私が撮った新幹線電車

300系さよなら運転~米原通過

今回は私が撮影した新幹線の特集をお届けします。子どもの頃から鉄道写真を撮影しに行っていた米原駅。その一番西側には新幹線ホームがあります。初代新幹線0系には初めて家族で乗りました。京都か新大阪までを往復したのを覚えています。0系は引退してかなり経ちましたが、ありがたいことに京都鉄道博物館で静態保存されています。0系が活躍していた頃、夜に米原付近で見かけると屋根上からのスパークが奇麗だったのを覚えています。

上の画像は米原駅を俯瞰する陸橋から撮影した下りの0系になります。懐かしい丸みを帯びたデザインは子どもの頃からなじんでいた「新幹線」でした。中学校の修学旅行も米原から東京まで0系に乗りました。

上の画像は伊吹山をバックに走る0系新幹線になります。かなり小さくて0系が見つけにくいです。東海道からは1999年に引退しました。

そしてバブル期1985年にデビューしたのが100系新幹線でした。2階建て新幹線として呼ばれ、2両から4両の2階建て車両を組み込んでいました。自分はG編成と呼ばれた2階建てビュッフェとグリーン車を組み込んだ100系によく乗りました。そして2004年の東海道での引退の時は、名古屋から米原まで2階建てグリーン車に乗った記憶があります。高い位置からの眺めは素晴らしかったものでした。

上の3つの画像は米原駅で撮影した100系新幹線になります。

上の3つの画像は米原駅で撮影した300系新幹線になります。1992年3月14日に「のぞみ」号としてデビューした新幹線で100系より大幅なスピードアップがはかられました。私はこの300系の上り一番電車をたまたま大学時代の友人たちと一緒に三河安城のシティホテルから見たのを覚えています。デビュー当時は夜遅くの「のぞみ」に投入されていました。本当にあっという間に走り去って行きました。そして引退が決まった2012年3月13日には米原から京都までを往復して乗ったのを覚えています。100系とはかけ離れた先頭車デザインに大変驚いたものでした。現在は名古屋のリニア鉄道館に保存されています。

米原近くで撮影した300系新幹線。

2012年3月3日に米原駅で300系新幹線の撮影をしました。「今日は下りの団体専用も走るとあって、駅のホームを埋め尽くすくらいのファンが居ました。10時25分にステッカー付きの下り団体列車(JR東海のJ57編成)を撮影しました。

上の画像2つは、戦闘機を思わせるフロント・ビューで人気の高い500系新幹線が、2010年の2月28日に東海道筋から引退してしまう前の、2009年12月に米原駅で撮影したものになります。2009年当時、上下1本ずつ(上り6号、下り29号)が「のぞみ」としての最後の力走をしていました。新幹線を撮影するのは100系新幹線の引退の時以来ですが、久しぶりに米原駅のホームから「のぞみ6号」を撮影してみました。引退には惜しい見事なスタイルとスピードでした。(上りのぞみ6号、米原駅通過10:11でした。)300系新幹線よりも早く東海道から引退してしまいました。まだ乗ったことがありませんが、新大阪から南の山陽新幹線で活躍しているので短くなった500系に乗ってみたいと思っています。

2020年2月末から運転された700系C編成にはさよならのロゴが貼られました。

上の画像は米原駅近くと駅で撮影した700系新幹線になります。1999年3月13日に東海道にデビューして活躍して、2020年には引退してしまいました。引退記念列車は2020年3月に予定されていましたが、コロナ禍となってしまい実施されませんでした。自分は2020年の2月に名古屋から京都まで「のぞみ」に乗り納めをしました。全区間をビデオ撮影しており、今でも見ることがあります。米原駅を通過していく様子も撮影していました。

