良き国鉄時代⑱~上野駅撮り写真から~

良き国鉄時代。今回は1975年から1977年にかけて自分が上野駅にて撮影した写真を紹介します。高校時代の友人と行った東京撮影行以外にも、上野駅で撮影していた写真が出てきました。当時の上野駅は東京駅と並ぶ東京への玄関口となる駅でした。石川啄木の句も記念碑になっています。思いつくのが「集団就職」でしょうか。井沢八郎さんの「ああ上野駅」の歌と共に、今は亡き父親に聞かされていた思い出があります。上野駅には優等列車のホームがあり、寝台特急などの客車列車は推進運転でホームに入線していました。最後尾に前方監視役の乗務員が乗っていて、無線で機関士とやり取りしていました。今となっては素晴らしい運転光景だったと思います。自分の高校の修学旅行も上野から583系特急「はつかり」に乗車していました。各ホームにひっきりなしで発着している特急列車を、ホームを走り回っては撮影していたように思います。

上の画像は583系寝台特急「はくつる」が青森からの長旅を終えて終点上野に到着したところになります。青森を発車したのが昨夜の23時遅くで、東北本線を一夜走り通してきた夜行列車です。当時の時刻表に9時18分着とあります。

上の画像は同じく583系寝台特急「ゆうづる」になります。この特急も青森発ですが。「ゆうづる」は常磐線経由で運転されていました。同じく昨夜23時半くらいに発車してこの上野には9時に到着していました。電車の寝台はどんな寝心地だったのでしょう。残念ながら自分は座席状態しか乗車経験がありません。

上の画像は上野駅ではありませんが、上野発の列車の基地と言える尾久客車区に留置されている寝台特急「あけぼの」になります。この時は20系客車の時代ですね。電源車がカニ22形で、2基あったパンタグラフが取り除かれていました。このカニ22は電化区間では直流区間において、パンタグラフから給電して電気式発電機2基を動かして給電していました。東北方面は交流区間にもなるので、パンタグラフは不要になったといえます。ディーゼル発電機2基だけで発電して客車の電源を担っていました。

上の画像は当時上野~盛岡を結んでいた寝台特急「北星」になります。こちらも尾久に留置されていた写真になります。東北新幹線開業の1982年には廃止されています。20系使用最後の寝台特急となりました。

上の画像は20系寝台特急による「ゆうづる」になります。583系寝台列車以外に客車列車としても運転されていました。常磐線経由で運転され、上野口は交直両用電気機関車EF80が牽引していました。この機関車は交直両用電気機関車で、初めて量産されたものになります。試験機として現れたのがED46、のちにED92でした。そしてカラーリングはローズピンクの赤13号で、「交直両用」を表す色になりました。常磐線で働いていた電気機関車です。鉄道模型でもEF80とED92を天賞堂製で所有しています。

自宅レイアウト内側線を往くEF80牽引の寝台特急「ゆうづる」。後続は試作電機ED92牽引の普通列車。

上の画像は、485系交直両用特急形電車による特急「あいづ」と189系直流特急形電車による特急「とき」になります。「あいづ」は上野発の会津若松行きの特急電車になり、「とき」は上野発上越線方面の新潟行きの特急電車になります。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「白山」上野発信越線方面の金沢行きになります。長野を経て北陸線を走っていた特急で、EF63の力を借りて碓氷峠を超えていた電車になります。

上の画像は485系交直両用特急型電車による特急「ひばり」になります。この特急電車は上野と仙台を結んでいました。東北新幹線もまだ開通していない時代で、国鉄形特急電車が大活躍していました。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「ひたち」になります。常磐線方面で上野と平・原ノ町・仙台を結んでいた特急電車でした。先頭車は非貫通タイプで、300番台が活躍していたようです。まさに日本の国鉄特急の代表ともいえる電車でした。

上の画像は珍しくも161系直流特急形電車が使用されていた特急「とき」になります。ボンネットの赤いラインが美しいですね。特急電車は天賞堂から模型が発売されています。残念ながら自分は持っていません。というのも特急「とき」は自分にとってはあまり縁のない特急だからです。鉄道模型はやはり身近な車両を所有したい思いから集めていくものと言えます。このクハ161は自動連結器が露出していて特徴的ですね。当時の151系、161系、181系の先頭車には自動連結器が付いていたようでカバーでおおわれていました。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「いなほ」になります。上越線方面を行き、上野から秋田・青森を結んで走っていました。今では秋田新幹線「こまち」に活躍の場を譲ってしまいましたね。

