良き国鉄時代⑦~食堂車の思い出~

中3の春休みに一人旅で乗車した寝台特急「さくら」号。名古屋駅にて駅員さんに許可を得て撮影。

国鉄時代の優等列車にはグリーン車と並んで食堂車が連結されていました。自分が中学生だったころにはまだ食堂車か利用できる特急列車があったものです。当時地元を走り抜けた大阪発金沢・富山行きの特急「雷鳥」や「白鳥」にも食堂車が繋がれていました。その当時のグリーン車は2両連結されており、大変豪華な編成でした。自分は残念ながら北陸本線を走る特急列車の食堂車は利用したことがありませんでした。自分が食堂車を利用したのは、キシ80形食堂車とブルートレインの14系特急形寝台客車編成のオシ14になります。1976年3月、中学3年生の終わり高校受験が終わって合格が決まった春休みに、お祝いとして親から「乗り鉄一人旅」を許してもらいました。当時の憧れだった寝台特急「さくら」号に乗ることを大きな目的として、京都までは普通電車で行って、京都からはキハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」でひたすら山陰本線を走り抜けていく旅でした。下関には夜に到着して、そこから上り寝台特急「さくら」号に乗っていきました。銀色の交直両用電気機関車EF81 300番台に牽かれてホームに現れた寝台特急「さくら」号。この駅から東京まで牽引するEF65 500番台直流電気機関車に交換です。わくわくしながら列車に乗り込み、カレチ(専務車掌)さんにサインをいただいたりして、ほぼ眠ることのないようなブルトレ乗車を楽しみました。翌朝に名古屋に到着して機関車の撮影をしました。食事は両方の列車ともに食堂車を利用したのを覚えています。食べたメニューは「カレーライス」でした。銀色の分厚いお皿に盛られたカレーライスは車窓の景色を楽しみながら美味しく食べていました。「まつかぜ」では日本海の海岸線を軽快に走っていたので絶景の車窓でしたが、「さくら」は流れゆく夜景を眺めながらの食事でした。夢のような乗り鉄旅をすることができて大満足でした。

京都から下関まで乗車した特急「まつかぜ」。
寝台特急「さくら」号の食堂車オシ14の車内。
一人旅の夕食は食堂車での「カレーライス」。オシ14にて。
キハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」の食堂車キシ80にて。

中学卒業前の一人旅。特急列車乗り継ぎの贅沢な旅は、今になってもよく覚えており大変印象に残った「乗り鉄」となりました。また一人気ままな乗り鉄の旅に出かけてみたいと思う今日この頃です。でも食堂車での食事は残念ながら叶いません。

上の画像は15歳の春休みに行った一人旅の前に、今は亡き父親と一緒に名古屋を経由して白浜から天王寺へと旅行(乗り鉄)に行った際に乗ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」の食堂車の様子になります。この時もやはりカレーライスを食べていたと思います。この頃から食堂車で食べるメニューをこだわって決めていたのでしょうか?もっと他のメニューを食べていたら良かったのにと思います。この旅は名古屋からキハ58系の急行「紀州5号」に乗ったと記憶しています。夜行列車であり、一晩中ディーゼルの音を聞きながら過ごしていました。父も自分もゆっくりと眠ることができず、翌日は降車する駅を寝過ごしてしまった記憶があります。周参見という駅で急行を降り立ちました。乗り過ごしたので幾駅か戻ってから、天王寺行きの特急「くろしお」に乗ったのでしょう。珍道中になりました。天王寺についてからは大阪環状線(まだ103系のオレンジ色編成でした)で弁天町に行って、「交通科学館」に行ったと思います。ただ列車に乗るだけの旅でしたが、何1つ文句を言わずに連れて行ってくれた亡き父親に感謝の思いが湧いてきます。

上の画像は20系寝台特急「日本海」が田村で機関車交換をしている時間に食堂車のナシ20を撮影したものになります。交流電気機関車のEF70 1000番台かここまで牽引してきて、ディーゼル機関車のDE10に機関車の交換をしていた時のものになります。朝の6時少し過ぎですがもう食堂車のスタッフがテーブルを囲んでおられました。朝食のサービスも大阪に到着するまであったのでしょう。まさに良き時代でありました。

アルバムにもう1枚あった食堂車の写真。キシ80でしょうか?当時の食堂車の営業は「日本食堂」でした。

旅で列車に乗ったらご当地の名物駅弁に舌鼓を打つのが現在の定番ですが、自分の指定席を離れて食堂車に向かって、そこで食事をするのは大変贅沢で趣のあるものだったと思います。現在では、一部の豪華特別列車や特別な観光列車でしか経験することが出来なくなってしまい残念に思います。ごく普通に特急列車に乗っていて、普通に食堂車で食事をとることが出来るということが出来なくなってしまいました。鉄道模型では食堂車は今も健在です。485系、583系、475系、153系、20系、24系25形各編成の食堂車を所有しています。そして100系新幹線でも二階建ての食堂車を所有しています。バブル期に東海道を走っていた2階建て新幹線が懐かしいです。100系新幹線のV編成では2階建て車両が4両もあって壮観でした。また自分は見たことがありませんが、急行形電車の165系153系や475系にも「サハシ」という形式の普通客席とビュッフェが合作された食堂車がありました。東海道線を走っていた急行「なにわ」、「ろっこう」等にも使われていて、なんとお寿司屋さんが腕を振るわれていたようです。走る電車のビュッフェで握りたてのお寿司を食べてみたかったものです。なんと贅沢な話でしょうか。まあ、鉄道模型で食堂車を編成に組み込んで走らせながら食堂車全盛期に思いを馳せてみたいと思います。

