良き国鉄時代⑲~58の牽く臨時列車とブルトレ遅延~

良き国鉄時代のシリーズはまだまだ続いていきます。今回は1976年にまた米原から醒ヶ井のポイントで撮影したEF58形直流電気機関車の牽く14系特急形座車による臨時列車の特集と、同じく1976年に同じポイントで撮影していた時に、たまたま上りの寝台特急が大幅に遅延していて昼間の時間帯に撮影できた日の写真を紹介していきます。この米原~醒ヶ井の大きなカーブでブルートレインの撮影を始めたのは、自分が中学3年生くらいの時からでした。夏場早朝の4時頃に自宅を自転車で出発して、現地には5時30分前には到着していました。そして撮影可能となる上り寝台特急の「みずほ」、「金星」、「さくら」に下りの寝台急行「銀河」までを撮影したものです。この頃はブルートレインブームの時期で、自分も美しいヘッドマークを掲げて疾走していく東京機関区のEF65形500番台直流電気機関車牽引のブルートレインをよく追いかけていました。その合間にEF58形直流電気機関車牽引の臨時急行も何枚かは撮影していたようです。今から思うと、もっともっと58の撮影をしていれば良かったと思っています。

上の画像は1976年に撮影したEF58牽引の東海道本線上りの臨時急行列車か団体列車になります。EF58のナンバープレートがはっきりと読めませんが、37号機とも読めるので、広島鉄道管理局、下関運転所の機関車かもしれません。58の庇付き小窓バージョンになります。西から東に向かう12系客車による臨時列車と思われます。12系といえば馴染みのあるのは「北びわこ号」の5両編成程度ですが、当時は10連以上の長大編成が走っていたものです。

上の画像は東海道本線を上って行く臨時特急「金星」です。多客期に熊本から名古屋を結んでいた夜行の座席特急でした。14系の座席車になり12連くらいの長大編成で運転されていました。雑誌でEF65形直流電気機関車の一般色の機関車が特製の「金星」のヘッドマークを付けて運転されている写真を見たことがあります。14系のテールサインが大変美しくて印象に残っています。EF58形直流電気機関車のナンバーは138のように見えます。こちらも小窓バージョンの58のようで、大阪鉄道管理局、宮原運転区の所属機のようです。

上の画像は東海道本線を下っていく臨時急行のようです。EF58のナンバーは88号機でしょうか。だとすれば東京南鉄道管理局の東京機関区所属機になります。時間帯で判断すると、おそらく「銀河51号」と思われます。多客期に定期の急行銀河号を補填するために走っていた臨時列車になります。大変スマートな14系客車を12両連ねた雄姿は大変魅力的でした。

上の画像は同じく、早朝の東海道本線を下っていく臨時急行「銀河51号」でしょうか?牽引機は小窓スタイルの95号機になります。この機58は大阪鉄道管理局、宮原運転区の所属機になります。前日の21時50分に東京を発車して、夜を走り続けて米原には翌朝の5時49分に米原に到着していました。終点大阪には7時38分に到着していました。セミリクライニングシートに乗っての一夜はさぞ辛かったのではないかと想像されます。自分も一度だけ夜行列車でこの14系座席車に乗ったことがありました。背もたれに体重をかけていないと座席が元に戻ってしまうので、寝るに寝られなかった思い出があります。それも今となったら貴重な経験でした。以上が58の牽く臨時列車の紹介でした。

さて、次は1976年に同じポイントで撮影していた時に、たまたま上りの寝台特急が大幅に遅延していて昼間の時間帯に撮影できた写真を紹介します。写真に1976年とあります。高校時代、高1の夏休みだったと思います。暑い中、日中にこのポイントに行って撮影をしていました。10時頃だったでしょうか?そろそろ帰ろうとしたら何と米原駅方面からブルートレインがやってくるではありませんか。驚いてまた撮影を続行することにしました。夏場といえどもこのポイントでの撮影は不可能な寝台特急「富士」が通過していきました。次は寝台特急「はやぶさ」です。そして寝台特急「みずほ」に「さくら」でした。また合間にヘッドマークを付けていないブルートレインも上っていきました。臨時の寝台特急「あさかぜ」だったかもしれません。まさに「夢のような撮影タイム」でした。

ヘッドマークの無いブルートレインも撮影できました。臨時の「あさかぜ」でしょうか?

