良き国鉄時代㉔~敦賀駅撮り写真から②雨の日に~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀は北陸新幹線が来春3月16日に開業するので、現在話題に上がっている駅です。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは1番上に作らざるを得なかったらしいです。また、一説には米原ルートや湖西ルートになった場合に福井滋賀県境の峠を通す際に必要となってくる高さが確保されているということです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ています。今回は1976年の何時かは判らないのですが、雨の日に敦賀駅にて撮影した何枚かの写真を紹介したいと思います。寝台特急「日本海」の写真と話題が中心になります。

上の画像は上り寝台特急「日本海4号」になります。牽引しているのはEF81形交直両用電気機関車で敦賀第二機関区の所属です。トレインマークは残念ながら掲出されていなかった頃になります。当時の寝台特急「日本海」は下りが1号と3号、上りが2号と4号が運転されていました。1日に4本も寝台特急「日本海」を見ることができた素晴らしい時代でした。いずれも大阪と青森を結んでいました。客車は2段式B寝台の24系25形という寝台客車が使用されていて、電源車を繋いだ集中電源方式で運転されていました。ちなみに下りの「日本海1号」は大阪を17時15分に発車して終点の青森には翌日の8時41分に到着していました。「日本海3号」は大阪を20時15分に発車、青森には翌日の11時45分に到着していました。上りの「日本海2号」は青森を16時27分に発車して、終点の大阪には7時48分に到着していました。「日本海4号」は青森を19時23分に発車して、終点の大阪には翌日の10時46分に到着していました。私が敦賀駅で撮影した「日本海」いずれの写真も「日本海4号」でした。敦賀には8時42分に到着し、8時52分に発車していました。普通列車で敦賀に行くことのできる撮影時間帯ということになります。左のホームにキハ58系気動車が居ますが、当時の時刻表を見ると小浜線経由の急行「わかさ2号」かと思われます。西舞鶴で城崎発の「丹後8号」と併結して京都を目指して走っていました。

雨のホーム端から135mmの望遠レンズで敦賀駅入線を撮影しています。敦賀駅は大きくカーブしているので独特の絵面になります。機関車交換がされていたようで、線路横で駅員さんが待ち構えておられます。

この日の牽引機はEF81123号機でした。当時の交直セクションは今よりももっと南にあったので敦賀駅は交流電化でした。交流区間を走って来た81は前方のパンタグラフは下げています。ここで機関車を交換することになります。トワイライトエクスプレスが走っていた晩年まで、敦賀がEF81の所属区になっていて、日本海縦貫の仕業はここ敦賀から始まって、ここで終わっていたようです。

EF81123号機は客車から離れて、敦賀第二機関区へ引き上げていきました。機関車の付け替えですね。鉄道ファンにはたまらないシーンが展開されることになります。いつ見ても決して飽きることはありません。10分間のドラマが展開されます。

そして新たにEF81101が機関区の方向からやってきて「日本海」連結されました。ここからは湖西線の交直セクションを通過して直流区間に入っていくので、パンタグラフは前後2つ上げています。ここから鳩原ループ線を通り、近江塩津を経て湖西線に入っていきます。この101号機は寝台特急「日本海」のラストランでも牽引していました。

2段式B寝台車だけで編成された「日本海4号」の最後部。テールサインはまた字だけの時代になります。

当時の時刻表を見ると、日本海1号と4号は全てB寝台で運転されていました。電源車を含んで12両編成です。これが写真の24系25形の寝台車が使用され、2段式B寝台で11両で編成されていたようです。いわゆる銀帯車が使用されていました。日本海3号と2号にはA寝台が一両繋がれて、後の10両は客車3段式のB寝台車が使用されていたようです。電源車も繋がれているので24系の寝台車、いわゆる白帯車が使用されていたことになります。ブログを書くにあたって、当時の時刻表で新たに発見できることがあるので楽しくなります。

発車した列車を見えなくなるまで見送りました。今となっては見ることができなくなった寝台特急「日本海」、鉄道模型で再現して楽しむ事しかできません。模型ではEF81形交直両用電気機関車はカトー製、トミックス製、天賞堂製で持っていますちなみに国鉄時代は天賞堂製とカトー製になります。客車は24系25形をカトー製で12両程持っています。

