私が撮った電機①~EF81~

これまでに自分が撮影してきた電気機関車は、地元が長浜なので交流電気機関車か交直両用の電気機関車が多くなります。自宅近くの踏切付近に行くと、いつでもこれらの電気機関車を手軽に撮影することができました。やがて国鉄からJRになってからも交直両用電気機関車のEF81の牽く貨物列車を撮影していました。当時はタンク貨車の貨物列車も定期的に走っていたものです。北陸本線の高月駅でもタンク貨物の取り扱いがされていた頃と思われます。コンテナ貨物も今より頻回に走っていたように記憶しています。

上の画像は2013年11月11日に自宅近くの踏切から撮影した北陸本線上りのタンク貨物列車です。牽引するのはEF81の更新車で、車体裾部に白帯を巻いています。のちに700番台に改番されました。732号機になったと思われます。コンテナ貨物が貨物輸送の主流になってきて、このようなタンク貨車だけの貨物列車は珍しくなってきた頃でした。独特の短い間隔の軽快なジョイント音を憶えています。鉄道模型でもこのEF81は2両所有していて、1両は自分で白帯を塗装したものです。もう1両は700番台で共にトミックスの製品になります。コキ50000系のコンテナ列車やタキ、タムといったタンク車を連ねた貨物列車を運転して楽しんでいます。

上の画像は2013年の秋に北陸本線上り貨物列車を新疋田駅で撮影した時のものです。機関車の次位にEH500形交直両用電気機関車を繋いでいて、おそらく九州方面へ回送されていくのだと思います。EH500は動輪が8つもある強力な貨物用の交直両用電気機関車で、ここ北陸本線で見られたのは大変ラッキーでした。この日は新疋田駅上りホームで特急電車やトワイライトエクスプレス等を撮影していたと記憶しています。鉄道ファンの有名な撮影地であり、待合室には新疋田で撮影された列車の写真が沢山飾られていました。また、「撮影のマナー」について丁寧に書かれていたのが大変印象的でした。昨今、撮り鉄のマナーの悪さがよく取り上げられていますが、当時の新疋田駅には撮り鉄の人自身が撮影のマナーについてしっかりと自覚されて注意書きを書かれていたのが素晴らしい事だったと思っています。

上の画像は、2012年1月4日に敦賀に撮影に行った時のものです。大阪から青森、一部函館までを結んで走っていた寝台特急「日本海」になります。登場時は20系寝台客車で編成され、青森から秋田までED75形700番台交流電気機関車、糸魚川までEF81形交直両用電気機関車、田村までEF70形1000番台交流電気機関車、米原までDE10形ディーゼル機関車、そして終点大阪までEF58形直流電気機関車とさまざまな機関車をリレーして運転されていたものでした。この列車が廃止になるというので、何回か敦賀まで行って撮影していたものです。ローズピンクの車体にブルーのヘッドマークが良く似合っていました。下の画像のように寝台特急「日本海」を敦賀運転派出所属のトワイライト専用色が牽引にあたる日もありました。これは京都駅で撮影した札幌行きトワイライトエクスプレスになります。鉄道模型でも、トミックス製と天賞堂製を持っています。客車はカトー製の24系25形で揃えています。実はこの月末に大阪府交野市の私市で行われる「関西合同運転会」にこのトワイライト色のEF81(エンドウ製)と24系客車(カツミ製)7両を持っていこうと思い現在整備しているところです。13ミリゲージの鉄道模型になります。

そして関西ではトワイライトエクスプレスカラーのEF81は大変魅力がありました。牽引するのは、大阪と札幌を結んでいた寝台特急「トワイライトエクスプレス」です。自分も運よく、2001年7月28日に北海道への家族旅行の帰路に1回だけですが乗車することができました。正に夢のような旅で、今もその時撮影したビデオを見ていたりします。息子もまだ4歳くらいの時でした。2人用コンパートメントに乗り、息子と妻は寝台を利用し、自分は床面で寝ていた記憶があります。もっとも自分は寝るというより、横になっていただけですが。朝食だけダイナープレアデスで食べることができました。札幌から敦賀まで乗車しました。

