鉄道模型と出会った頃①1974年

今回は自分が1974年当時に鉄道模型で遊んでいた大変懐かしい写真を紹介したいと思います。私が小学5年生だった1972年頃にやっていた趣味は、もっぱら「ミニカー」集めでした。マッチボックス製の大変リアルなミニカーが市内の「長浜教材社」というプラモデルや画材等を取り扱う店に販売されていて、よく買い集めてコレクションしていました。正に箱に入ったミニカーは1台150円だったと記憶しています。その後、ショーケースに線路の上に並べられた沢山の鉄道模型の貨車が現れました。当時、蒸気機関車が好きだった私の心を鷲掴みにしたのがこれらの貨車でした。エンドウ製の金属製の2軸貨車で、1両550円位で販売されていたのでした。ミニカーからこの鉄道模型に趣味が移り、まずはワム80000と車掌車のワフ35000、そして無蓋ボギー貨車のトキ15000を買ってもらいました。次にフレキシブルレールも一本買ってもらい、貨車を手転がしで遊びだしたのが鉄道模型趣味の黎明期になります。飽きもせずに遊び、貨車の扉もちゃんと開く仕様だったので、楽しんで遊んでいたように思います。

上の画像は当時穴が開くほど見ていたカツミ模型のカタログとエンドウのカタログ。

上の画像は初めて買ってもらった鉄道模型の貨車。左からワフ35000、ワム80000、トキ15000。

それから組み立て式16本組の曲線線路と直線線路、そしてポイント線路も買い足していきました。やがて電気機関車を亡き祖母に買ってもらうことになりました。ED100形自由型電気機関車で当時2850円でした。いずれも長浜教材社で買ってもらいました。そして模型を動かすために必要なパワーパック(KP23)も揃えて、お座敷運転を毎週末、学校が終わった土曜日の午後に私の家に集まって遊ぶようになりました。

当時自分には2人の鉄道模型友人が居て、皆が違った形式の機関車を持ち寄っては走らせて遊んでいました。エンドウ製のED66とED58を1人は持っており、もう1人は何とカツミ製スケールモデルのC59形蒸気機関車(ダイヤモンドシリーズ)を持っていました。この運転会スタイルは現在の私に通じる自宅運転会になっていたように思います。毎週学校が終わった土曜日の午後に遊んでいたものでした。

上の画像は1974年の撮影した当時のお座敷運転の様子になります。本線には自由形の電気機関車ED100が自由形客車のナハ、ナハニの5両編成の客車を牽引しています。ポイントで引き込まれた留置線にはキハ02気動車2両(モーター付きとモーター無し)とワフ35000にワム80000、ワム23000、コキ5500他の貨物列車を留置しています。ポイントは手動式のようです。

上の画像1974年に撮影したカツミ製の自由形電気機関車のED100になります。今は亡き祖母が買ってくれた鉄道模型でした。客車も自由形の「ナハ」、「ナハニ」を5両繫いで寝台特急「日本海」のヘッドマークをつけて快走しているところです。見事に機関車だけしかピントが合っておらず、上手く撮れていません。この頃使用していたカメラはコニカというメーカーの亡き父親の2眼レフカメラでした。黒と銀色の箱型のコンパクトなカメラでした。

上の画像は1974年に撮影したお座敷運転の様子になります。この場所は現在自宅レイアウトがある自宅離れの北の間で、当時は和室8畳の和室でした。奥には足の付いたテレビが映っています。まだ白黒のブラウン管テレビでした。ホームはエンドウ製のホームを2つ使っていました。足らない分は木の板を使ってホームにしていました。今も離れ2階にある13ミリゲージの簡易レイアウトに使用しているエンドウ製のホームは金属製で大変しっかりと作られた物で、AC電源で蛍光灯タイプの照明が2つ点くようになっていました。よく見るとパワーパックのACターミナルからこのホームの照明に給電して点灯させているようです。

上の画像2つを見てみると、客車列車と貨物列車を交互にED100に牽かせて運転を楽しんでいたようです。入れ替えの時はおそらく編成を手転がしでの入れ替えをしていたのでしょう。鉄道模型を手で扱うことを「ゴッドハンド」という言葉で今でもよく言っています。正に神の手で成せる技なのでしょう。