上の二つの画像は485系交直両特急形電車による特急「やまばと」になります。この特急は奥羽線方面、上野から山形を結んでいた特急電車になります。今では、山形新幹線「つばさ」に活躍の場を譲ってしまいました。

上野駅撮り写真の最後となりました。上の画像は、485系交直両用特急形電車による上野と盛岡を結んでいた特急「やまびこ」になります。正に上野駅が特急色の特急電車であふれていた良き国鉄時代。今では鉄道模型で再現するしかなく、当時を偲びながら自宅レイアウトで運転を楽しみたいと思います。最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代⑰~私の撮ったモノクロ鉄道写真~

良き国鉄時代。今回は、古いアルバムに残っていたモノクローム写真を特集します。1974年当時はまだ「白黒写真」のフィルムを買うことができました。現像とプリント料金がカラー写真と比べて、かなり安かったと記憶しています。プリントサイズは、当時のカラー写真と比べると少し小さいようです。安価に購入できるので撮影の練習としても使っていたように思われます。国鉄時代を取り扱った鉄道雑誌にも、カラー写真よりもモノクロ写真を中心としたものがあります。モノクロ写真特有の迫力があり、ノスタルジックでもあります。沢山撮影していたようですが、まずは北陸本線の田村駅で撮影した写真から紹介していきます。

上の画像はEF70 1000番台交流電気機関車牽引の4002レ寝台特急「日本海」大阪行きになります。ここ田村駅には6時過ぎに到着していました。この牽引機は1001号機で、現在碓氷峠鉄道文化村で保存されている機関車です。この頃には日本海のヘッドマークは掲げられておらず、田村駅の待合室の片隅に置かれていたのを覚えています。登場した頃は美しいヘッドマークを掲げていたようで機関車の赤い車体に良く映えていました。20系寝台客車堂々13連が田村駅に停車していた姿は圧巻で、後部まで行ってナハネフ22の撮影もしていました。ここから米原まではDE10形ディーゼル機関車かDD50形ディーゼル機関車が牽引していました。

機関車交換としての役目を担っていた当時の田村駅は、上り下り共に当時12両編成が停車できるホームの長さを持っていました。ホームとホームの間には2線の機関車留置線、入替線があっていつも赤い車体の電気機関車が連なって留置されていました。

ホームの時計が6時過ぎになっています。寝台特急日本海の撮影をしている時に下りの貨物列車を撮影しています。前にも書きましたが、北陸本線のEF70形交流電気機関車は絶えず2エンド側、敦賀寄りのパンタグラフを上げて運転されていました。1エンド側のパンタグラフは予備扱いで、上げられることは無かったように思います。「前パン」とも言われたこのスタイルはなかなか恰好が良かったです。

上の画像は寝台特急「日本海」の大阪発を夜間に撮影したものになります。珍しく切り妻形の緩急車ナハネフ23形が青森側に使用されていた日の撮影です。ここからは糸魚川までEF70 1000番台が牽引していました。

上の画像は発車していく様子をバルブ撮影したものになります。田村駅の外側からカメラを三脚に固定して数秒間絞りを開放して撮影していたのでしょう。夜汽車の雰囲気が出ていてなかなか気に入っている写真です。この頃、夜の米原駅にも出掛けて行ってはバルブ撮影をしていました。22時30分くらいに父親に自家用車で連れて行ってもらい、通過する九州方面行ブルートレインを撮影していました。また紹介する機会もあろうかと思います。

上の画像は田村駅で撮影したEF81形交直両用電気機関車になります。1974年の夏ごろから走り始めた練習運転で、同年1974年に開業した湖西線の貨物列車、客車列車牽引用に敦賀第二機関区に新製配置されたようです。たまたま田村駅で撮影することができて、大変興奮していたのを覚えています。自分は中学2年生だったと思います。このことを鉄道雑誌「鉄道ジャーナル」に投稿したら見事に「RJニュース」に掲載していただけました。後日、「鉄道ジャーナル12月号」が段ボールに包まれて送られてきて、飛び上がって喜んでいました。いまでもこの雑誌はしっかりと残してあります。記事はこのように書いていました。