上の画像は2007年から運用を開始した現在の新幹線、N700系になります。米原駅にてデビュー間もない頃に撮影しました。まだAもSも走っていない頃になります。

上の画像は2016年頃夏に撮影した923系ドクターイエローT5編成になります。米原を夕方に通過して東京に向かう上りの「のぞみ検測」になります。この923系も何時走るのかがネットで解るようになってから、何回も米原駅や米原近くで撮影するようになりました。偶然に見られたら幸せになれるとされたドクターイエローですが、走る日時が解るのでありがたみが無くなってしまったように思います。

今回は以上になります。鉄道模型でも東海道新幹線はほとんど所有しています。0系は造形村製で6連とカツミ製の旧製品を12連持っています。100系はカツミ製で2階建て車両2両を含めて10連、300系はカツミ製でフル編成の16連、700系はカツミ製で10連。そしてN700系はカツミ製で10連、923系ドクターイエローは日本車両夢工房製でフル編成の7連を所有しています。東海道以外では200系東北新幹線H編成を8連で持っています。この200系は100系と同じスタイルの車両で2階建て車両も現在2両製作中です。なかなか完成しませんがこの機会に塗装まで進めてみたいものです。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

※リニア鉄道館には0系、100系、300系、700系、N700系、922形新幹線が展示されています。また京都鉄道博物館には0系、100系、500系新幹線が展示されています。

87分の1の新幹線 全てカツミ製。
自宅レイアウトで開催した「新幹線祭り」。ホームのモチーフは新幹線の米原駅です。923系は日車夢工房製、あとは全てカツミ製になります。
300系新幹線、自宅レイアウト新幹線ホームにて撮影。

良き国鉄時代㊵~北陸赤罐たちの活躍~

今回の「良き国鉄時代」は、1973年から1976年にかけて地元で撮影した写真を中心とした北陸線の赤罐(赤い電気機関車)の特集になります。これまでに未発表の写真を紹介していきたいと思います。いよいよ来月16日には北陸新幹線が敦賀までやってきます。これにより敦賀~金沢間は第三セクターとなり、北陸線は「米原から敦賀まで」の短い路線になってしまう現実が待っています。「北陸」という名称もふさわしくなくなってしまいます。国鉄時代には米原から直江津までの本線路線だった「北陸本線」に思いを馳せながらご覧いただけたらと思います。あいかわらずEF70やED70の交流電気機関車の写真ばかりになってしまいますが、もう少しお付き合いして頂けたらと思います。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したEF70重連の牽引による北陸線下り普通列車になります。前のパンタが上がっての重連は格好が良くてたまに見かけたものです。2次型41号機は富山第二機関区の所属でした。

上の画像は1975年に余呉~木ノ本間で撮影したEF7080号機牽引の臨時列車になります。14系座席車なので臨時特急「日本海51号」か臨時急行「加賀」、あるいは臨時急行「くずりゅう」かもしれません。この80号機は敦賀第二機関区所属で最終ナンバーのひとつ前の車番になります。EF70形交流電気機関車は81両が製造されました。

上の画像は1975年冬に虎姫~長浜間で撮影したEF70 1002号機牽引の米原行き普通列車になります。この頃よく撮影していたポイントで、国道8号線が北陸線を跨ぐ陸橋の上からカメラを北に向けて撮っています。1002号機は敦賀第二機関区に所属していた20系客車を牽くことのできる20系寝台特急用の機関車です。

上の画像は1975年冬に余呉~木ノ本間で撮影した北陸線上りの臨時急行かと思われます。余呉トンネルを出たところを撮っており、このポイントも結構有名でした。牽引機は33号機で敦賀第二機関区に所属していました。この機関車と近い車番である35号機と36号機は福井国体でのお召列車牽引機として活躍した機関車です。