上の2つの画像はお座敷運転で登場した、初めてのスケールモデルのED70形交流電気機関車になります。牽引しているのは自由形客車です。自分か中学2年生になった頃にやっと自由形からスケールモデルの鉄道模型を買ってもらいました。地元の北陸本線でもまだ活躍していたED70はカツミ模型店が割と初期から製品化していました。この製品には縦型モーターにインサイドギア、1モーター方式の動力でした。友人は2モーター方式の同型機を持っていました。ずっしりとした手応えを覚えています。当時の連結器は「ベーカー式」というものでした。爪を引っかけて繋ぐ方法の物で、車両を繋ぐのは簡単でした。開放は下からでっぱり部分を上に上げて開放しました。以上、紹介した鉄道模型は現在も手元にあって走らせることができます。自分が鉄道模型を始めた頃と同じ自宅の離れに今では固定式のレイアウトがあり、鉄道模型友人たちが車両を持って遊びに来てくれることに、不思議な繋がりと縁を感じています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉞~私が撮ったEF66 0番台~

これまでに自分が撮影してきた電気機関車は、地元が長浜なので交流電気機関車か交直両用の電気機関車が多くなります。自宅近くの踏切付近に行くと、いつでもこれらの電気機関車を手軽に撮影することができました。そんな中、米原方面に撮影に行った時にはまだブルートレイン牽引機になる前で、貨物列車やフレートライナーを牽引していたEF66形0番台の直流電気機関車をたまに撮影していたものでした。独特のデザインでまるでヨーロッパの機関車の様な前面形状で大変魅力的でした。今回は私が撮ったEF66の写真をスキャンしてお届けしたいと思います。鉄道模型でも天賞堂製とトミックス製で何両か所有しています。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した貨物列車を牽くEF66形直流電気機関車になります。10号機のようで広島鉄道管理局、下関運転区所属の機関車になります。冬場、雪の降る中に米原駅に出掛けて撮影していた時の写真です。東海道本線を下って米原は通過していました。どうやら無蓋車トラかトキの回送のようです。前面窓の上にはまだ庇が付いていない頃になります。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した東海道本瀬を上るコンテナ貨物列車、フレートライナーになります。この頃は「流し撮り」に挑戦していた頃で、少しだけ背景が流れて撮れているように思います。54号機で下関運転区の機関車です。1両目には高速ボギー貨車のワキ10000が繋がれていました。あとの車両はブルーに塗られていたコキ10000系だと思われます。この貨車の台車(TR203)は空気バネを使用した独特の形状をしていて高速貨物列車の足まわりの特徴のようなものでした。鉄道模型ではワキ10000は天賞堂製のプラスティック製を、コキ10000はカトー製品を持っています。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF66 13号機牽引の東海道本線上りのフレートライナーになります。この撮影ポイントは早朝に東京へ向かうブルートレインを撮影した場所で、ブルートレインの撮影の合間に撮ったものです。13号機で下関運転区の機関車でした。なお当時、EF66は1号機から55号機までと901号機の全機が広島鉄道管理局、下関運転区に所属していました。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した上りのフレートライナーになります。ワキ10000を2両先頭に繋いでのコンテナ列車、フレートライナーでした。牽引機は53号機(関)でした。この頃は機関士と機関助士が2名で乗務されていました。良き国鉄時代の電気機関車乗務スタイルでした。

上の画像は1975年に米原駅に停車中のコキ50000系フレートライナーを撮影したものになります。冬の日の撮影のようで、ホームにはうっすらと雪が積もっています。コンテナも国鉄時代のC-20形のようで「国鉄」の文字が映っています。また白線の上には「JNR」の赤いシンボルマークが少しだけ映っているのがお判りかと思います。まさかこの10年後の1985年3月14日からは、東京から下関までのブルートレインの先頭に立って、しかもEF65より長い期間にわたって活躍することになろうとは思いもよりませんでした。当時の鉄道模型製作会社の「カツミ模型店」のカタログにもEF66の説明の中で、「貨物用機にはもったいない」という表現がされていました。車体の側面に描かれた白線がブルートレインの客車の帯と同じ高さで施されていることは、後のブルートレイン牽引の運命を暗示していたのかもしれません。