「北陸本線のわだい」

夏ごろから北陸本線の敦賀~田村間に交直両用電気機関車の決定版ともいえる三電気方式(直流1500V、交流20kV50Hz・60Hz)のEF81形(新製車)が走りは始めた。新幹線博多開業時からは北陸本線の大阪方面行き貨物列車が湖西線経由となり、この牽引機としてEF81形が敦賀第二機関区に投入されたもので、練習運転として敦賀~田村間で運転されている (滋賀県 金沢孝明) ※写真は最初の田村駅入線時の写真を掲載してもらえました。

生まれて初めての雑誌記事掲載で大変嬉しかったものです。情報は正確なものとは言えないかも知れないですが、この撮影をした時の機関士さんに聞いた情報を簡単にまとめて投稿したのでしょう。電気機関車の知識は何かの本で得ていたのでしょうか。とにかくこれまで見たことのないピンク色の新製電気機関車がやって来たことは大きな驚きでした。ホームで撮影してから駅の外に出て留置されている様子も写真に収めていました。美しい新車のEF81 117号機でした。

以上、今回は撮りためていたモノクロ写真から田村駅にちなんだものを集めて紹介しました。今ではこのようなモノクロ写真を撮ることは全くなくなり、せいぜいスマホで撮影した画像をセピア調に加工するくらいになってしまいました。歴史を物語るような貴重な写真はモノクロで展示されているのをよく見かけたりします。カラー写真は経年劣化で色が褪せてしまいますが、モノクロ写真は全く当時の状態のままなのに驚いています。

良き国鉄時代⑯~東京駅ブルトレ撮影行⑵~

今日は鉄道記念日ですね。先日9年ぶりに行われた高校の同窓会。そこで再会できた鉄道趣味友人と2人で、高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影旅行に行ったことがありました。前回は東京駅で撮影したブルートレインの写真でした。今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した東京駅撮り写真以外の写真を紹介していきます。その時の撮影旅行の目的がブルートレイン撮影だったので、全て寝台特急・ブルートレインの写真になります。牽引機は直流電気機関車のEF65 500番台が活躍していた「良き国鉄時代」です。今回は東海道本線の根府川駅付近と平塚駅付近で撮影した写真を紹介していきます。一部、当ブログにて掲載している画像がありますことをご了承願います。

☆写真が大変古く、色褪せていたので画像をデジタル加工しています。

前回のブログ記事の中で、同窓会での会話では2人とも当時どうやって関東方面へ撮影旅行に出かけたのかが思い出せないと書きましたが、上の写真が大きな手掛かりになりそうです。深夜の駅でEF58直流電気機関車牽引の上り寝台特急「紀伊・出雲2号」を撮影したものと思われます。どこかの駅で撮ったと思うのですが、考証していくとおそらく深夜の熱海駅ではないかと推測されます。停車している時刻は4時40分でした。このことから当時の2人はおそらく「大垣夜行」を使って東海道本線を東京に向かっていたのではないかと推測されます。そして熱海には深夜の2時48分に下車して、自分は上の写真を撮影したのでしょう。こんな事を書いているうちに、何故か西村京太郎の鉄道推理サスペンスのような話になってきました。時刻表は手持ちの「時刻表復刻版1978年10月号 JTBパブリッシング刊」を使っています。当時の時刻表の復刻版が発売されることは、私のような国鉄ファンには大変ありがたいことで、この時刻表復刻版を書店に見つけた時には、即購入していました。