廃止が決まって何回か敦賀まで撮影に足を運びました。上の画像は2015年3月8日に敦賀駅から南に歩いていき、敦賀運転派出の近くで撮りました。大阪からやってくるトワイライトプレスをアウトカーブで撮影しています。深緑のボディに鮮やかなピンクのヘッドマークが映えて綺麗でした。鉄道模型ではトミックス製と天賞堂製そしてエンドウ製のEF81トワイライト色を持っています。客車はトミックス製をフル編成で所有しています。今でも自宅レイアウトを走る花形列車となっています。

そして上の画像は2015年3月14日。トワイライトエクスプレス最終運転日、ラストランの日に敦賀駅で撮影した写真になります。この日はホームからでの撮影ではなく、駅の外に出てホームが見える場所から撮影したのを憶えています。機関士さんに花束が手渡されて、惜別の汽笛を残して北を目指して発車して行きました。長距離を走っていた寝台特急が次々と廃止されていって残念でなりません。現在の豪華寝台列車は富裕層のために走っているように感じ、我々のような庶民には手が届くようには思いません。トワイライトエクスプレスが廃止になってからも、敦賀運転派出には何両か専用機が残されていて、特別列車の「サロンカーなにわ」の牽引に使用されたり、湖西線の架線凍結防止列車として単機で運転されたり、レール積載貨物列車の牽引にも充てられたりしていましたが、とうとう2023年3月10日に最後のEF81トワイライト色が吹田から松任まで自力で廃車回送されてしまいました。

JR西日本最後のEF81がとうとう廃車になりました。北陸本線、武生駅にて撮影。2023.3.10

2023年3月10日。EF81113廃車回送、敦賀駅を発車、惜別の汽笛。

長浜駅を単機で敦賀方面に通過していくEF81。更新の前の写真でまだ白帯がありません。
湖西線にお召列車が走った時に整備されたEF81 121号機。敦賀第二機関区にて。1975年撮影。

名鉄パノラマカーを追って

2006年春頃、当時小学生だった息子と名鉄のパノラマカーに乗るために名古屋に出かけたことがありました。ちょうど名鉄7000系パノラマカーがそろそろ引退してしまうという時期であり、無くなる前に乗っておこうというものでした。自分もパノラマカーのことは知っていましたが、前面展望のできる一番前の車両には乗ったことが無く一度乗ってみたいと思っていました。自分はこれまであまり私鉄には興味がなく、ずっと国鉄ファンでした。滋賀県には近江鉄道という私鉄も走っているのですが、やはり興味は向きませんでした。息子は小学生の頃はプラレールをたくさん集めていました。親子で夢中になって遊んでいた頃が大変懐かしく思い出されます。このプラレール遊びがやがてNゲージの鉄道模型趣味に発展していくことになります。当時の息子にとってこのパノラマカーとの出会いが、「名鉄ファン」になっていった要因といつか話してくれました。

2006年5月4日に撮影した7000系パノラマカー。新可児行き急行。
憧れだったパノラマカーの一番前の座席。素晴らしい展望でした。

2006年のゴールデンウィークに息子共ども念願だった7000系パノラマカーの前席に座ることができました。はじめての前面展望に感激して、名古屋からパノラマカー運用の終点まで行ったり来たりと、ずっと乗り続けていたように思います。全く飽きのこない展望で、素晴らしいシーンが次から次へと目に飛び込んできました。7000系の運転席はご存知展望席の上にありました。駅での運転士の交代時は、運転士さんが梯子を伝って降りてこられ、登っていかれる姿がまたかっこ良かったものです。前面展望が楽しめる一番前の座席の前には、下の画像のような注意書きもありました。ついつい大きな気分になって足を伸ばして置いた方もいたのでしょうか?

