ)で寝台特急「月光」としてデビューした581系電車。川崎車両で落成され、試運転には北陸本線の虎姫までやってきていたようです。デザインされたのは星晃さん。生前に長浜鉄道スクエア開館イベントの際に一度だけお会いすることができました。大変温厚な優しい方でした。頂いたサインは今も大切に保存しています。

上の画像は1975年冬に撮影した485系の特急「しらさぎ」になります。この頃はボンネットタイプも健在でした。トレインマークは字だけの頃になります。絵入りヘッドマークも青地に黄色のしらさぎの文字に鳥のイラストで大変素敵なマークでした。

上の画像は、時期が1976年になりますが、こちらは485系300番台の先頭車となった頃の写真になります。クハ481は登場時の貫通形タイプとき違って、非貫通タイプとなっています。特急「加越」も同じ形式になります。貫通タイプは電車の分割併合の為に設計されたものですが、実際に使われたのは大変少なかったと思われます。むしろ貫通タイプだと北陸の冬場の冷たい隙間風が運転台に入ってくるので、寒かったのではないかと思われます。

同じようなゲンコツタイプのこちらは381系直流特急形電車による大阪発長野行きの特急「しなの」になります。この写真も1976年に撮影したものになります。振り子式特急電車の先駈けの新鋭電車の通過していく姿を後追いして撮影しました。

上の画像は1977年に撮影した臨時特急「金星51号」になります。牽引しているのは、何と重連のEF58でした。当時はこのようなEF58の重連運用というのがあったようです。名古屋発博多行きの臨時座席特急列車で14系特急形客車が使用されていました。当時は繁忙期にこの14系座席車を使用した臨時列車が数多く走っていました。

上の画像は1975年冬に撮影した関西地区では大変珍しいスカ色カラーの先頭車を繋いだ113系普通電車が大垣方面から米原に到着した時の写真になります。関西の新快速の初期もこの横須賀色の113系が使われていたようですね。

最後は東海道新幹線0系の写真になります。新幹線は0系の時代で、中学生時代の修学旅行もこの0系新幹線で東京にいったものでした。現在は京都鉄道博物館で実車に会うことが出来ます。ということで自分が撮りためていた米原駅で撮影した写真の特集を2回にわたって特集しました。懐かしい思いに浸って頂けたら幸いです。

良き国鉄時代⑬~米原駅撮り写真から⑴~

国鉄時代の米原駅は、自分にとっては「聖地」であり中学生頃から頻繁に撮影に出向いていました。今回は1975年に撮りためていた、米原駅で撮影した写真を紹介していきます。ストックが多いので、また何回かに分けながら紹介していきたいと思います。1975年は自分が15歳の中学生の頃になります。米原駅で朝から1日撮影をしていると次から次へと優等列車が入線してくるので、時刻表を見ながら大変忙しくかつ楽しく撮影していたと記憶しています。いわゆる「駅撮り」をしていたわけで、昼頃にお腹がすいてくると決まってホームにあった「立ち食いそば」を食べては撮影を続けていたものでした。メニューを決めていて「たまごそば」ばかりを食べていました。

上の画像は1975年に撮影したエル特急「加越」になります。ちょうどこの年にデビューして米原~金沢・富山を結んでいたエル特急でした。グリーン車1両を編成の中間に挟んだ7両編成で走っていました。1975年に湖西線が開通したことで大阪から敦賀方面へ行く特急が無くなり、急遽米原発着の敦賀方面特急が生まれました。やがて683系の特急「しらさぎ」に吸収される形で2003年に名称は消滅しました。鉄道模型では13ミリゲージに改軌したトミックス製を持っています。

上の画像は1975年に撮影した、ご存知583系特急「しらさぎ」の名古屋行きになります。この583系の「しらさぎ」は上下1本だけで、午前と夕方の1本に充当されていました。終点の名古屋に行った後は、また寝台特急「金星」として夜を博多に向けて発車していくことになります。この時間帯には金沢に向けてホームに入っている特急「加越」も並んで見えて、特急色の2バージョンを楽しむ事ができるように写真も撮っていたようです。鉄道模型では古いカツミ製を13ミリゲージに改軌して10両編成で持っています。またトミックス製は急行「きたぐに」のJR更新色10連と、国鉄色の12連でこの「しらさぎ」編成を持っています。当時から一番かっこいいと思った電車でした。