上の画像は485系交直両用特急型電車による金沢発米原行きの特急「加越」になります。「日本海4号」の到着前の8時5分に発車した「加越2号」かと思います。ライトの光り方から「クロスフィルター」をレンズに付けて撮影していたのかもしれません。

上の画像は「日本海4号」が発車した後の、9時7分発の金沢発大阪行き475系交直両用急行形電車による急行「ゆのくに」になります。当時は湖東線、米原経由で運転されていました。今回は以上になります。最後までお読み頂きましてありがとうございました。

自宅16番ゲージレイアウトを快走するEF81牽引の24系25形寝台特急 

良き国鉄時代㉓~敦賀駅撮り写真から~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀と言えば今や北陸新幹線が来春3月16日に開業するので今時の話題に上がっている駅です。NHKの番組「ブラタモリ」でも紹介されたので、ご覧になった方も多いことと思います。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは一番上に作らざるを得なかったらしいです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ているようです。1975年当時は湖西線が前年に開通しており、大阪から北陸方面への優等列車は湖西線経由でした。トレインマークはまだ字だけもので、3年後からイラスト入りのヘッドマークになっています。

上の画像は敦賀駅4番ホームに停車中の485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。151系(20系)直流特急形電車の先頭車と同じようなデザインのボンネットスタイルは特急形にふさわしい流線型のものでした。トレインマークは漢字で雷鳥と描かれていて素敵でした。クリーム色のスカートに赤いひげは「交流」を示しています。交流50Hz、60Hz両用の485系のデザインといえます。鉄道模型でも、もちろん所有していて、先頭車はこのボンネットスタイルとゲンコツスタイルの非貫通タイプの両方を持っています。トミックス製とカツミ製になります。

上の画像は福井方面から敦賀に到着しようとしている485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。スカートの赤いカバーが無く、自動連結器が剥き出しになっている姿です。北陸本線でボンネットタイプ全盛期の頃でした。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらは貫通タイプの先頭車が使われています。581系交直両用寝台特急用電車から始まったこの「顔」になります。貫通扉は先頭車同士を連結するために作られた設備で、扉の中には幌があります。連結すると乗客は行き来ができるようになっています。実際に貫通扉が使用されて併結運転されていた例はごく稀なものでした。自分は冬季に臨時列車として大阪~信州方面へ走っていた「シュプール号」で、485系と583系が併結されていたのを見たことがあります。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらの先頭車はクハ481-300になり、非貫通タイプの先頭車です。貫通タイプは厳寒期には運転台にすきま風が入って寒かったようで、その改善策として登場したものと思われます。鉄道ファンの間では、顔がお米を炊く電気釡に似ているところから「電気釜」という愛称が使われていました。

上野の画像は485系交直両用特急形電車の特急「しらさぎ」になります。先頭車は貫通タイプのようです。この特急電車は中京圏の名古屋と金沢・富山を結んでいた特急でした。米原を経由している特急で、新幹線から利用する乗客も多かったようです。湖西線開業で特急「雷鳥」「白鳥」等が湖西線経由となった中で、米原で見ることができたのは良かったです。

上の画像は581系交直両用寝台特急用電車の昼間運用の特急「しらさぎ」になります。以前に特急「金星」の特集で詳しく紹介していますが、名古屋~博多を結んでいた寝台特急「金星」の運用の狭間で、座席特急として名古屋~富山を結んでいました。大変働き者の特急電車でした。この写真は敦賀駅を出て撮影ポイントを歩いて探している最中に撮った写真と思います。