上の画像は1976年に虎姫~長浜間で撮影したEF70 42号機が牽引する北陸線上りの臨時急行列車になります。42号機は富山第二機関区の所属でした。当時、北陸線では多客期には12系客車と14系客車を使用した臨時列車が運転されていました。白帯のブルー客車の長編成は良い被写体でした。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したEF70 36号機牽引の北陸線下り普通列車になります。この36号機は1968年の福井国体でお召列車の牽引機として抜擢された栄光の機関車です。お召列車には2両の機関車が準備されていました。福井国体の時には35号機と36号機です。機関車1両に万が一トラブルが起きた時にはもう一両の予備機関車が任務に就くことになります。当時の写真を見ると福井国体では35号機が牽引したようです。現在、長浜鉄道スクエアの電化記念館の中の壁に35号機のナンバーとエンドマーク、製造銘板が飾られています。

上の画像は1974年に近江塩津駅ホームで撮影したEF7052号機とED70の重連で牽引する北陸線上り普通列車になります。この52号機は富山第二機関区の所属でした。後方のED70は当時あと1年で引退の運命にありました。おそらく末期まで活躍していた3.5.7.8.9.10号機の6両のうちの1両でしょうか。

上の画像は1975年冬に虎姫~長浜間で撮影したEF70 77号機牽引の北陸線上り普通列車米原行きになります。この77号機は敦賀第二機関区に所属していました。また晩年は九州で活躍していました。郵便車2両と荷物車2両に客車6両の堂々10両編成の客車列車でした。ちなみに自分が高校生の時、この郵便車に郵便局から郵袋をリヤカーに積んで長浜駅まで運び、郵便車に積み込むというアルバイトをしていた経験があります。年賀状配達のアルバイトをしていた時の事でした。

上の3つの画像はどれもEF70 1000番台牽引の20系寝台特急「日本海」号の上り大阪行きになります。地元の踏み切り近くから撮影していますが、通過が朝6時前だったので早朝の撮影でした。上から2枚目の写真には土手に霜が降りているのが解ります。冬場の撮影だったのでしょう。牽引機は1003号機の様で敦賀第二機関区に所属していました。当時は残念ながらヘッドマークは無かったですが、20系の編成美を撮影できた貴重な時代でした。43.10ダイヤ改正で登場した青森と大阪を結ぶ寝台特急でした。

上の画像2つは1974年に虎姫~長浜間で撮影したED70牽引の北陸線上り普通列車の米原行きになります。10号機と3号機で共に敦賀第二機関区に所属していました。5両から6両の軽い客車編成の牽引に当たっていました。

上の画像は1975年に長浜駅で撮影したED70牽引の北陸線、米原行き普通列車になります。自分がこの列車に乗って敦賀から長浜に帰って来た時に撮ったものと思います。10号機は敦賀第二機関区に所属していました。この写真は引き伸ばして長浜鉄道スクエアの応接室に置かせてもらっています。

今回最後の画像になりました。上の画像は1973年に亡き父親と一緒に乗っている北陸線下りのディーゼル急行列車の窓から撮影した金沢駅構内になります。残念ながら父親とどこへ旅行したのかが思い出せません。当時の北陸線の主役EF70とEF81に入れ替え用のDD13形ディーゼル機関車の姿が見えます。

3月16日には、また大きく様変わりする北陸の鉄道事情ですが、これらの国鉄時代の情景は今も心の中に焼き付いています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊴~敦賀第二機関区探訪1975年~

右側がお召し仕様にされた121号機。121号機の後方には120号機が居ました。

今回の「良き国鉄時代」は、自分が中学3年の時、1975年に訪問した国鉄敦賀第二機関区での撮影を紹介します。前回の「良き国鉄時代」では敦賀第二機関区で古豪ED70の撮影を紹介しましたが、今回はED70形交流電気機関車以外の電気機関車を撮影したものになります。1975年敦賀第二機関区には役目を終えようとしているED70形交流電気機関車とEF70形交流電気機関車、そして新製配置されて間もないEF81形交直両用電気機関車が居たものです。トップにあげた画像の右側は1975年5月26日に滋賀植樹祭の時、お召列車牽引機として準備された磨き上げられたEF81121号機の勇姿になります。共に湖西線が開業した1974年に敦賀第二機関区に新製配置されました。お召列車運転当日はEF81120号機が牽引にあたり、湖西線の近江塩津と堅田間を牽引しました。EF81形電気機関車にとって記念すべき初めてのお召列車牽引になりました。120号機と121号機がお召仕様としてピカピカに整備されていたわけです。たまたま自分が訪問した日に、120号機と121号機の両機を撮影することができ大変ラッキーでした。お召列車専用機のEF5861号機に比べると、地味なお召機仕様ではありましたが、連結器と連結開放テコ、そして掴み棒が銀色に磨きだされていた様子が写真から解ります。ちなみに現在のEF8181お召機には車体横に銀色の帯が施されています。こんなに美しい電気機関車を間近に見たのもこの日が初めてのことでした。