昼間のブルートレイン撮影が昼間に地元で出来た達成感はひとしおでした。どれも同じようなアングルの写真になりますが、次から次へとファインダーに飛び込んでくるブルトレを撮影していた自分は胸の高鳴りを抑えることかできませんでした。EF65500番台の前面か露出オーバーになってしまい、ヘッドマークも色飛びしてしまっているのが残念ですが大変ラッキーな夏の日になりました。鉄道模型ではEF58形電気機関車は天賞堂製とカトー製で複数所有しています。また14系客車はカトー製で持っています。EF65形直流電気機関車は天賞堂とカトー製で複数所有しており、ブルートレインの寝台客車もカトー製、トミックス製で沢山もっています。自宅レイアウトで登場する頻度も高めと言えます。最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウト外側線を快走するEF58牽引の臨時列車。車両はカトー製品。

今年の京都鉄道博物館訪問記から

仕事をリタイヤしてから毎日自由な時間となり、鉄道趣味のセカンドライフを満喫できるようになりました。もちろんほぼ毎日整体に通ったり、家の用事、そして町内の神社責任役員の仕事があり鉄道趣味一色というようにはなりません。このブログの連載も今ではセカンドライフの大きな柱となっています。平日に自由に動くことができるようになったので、家族旅行なども平日に出掛けることができるようになりました。そんな中、京都にある京都鉄道博物館にも何回か行くことができました。昨年は春にマイテ49の特別体験乗車会が開催されたので出かけてきました。初めてネットで乗車券付きの入館券を購入しました。自分にとってはなかなか勇気のいるチケットの購入方法でした。それ以来特別展示イベントの時にはネットでチケットを購入しています。今回はそんな京都鉄道博物館へ出かけた時の様子から紹介していきたいと思います。今年最新の訪問時から遡って紹介していきます。

2023年3月21日(火)は、観光列車「花嫁のれん」号が展示されたので出かけてきました。「花嫁のれん」号の種車となったキハ48系気動車2連は北陸本線と大変縁のある気動車になります。国鉄時代に木ノ本~彦根間を普通列車として運転されていた気動車なのです。その気動車が改造されて「花嫁のれん」号として運転されるようになりました。鉄道模型では、エンドウ製でこの2両が改造される前の車両を所有しています。たらこ色の懐かしい国鉄色の車両です。

全般検査を出場したばかりで、たいへん美しく、正に走る芸術作品とも言うべき列車に仕立てられています。列車は定期列車で週に3日間、金沢から和倉温泉までを観光列車として走っていて大変人気のある列車として活躍しています。加賀友禅をイメージした赤と黒のコントラストを活かした塗装は眺めているだけで楽しめます。鉄道模型で製作してみたいものですが、この繊細な塗装は大変難しいと思われます。

特別チケットを買っておいたので、決めておいた時間になれば車内を見学することができました。係の人が丁寧に車内の説明をしてくれました。上の画像は、なんと壁に金箔が施されているとのことでした。赤いゴージャスに椅子とよくマッチして高級感を醸し出しています。車両の展示と一緒に、金沢市の観光案内もされていました。たくさんのパンフレットを頂き、思わず金沢に行って見たくなりました。

和倉温泉のマスコットキャラクターの「わくたま」くん(向かって左側)もイベントに来てくれていました。右側は京都鉄道博物館のマスコットキャラクターの「ウメテツ」くんになります。

次は2023年4月17日に行った「113系イベント」になります。この日は草津線、湖西線の定期運用から離脱した113系の特別展示に京都鉄道博物館に出かけました。以前はオレンジとグリーンの塗装で「かぼちゃ電車」として親しまれてきた113系も末期はグリーン1色に塗られて「まっちゃ電車」として親しまれたようです。今回はC5編成4連が2連ずつ展示されていました。自分も若いころ米原から大津までこの電車で通勤していた時期があり、また湖西線開業時にも亡き父親と乗りに行った思い出もあります。またひとつ国鉄タイプの電車が姿を消すことになってしまいました

鉄道模型では、トミックス製で113系湘南色を15連、そして横須賀色を15連所有しています。横須賀色は自分が1998年1月から3月まで神奈川県の久里浜にある国立特殊教育総合研究所に研修に行っていた時によく乗ったり見かけたりしたので購入してしまいました。東京までは前日に米原から寝台急行「銀河」のオロネ24に乗って行き、東京の地下ホームから113系の横須賀色に乗車し久里浜を目指しました。それも奮発してサロ110形式のグリーン車でした。横須賀線終点の久里浜駅がローカルな雰囲気だったことを覚えています。下の画像は1974年7月の湖西線開業の日に撮影した113系になります。