上の画像は1975年に撮影した、大阪発名古屋経由で長野を目指して走っていた特急「しなの」になります。1973年に中央西線が電化されて登場した、振り子式電車特急として活躍していました。毎日1往復だけが大阪発着で運転されていて、確か10時頃に米原を通過していたと記憶しています。空調機器を全て床下に設置し屋根がすっきりした形状の電車でした。デビューした年に今は亡き父親と一緒に名古屋~松本を往復して乗車した思い出があります。松本では何所にも観光に行くことなく、ひたすら駅で反対方向の「しなの」を待っていたので父親に呆れられたことを記憶しています。何時間か待っていたのでしょう。鉄道模型ではエンドウ製の6両編成を持っています。この編成は後に登場した「パノラマしなの」になり、パノラマタイプに改造されたクロ381-10番台が入っています。

上の画像は1975年に撮影した唯一の80系電車になります。東海道本線の大垣、名古屋方面に普通電車として4連で運転されていました。自分が中学3年生で受験に大垣に行った時にも、この電車に乗っていきました。湘南色の金太郎塗りの顔つきが時代を感じさせてくれます。この方面の運用電車はやがて165系や113系に変わっていきました。鉄道模型では宮沢製を4連セットで持っています。動力はエンドウ製のMPギアに代えて、エンドウ製のサハ80形式も1両持っていて5連にしています。

上の画像は1975年に撮影した、当時よく利用していた北陸本線に入る普通列車になります。敦賀行きでしょうか?米原客車区の旧型客車(オハ35系など)で編成されていて、米原から田村までは写真のDE10形ディーゼル機関車が牽引していました。今ではなかなかお目にかかれない旧型客車。停車中は大変静かで、走り出すと重々しいジョイント音を奏でてくれました。車内の音を録音した「北陸鈍行紀行」という鉄道CDを持っていてよく聴いていたりします。鉄道模型では機関車はカトー製と天賞堂製を持っており、客車はカトー製と13ミリゲージに改軌したフジモデル製のキットを組んだものを持っています。

上の画像は1974年に撮影した広島機関区に所属していたEF61形直流電気機関車の牽引する上り急行「阿蘇」になります。冬場なのでしょう機関車から蒸気暖房用の蒸気が出ています。米原駅の下りホームから遠くにいた東海道本線上りの当列車を慌てて撮影しました。ホーム近くまで行くには間に合わなかったのでしょう。旧形客車のスハ43系と10系寝台列車、グリーン客車で編成された長距離急行列車で、熊本と名古屋を結んでいました。これもたった1枚しか撮っていない貴重な写真になります。

同じく1975年に撮影したEF61が牽く東海道本線下りの荷物列車になります。こちらは近くから撮影することができました。機関助士さんが窓から顔を出して後方の確認をされているのでしょうか。鉄道模型では、天賞堂製を青色と茶色の2種を所有しています。青色塗装を購入した時は、確か手持ちの楽器(トロンボーン)を売却して資金にしていたように記憶しています。長い車体と一灯タイプの前面が魅力で好きな電気機関車です。米原駅撮り特集の1回目は以上です。この特集はまだ続いていきます。

関西合同運転会2023に参加して

2023年9月30日(土)に大阪府交野市私市にある交野市立いわふね自然の森スポーツ・文化センターで開催された「関西合同運転会」に参加しました。正式名称は「第30回 2023鉄道模型大集合IN OSAKA」になります。この運転会は非公開の運転会で、関西地区の10の模型クラブが一同に会して2日間開催される鉄道模型イベントになります。今回は9月30日~10月1日と2日間開催されました。体育館いっぱいに各鉄道模型クラブのレイアウトが並び、2階の部屋にもいくつかのクラブがレイアウト展示されており、併設しているグリーンビレッジ交野の施設の2階にもクラブのレイアウトが展示されています。どの展示コーナーも素晴らしいレイアウトに、クラブ員の自慢の鉄道模型が走行展示されています。自分は「じゃりちゃん鉄道」さんの招待という形で2012年から参加させて頂いています。そこで大変インパクトを受けたのが、13ミリゲージ同好会の展示でした。それまで13ミリゲージのことはあまり知っておらず、この時に13ミリゲージを手掛けておられる方からいろいろと教えて頂いて、この世界にも興味をもちました。HOゲージは実物の80分の1のスケールで作られていて、線路幅は16.5ミリです。この16.5ミリは標準軌のスケールで、新幹線や京阪電車。阪急電車、などの標準軌の鉄道模型にはスケール的に合っているのですが、国鉄のように軌間1067ミリの狭軌と呼ばれる線路幅には13ミリが合っているといえます。2012年以降、自分でも北陸線関係の車両から、13ミリゲージの鉄道模型も取り組むようになりました。とりわけ今回の関西合運と春の公開運転会をされている「13ミリゲージ同好会」の運転会にむけて車両を整備し、走らせてもらうようになりました。