上の画像は当時の撮影名所である根府川鉄橋付近で撮った東海道本線上り寝台特急「瀬戸」と「あさかぜ2号」になります。当時の時刻表を見ると、「瀬戸」は朝6時過ぎに、「あさかぜ2号」はその約6分過ぎくらいに通過していたと思われます。この時間帯にこの撮影地に居たという事は、やはり大垣夜行で熱海まで行き、熱海から始発普通電車で根府川まで移動して撮影したと思われます。となると前掲の「紀伊・出雲2号」は熱海駅で撮影したことが証明されます。これで闇に包まれていた真相が見えてきたように思います。次に一緒に撮影に行った友人に会う機会があったら報告できそうです。自分は撮影するテクニックは無くて、根府川鉄橋で撮影しているのに、肝心の鉄橋が上手く撮れていませんでした。友人の撮った写真は少し離れたところから撮っていて、美しい鉄橋も入れながら撮影しており感心したものです。ちなみに彼の撮影する鉄道写真はどれも大変素晴らしく、月刊鉄道雑誌主催の写真コンテストにも見事に入選もされていました。北陸本線の新疋田~敦賀のループ線で交差する485系特急電車を撮られた写真が今でも思い出されます。

上の写真は根府川鉄橋で撮影を終えてから、根府川駅から東京方面の普通電車に乗って平塚駅まで行って、駅近くを歩きながら撮影ポイントを探していたのだろうと思われます。そして程よいアウトカーブから撮影できる場所を見つけて、撮影したものと思います。時間的にも「あさかぜ4号」が平塚駅通過するまでには、この場所まで移動する時間がありました。「富士」の平塚通過は当時の時刻表で見ると9時過ぎ位でした。「富士」、「はやぶさ」、「みずほ」、そして「さくら」と立て続けにこのポイントで撮影していたようです。全て撮影してから2人は東京へ向かったのでしょう。東京へ向かう九州方面からのブルートレインを次から次へと撮影できたのですから、今となれば正に「夢のような撮影」だったと思います

さて、もう1枚おそらく平塚駅付近で撮影した写真が出てきました。上の画像は寝台特急「出雲」になります。この列車も「あさかぜ」と同じような比較的平塚駅に使いところで撮影しているようです。この「出雲」は熱海発車が5時30分なので6時頃にはここを通過してしまっていることになります。それをこの時間に撮影できたのは大きな疑問が残りますが、おそらく何らかの理由でこの日の「出雲」は大きく遅延していたのではないかと思われます。このことも次回友人と会った時に確認してみたいところです。だとすれば大変ラッキーなことだったのでしょう。赤いヘッドマークは大変綺麗で機関車によく似合っていました。

2回にわたって特集した1977年の友人との撮影行。古いアルバムに写真が残っていて本当に良かったです。友人も「写真をそろそろ整理せなあかん」と話していました。46年前にもなる写真になり、色褪せている写真が多いです。スキャナーでデジタル化しておくと思い出の列車も後世に残せることになろうかと思います。あわせて鉄道模型で当時のブルートレインを再現して走らせる事で当時の雄姿を見ることができます。

良き国鉄時代⑮~東京駅ブルトレ撮影行⑴~

先日、高校の同窓会があり、前回から9年ぶりの開催でした。鉄道趣味の友人たちとも久しぶりに会うことができ、懐かしい話や現在の話で盛り上がりました。高校の修学旅行がほとんど電車を使った北海道旅行だったので、鉄道好きだったせいか自分が班別活動の班長になったことがありました。その時の記録係だった同級生は、当時の「旅のしおり」を持ってきてくれて見せてもらいました。大変懐かしい思い出が蘇り、胸が一杯になりました。また鉄道関係に進んだ友人とも話せて、このブログのことも紹介しておきました。彼とは高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影に行ったことも話題になり、今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した写真を紹介していくことにしました。ほとんどが寝台特急・ブルートレインの写真になります。それも牽引機が直流電気機関車のEF65 500番台の良き国鉄時代です。まず今回は東京駅で撮影した駅撮り写真を紹介します。 ☆写真が大変古く色が褪せていたので画像をデジタル加工しています。

上の画像は東京発16時30分の1レ寝台特急「さくら」になります。当時、この「さくら」から東海道を下る寝台特急のオンパレードが始まりました。新橋方面からやって来たブルートレイン回送は東京到着後に機関車が神田方向へ機廻しされて、中線を通過してから有楽町寄りに連結されて発車を待ちます。いつまでも飽きることなく見ることができました。まさに「ブルトレ・ゴールデンタイム」が毎日見られたのです。

上の画像は東京発16時45分の寝台特急「はやぶさ」になります。先頭を撮影した写真が無く、どこかへ紛れてしまったのでしょうか。後部だけ写真がありました。

上の画像は東京発17時発の寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「さくら」と同形式の客車14系が使われていました。今では九州新幹線の愛称として使い続けられています。