上の画像は植樹祭のお召列車を牽引した120号機になります。残念な事に前面の色が飛んでしまっています。本当に美しく整備されていた81でした。屋上機器の碍子は白色でした。

上の画像は機関区建屋の傍に留置していたEF81形のトップナンバーなります。現在もどこかの運転区の片隅に残っているとの画像をYouTubeで見かけたことがあります。1968年に誕生した交直両用電気機関車で、164両が製造されました。この1号機は1967年に製作された量産先行車になり、前面下部左側にAW-5型タイフォンを装備していたのが特徴でした。後にこのタイフォンは撤去されています。1号機は1985年4月の米原機関区の一般公開で「さようなら客車列車221レ」のヘッドマークを付けて展示されていました。赤13号の塗色で美しいカラーリングの罐でした。

上の画像は、敦賀第二機関区にずらりと並んだEF81になります。どの機関車も新製配置された頃なのでまだピカピカの状態でした。

上の画像は101号機になります。近年では寝台特急「日本海」の下りラストランの時の牽引機でした。また、このブログで取り上げた「北陸線客車列車最終運転日」にも牽引機を務めていました。何故かラストランに縁がある機関車と言えそうです。

上の画像は機関区の一番北側の留置線に居る117号機と118号になります。117号機は、湖西線が開業する1年前に敦賀~田村で練習運転をしていた時に、自分が田村駅にて撮影できた思い出深い機関車でした。

敦賀第二機関区構内に佇むEF81たち。機関車の屋根上やや2エンド側にある銀色のカバーは、自分はてっきりクーラーが載っているのだと思っていました。実際は主抵抗器が納まっていることをずいぶん後になってから知りました。高圧機器類は塩害や氷雪から保護するために機関車の室内に収容しています。

上の画像は左側がEF70形交流電気機関車の1次型の11号機。右側が2次型の38号機になります。11号機は前照灯が2灯式のシールドビームに替えられています。これは従来の白熱灯のものから光量アップと長寿命化、交換の容易化がはかれ、1970年代以降で交換されました。自分の鉄道模型の13号機もこのタイプの前照灯にしています。38号機の横ではブレーキ用砂箱へ砂の補給作業をされている職員さんが映っています。確かこの職員さんに、「滑り止めの砂」についてのお話を聞いたように記憶しています。

カツミ製キットを改造して13ミリゲージの13号機にしています。

上の画像はEF70 1002他になります。この1000番台は43.10ダイヤ改正で登場した20系寝台特急列車牽引用に時速110キロ高速運転ができるようにブレーキシステムを改良した装備を備えており、22号機から28号機を改造して誕生した機関車になります。鉄道模型でもカツミ製と天賞堂製を所有しています。以上が機関区で撮影した写真です。

ここからは、敦賀第二機関区での撮影を離れてしまいますが、これまで未発表の敦賀駅界隈で撮影した写真を少しだけ紹介したいと思います。

上の画像は機関区をかすめて勾配区間を走るEF81牽引の12系客車列車になります。おそらく臨時急行でしょぅか。この114号機は晩年トワイライトエクスプレス専用機に抜擢され、トワイライト色に塗色変更されました。機関区には休車で留置されたED70の姿が見えています。