上の画像は1985年頃に大阪の吹田機関区で開催された電気機関車展示イベントで撮られたものだと思います。EF66の試作機であるEF66901の写真になります。この1枚は高校時代の鉄道趣味友人のYさんから以前に頂いた写真になります。東京から伊豆急下田を結んでいた14系客車特急「踊り子」号のヘッドマークが掲げられています。このヘッドマークはEF5861が掲げて同列車を牽引していた写真を何回か見たことがあります。こんなに近くで電気機関車か撮影できるイベントがあったようです。その頃の自分は鉄道趣味から離れていた頃でした。このイベントではEF66901以外にはEF6314やED601、EF58165、EF15168、EF591、EF606、そしてDD161等のそうそうたる機関車たちが一同に集められていたようです。余談になりますが、このEF66901はEF90形の1号機として1968年に川崎重工兵庫工場で当時最強の牽引力を持った電気機関車として落成しました。当時の写真には現役の蒸気機関車と一緒に映っている写真があり印象的でした。今回の私の撮影したEF66(0番台)の記事は以上になります。最後にテーマの国鉄時代とは離れてしまいますが、このEF66がブルートレインを牽引していた時の画像を紹介させていただきます。どれもブルートレインの消滅が話題に上がっていた2001年頃に夜の米原駅でバルブ撮影をした写真になります。運転停車で機関士さんの交代がなされていました。吹田機関区の27号機も定期運用離脱後は本線を走る姿は見られなくなってしまいましたが、現在も京都鉄道博物館には35号機が保存展示されています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1977年頃のEF66が牽くフレートライナーを再現してみました。5両目以降は現在のコキ104を連ねています。当時の雰囲気をお楽しみ頂けたら幸いです。

良き国鉄時代㉝~撮り鉄アラカルト正月版~

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。元日早々に能登半島地震が発生して大変な年明けになってしまいました。輪島市では甚大な被害が出ており、石川県でも被害が広がっているようです。心からお見舞い申し上げます。併せまして一刻も早い復興を祈念しております。さて今年最初の記事はこのブログの定番になっている「良き国鉄時代」のシリーズからです。今回は1975年から1976年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきている「良き国鉄時代」で紹介していなかった写真の紹介になります。おかげさまで自分が撮りためていたプリント写真のデジタル化をずいぶんと進めることができました。話題があちこちと飛んだりしてしまいますが、当時の画像を楽しんでいただけたら幸いです。

上の画像は1975年に長浜駅にて撮影した北陸線の古豪、ED70形交流電気機関車になります。確かこの北陸線上り米原行きの普通列車に乗って、夕刻に敦賀から帰って来た時に長浜で降車して撮影したと記憶しています。この頃は田村までやってくるED70はめっきり少なくなって、運用を離脱しようとしていました。中学3年生の自分はこの機関車を追いかけて撮影していました。現在長浜鉄道スクエアにて1号機が保存されています。鉄道模型でもカツミ製を複数量所有しており、1両は13㎜ゲージに改軌しています。この模型はTMS鉄道模型趣味誌開催のコンペティションにて努力賞を頂いた模型です。

自宅2階の13ミリゲージ簡易レイアウトを走る13ミリゲージのED70牽引普通列車。

上の画像は1975年に田村駅にて撮影したEF70 1000番台交流電気機関車になります。いずれも20系寝台特急「日本海」を糸魚川から牽引して田村に到着しているところです。「日本海」が登場した昭和43年10月から牽引しており、登場時は美しい「日本海」のヘッドマークを掲げて運転されていました。残念ながら1975年当時は省略されていました。

上の画像は1976年に撮影した青森発大阪行きの上り急行「きたぐに」になります。牽引機は同じくEF70 1000番台になります。撮影可能な夏場に自宅近くの踏切から撮影しました。10系客車にスロ62を繋いだ美しい編成でした。以前にも書きましたが、このEF70をはじめ交流機は何時も2エンド側、敦賀側のパンタグラフ1つを上げていました。