上の画像は東京発18時の寝台特急「富士」になります。機関車を撮影した写真はおそらく新橋駅を通過する同列車を撮影したものと思うのですが、後部を撮影した写真は東京駅で撮ったものに思えます。時間があったので撮影場所を変えていたのでしょうか?疑問が残ります。それとも別日に撮影した写真を一ヵ所にまとめていたのかもしれませんね。

上の画像は18時20分発の寝台特急「出雲1号」になります。この出雲の牽引機は京都までの担当だったので、機関車の両側、両エンド正面にヘッドマークを付けていました。当時、京都駅で機関車の前後に「出雲」のヘッドマークを付けて留置されていたのを見たことがありました。有楽町方面からの入線時も美しいヘッドマークを掲げていました。そして中線を通って先頭に機廻しされていきました。

上の画像は東京発18時25分の寝台特急「あさかぜ1号」になります。夜になってくると写真も鮮明でなくなっていました。デジタル加工して何とか見られるようになっています。当時の「あさかぜ」にはまだ20系寝台客車が使われていたようです。

上の画像は東京発19時25分の寝台特急「瀬戸」になります。こちらもまだ20系寝台客車が使われていました。当時の夜間撮影ではストロボを平気で使用していたようですね。今も残る寝台特急サンライズの愛称に使われています。当然当時は瀬戸の終点は高松ではなく岡山県の宇野線終点の「宇野」でした。

上の画像は東京発20時40分の寝台特急「紀伊・出雲3号」になります。いよいよ東京駅での撮影もこの列車で最後のようです。牽引機はEF58形直流電気機関車でした。名古屋で分割されて紀伊勝浦行きと出雲市行きに分割・併合されて運転されていました。

撮影を終えて、自分と友人はこの日の東京発22時45分、寝台急行「銀河」に乗車して米原へ帰りました。20系寝台客車が急行に格下げして使用されるようになり、憧れの20系に乗れることがとうとう叶いました。友人と一緒に、最後部に連結されていたナハネフ22形寝台客車の展望窓から眺めた東京の街の灯は、今でもはっきりと覚えています。翌朝の6時8分に米原に着いて、北陸本線でそれぞれ自宅のある長浜、高月まで普通列車で帰ったと思われます。今も忘れ得ぬ東京撮影旅行は、褪せた写真とともに今見事によみがえりました。同窓会で鉄道趣味友人と再会できたことで、また当時にタイムスリップすることができ良かったと感じています。この場をお借りして、コロナ禍で延期になっていた高校の同窓会を今回企画して開催してくれた同窓会の幹事の方々にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

次回はこの時に東海道本線の平塚あたりでも撮影した上りのブルートレイン写真がありますので、それらを一部は再掲になってしまう写真もありますが紹介したいと思います。同窓会でも話していたのですが、帰りは「銀河」に乗ったことは覚えているのですが、2人ともどうやって行ったのかが思い出せませんでした。根府川で撮影しているので、ひょっとしたら大垣夜行で東京へ行ってから、根府川まで戻っていたのか?撮影に間に合うような早朝の新幹線があったのか?この答えは次に彼と会った時に解決してみたい?と思っています。

良き国鉄時代⑭~米原駅撮り写真から⑵~

国鉄時代の米原駅は、自分にとっては「聖地」であり中学生頃から頻繁に撮影に出向いていました。今回は1975年から1977年頃に撮りためていた、米原駅で撮影した写真を紹介していきます。ストックが多いので、また何回かに分けながら紹介していきたいと思います。1975年は自分が15歳の中学生の頃になります。米原駅で朝から1日撮影をしていると次から次へと優等列車が入線してくるので、時刻表を見ながら大変忙しくかつ楽しく撮影していたと記憶しています。