上の画像は敦賀駅を発車した湖西線への12系客車列車になります。臨時急行「加賀」かもしれません。

上の画像は福井方面から敦賀駅に到着した客車列車を離れるEF70 1001号機になります。この1001号機は今も「碓氷峠鉄道文化むら」に静態保存されています。

上の画像は敦賀駅で撮影したEF70 79牽引の12系客車列車になります。これから客車と切り離されるのでしょうか。このように敦賀駅でも電気機関車の入れ替えを見ることができました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

STMC滋賀鉄道模型愛好会の運転会史④最終回

青春21文字イベントでの運転会

過去の「STMC滋賀鉄道模型愛好会」が公開運転会を行ってきた記録を、当時の自分のブログ記事を再掲して振り返っていきます。この愛好会との出会いが無ければ、自分の鉄道模型趣味の充実は無かったと思っています。ではさっそくこれまでの主な運転会の様子を、当時の紹介プログ記事と一緒に見て頂くことにします。今回は、まずは2016年12月10日(土)から11日(日)の2日にかけて行われた「つるが鉄道フェスティバル」のイベントからです。前日の午後から仕事を休んで、自分の車に運転会道具一式を車に満載して敦賀に行きました。夕方に敦賀港近くにある「敦賀きらめきみなと館」に着きました。大きな会場には自分たちの展示スペースが明記されていました。5メ―トル×8メートルの大きな場所で、まずは長机をカートで運んで組み立てました。なかなかの重労働で冬場なのに汗だくになってしまいました。

つるが鉄道フェスティバルの展示レイアウト。
体験運転も行ないました。

机の上にはベースとなるコンパネを敷き詰めて、その上に紺色の敷き物を敷いていきました。それから組み立て式線路をセットしていきました。組み立てが終わると配線作業をしていきます。線路に電気を流すための大事な作業になります。それぞれの線に1つずつのパワーパックを使います。電気関係が終わるとやっと試運転をします。それぞれの線路に電気機関車を走らせて、不具合がないかチェックしていきます。ここまで来たら持参した北陸線関係の車両を箱から出して、ヤードに並べていくわけです。これで運転会の準備が完了したことになります。終わったのが午後9時になってしまっていました。毎回思うことですが、運転会のセッティングが大変面白い作業といえます。会場によっては、現物合わせで線路を足したり頭を使いながら作業していくのが楽しいです。

最大規模のレイアウトでの運転会になりました。
2日間に渡り多くのお客さんに楽しんでいただけました。
今は自宅固定式レイアウトに組み込まれている扇形庫。

金曜日の午後から準備にあたり、夜9時に設営完了しました。久しぶりに、フルスケールの運転会になります。敦賀にちなんだ列車を走行展示予定です。

あいにくの雨模様でしたが、多くの親子連れに来てもらえて盛況でした。私たちのブースも『じゃりちゃん鉄道』さんにカメラカー体験運転の用意をしていただき、子どもたちに人気でした。走行展示車両は北陸線関係に限定させていただきました。今日も9時から4時までありますので、よろしかったらお立ち寄りください。お待ちしております。

つるが鉄道フェスティバルでは、愛好会のレイアウトとしてはフルスケール規模の大きさでの運転会でした。2日間にわたり、沢山の子ども連れで賑わいました。ちなみに北陸新幹線が敦賀延伸開業する今年の3月16日~17日にも「つるが鉄道フェスティバル2024」が開催されます。鉄道模型走行会は「じゃりちゃん鉄道」さんが出展され、自分も運転会のお手伝いをさせていただく予定で楽しみにしています。

窓から湖西線堅田駅がよく見えました。
江若鉄道の写真展示も見応えがありました。
湖西線を走っていたトワイライトエクスプレスが快走。
4線のヤードは短くして設営していました。