上の画像は581系特急「しらさぎ」を撮影した同じ場所で撮影した485系交直両用特急形電車1500番台による特急「白鳥」になります。自分も高校の修学旅行で青森からここ敦賀まで乗りました。大阪と青森を結んでいた正にロングラン特急でした。鉄道模型でも、この先頭車を特徴とした485系1500番台を宮沢模型製で先頭車だけ2両所有しています。カツミ製でも485系は持っているので、先頭車だけを1500番台に替えて雰囲気を楽しんでいます。この485系1500番台は北海道の特急用として作られた特急形電車で、日本海縦貫線を走る特急「白鳥」で試験的に使われていました。のちに北海道で特急「いしかり」としてデビューしています。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「北越」になります。この「北越」というネーミングは珍しい愛称に思えました。当時、大阪と新潟を上りと下りで一本ずつ運転されていたロングランの特急でした。下りは大阪14時発で新潟には21時27分に到着していました。上りは新潟を8時5分に発車して、終点の大阪には15時40分に到着していました。当時の電車特急は11両か12両編成で組成されて、食堂車1両にグリーン車が2両繋がれた豪華な編成でした。

最後は475系交直両用急行形電車による快速電車になります。急行「くずりゅう」と共通の運用で6連での運用でした。急行と同じようなヘッドマークが素敵でした。鉄道模型でもトミックス製で急行「ゆのくに」を組成して楽しんでいます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトの山線で離合する国鉄形特急電車485系。トミックス製品。

良き国鉄時代㉒~寝台急行「銀河」~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に撮影した20系寝台急行「銀河」号を特集させていただきます。これまで幾度となく紹介している急行「銀河」号ですが、今回も撮影した場所は、米原~醒ヶ井間のカーブ辺りになり1976年の撮影になります。急行「銀河」は1949年に生まれた東京と大阪を結んでいた寝台急行列車でした。残念ながら2008年3月14日に廃止されています。以前、このブログで最終運転日に大津駅で撮影した記事をのせました。自分が知っている「銀河」は20系になった1976年からでした。それ以前に走っていた10系寝台客車の時代は知りません。そしてこの20系客車も1985年には14系客車に、そして1986年からラストランまでは24系客車が使用されていました。

以前の記事に書いたように、この20系客車の寝台急行「銀河」には高校生の時に鉄道趣味友人と東京から米原まで初乗車していました。初めて乗る3段式B寝台に心を弾ませていたものです。最後尾のナハネフ22の窓から眺めた東京の夜景を今でも覚えています。空気バネの台車を履いていたので、大変静かな走行音で快適な乗車を楽しむ事ができました。車中で友人が自分にくれたピーナッツをよく覚えています。週刊誌も買っていたような記憶があります。この急行「銀河」号が米原に着くのは6時7分で、夏場の撮影には十分な明るさでした。上の画像のEF58は145号機で、大阪鉄道管理局、宮原運転区の機関車になります。機関車の足まわりから煙のようなものが見えていますが、おそらく機関車が制動(ブレーキ)をかけていたのかと思われます。車輪を抑えている制輪子からの鉄粉が飛んでいるのでしょう。北陸本線でも電気機関車の次の客車に乗っている時の機関車との連結面を見に行っていた際、ブレーキをかける度に鉄粉の匂いがしていたのを思い出します。何とも言えない鉄の匂いでした。線路のバラストが茶色くなっているのも、列車のブレーキの時の鉄粉が石について錆びたためです。ちなみに鉄道模型では茶色系のバラストを線路にまいて表現しています。また、線路とベースの塗装には自分はタミヤカラーのレッドブラウン色の缶スプレーをよく使っています。

上の画像は、寝台急行「銀河」号をEF58形直流電気機関車の43号機が牽引しています。大窓タイプで庇のあるこの機関車も大阪鉄道管理局、宮原運転区所属の機関車になります。米原寄りの場所からアウトカーブで撮影しています。ちょうど全編成が納まっている写真で気に入っていました。

上の画像は、同じ場所で米原駅に向かって走る急行「銀河」号を後方から撮影したものです。固定編成の大変美しい姿を記録に残そうとして撮影したのでしょう。当時の気持ちが写真から伝わってきます。編成では先頭はカニ21形電源車で、次位はナロネ20が繋がれていました。A寝台車で灯り取りの小窓が良いアクセントになっています。あとの車両は全てB寝台車で編成されていました。残念ながらナシ20形の食堂車は繋がれていませんでした。

急行「銀河」号の最後尾は、展望車スタイルのナハネフ22形でした。向かって右側は車掌室になっており、左側は展望室になっていました。この列車に乗車した時に、この窓から走り去っていく東京の灯りを飽きもせずに眺めていました。20系は丸みを強調した大変流麗なスタイルの寝台客車でした。