運転士さんの交代シーン。さっそうと乗り込まれる姿に見惚れました。
すこし意外に思えた前面展望席の注意書き。

2006年に行ったのを皮切りとして、翌年2007年と翌々年2008年の春休みにも息子と名鉄乗り放題の旅行に出かけていました。毎回使っていたのが「乗り放題切符」でした。他の私鉄でもあると思いますが、1日どこまで乗っても同じ料金のフリー切符になります。何回か行くことで、名鉄のほとんどの路線を乗車することができました。なかなか昼食にありつくことができずに、乗り続ける息子と口論になってしまうこともありました。今では懐かしい思い出になっています。この頃になると息子は電車の音をレコーダーに取りためていくという趣味になっていました。旅を終えると音をCDに焼いてはレーベルを作って楽しんでいたように思います。パノラマカーにスタートした名鉄への思いは膨らんでいったものと思います。今でもそのCDを沢山保存しています。この名鉄パノラマカー、残念ながら2009年に7011Fの運転をもって引退してしまいました。さよなら運転には行くことができませんでした。

そして次に追いかけるようになったのは、パノラマカーの兄弟として活躍していた7700系でした。2009年の夏頃から今度は名鉄名古屋本線の知立に通うことになり、三河線で最後の活躍をしていた7700系を撮影していました。パノラマカーと併結して特急として活躍していた頃もあり、その頃は車体に白帯を巻いていました。「三つ目」の顔立ちがチャーミングな電車でした。

名鉄知立駅にて。7700系2連の猿投行き。

7700系の車内は7000系とほぼ同じレイアウトになっていました。側面の窓の形状も7000系と同じで大きな窓が採用されており、展望が大変良かったです。特急列車に乗っている感が満載でした。知立まで行くと猿投方面、碧南方面へとこの7700系に揺られる電車旅を続けて楽しんでいました。お昼ご飯でお世話になったのが知立駅の立ち食いそばでした。おばあさんが美味しいそばを手を震わせながら出して下さったことを覚えています。おいしいそばを食べさせていただきました。

7700系2連による碧南行き。
7700系にも終焉がやってきました。7700×3の記念列車。阿久比にて。

そしてまた残念な事に、この7700系も2010年3月21日にラストランの日を迎えることになってしまいました。引退を前にして、7700系2連が特別に3編成連結されて記念列車が運転されました。この「7700系3重連イベント 7700×3」の撮影には、自分1人で名古屋に向かいました。この画像は内海まで行って発車を撮影してから電車で追いかけて、阿久比で撮影した画像になります。金山まで運転されて豊明に回送されました。沿線には沢山のファンが撮影に見えていました。この7700系の引退により、7000番台の電車が姿を消すことになりました。名鉄の一時代を代表する車両であったパノラマカー一族が完全に姿を消すことを表すことになってしまいました。

7000系パノラマカーの追いかけにはじまり、7700系の見送りに一旦名鉄撮り鉄の旅は終わりました。この間に撮りためた、あるいは録りためた名鉄の電車の記録は今も大切に自分のレイアウトルームに保存してあります。鉄道模型では、もちろん息子は中学生時代にNゲージで名鉄電車のほとんどの形式を集めて、自宅の2階にコンパネ2枚分のレイアウトを作っていました。また名鉄の部品市では行先表示機やら運転台の機器、1000系と1600系の座席まで購入してしまいました。これは現在のレイアウトルームに置いて使っています。自分もHOゲージで7000系に7700系、7100系、2000系ミュースカイ、1000系パノラマスーパー、6800系、6000系を所有して時々自宅レイアウトで運転を楽しんでいます。