上の画像5つは平成31年3月21日~24日に大津市の堅田駅前にある江若交通(株)本社ビル5階で開催された「江若鉄道廃線50年写真展と鉄道模型走行会」の様子になります。会場が5階だったので、機材の搬入にエレベーターを使わなければならず、結構大変な搬入と搬出だったのを覚えています。元江若鉄道に勤めておられた方も来られて、話を聞くことができ大変充実したイベントでした。

3月21日から24日まで開催されたイベントが無事に終了しました。このイベントに参加された皆様、来場して下さった皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。大変内容の濃い良いイベントになったと感じています。あらためて「鉄道」を通した人と人との繋がりの大切さを実感しました。ありがとうございました。

滋賀鉄道模型愛好会(STMC)

故清水薫氏の追悼写真展。
長浜鉄道スクエアの中でレイアウトを設営しました。
北陸本線を駆け抜けた車両を展示しました。
懐かしい50年前の鉄道模型も走りました。
見事なトイレールの展示もありました。

上の5つの画像は令和2年7/11から8/30まで長浜鉄道スクエアで開催した鉄道スクエア特別企画展の「故清水薫氏遺作写真展と鉄道模型運転会・展示会」の様子になります。連日、清水さんの奥様が来てくださっていたことが印象的でした。

★HOゲージ鉄道模型の体験運転は、7/23、24、8/9、10になります。

たいへんコンパクトに設営された青春20文字イベントでのレイアウト。
京阪電車とすれ違うのは221系電車。
この運転会の様子を読売新聞と京都新聞に取り上げていただきました。

令和5年1月21日(土)と22日(日)に大津市瀬田の滋賀県立美術館にて、「青春21文字イベント」の展示がありました。私が所属する滋賀鉄道模型愛好会(STMC)でも、このイベントにあやかって公開運転会を行いました。これまでで最小規模のレイアウトでの運転会となりましたが、訪れた子どもさんに鉄道模型の体験運転をしていただくことができました。尚、この様子は京都新聞と読売新聞に載せていただきました。体験運転の担当をしている様子をあげて頂きました。会場のスペースに合わせて、柔軟に運転会が開催できるところが素晴らしいと思います。その後は、令和5年7月15日(土)から8月27日まで長浜慶雲館で大変長期にわたる運転会を開催しました。長浜鉄道スクエアでも「北陸本線の車両を集めた鉄道模型展示」も行わせて頂きました。運転会史は以上で終わりとなります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊳~ED70を訪ねて1975年~

今回の「良き国鉄時代」は、自分が中学3年の時、1975年に撮影したED70形交流電気機関車の写真を紹介させて頂きます。1975年当時は地元の北陸本線ではだんだんとED70を見かけなくなっていた頃でした。北陸本線の田村~敦賀間が国内で初めて交流電化した1957年、昭和32年に華々しくデビューしたこの電気機関車の終焉が近づいていた頃になります。敦賀第二機関区を見学した前年の鉄道雑誌「鉄道ファン」でも1974年11月号で、このことが取り上げられておりED70が牽引している列車の仕業が全て紹介されていました。敦賀から田村へやってくることもほとんど無くなってしまい、雑誌の情報を手掛かりに近所で撮影したり、田村駅まで行っては撮影したものです。そして1975年の秋頃だったと思いますが、思い立って敦賀まで行ってこの機関車の撮影に出掛けました。敦賀駅から南に歩いて、鉄輪町の中を歩いて「敦賀第二機関区」に飛び込みで行きました。事務所に居られた機関区職員の方に「機関車の写真を撮らせて欲しい」とお願いしたら、何と快く了承して下さり、全く自由に機関区内部を見学させて頂けたのです。機関区には当時休車となったED70が沢山留置されていました。嬉しくて夢中になって撮影していたのを覚えています。これまで見た雑誌でEF70が休車になって機関区にずらりと連なっている写真は見たことがありましたが、ED70の休車写真はあまり見たことが無く、自分では大変貴重な写真を撮れたと自負しています。

1975年、敦賀第二機関区にずらりと並んだ北陸線の古豪たち最後の姿。

上の画像は敦賀第二機関区に留置されているED70の4号機と3号機他になります。両機とも車番の数字が一部外されてしまっていました。ちょっと残念な姿になってしまっていて、廃車が近いことを感じました。外された数字は何に使われたのかは不明ですが、今後新製される機関車などに再利用されたのでしょぅか?