この頃はまだトレインマークがセットされていなかったようです。テールサインは白一色でした。寝台急行「銀河」には黒字で「急行 EXPRESS」というサインが初期に使われていました。後にイラスト入りの「銀河」のテールサインに替わりました。青色地に黄色の文字とイラストの星をちりばめた大変美しいデザインでした。電気機関車用のヘッドマークもあったようで、鉄道模型のパーツでは見たことがあります。実際に使用されていたのかは不明です。客車用に準じた美しいヘッドマークが作られていました。EF58やEF65 1000番台に付けてもらって前面を飾ってほしかったと個人的には思っています。

上の画像も急行「銀河」号の編成最後撮影したものになります。やはりテールサインがまだ無くて、無地のままでした。寝台特急用として華々しくデビューした「走るホテル」とも絶賛されていた20系客車も、後から登場してきた寝台特急用の客車、14系や24系に後を譲ることになりました。B寝台は3段式でしたが、急行料金で特急用の寝台車に乗れるようになったことは当時としては、エポックメーキングな事だったと思われます。自分はこの20系寝台客車には結局後にも先にも東京撮影行の帰りに乗った1回だけでした。24系客車の寝台急行「銀河」号には米原から東京間を何回も乗車したことがありました。それも決まってA寝台のプルマン式寝台のオロネ24の下段を取っていました。身体に対して横方向に走っていく寝台車より、進行方向に頭を向けて走っていく、縦方向に走っていく寝台車の方が寝心地が良かったように思います。この列車も廃止になって久しいですが、鉄道模型ではまだまだ現役で自宅レイアウトを走ってくれています。鉄道模型ではEF58はカトー製、天賞堂製の36号機、カンタムの74号機そして試験塗装機の4号機、16号機、31号機、それに60号機、61号機を所有しています。20系客車はカトー製を持っています。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

自宅レイアウトをサウンドを奏でながら快走するEF58牽引の20系。EF58は天賞堂製のカンタム搭載機関車。

良き国鉄時代㉑~寝台特急「みずほ」と「さくら」~

良き国鉄時代のシリーズ、今回は1976年と1977年に米原~醒ヶ井のポイントで撮影したブルートレインの「みずほ」と「さくら」の特集になります。これまで幾度となく紹介してきたこのポイントで撮影したブルトレ写真ですが、いよいよ自分の写真のストックが少なくなってきました。今回も丁寧に紹介していきたいと思います。なお画像は当ブログ未発表の写真になります。

上の画像は4レ寝台特急「はやぶさ」号になります。この場所を通過する時間は4時30分くらいになろうかと思います。どうやらフラッシュ撮影しているのでしょうか?前面だけやけに明るいように思います。いまなら当然許されない行為で、罰せられると考えられる行為ですね。機関士さんは当時のブルトレブームを知っておられ、見て見ぬふりをしてもらえたのかもしれません。当時、名古屋駅で一晩中ブルートレインの撮影をしていた時がありましたが、当然のようにストロボを使って撮影していました。あわせてホームで三脚も使っていたように思います。おとがめもなく撮影できたのは、まだまだ世間が大らかな時代だったからと言えそうです。牽引機はEF65形500番台直流電気機関車で、客車は24系25形特急形寝台客車でした。「はやぶさ」は西鹿児島と東京を結んで走っていました。EF65形500番台は「ぐんま車両センター」に501号機が在籍して今も活躍しています。保存機は碓井峠鉄道文化むらに523号機が静態保存されています。

上の画像は醒ヶ井寄りの場所で撮影した6レ寝台特急「みずほ」号になります。5時10分くらいの通過ではなかったかと思います。夏場この時間になってくると明るくなって十分撮影できました。当時の牽引機は東京機関区のエース、EF65形500番台直流電気機関車でした。正にブルートレインブームの火付け役でした。客車は分散電源方式の14系特急形寝台客車でした。