上の画像は1975年に亡き父親と東北方面へ旅行に行った時に車窓から撮影したED71形交流電気機関車になります。おそらく黒磯駅近くだと思います。側面フィルターの形状から1次型ですね。鉄道模型でもトラムウェイ製とモア製で所有しています。正面の貫通扉と庇が大変好ましいスタイルを醸し出しています。

上の画像も1975年に亡き父親と旅行に行った時に青森駅で撮影したED75 700番台交流電気機関車になります。現在は大宮の鉄道博物館で保存されています。700番台は屋上機器がすっきりとしていて耐寒設備を持った形式でした。以前、友人から頂いた写真で紹介した奥羽本線の寝台特急「あけぼの」や日本海縦貫線を走った寝台特急「日本海」等も牽引していました。この旅行では同機の牽引する急行「きたぐに」に青森から乗車しました。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車になります。常磐線の普通列車を牽いて上野に到着したところを撮影しました。この機関車が新製配置され始めた頃に国鉄が製作した「ある機関助士」という映画でも登場しています。少し小ぶりな動力台車が印象に残っています。現在は碓氷峠鉄道文化むらで保存展示されています。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

EF80が牽く寝台特急「ゆうづる」。自宅レイアウトにて。

上の画像は1976年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した475系交直両用急行型電車による上り急行「ゆのくに」金沢発大阪行きになります。北陸急行電車用の大きな美しいヘッドマークが車両に良くマッチしていました。「立山」、「くずりゅう」、「兼六」と同形式で運用されていましたが、自分的にはこの「ゆのくに」が好きで大阪から長浜まで乗車したこともありました。鉄道模型では初めて今は亡き祖母に買ってもらっており当時はクモハ+モハ+サロ+サハシ+クハの5両編成を組成して楽しんでいました。モハには縦型モーターにインサイドギアを2組使用した動力で電気を沢山必要としていたのを覚えています。後にエンドウ製のMPギア動力ユニットに換えて、現在は12両編成にして楽しんでいます。

上の画像は1975年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した485系1500番台交直両用特急形電車による大阪発青森行きの特急「白鳥」になります。運転席上の前照灯が2つあるのが特徴で、北海道での使用に先がけて日本海縦貫線で試験運用されていました。トレインマークは字だけの物で張り付けられていたのを覚えています。鉄道模型では特徴的な先頭車を宮沢製で所有しています。他の編成はカツミ製を足して使用しています。

最後の画像になりました。上の画像は小学生だった1972年頃に自宅近くの踏切で撮影した4001D大阪発青森行きディーゼル特急「白鳥」になります。大阪を9時10分に出発して終点青森には日付の替わる寸前の23時50分に到着していました。当時父親の2眼レフカメラで撮った貴重な1枚になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉜~米原界隈の写真第2部~

今年最後の良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年から1980年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきた「良き国鉄時代」で紹介しきれていなかった写真の紹介にもなります。なお一部の画像が以前の記事に使用した画像の再掲になってしまっている事をどうぞお許し願います。今年も残すところあと1日となってしまいました。歳を重ねる度に一年の過ぎる早さに驚きを覚えるようになりました。今年の4月から立ち上げたこのブログにお立ち寄りいただきまして、ありがとうございました。つたないブログですがどうぞ来る2024年もよろしくお願い申し上げます。

上の画像は1980年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影した寝台特急「さくら」になります。牽引機は東京機関区のEF65 1100番台でした。ブルートレインの牽引機がEF65 500 番台からこの機に変わって2年ほどの時期でした。まだ新しさが伝わってきます。

上の画像は1980年に撮影した寝台特急「さくら」の後追い写真になります。冒頭の写真を撮影した時のものです。1980年なのでトレインマークのサインは字だけのものからイラスト入りになっていました。