7000系の車内。

良き国鉄時代⑤~米原界隈の写真から~

自分にとって米原駅は写真を撮り始めた頃からの聖地であり大好きな駅です。小学校の頃は亡き父親が車で「汽車見」に連れて行ってくれたものでした。米原駅を俯瞰できる陸橋に車を停めてもらい、自分はひたすら陸橋の上から米原駅に出入りする列車を眺めていたものです。おまけは、米原駅の待合室にあった「ひかり食堂」でのラーメンでした。醤油ベースの大変あっさりしたラーメンで、父親はお酒を飲んでいました。おおらかな時代でした。小学校4年生の時には、小学校の課外授業で「米原機関区の見学」がありました。EF58の運転席を見学させてもらった記憶があります。中学生以降は早朝に自転車で米原駅近くまで行って、上りのブルートレインを撮影したものでした。1996年から走り始めたSL北びわこ号の撮影には、毎回と言っていいほど米原駅にも出向いて撮影をしていました。この頃に駅構内が大きく変わっていく様子も撮影しました。今回はそんな米原駅界隈で撮影した写真を集めてアップしてみました。

上の画像は1975年に撮影した米原機関区になります。当時はEF65の特急色がずらりと並んでいて圧巻でした。このEF65形直流電気機関車500番台は、F形という高速貨物列車用の機関車でした。しかしながら東京発着のブルートレインを牽引していたEF65 500と同じカラーリングであり、見ていて大変かっこ良かったです。それも沢山いたので、正に「東京機関区」を彷彿とするシーンでした。鉄道模型では天賞堂製を持っています。

上の画像は同じく米原機関区での写真になりますが、この日は米原機関区が特別に一般公開された1985年の春の写真になります。自分はこのイベントには行っておらず、この写真は高校の友人が撮ってくれたものになります。当時、米原機関区には大変美しく整備されていたEF58形直流電気機関車が沢山在籍していました。自分は行かなかったこのイベントですが高校時代の友人がプレゼントしてくれました。沢山のギャラリーの方々が線路の近くに居られるのが解ると思います。自分も行くべきでしたが、この頃は鉄道趣味から離れていた時期になります。

上の画像は真冬に米原に撮影に行ったついでに、東海道線に乗って醒ヶ井まで行った時に、通過する下り荷物列車を撮影したものです。牽引機はEF58形直流電気機関車になります。雪を蹴りながら轟音と共に通過していく58はかっこ良かったです。前にも書きましたが、もっともっとこの電気機関車を撮影しておけば良かったとつくづく後悔している次第です。鉄道模型では天賞堂製とカトー製で沢山持っています。

上の画像はへ北陸本線からの上り急行「きたぐに」を米原駅北側の踏切から撮影したものになります。田村まではEF70形交流電気機関車に牽かれ、そこから米原まではこのDE10形ディーゼル機関車が牽引していました。まだこの頃には古豪のDD50形ディーゼル機関車も活躍していたと思います。米原から大阪まではEF58形直流電気機関車かEF65 1000番台直流電気機関車が牽引していました。鉄道模型では天賞堂製とカトー製を持っています。13ミリゲージに改造したカトー製も所有しています。

上の画像はテーマの国鉄時代とは離れてしまいますが、「特別なトワイライトエクスプレス」が米原駅に入線してくる写真になります。いつものトワイライトエクスプレスとは違って、オロネ24がずらりと連結されていました。当時、米原経由で運転されていて米原駅でじっくりと撮影することができました。鉄道模型では機関車はトミックス製と天賞堂製を所有しています。客車はトミックス製を持っています。

上の画像は米原駅の新幹線ホームに入線してきた300系新幹線になります。東海道新幹線から引退する日が近づいていた頃の撮影になり、よくビデオとカメラを持って新幹線の入場券を買ってホームから撮影していたものです。鉄道模型ではカツミ製を16両のフル編成で持っています。

上の画像も米原駅で撮影した500系新幹線電車になりのす。大変美しいフォームである500系が東海道新幹線から引退することになり、米原駅新幹線ホームに通って撮影をしていたものです。鉄道模型ではカツミ製を8連で持っています。

上の画像は冬の日に米原駅で撮影した700系新幹線電車になります。上りの通過列車を撮影しています。ラストランの直前に名古屋から京都まで「のぞみ」に乗りました。おりしもその直後から新型コロナウィルスが流行しだして、結局3月のラストランは中止になってしまいました。鉄道模型ではカツミ製を10連で持っています。