上の画像は同じく、寝台特急「みずほ」号を米原駅に近いカーブで撮影しています。いわいる顔狙いの写真を撮っていたようです。シンプルなヘッドマークが大変美しかったです。熊本、長崎と東京を結んでいました。

上の画像は、寝台特急「みずほ」号の後追い写真になります。1976年当時、トレインマークはまだ文字だけのシンプルなものでした。個人的にはこの字だけのトレインマークの方が、イラスト入りトレインマークよりも好きです。

上の画像は醒ヶ井寄りの地点で撮影した2レ寝台特急「さくら」号です。当時一番好きだった列車でした。中学校を卒業した春休みに、高校受験合格を祝って一人旅に行った時に下関から名古屋まで乗車しています。ヘッドマークは桜の花びらをバックにした大変美しいデザインでした。もちろん鉄道模型でも持っており、電気機関車はカトー製と天賞堂製を何両か持っています。客車の方はトミックス製で10両ほど持っています。フル編成は長崎~東京の編成と佐世保~東京の編成のそれぞれ7両ずつを繋いだ14両編成になります。自宅のレイアウトのホーム有効長が10両なので、9両にして運転を楽しんでいます。

上の画像は同じく寝台特急「さくら」号を米原に近いカーブのアウトカーブで撮影しています。5時30分なのでまだ薄暗い感じです。とりあえずギリギリのシャッタースピードで撮影していたようです。

寝台特急「さくら」号の後追い写真になります。14系寝台客車は電源車は無くて、緩急車のスハネフ14の床下にディーゼル発電機を備えていました。その音がかなり大きくて、通過していっても大変大きなディーゼル発電機の音がしていたものです。1編成に4両のスハネフ14が連結されていて、列車が通過していく時に大きな音がしていた電源車が印象的でした。

上の2つの画像も2レ寝台特急「さくら」号の写真になります。いずれも米原~醒ヶ井のカーブのポイントでインカーブでの撮影です。いかにこの列車が好きだったかが手に取るようにわかる写真のストックでした。

上の画像も米原~醒ヶ井間のカーブで撮影した2レ寝台特急「さくら」号になります。当時、自分が大変気に入っている写真の1つでした。当時の自分のカメラには、今のような連写機能は無くて、どの写真もシャッターチャンスはたった1回のみでした。シャッターが早すぎても遅すぎても駄目でした。ファインダーに好きな列車が入ってくると、圧倒されてしまい、ついついシャッターを早押ししてしまうことが多かったです。また当時のカメラにはシャッターロック機構があり、そのロックを外さずに撮影していてチャンスを逃してしまったという苦い経験もしました。すべてがアナログで機械仕掛けの時代ならではの出来事でした。

今回もお立ち寄りいただきましてありがとうございました。最後に自宅レイアウトで撮影した16番ゲージ鉄道模型の寝台特急「さくら」号の走行動画を付けます。当時に思いを馳せて頂けたら幸いです。今では「さくら」の愛称は「みずほ」と共に九州新幹線の愛称に引き継がれていて嬉しい限りです。そういえば「つばめ」という愛称も東京~大阪を結んでいた名特急でしたが、現在では博多~鹿児島中央を結んでいる九州新幹線で使われています。今回は以上になりますが、いかがだったでしょうか?今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトの内側線を快走する「さくら」号。牽引機は天賞堂製のEF65P、客車はトミックス製の14系です。

良き国鉄時代⑳~581系寝台特急「金星」~

良き国鉄時代のシリーズ、今回は1976年にまた米原~醒ヶ井のポイントで撮影した581系交直両用特急形電車の特急「金星」の特集になります。国鉄4310(ヨンサントウ)ダイヤ改正で華々しく登場した寝台特急電車、581系。昼間は座席スタイルそして夜は寝台になるというデュアルパーパスな電車は昼夜休むことなく活躍していたタフな電車でした。新幹線のカラーリングを参考にされたというカラーリングも大変綺麗で自分の大好きな電車です。もちろん鉄道模型でもトミックス製で12連を所有しています。自分に馴染みのあった昼間の特急「しらさぎ」を組成して運転を楽しんでいます。この電車が活躍していた1976年当時、早朝に米原付近に自転車で行っては終点の名古屋を目指して快走する寝台特急「金星」を撮影していたものです。昼間運用の姿の特急「しらさぎ」もよく米原駅のホームで撮影していました。以前にこのブログで特急「しらさぎ」の画像はいくつかアップさせていただいています。寝台特急「金星」は、当時名古屋と博多を結んでいた寝台特急で、581系が使われていました。実車は現在、先頭車が京都鉄道博物館にて保存展示されています。ちなみにヘッドサインは「月光」になっています。