湖西線用の113系電車。近江今津駅にて。
湖西線の113系電車。京都駅にて。

そして最後は、2023年10月21日(土)に行ってきた貨物輸送150周年記念の「EF66121運転台見学会」の紹介です。鉄道による貨物輸送が始まって、今年で150年ということで展示コーナーには歴代のコンテナ貨物列車の記念ヘッドマークも飾られていました。また貨物輸送の詳しい展示もありました。見学の時間になると機関車の横に行き、スマホでチケットを提示してから4分間の見学タイムの始まりです。JR貨物のスタッフが2名おられて、案内をしてもらえました。運転台は今では珍しくなってきた2ハンドルタイプのスタイルで、ほぼEF66形0番台の直流電気機関車と同様なものに思えました。ブレーキ弁ハンドルは上が単独ブレーキ用、下のすこし大きいのが自動ブレーキ用になります。右側には丸いノブのあるマスコンハンドルがありました。実際に運転台に座られていただくこともでき、暫し運転士気分に浸ることができました。運転台にはタブレット端末もあり現代風な感じがしました。この機関車はもちろん吹田機関区所属の現役機とのことでした。見学用のEF66121とEF210309が展示されており、隣の線にはコンテナ貨車のコキ106形と車掌車ヨ8000形が併せて展示されていました。鉄道模型では2形式ともトミックス製を持っています。ちなみにEF210は0番台を持っています。コンテナ貨車はトミックス製コキ50000とカトー製コキ104を合わせて20両程所有しています。

運転台見学ができたEF66121。愛称「シャーク」。
繋がれいたのは最新のEF210 300番台。
EF66121の運転台、運転士側。
運転台の機関助士席側。
コキ106形コンテナ貨物車両
ヨ8000形車掌車

地元から割と近くにある京都鉄道博物館。展示用建屋が実際のJRの線路と繋がっていて、いろいろな展示車両を見ることができて楽しいです。11月7日には117系直流近郊形電車の先頭車クハ117-1の展示お披露目イベントがあるようです。最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウト内側線を快走するEF66 100牽引のコンテナ貨物。

良き国鉄時代⑱~上野駅撮り写真から~

良き国鉄時代。今回は1975年から1977年にかけて自分が上野駅にて撮影した写真を紹介します。高校時代の友人と行った東京撮影行以外にも、上野駅で撮影していた写真が出てきました。当時の上野駅は東京駅と並ぶ東京への玄関口となる駅でした。石川啄木の句も記念碑になっています。思いつくのが「集団就職」でしょうか。井沢八郎さんの「ああ上野駅」の歌と共に、今は亡き父親に聞かされていた思い出があります。上野駅には優等列車のホームがあり、寝台特急などの客車列車は推進運転でホームに入線していました。最後尾に前方監視役の乗務員が乗っていて、無線で機関士とやり取りしていました。今となっては素晴らしい運転光景だったと思います。自分の高校の修学旅行も上野から583系特急「はつかり」に乗車していました。各ホームにひっきりなしで発着している特急列車を、ホームを走り回っては撮影していたように思います。

上の画像は583系寝台特急「はくつる」が青森からの長旅を終えて終点上野に到着したところになります。青森を発車したのが昨夜の23時遅くで、東北本線を一夜走り通してきた夜行列車です。当時の時刻表に9時18分着とあります。

上の画像は同じく583系寝台特急「ゆうづる」になります。この特急も青森発ですが。「ゆうづる」は常磐線経由で運転されていました。同じく昨夜23時半くらいに発車してこの上野には9時に到着していました。電車の寝台はどんな寝心地だったのでしょう。残念ながら自分は座席状態しか乗車経験がありません。

上の画像は上野駅ではありませんが、上野発の列車の基地と言える尾久客車区に留置されている寝台特急「あけぼの」になります。この時は20系客車の時代ですね。電源車がカニ22形で、2基あったパンタグラフが取り除かれていました。このカニ22は電化区間では直流区間において、パンタグラフから給電して電気式発電機2基を動かして給電していました。東北方面は交流区間にもなるので、パンタグラフは不要になったといえます。ディーゼル発電機2基だけで発電して客車の電源を担っていました。