上の画像は最近引退した117系直流近郊型電車になります。米原から豊橋方面への普通電車として活躍していました。クハ117-1がこのほど京都鉄道博物館の展示車両に加えられました。関東方面で活躍した185系直流近郊型電車と同時期に製作された電車で、関西の新快速電車として活躍しました。中京地区ではオレンジのラインを纏って活躍していましたが、今では引退してしまっています。自分はこの新快速が走り始めた時に乗った経験があります。スピーディーな走行と木目を基調としたウッディな室内が大変印象に残っています。鉄道模型は宮沢製品とエンドウ製品、カツミ製品で持っています。近々、トミックスからも新製品として発売されるようです。

最後になりますが、上の画像はかつて近江長岡駅から大阪セメント伊吹工場を結んでいたセメント列車専用線を走るいぶき501号牽引のセメント列車になります。1999年6月に専用線は廃止されています。こちらももっと足を運んで撮影していたら良かったと思っています。現在、廃線跡は「伊吹せんろみち」という遊歩道になっています。

今回は米原駅界隈と題して撮りためていた古い写真をアップしてみました。いかがだったでしょうか?まだまだ古い写真のストックは沢山ありますので、今後もテーマを決めながらアップしていこうと思います。

1975当時の米原駅東口。右の建屋に待合室があり、ひかり食堂もありました。

良き国鉄時代④~北陸本線の赤い電機~

地元長浜での大きな鉄道模型イベントも無事に終わって、またいつもの日常が戻ってきました。ほぼ毎日、午後には運転会場の長浜慶雲館に足を運んでいたので少し寂しい気分になる今日この頃です。今回のブログ記事は、これまで自分が撮りためていた写真のコレクションのなかから懐かしい国鉄時代の画像をアップさせていただこうと思います。1975年当時、自宅近くの踏切は交流電化されていました。田村からは敦賀第二機関区所属の「赤い電機」が活躍していて、自宅近くでよくこの「赤い電機」を撮影していたものです。時には自転車で田村駅まで撮影に行ったり、普通列車で近江塩津や敦賀まで行っては撮影をしていたものでした。今回は大好きな「赤い電機」のED70形交流電気機関車とEF70形交流電気機関車を特集したいと思います。

上の画像は1974年に交流電気機関車ED70を機関車交換駅の田村で撮影したものです。敦賀方面からこのED70が旧形客車の普通列車をここ田村駅まで牽引してきて、この先に交流から直流に変わるデッドセクションがあるために、ディーゼル機関車のDE10形(DD50形もまだ活躍していました)に機関車交換するわけです。当時そろそろこの古豪ED70が引退するという話を聞いて、この機関車撮影目当てにあちこちに行っていました。この機関車は交流電化のパイオニアであり、日本ナショナルトラスト様のお力添えでED70形交流電気機関車のトップナンバーが「長浜鉄道スクエア」に静態保存されています。

上の写真は交流電気機関車の同じくED70形交流電気機関車の牽く普通列車の米原行きを近江塩津の駅で撮影したものになります。この機関車の次位にはもう1両電気機関車が映っています。この日はEF70との重連での牽引だったようです。当時新製で敦賀第二機関区に配置されたEF81形交直両用電気機関車とED70との重連運用もありました。鉄道雑誌の「鉄道ファン」の1974年11月号の表紙の写真にもなりました。新旧の罐の重連が大変魅力的で鉄道模型でもよく再現しています。

上の写真は、交流電気機関車のEF70の1次型を自宅近くの踏切から撮影したものになります。虎姫~長浜間になり、列車は青森発大阪行きの急行「きたぐに」です。当時はまだ客車時代で大阪寄りからオユ12+スロ62+12系客車5両+10系寝台客車5両の12両編成で運行されていました。自分は夏休みの繁忙期に亡き父親と青森から長浜まで12系客車のボックス席に乗車したことがあります。全車両が12系座席車で、ぐっすりとは眠れなかった夜行列車の旅でした。早朝6時前に自宅付近を通過していました。夏期だけ撮影できた急行「きたぐに」でした。