上の画像はどれもED70の5号機の写真になります。留置されている写真を見ると、どうやら別の日にも敦賀第二機関区に来ていて同機を撮影していたようです。1975年に2回は敦賀第二機関区に撮影に来ていたようです。本当に、北陸線交流電化のパイオニア、古豪最後の姿を記録することが出来て良かったと思っています。

上の画像はED70の8号機の写真になります。鉄道模型ではこの電気機関車をモチーフにしてカツミ製の16番ゲージのキットを加工して製作しました。軌間は13ミリゲージにして製作して、長浜鉄道スクエアに静態保存してあるED70を見に行っては色合わせや細部の作り込みをしました。その甲斐あってか、鉄道模型雑誌の「鉄道模型趣味」を出版されている機芸出版社主催の鉄道模型車両コンペで「努力賞」を頂くことができました。このコンペにはカツミ製のEF70形交流電気機関車の1次形も同時に出品して、こちらも「努力賞」を頂くことができました。自分にとって、模型でもかなり拘って作りたいと思わせたこの電気機関車のインパクトは強かったと思っています。大変好きな機関車でした。

カツミ製キットを13ミリゲージで製作したED70。
自宅13ミリゲージレイアウトを快走するED70牽引の普通列車。

上の画像はED70の7号機の写真になります。機関区の留置線の一番南側線に留置されていたと記憶しています。1両ポツンと留置されていて物寂しく感じていました。架線もあるので、この場所まで自力で移動してきてパンタを降ろしたのでしょう。

上の画像はED70の9号機になります。機関区のメインとなる大きな建屋の近くに留置されていました。この9号機は鉄道ファン1974年11月号の表紙を飾っています。敦賀第二機関区に新製配置されたEF81との重連で田村から敦賀へ向かう普通列車への連結シーンでした。

上の画像はED70の2号機になります。この機関車はよく田村でも撮影することができました。田村で連結を解かれると、軽いモーター音を奏でながら米原方向に機廻ししていく姿を思い出します。最後の活躍を見ることができて良かったです。このED70は1957年から1959年にかけて三菱電機により19両が製造されました。外観では登場時は前面に貫通扉がありましたが、晩年には扉が埋め込まれて溶接されています。貫通扉の窓の位置も登場時より少し上部になっています。鉄道模型でも前面のパーツを改造して晩年の前面を表現しました。あと19号機は車体の長さが長くて、本来この電気機関車は交流2000V60Hz用なのですが、19号機だけは東北本線での試験運転に備えて50Hzと60Hzのどちらでも使用ができるように作られました。やがてED71交流電気機関車の開発に繋がったようです。自分は写真でしか見たことはありませんが、前面の警戒色の帯の所にテールライトがあり、通風口も付いていて独特の顔をしていたようです。いつか鉄道模型で製作してみたいものです。

1975年引退前のED70を複数回に渡って、本当に間近で自由に見学させて頂くことができました。当時の国鉄敦賀第二機関区の関係者に、改めてお礼を言わせて頂きたいと思います。その節には大変お世話になり、ありがとうございました。正に夢の様な「ED70撮影会」となった1975年でした。ED70は1号機が1975年に引退し、1976年8月から敦賀第二機関区の交流電化の記念碑の傍に展示されていました。屋根が無くてだんだんと痛んできて心配していたのですが、その後日本ナショナルトラストさんのお力添えで2003年からは「長浜鉄道スクエア」で静態保存されています。ファンにとっては大変有難いことに思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

2003年に松任工場から長浜に運ばれてきたED70。
ED70の牽く列車が自宅レイアウトを快走。