上の画像は1976年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500時代の「さくら」になります。この2年後には冒頭の65PFに牽引を譲りました。やはり自分が追いかけていたのはこのP形だったような気がしています。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間で撮影した65PF牽引の「さくら」になります。冒頭の写真を撮影する直前のショットだと思います。

自宅レイアウトを快走するEF65P牽引の寝台特急「さくら」号。
EF65PFが牽引する寝台特急「さくら」号。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影した583系寝台特急「金星」になります。トレインマークは写真では色とびしていますが字だけの時代でした。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した同じく寝台特急「金星」です。この写真は珍しく全編成を納めることに成功しています。被写界深度もまあまあ適正でうまく撮れたと思っている1枚です。まだトレインマークは字だけの時代でした。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間のかなり醒ヶ井寄りで撮影した寝台特急「金星」になります。トレインマークはイラスト入りの物に変わっているのが解ると思います。ちょうど警笛を鳴らしているようで、2つのタイフォンカバーが開いています。この写真も全編成が映っていて好きな写真です。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した、EF65PFが牽引する寝台特急「みずほ」になります。釡の前部を狙った1枚で、少しだけ流し撮りになっているようです。この頃、よく流し撮りの練習をしていたものでした。そのほとんどが失敗で、現像とプリント料を無駄にしていたものです。今のデジタルカメラでは撮影してから即確認して削除することができるので大変便利です。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500が牽引する寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「みずほ」のヘッドマークには2種類あったようで、上2枚の写真でその違いがよく解ると思います。バックの色が金色と銀色に緑字の物とライトサンド色と白をベースとした金文字の物になるかと思います。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した65P牽引の寝台特急「みずほ」になります。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65Pが牽引する寝台特急「はやぶさ」になります。この場所でこのフルートレインの撮影は不可能で、おそらく列車が大幅に遅延した日のラッキーな撮影といえます。この日の撮影エピソードについては以前にこのブログで詳しく紹介しています。

上の画像も「はやぶさ」と同様に、列車が大幅に遅延した時にたまたま撮影することができたラッキーな1枚となります。

上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間にて撮影した下り寝台急行「銀河」になります。牽引しているのは大阪鉄道管理局、宮原区所属のEF5892でした。小窓のスタイルが素敵な58でした。

自宅レイアウトを走るEF58の牽く寝台急行「銀河」号。

上の画像は1977年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。機関車の次位に20系寝台客車のナロネ21が繋がっていますが、これは回送されている車両です。この車両の次に電源車のカニ21を先頭とする編成が繋がれていたものと推測されます。機関車次位にマニ60荷物車が繋がれて回送されていく様子もよく見かけていました。

今回の最後の画像となりました。上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。ナハネフ22形寝台客車の展望席には乗客がおられるようです。米原着が6時08分なので、おそらく寝台車の一夜を過ごした乗客が、最後尾の朝の展望を楽しまれておられるのでしょう。以前にも書きましたが、自分もこのナハネフ22から夜の東京の流れゆく夜景を眺めた経験があります。正に心の琴線に触れる素晴らしい眺望でした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

「応挙さんの鉄道ブログ」を見て頂いた皆様、この1年間ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。来年が皆様にとりまして健康で素晴らしい年になりますことをお祈りしております。

良き国鉄時代㉛~米原駅撮りアラカルト~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年から1980年にかけて、自分が米原駅で撮影した写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきた「良き国鉄シリーズ」で紹介しきれていなかった写真をあげていきたいと思います。これまでにアップした画像とかぶることは無いと思います。お楽しみいただけたらと思います。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した、485系交直両用特急形電車7連による特急「加越」になります。これから金沢に向かって発車するところです。トレインマークが漢字だけのシンプルな時代でした。絵入りのマークも素敵ですが、このシンプルなサインが自分は好きでした。鉄道模型ではトミックス製品を13㎜ゲージに改軌したものを7両編成で持っています。4M 3Tのシンプルな軽編成なので模型でも再現しやすいです。米原と金沢を結んでいました。同じ区間で急行「くずりゅう」という列車もありました。特急並みに俊足な列車で475系交直両用急行形電車で運転されていました。