上の写真は虎姫~長浜間を真冬に走る米原行き普通列車になります。米原寄りの5両は郵便車と荷物車のようですね。北陸本線では郵便、荷物列車は米原寄りに連結されていました。撮影当時は高校2年生だと思います。まだまだEF70が走っていたものです。活躍の晩年にあたり、ヘッドライトが1灯タイプから2灯タイプのシールドビームになっています。他の国鉄の電気機関車にもこのシールドビームは次々と採用されていました。当時ヘッドライトが1灯タイプだったEF58形直流電気機関車やEF60形直流電気機関車にも採用されていたのを思い出します。

上の写真は田村駅で撮影しました。当時の田村駅はホームとホームの間の2線に沢山の交流電気機関車が留置されていたものです。中学生の頃にはよく自転車で田村駅へ行って、飽きることなく機関車の入れ替えを見ていたものでした。田村駅に行けば間近にED70やEF70に会うことができました。現在は内側の2線のレールは外されていて、下りホームと上りホームの間がやけに広々としています。こんな時代の田村駅を知っている現在の乗客はおられるでしょうか?当時の田村駅は客扱いのない無人駅で自由にホームに入って撮影していました。

上の写真は虎姫~長浜間にある国道8号線の陸橋から撮影した普通列車の米原行きです。自宅から北の方に国道8号線があり、北陸本線を跨ぐ陸橋があります。当時の鉄道雑誌でもここから撮影した写真がよく紹介されていました。列車を上から俯瞰する形で撮影することができました。現在では、この場所はコンクリートになってしまっています。旧形客車6両編成の軽快な編成でした。

上の写真は早朝の田村駅に到着した寝台特急「日本海」になります。糸魚川からこの交流電気機関車EF70 1000番台が牽いてきました。客車は20系客車による寝台列車、正に憧れの寝台特急でした。写真は中学3年生の冬に自転車で田村駅に行き、三脚を使ってバルブ撮影しています。この寝台特急「日本海」か登場した頃には美しい「日本海」のヘッドマークが前面に掲げられていました。この写真を撮影した頃の晩年はヘッドマークは無くなってしまいました。ここからはディーゼル機関車DE10が牽引し、米原から終点大阪まではEF58形直流電気機関車が牽引していました。大好きな交流電気機関車、ED70とEF70。もちろん鉄道模型でも所有しています。EF70は1次型、2次型、1000番台と所有しており、ED70も4両所有しています。13ミリゲージでも3両あります。自分にとってはメインとなる機関車になり、このブログでもテーマの画像にしている次第です。現存する実機はED701が「長浜鉄道スクエア」に、EF701001が「碓氷峠鉄道文化むら」に保存されています。

良き国鉄時代③

自分は北陸本線の沿線で育ったこともあり、幼いころから近くの踏切で列車を見てきました。やはり好きな車両は国鉄型の優等列車になります。自分が中学生だった1975年から高校生になった1977年くらいにかけて、近所の踏切やま長浜駅、米原駅、そして近江塩津、余呉あたりまで足を延ばしてよく撮影していました。カメラといえば親に買ってもらったアサヒペンタックスSPFでした。135ミリの望遠レンズまで買ってもらっていました。現像とプリントは親戚のカメラ屋(金戸カメラ)さんでした。時に同時プリントと言って、フィルム1本をそのままプリントしてもらっていて、親から「同じような写真ぱかり」と叱責を受けたこともありました。デジタルカメラが主流となった現在では考えにくい事だと思います。撮影した写真は現像するまで見ることができず、フィルムを出して数日後にワクワクしてカメラ屋さんに向かったものでとした。うまく撮れたであろう写真が、被写体が遠くなってしまい小さかったりしてがっかりしたものでした。今では、撮影したら直ぐに画像を見ることが出来てしまいます。デジタル時代の成せる技といえます。