1976年に通っていた米原~醒ヶ井間のカーブしている撮影ポイントに「金星」がやってくる時刻は5時10分位でした。寝台特急「みずほ」が通過していった次にやってくる電車になります。夏場だけが撮影可能時間帯となっていて夏たげの撮影でした。通過していく時に「タイヤフラップ」という車輪の傷で発生する音を聞いた記憶があります。毎日長距離を走っていたので、車輪に小傷もつきやすかったのでしょうか。

今となっては懐かしいモーター音と生暖かい風を残して、581系は東へと走り抜けていきました。乗客のほとんどの方はまだ眠っておられる時間でしょうか。ブラインドは全て降ろされていました。この電車のブラインドは内側ガラスと外側ガラスとの間に、小さなハンドルの回転で上下するブラインドが採用されていました。何か高級感を感じさせるブラインドでした。次の停車駅は岐阜で5時47分到着と当時の時刻表にはあります。そして終点の名古屋には6時7分に到着していたようです。この当時のヘッドサインはまだ字だけのようで、この2年後の1978年10月から特急のみイラスト入りヘッドマークに替えられていったようです。この金星は薄紫色地に黄色で金星と漢字で描かれていて、金星のイラストも描かれていました。

この撮影ポイントは米原~醒ヶ井間のカーブの場所からさらに醒ヶ井寄りに歩いて行った踏切近くから撮影しています。歩いて移動しながら列車を直線区間で撮れる場所を探していたのだろうと思います。この頃は撮影技術はまだまだ未熟で、電車の「顔撮り」をメインにしていたようです。後追いの写真も撮影していました。スピードに合わせてシャッタースピードは選べていたようです。いわゆる「シャッタースピード優先」で絞り値を合わせていたと思います。マニュアルカメラ全盛期の良き時代でした。

上の画像は米原~醒ヶ井のカーブで、インカーブで撮影した「金星」です。露出がオーバーしているのか、ヘッドサインの字が読めませんね。この写真も見るから顔狙いの写真になってしまっています。

上の画像は1978年に米原駅が俯瞰できる陸橋から撮影した寝台特急「金星」号になります。運転停車をしていたようです。よく見るとヘッドマークがイラスト入りになっているのが解ると思います。この陸橋へは小学校5年生くらいの時から、今は亡き父親に自動車に乗せてもらって連れて行ってもらっていた場所でした。駅全体が見られる場所なので、発着している列車を全く飽きもせずに眺めていられました。父親は車の中で好きな歴史の本を読みながら文句を言わずに待っていてくれました。最後の動画はトミックス製の581系12連を自宅レイアウトで走らせている様子になります。寝台特急なので、室内灯を全ての車両に付けました。最後の動画を見て頂くとわかると思いますが、夜間運転時には室内灯でプラスティック製のボディが透けて見えています。運転してから気が付きました。車両の内側に光漏れ防止に塗装を施すか、遮光シールなんかを貼ると改善できるかもしれないです。またいつか試してみようと思っています。ちなみにカツミ製の旧製品でも581系は持っていて10両程あります。こちらは車輪を改軌して13ミリゲージにしています。車輪のひとつひとつを金づちで叩いて16.5mmから13mmに改造しました。動力ユニットはエンドウ製の13ミリMPギアを使用しました。フランジの幅が厚くて、残念ながら13ミリゲージ同好会のレイアウトでは走らせる事ができませんでした。今回の記事はいかがでしたでしょうか?最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウト内側線を走る581系12連。トミックス製品。タイフォンの音はカトー製サウンドBOXで485系サウンドカードを使用して出しています。大変リアルなサウンドが出せるので臨場感のある鉄道模型運転が楽しめます。