上の画像は1975年冬に撮影したキハ181形特急形気動車による特急「しなの」になります。大阪発長野行きの上下1本の運用の列車になり、中央西線電化前の現役時代の写真です。これから名古屋に向かって関ケ原を越えていくことになります。この気動車と言えば、発車シーンが印象的でした。ラジエターを載せた屋根から、モクモクと黒煙を出しながら力強く発車して行きました。鉄道模型では旧製品にはなりますが、エンドウ製を「しなの」編成で持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した米原駅構内に佇むマンモス電機のEH10形直流電気機関車になります。パンタグラフが中央に寄っているので1号機から3号機の初期タイプになります。この電機を撮影した写真は以外にも少なくて、この1枚位になります。鉄道模型ではカツミ製の後期タイプと天賞堂製の初期タイプ、2両を持っています。ク5000や2軸貨車を牽かせて楽しんでいます。

上の画像は1975年に撮影した名古屋発大阪行きの急行「比叡」になります。153系直流急行形電車で運転されていました。この頃はグリーン車1両を含む7連で運転されていたと記憶しています。大型のヘッドマークがかっこ良かったですね。鉄道模型ではトミックス製を15両程持っています。自分は急行「伊吹」にして楽しんでいます。

上の画像は、1975年に撮影した485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」富山行きになります。湖西線開業直前の頃になるでしょうか。湖西線が開通するまでは大阪発の優等列車は全て米原経由で運転されていました。特急や急行がひっきりなしに発着して賑わっていた米原駅でした。鉄道模型ではカツミ製とトミックス製で20両程持っています。正に当時の北陸特急の代表格の列車でした。

上の画像は同じく特急「雷鳥」を冬場に撮影した写真になります。先頭車はボンネットタイプのクハ481でしょうか。このスタイルも国鉄特急らしくて好ましてものです。鉄道模型でもボンネットの先頭車両を4両持っています。

上の画像は1975年冬に撮影した581系寝台特急電車による特急「しらさぎ」になります。名古屋から雪を付けてホームに入線してくる「月光形」は大変美しく魅力的でした。進行方向を変えて今度は北陸本線を北に向かって発車していきました。鉄道模型でも、この「しらさぎ」の編成でトミックス製を持っています。国鉄の大きなダイヤ改正だった 「43.10」(ヨンサントオ)で寝台特急「月光」としてデビューした581系電車。川崎車両で落成され、試運転には北陸本線の虎姫までやってきていたようです。デザインされたのは星晃さん。生前に長浜鉄道スクエア開館イベントの際に一度だけお会いすることができました。大変温厚な優しい方でした。頂いたサインは今も大切に保存しています。

上の画像は1975年冬に撮影した485系の特急「しらさぎ」になります。この頃はボンネットタイプも健在でした。トレインマークは字だけの頃になります。絵入りヘッドマークも青地に黄色のしらさぎの文字に鳥のイラストで大変素敵なマークでした。

上の画像は、時期が1976年になりますが、こちらは485系300番台の先頭車となった頃の写真になります。クハ481は登場時の貫通形タイプとき違って、非貫通タイプとなっています。特急「加越」も同じ形式になります。貫通タイプは電車の分割併合の為に設計されたものですが、実際に使われたのは大変少なかったと思われます。むしろ貫通タイプだと北陸の冬場の冷たい隙間風が運転台に入ってくるので、寒かったのではないかと思われます。

同じようなゲンコツタイプのこちらは381系直流特急形電車による大阪発長野行きの特急「しなの」になります。この写真も1976年に撮影したものになります。振り子式特急電車の先駈けの新鋭電車の通過していく姿を後追いして撮影しました。

上の画像は1977年に撮影した臨時特急「金星51号」になります。牽引しているのは、何と重連のEF58でした。当時はこのようなEF58の重連運用というのがあったようです。名古屋発博多行きの臨時座席特急列車で14系特急形客車が使用されていました。当時は繁忙期にこの14系座席車を使用した臨時列車が数多く走っていました。

上の画像は1975年冬に撮影した関西地区では大変珍しいスカ色カラーの先頭車を繋いだ113系普通電車が大垣方面から米原に到着した時の写真になります。関西の新快速の初期もこの横須賀色の113系が使われていたようですね。

最後は東海道新幹線0系の写真になります。新幹線は0系の時代で、中学生時代の修学旅行もこの0系新幹線で東京にいったものでした。現在は京都鉄道博物館で実車に会うことが出来ます。ということで自分が撮りためていた米原駅で撮影した写真の特集を2回にわたって特集しました。懐かしい思いに浸って頂けたら幸いです。