上の画像は米原駅で撮影した485系交直両用特急形電車による特急「北越」になります。大阪と新潟を結んでいたロングラン特急でした。大阪を14時に発車して、終点の新潟には21時27分に到着していました。米原発車は15時22分でした。上りの「北越」は新潟を8時05分に発車して、米原には14時18分に着き、終点大阪には15時40分に到着していました。上りのホームに入線しているので、大阪行きの「北越」を撮影したのだと思います。連結器カバーが無くで、自動連結器が剥き出しになっています。

上の画像は1975年に撮影した20系客車による寝台特急「つるぎ」大阪行きになります。田村からはDE10形ディーゼル機関車に牽かれてきました。おそらく午前3時代に撮影に行ったのだと思います。ホームに三脚を立ててバルブ撮影をしていたようです。このカニ21は綺麗でしたが、日本海縦貫線を走っているので錆びでボディが膨らんでいたのを覚えています。潮風にさらされて錆も浮きやすかったのでしょう。

同じ「つるぎ」を駅員さんに許可を得て、線路近くから撮影していたようです。テールマークは平仮名で「つるぎ」とあのます。そして左に少しだけ映っているのが米原から大阪まで牽引していたEF58形直流電気機関車になります。この頃は58にも美しいヘッドマークが掲げられていました。白地に山が描かれておりつるぎの字も映えていたマークでした。残念ながらその雄姿を撮影した写真がどうしても見つけられませんでした。58は米原区の36号機だったと記憶しています。

上の画像は1976年に撮影した583系特急形電車による特急「しらさぎ」富山行きになります。サインは字だけで「しらさぎ」とあります。当時、博多~名古屋で運転されていた寝台特急「金星」の間合い運用として、しらさぎ2号と3号はこの583系で運転されていました。写真は名古屋から到着して、進行方向を変えて北陸線に入っていく姿を後追いで撮影しています。鉄道模型ではトミックス製で12連所有しています。

上の画像2つは1976年に撮影した米原駅に到着した青森発大阪行きの急行「きたぐに」になります。田村からはDE10が牽引して米原駅に入線しています。入線している右側の先頭寄りにEF58の姿が小さく映っています。ここで機関車を交換して、東海道線を大阪に向かって走っていきました。機関車交換のある駅は自分にとっては大変好きでした。模型でも持っています。

急行「きたぐに」、米原駅での機関車交換を再現。

上の画像は1977年に撮影した、米原駅を通過する東京発の寝台特急になります。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。ちょうど22時50分頃に1番線を通過していました。バルブ撮影していていました。となりのホームには懐かしい80系直流電車の名古屋方面から到着した電車が停まっています。この頃はまだ80系が4連で米原から大垣、名古屋方面の東海道線で活躍していました。

上の画像も同じく1977年に撮影した米原駅を通過する東京発九州方面行きの寝台特急になります。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。「さくら」か「はやぶさ」だと思われます。夜なのでおそらく今は亡き父親に米原まで車で連れて行ってもらったのだと思います。幻想的な写真に憧れていた頃でした。レンズにクロスフィルターをつけてバルブ撮影していました。

上の画像は1980年に撮影した、醒ヶ井方面から米原駅に入線してくるEF58形直流電気機関車になります。小窓でHゴムの58、大阪鉄道管理局、宮原区の電気機関車です。珍しく前部だけを撮影した1枚といえます。米原駅を俯瞰する陸橋から撮影していました。

上の画像は米原駅を俯瞰できる陸橋から1980年に撮影した駅構内の写真になります。現在の米原駅とは違い、広々とした構内でした。懐かしい跨線橋があり、その向こうには荷物を運ぶ「テルハ」がありました。交通都市米原を象徴する1枚です。またEF81形交直両用電気機関車が停まっています。この頃にはこの機関車が米原機関区に居たようです。

最後になりました。上の画像は1980年に米原駅が俯瞰できる陸橋から撮影した博多発名古屋行きの583系寝台特急「金星」になります。米原を5時20分位に通過していたように思います。この頃は絵入りのマークになっていました。米原を通過する3条の光はかっこ良かったものでした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走する581系12連。