上の画像は当時上野~盛岡を結んでいた寝台特急「北星」になります。こちらも尾久に留置されていた写真になります。東北新幹線開業の1982年には廃止されています。20系使用最後の寝台特急となりました。

上の画像は20系寝台特急による「ゆうづる」になります。583系寝台列車以外に客車列車としても運転されていました。常磐線経由で運転され、上野口は交直両用電気機関車EF80が牽引していました。この機関車は交直両用電気機関車で、初めて量産されたものになります。試験機として現れたのがED46、のちにED92でした。そしてカラーリングはローズピンクの赤13号で、「交直両用」を表す色になりました。常磐線で働いていた電気機関車です。鉄道模型でもEF80とED92を天賞堂製で所有しています。

自宅レイアウト内側線を往くEF80牽引の寝台特急「ゆうづる」。後続は試作電機ED92牽引の普通列車。

上の画像は、485系交直両用特急形電車による特急「あいづ」と189系直流特急形電車による特急「とき」になります。「あいづ」は上野発の会津若松行きの特急電車になり、「とき」は上野発上越線方面の新潟行きの特急電車になります。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「白山」上野発信越線方面の金沢行きになります。長野を経て北陸線を走っていた特急で、EF63の力を借りて碓氷峠を超えていた電車になります。

上の画像は485系交直両用特急型電車による特急「ひばり」になります。この特急電車は上野と仙台を結んでいました。東北新幹線もまだ開通していない時代で、国鉄形特急電車が大活躍していました。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「ひたち」になります。常磐線方面で上野と平・原ノ町・仙台を結んでいた特急電車でした。先頭車は非貫通タイプで、300番台が活躍していたようです。まさに日本の国鉄特急の代表ともいえる電車でした。

上の画像は珍しくも161系直流特急形電車が使用されていた特急「とき」になります。ボンネットの赤いラインが美しいですね。特急電車は天賞堂から模型が発売されています。残念ながら自分は持っていません。というのも特急「とき」は自分にとってはあまり縁のない特急だからです。鉄道模型はやはり身近な車両を所有したい思いから集めていくものと言えます。このクハ161は自動連結器が露出していて特徴的ですね。当時の151系、161系、181系の先頭車には自動連結器が付いていたようでカバーでおおわれていました。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「いなほ」になります。上越線方面を行き、上野から秋田・青森を結んで走っていました。今では秋田新幹線「こまち」に活躍の場を譲ってしまいましたね。

上の二つの画像は485系交直両特急形電車による特急「やまばと」になります。この特急は奥羽線方面、上野から山形を結んでいた特急電車になります。今では、山形新幹線「つばさ」に活躍の場を譲ってしまいました。

上野駅撮り写真の最後となりました。上の画像は、485系交直両用特急形電車による上野と盛岡を結んでいた特急「やまびこ」になります。正に上野駅が特急色の特急電車であふれていた良き国鉄時代。今では鉄道模型で再現するしかなく、当時を偲びながら自宅レイアウトで運転を楽しみたいと思います。最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代⑰~私の撮ったモノクロ鉄道写真~

良き国鉄時代。今回は、古いアルバムに残っていたモノクローム写真を特集します。1974年当時はまだ「白黒写真」のフィルムを買うことができました。現像とプリント料金がカラー写真と比べて、かなり安かったと記憶しています。プリントサイズは、当時のカラー写真と比べると少し小さいようです。安価に購入できるので撮影の練習としても使っていたように思われます。国鉄時代を取り扱った鉄道雑誌にも、カラー写真よりもモノクロ写真を中心としたものがあります。モノクロ写真特有の迫力があり、ノスタルジックでもあります。沢山撮影していたようですが、まずは北陸本線の田村駅で撮影した写真から紹介していきます。

上の画像はEF70 1000番台交流電気機関車牽引の4002レ寝台特急「日本海」大阪行きになります。ここ田村駅には6時過ぎに到着していました。この牽引機は1001号機で、現在碓氷峠鉄道文化村で保存されている機関車です。この頃には日本海のヘッドマークは掲げられておらず、田村駅の待合室の片隅に置かれていたのを覚えています。登場した頃は美しいヘッドマークを掲げていたようで機関車の赤い車体に良く映えていました。20系寝台客車堂々13連が田村駅に停車していた姿は圧巻で、後部まで行ってナハネフ22の撮影もしていました。ここから米原まではDE10形ディーゼル機関車かDD50形ディーゼル機関車が牽引していました。