春の公開運転会には、トミックス製の485系特急形交直流電車の特急「加越」とED70形交流電気機関車、EF70形交流電気機関車牽引の旧型客車を持ち込ませていただき、大きなレイアウトでの運転を楽しませてもらえました。さて、今回は3月10日にJR西日本のEF81が全廃になってしまったので、手持ちのEF81の上周りだけをトワイライト色の同型機を準備しました。

エンドウ製の車両になり、ボディの交換はすんなりと行えましたが、電飾系ヘッドライトのコネクターが合わず、半田付けで点灯できるようになんとか改造をしました。次に牽かせる客車ですが、手持ちに何両かのカツミ製24系寝台客車があったので、それらを長軸改軌して寝台特急「日本海」に仕立てることにしました。長軸改軌とは台車はそのままで使い、車軸だけを13ミリゲージの物に替えるという改軌方法になります。7両まで順調に改軌をしましたが、日本海の編成は通常9両なのであと2両が足りません。それで手持ちのトミックス製の14系寝台客車の2両を急遽改軌して編成に加えて9両としました。

カツミ製の24系は国鉄時代の姿。日本海はJRの姿にしたいので、電源車カニ24とオハネフ24にはJRマークが必要になってきます。手持ちのJRマークはオハネフ24用は何とかあったのですが大きなカニ24用がありません。仕方なくマークの画像を印刷して何回か縮小コピーして80分の1サイズにし、シール紙に印刷して車両に貼りました。これでなんとか寝台特急「日本海」の客車が準備できました。列車前後のトレインマークには、手持ちの字だけのものを再利用しました。残念ながら絵入りのトレインマークにはなりませんでした。

そして念願の13ミリゲージ同好会のレイアウトで走らせて頂くことができました。大変大きなカーブをゆったりと走る寝台特急「日本海」を眺めると、なんとも言えない満足した感じが湧いてきました。しばらく何周が走行させていただき、ビデオにも納めさせて頂くことができました。私の他にもメンバーの方の13ミリゲージを見せて頂きました。なかでも、初めて見させてもらったエンドウ製の「ななつぼし」には圧巻されました。完成品を13ミリゲージに改軌されたようですが、素晴らしい豪華クルージングトレインは良い目の保養になりました。

他の展示コーナーには今回あまり伺うことが出来なかったのですが、「関西鉄道模型クラブ」で展示走行されていた、ペーパー手作りの583系改造寝台電車が印象に残りました。419系を改造されたようで、ブルーの車体色に新北陸色のようなホワイトラインが綺麗でした。また前面には「三日月」のエンブレムがかっこよく付いていました。「月光仮面」のスタイルを連想せずにはいられませんでした。また窓枠も大きくされていて見晴らしもよさそうでした。こんな見事なフリーランス車両を作るのも楽しいと思います。

あっという間に半日過ぎてしまい、全員の記念写真を撮ってもらいました。この全体写真は恒例となっており鉄道模型月刊誌「とれいん」と「鉄道模型趣味」に合運レポートと一緒に掲載されることになります。5時過ぎに会場を後にして京阪電車の私市駅が枚方に移動して、バスに乗り替えて阪急高槻駅に到着。「じゃりちゃん鉄道」の仲間で夕食会をして解散となりました。この日にお会いした皆様、お世話になりましてありがとうございました。