上の写真は1976年に近江塩津で撮影した485系特急「しらさぎ」になります。富山行きだと思います。当時はこの写真のように485系もボンネットタイプの先頭車がほとんどでした。ヘッドマークは字のみで、大変好ましく感じていたものです。堂々たる12両編成で、グリーン車2両に食堂車も繋がれていました。鉄道模型ではトミックス製のものを所有しています。この「しらさぎ」には乗車したことがありませんでしたが、同形式の特急「白鳥」には敦賀から高岡まで家族旅行で乗車したことがあります。車内から天井を見ると、大変大きなクーラーの吹き出し口があったことを覚えています。

上の写真は、同じく近江塩津で撮影した475系急行「ゆのくに」金沢行きになります。この急行列車も当時は堂々たる12両編成で、グリーン車を2両繋いでおり、半室がビュッフェになっている車両、サハシ455も繋がれていました。ヘッドマークが大きくて大変かっこよかったです。同じ急行電車では、急行「立山」と急行「兼六」が運転されていました。自分はこの急行「ゆのくに」が大変気に入っていて、中学生の頃に一人で大阪の阪急百貨店にHOゲージの鉄道模型(カツミ製のカニ24を買いに行きました)を買いに行った帰りに、駅弁を買って15時30分発の急行「ゆのくに」に乗車して、長浜まで帰ったことを覚えています。買った模型を眺めながら、駅弁を食べての旅は至福の時間でした。確か長浜には17時過ぎに着いたと思います。鉄道模型ではトミックス製とカツミ製のものを所有しています。

上の写真は急行「ゆのくに」と同形式475系の急行「くずりゅう」になります。2M1Tの3両が2つ繋がれ6連で運行されていました。米原と金沢を結んでいて、大変俊足の急行電車だったと記憶しています。新幹線と北陸を結んでいた急行で気軽に利用されていたように思います。国鉄末期になってくると普通列車としてもこの6両編成が使われていました。のちに赤色一色に白いラインに塗装変更され、JR西日本になると白色に青いラインが施されるようになり、新北陸色と呼ばれていました。現在は廃車となり、521系が後継車両として活躍しています。

上の写真は1977年に自宅の近くで雪の中撮影した485系特急「加越」になります。485系の300番台が使用されて、米原から金沢を結んでいました。新製車両が大変美しく、字のヘッドマークが大変美しかったです。この特急が誕生する前に、列車の名称を広く一般公募されていました。自分も応募していたと記憶していますが、どんな名称を応募したのか全く覚えていません。「加越」に決まった訳ですが、加は加賀の一字を取り、越は越前の一字を取り、合わせて加越にされたと聞きました。この特急が駆け抜ける県名の古い名称に落ち着いたわけです。鉄道模型ではトミックス製を3編成ほど所有しています。

上の写真は1975年にやはり自宅近くで撮影した485系特急「雷鳥」になります。1975年はまだ湖西線が開通しておらず、大阪発の北陸方面優等列車は米原経由で運転されていました。この「雷鳥」をはじめ「白鳥」、「北越」、「つるぎ」、「日本海」、急行「きたぐに」等も自宅近くで十分に撮影できたわけです。この485系は貫通扉があるタイプ(げんこつ形、あるいは電気釜と呼ばれました)になり。ボネット形に変わって登場した頃の形状です。好きだった581系の特急「しらさぎ」に先頭車の形が似ていて新鮮でした。581系が月光形と呼ばれていたので、自分は赤い月光形と呼んでいました。もちろん鉄道模型でもトミックス製を所有していますが、貫通タイプではなく非貫通タイプの300番台になります。

自分の好きな北陸線の優等列車たちは実車ではもう見ることができません。しかし、鉄道模型では、まだまだ現役の姿をいつでも見ることができます。自宅レイアウトをジョイント音を響かせて走りぬける姿は自分を「あの頃」に誘ってくれ、至福の時間と空間を提供してくれています。さあ、今日はどの列車を運転してみようか。