機関車交換としての役目を担っていた当時の田村駅は、上り下り共に当時12両編成が停車できるホームの長さを持っていました。ホームとホームの間には2線の機関車留置線、入替線があっていつも赤い車体の電気機関車が連なって留置されていました。

ホームの時計が6時過ぎになっています。寝台特急日本海の撮影をしている時に下りの貨物列車を撮影しています。前にも書きましたが、北陸本線のEF70形交流電気機関車は絶えず2エンド側、敦賀寄りのパンタグラフを上げて運転されていました。1エンド側のパンタグラフは予備扱いで、上げられることは無かったように思います。「前パン」とも言われたこのスタイルはなかなか恰好が良かったです。

上の画像は寝台特急「日本海」の大阪発を夜間に撮影したものになります。珍しく切り妻形の緩急車ナハネフ23形が青森側に使用されていた日の撮影です。ここからは糸魚川までEF70 1000番台が牽引していました。

上の画像は発車していく様子をバルブ撮影したものになります。田村駅の外側からカメラを三脚に固定して数秒間絞りを開放して撮影していたのでしょう。夜汽車の雰囲気が出ていてなかなか気に入っている写真です。この頃、夜の米原駅にも出掛けて行ってはバルブ撮影をしていました。22時30分くらいに父親に自家用車で連れて行ってもらい、通過する九州方面行ブルートレインを撮影していました。また紹介する機会もあろうかと思います。

上の画像は田村駅で撮影したEF81形交直両用電気機関車になります。1974年の夏ごろから走り始めた練習運転で、同年1974年に開業した湖西線の貨物列車、客車列車牽引用に敦賀第二機関区に新製配置されたようです。たまたま田村駅で撮影することができて、大変興奮していたのを覚えています。自分は中学2年生だったと思います。このことを鉄道雑誌「鉄道ジャーナル」に投稿したら見事に「RJニュース」に掲載していただけました。後日、「鉄道ジャーナル12月号」が段ボールに包まれて送られてきて、飛び上がって喜んでいました。いまでもこの雑誌はしっかりと残してあります。記事はこのように書いていました。

「北陸本線のわだい」

夏ごろから北陸本線の敦賀~田村間に交直両用電気機関車の決定版ともいえる三電気方式(直流1500V、交流20kV50Hz・60Hz)のEF81形(新製車)が走りは始めた。新幹線博多開業時からは北陸本線の大阪方面行き貨物列車が湖西線経由となり、この牽引機としてEF81形が敦賀第二機関区に投入されたもので、練習運転として敦賀~田村間で運転されている (滋賀県 金沢孝明) ※写真は最初の田村駅入線時の写真を掲載してもらえました。

生まれて初めての雑誌記事掲載で大変嬉しかったものです。情報は正確なものとは言えないかも知れないですが、この撮影をした時の機関士さんに聞いた情報を簡単にまとめて投稿したのでしょう。電気機関車の知識は何かの本で得ていたのでしょうか。とにかくこれまで見たことのないピンク色の新製電気機関車がやって来たことは大きな驚きでした。ホームで撮影してから駅の外に出て留置されている様子も写真に収めていました。美しい新車のEF81 117号機でした。

以上、今回は撮りためていたモノクロ写真から田村駅にちなんだものを集めて紹介しました。今ではこのようなモノクロ写真を撮ることは全くなくなり、せいぜいスマホで撮影した画像をセピア調に加工するくらいになってしまいました。歴史を物語るような貴重な写真はモノクロで展示されているのをよく見かけたりします。カラー写真は経年劣化で色が褪せてしまいますが、モノクロ写真は全く当時の状態のままなのに驚いています。

良き国鉄時代⑯~東京駅ブルトレ撮影行⑵~

今日は鉄道記念日ですね。先日9年ぶりに行われた高校の同窓会。そこで再会できた鉄道趣味友人と2人で、高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影旅行に行ったことがありました。前回は東京駅で撮影したブルートレインの写真でした。今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した東京駅撮り写真以外の写真を紹介していきます。その時の撮影旅行の目的がブルートレイン撮影だったので、全て寝台特急・ブルートレインの写真になります。牽引機は直流電気機関車のEF65 500番台が活躍していた「良き国鉄時代」です。今回は東海道本線の根府川駅付近と平塚駅付近で撮影した写真を紹介していきます。一部、当ブログにて掲載している画像がありますことをご了承願います。