良き国鉄時代⑫~早朝の米原界隈の写真から~

このところ鉄道模型の記事より鉄道写真の記事が多くなっています。というのもこの内容の記事は沢山の方々に読んでいただいていることから増えてしまいました。今回は国鉄時代の米原界隈で自分が撮影した写真を紹介していきます。以前にもこのブログに書きましたが、夏場は日の出が早いので米原付近で東京へ向かう寝台特急ブルートレインを十分撮影することができました。このポイントで撮影をし始めた1975年くらいの頃は、自分はまだ中学生の頃でした。自転車で5時前に自宅を出発して米原には5時35分通過の寝台特急「さくら」の撮影に間に合わせて行っていました。なんとか撮影して自宅に帰ったら即バタンキューで、昼過ぎまで寝ていたものでした。今回は1980年の撮影なので、自宅からはバイクで行っていたことになります。大学生だった頃なので、おそらく親に買ってもらっていたオートバイ、ホンダの原付バイクのCB50JXで行っていたと思われます。バイクのリアキャリアにカメラケースと三脚を積んでいたものです。正に心躍るバイクでの撮影行だったと記憶しています。撮影ポイントは米原駅から醒ヶ井方面に行った、国道8号線が東海道本線を跨ぐところのカーブ付近でした。毎回、アサヒペンタックスSPFと135ミリの望遠レンズで撮影していました。東海道本線を上って行く寝台特急「みずほ」から始まって、寝台特急「金星」そして寝台特急「さくら」を撮影しました。そして最後には6時過ぎの下り寝台急行「銀河」を撮影していたものです。

上の画像は1980年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した、寝台特急「みずほ」になります。牽引機はこの頃にはEF65形直流電気機関車500番台から1100番台に変わっていました。1978年7月28日から東京発着の寝台特急牽引機が替わったようです。自分的には一番好きな直流電気機関車になり、鉄道模型でも天賞堂製からカトー製をしめて8両程所有しています。おそらくちょうどこの頃に牽引機が500番台から1100番台に替わったこともあって撮影に行ったのでしょう。寝台特急「みずほ」の客車は、分散電源方式の14系寝台客車でした。

上の画像は1980年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した、寝台特急「金星」になります。博多発名古屋行きの寝台電車であり、581系交直両用寝台電車が使われていました。トレインマークは絵入りのもので紫色に赤い金星がデザインされていて大変綺麗でした。この編成は終点名古屋で「金星」の役目を終えたら、中央線の神領車両区で休んで、今度は名古屋発富山行きの昼間特急「しらさぎ」として使われていました。夕刻に富山から帰ってからは、また「金星」として博多を目指していたという大変「働き者」の特急電車でした。もっぱらこのような運用を想定して作られた素晴らしい特急電車といえます。

上の画像は1980年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した上り寝台特急「さくら」になります。中学3年生の時に実際に乗ったこともあって、当時は一番好きな寝台特急でした。寝台特急「みずほ」と同様で14系寝台客車が使用され、東京と長崎・佐世保を結んでいました。佐賀県の肥前山口で佐世保行きと長崎行きが分割併合されて運行されていました。14系寝台客車はスハネフ14形の床下にディーゼルエンジンによる発電装置があり、分割運用には便利な客車でした。ところが1972年の北陸トンネル火災事故から、火元となる可能性のあるエンジンを客室の下に置く「分散電源方式」が防火安全対策上で問題があるとされ生産が中止となりました。以降の寝台客車は20系寝台客車のように編成の中に電源車を持つ「集中電源方式」となりました。トレインマークのデザインが好きで、鉄道模型でも電気機関車に付属しているトレインマークを付けて走らせています。余談ですが、当時NHKの「新日本紀行」というドキュメンタりー番組でこの当時の寝台特急「さくら」の全行程を取り上げたドキュメンタリーがありました。大変楽しくて何回もビデオ版で見ていた記憶があります。番組の中、彦根通過あたりで電気機関車の運転台の映像があって見入っていたものでした。

上の画像は1980年に東海道本線の米原~醒ヶ井間で撮影した寝台急行「銀河」になります。この場所は米原駅からかなり醒ヶ井方面にずいぶん歩いて撮影ポイントを探していたと記憶しています。20系寝台客車が初めて急行列車に使用されたことで有名です。当時はまだEF58形直流電気機関車が牽引していました。この92号機は宮原所属の電気機関車で原形小窓機と呼ばれる機関車でした。20系寝台客車も宮原の所属であったと思われます。デビュー当時は「走るホテル」とも言われた特急用寝台客車20系のデザインは丸みをおびた大変美しい車両でした。北陸本線でも寝台特急「日本海」や「つるぎ」の初期にも使用されていました。この寝台急行「銀河」は米原駅には6時8分に到着していました。自分は高校時代にやはり鉄道趣味友人と東京方面に撮影旅行に行った帰りに、東京から米原まで乗車しました。

以上、今回は1980年に自分が撮影した写真から紹介させていただきました。