☆写真が大変古く、色褪せていたので画像をデジタル加工しています。

前回のブログ記事の中で、同窓会での会話では2人とも当時どうやって関東方面へ撮影旅行に出かけたのかが思い出せないと書きましたが、上の写真が大きな手掛かりになりそうです。深夜の駅でEF58直流電気機関車牽引の上り寝台特急「紀伊・出雲2号」を撮影したものと思われます。どこかの駅で撮ったと思うのですが、考証していくとおそらく深夜の熱海駅ではないかと推測されます。停車している時刻は4時40分でした。このことから当時の2人はおそらく「大垣夜行」を使って東海道本線を東京に向かっていたのではないかと推測されます。そして熱海には深夜の2時48分に下車して、自分は上の写真を撮影したのでしょう。こんな事を書いているうちに、何故か西村京太郎の鉄道推理サスペンスのような話になってきました。時刻表は手持ちの「時刻表復刻版1978年10月号 JTBパブリッシング刊」を使っています。当時の時刻表の復刻版が発売されることは、私のような国鉄ファンには大変ありがたいことで、この時刻表復刻版を書店に見つけた時には、即購入していました。

上の画像は当時の撮影名所である根府川鉄橋付近で撮った東海道本線上り寝台特急「瀬戸」と「あさかぜ2号」になります。当時の時刻表を見ると、「瀬戸」は朝6時過ぎに、「あさかぜ2号」はその約6分過ぎくらいに通過していたと思われます。この時間帯にこの撮影地に居たという事は、やはり大垣夜行で熱海まで行き、熱海から始発普通電車で根府川まで移動して撮影したと思われます。となると前掲の「紀伊・出雲2号」は熱海駅で撮影したことが証明されます。これで闇に包まれていた真相が見えてきたように思います。次に一緒に撮影に行った友人に会う機会があったら報告できそうです。自分は撮影するテクニックは無くて、根府川鉄橋で撮影しているのに、肝心の鉄橋が上手く撮れていませんでした。友人の撮った写真は少し離れたところから撮っていて、美しい鉄橋も入れながら撮影しており感心したものです。ちなみに彼の撮影する鉄道写真はどれも大変素晴らしく、月刊鉄道雑誌主催の写真コンテストにも見事に入選もされていました。北陸本線の新疋田~敦賀のループ線で交差する485系特急電車を撮られた写真が今でも思い出されます。

上の写真は根府川鉄橋で撮影を終えてから、根府川駅から東京方面の普通電車に乗って平塚駅まで行って、駅近くを歩きながら撮影ポイントを探していたのだろうと思われます。そして程よいアウトカーブから撮影できる場所を見つけて、撮影したものと思います。時間的にも「あさかぜ4号」が平塚駅通過するまでには、この場所まで移動する時間がありました。「富士」の平塚通過は当時の時刻表で見ると9時過ぎ位でした。「富士」、「はやぶさ」、「みずほ」、そして「さくら」と立て続けにこのポイントで撮影していたようです。全て撮影してから2人は東京へ向かったのでしょう。東京へ向かう九州方面からのブルートレインを次から次へと撮影できたのですから、今となれば正に「夢のような撮影」だったと思います

さて、もう1枚おそらく平塚駅付近で撮影した写真が出てきました。上の画像は寝台特急「出雲」になります。この列車も「あさかぜ」と同じような比較的平塚駅に使いところで撮影しているようです。この「出雲」は熱海発車が5時30分なので6時頃にはここを通過してしまっていることになります。それをこの時間に撮影できたのは大きな疑問が残りますが、おそらく何らかの理由でこの日の「出雲」は大きく遅延していたのではないかと思われます。このことも次回友人と会った時に確認してみたいところです。だとすれば大変ラッキーなことだったのでしょう。赤いヘッドマークは大変綺麗で機関車によく似合っていました。

2回にわたって特集した1977年の友人との撮影行。古いアルバムに写真が残っていて本当に良かったです。友人も「写真をそろそろ整理せなあかん」と話していました。46年前にもなる写真になり、色褪せている写真が多いです。スキャナーでデジタル化しておくと思い出の列車も後世に残せることになろうかと思います。あわせて鉄道模型で当時のブルートレインを再現して走らせる事で当時の雄姿を見ることができます。