最近の鉄道模型工作~5インチゲージ~

この週末の 9月17日と18日にクロスランドおやべで開催される「ミニSLフェスタinおやべ」に参加するにあたって、このところ自分の5インチゲージのメンテナンスと改造工作をしていました。かつてこのイベントに参加された方がおられて、アドバイスを頂くこともできたからです。まず、9月といえども暑い中での運転になるので、車両にドリンクホルダーを付けておくとよいとのことでした。さっそく100円ショップに行きましたが、無くて車屋さんに行ってみました。やはりデザイン重視のものばかりでしかも高価でした。最後にホームセンターに行くと、懐かしい感じのドリンクホルダーがあったので、2個購入しました。取り付けは運転席車両のコントローラ横にホルダーを差し込める横穴をドリルで開けました。良い感じでドリンクホルダーを取り付けることができました。

次に考えたのが、同じく運転席車両に財布やスマホといった小物を入れて置ける場所を作ることでした。車両の横にはコンパネを張り付けていて、これに扉を作り「トランク」にすることを思いつきました。運転中ここに自分の貴重品を収納することができます。参加された方によると、一旦スタートしたら600メートルくらいある線路なので、帰って来られないという話から思いついたわけです。コンパネを取り外して、ジグソーで扉を切り出しました。そして上部に蝶番をつけて上方向へ開けられるようにしました。掴み部は市販のノブをつけて完成しました。

汽笛は電子工作用のブザーを電池で鳴らすようにしています。本当はバッテリーで本格的なホーンを取り付けると良いかもしれないです。また尾灯も乾電池で赤い豆球を点灯させるようにしました。前照灯は自転車用のライトに色を付けてそのまま使用しています。

次にイベントでは参加者の「運客」もあるようなので、客車の安全対策の工作を施しました。ボギー台車を履いたしっかりとしたトレーラーなのですが、改造をしていて後部に鉄板が剝き出しになっているところがありました。いろいろ考えて鉄板の上に木材を載せて厚みを出して鉄板を隠す方法にしました。木材の角はもちろんヤスリで削って面取りをしています。取り付けてから艶消し黒で塗装しました。このトレーラーにはトキ15000の上部が付属していましたが、ボディの裾部に尖った部分が沢山あるので今回だけ上部は外して使用することにしました。トレーラーの前部にも鉄板部分があるので、こちらにはゴム製のクッション材をボンドで取り付けました。次に5インチゲージの運転会の動画を見ていて発見したことになりますが、子どもさんが乗車してくれる際に手で掴める棒を前部にだけ設置しようと考えました。ホームセンターの手すりや取っ手を見てみましたが、なかなかそのまま使えそうなものが無く、結局自作することにしました。トレーラーの前部の床部に穴を開けて、掴み棒のパーツを取り付けるようにしました。掴み棒のパーツを5ミリのボルトナットで固定していく方法です。ベース板はカラーベニヤ板の端くれを使い、木材で20㎝の高さにして固定し、その上に昔に取っておいた子ども用のハンガーのパーツを固定して握り部にします。なかなか程よい手触りの握り部になったと思います。掴み棒はドリルで穴を開けて長い木ねじで固定しました。実際に掴んでみると少しぐらつくので、立ち上げた木材の根っこの所にL字金具を使って固定することにしました。これで安心してにぎり棒を掴むことが出来るようになりました。床板の下に出たナットのところも、台車に干渉することなく取り付けることができて良かったです。

そして最後は車両を軽自動車にいかにして積み込むかということです。いろいろ考えた末、助手席のシートを全部倒して前後に積載スペースを作るというものでした。下に長いトレーラーを積んで、その上に機関車と運転席車両を積むことにしました。かなり手荒な積載方法になりますが、後部座席の一つは使うので止むを得ない積み方だと思います。車両が大きくて重いので、自動車のシートを傷めないように車両を置く板を作りました。レイアウトのベースにも使っているOSB材を加工して製作しました。運転席に車両が倒れかかってくることを防ぐために、長い板を2枚貼り合わせて壁になるようにもしました。これで何とか安全に富山県小矢部市まで全部の車両を運搬できると思っています。

準備の段階から私の「ミニSLフェスタinおやべ」はもう始まっているようです。何年か越しの参加承諾で嬉しさがこみ上げてきています。天候の方はどうやら曇りとの予報でほっとしています。おそらく参加される方々の5インチゲージは石炭を焚いて走る本格的なライブスティームの牽く長編成や本格的な新幹線が先頭動力車となった長大編成を持ち込まれると思います。自分の車両は3名くらいしか乗れない小さなバッテリーロコの牽くミニ列車ですが、とにかく「安全第一」で楽しい運転ができるようにしたいと思っています。そして素敵な思い出ができたらと思っています。イベントの様子はまた後日ブログにアップさせていただく予定です。

良き国鉄時代⑥~米原機関区撮影会から~

1985年4月29日、天皇誕生日に米原機関区の特別公開が開催されました。自分は滋賀県の特別支援学校教諭として働きだして北大津養護学校に勤務していた頃になります。自分は当時大津市の堅田に下宿しており、またその頃は鉄道趣味から離れていた時でもあって、この素晴らしいイベントの情報も得ておらず、足を運ぶこともありませんでした。この前年にあたる1984年7月27日には敦賀第二機関区でもEF70形交流電気機関車引退記念と題した一般公開も開催されていたのですが、こちらにも行くことはありませんでした。今思うと大変残念なことをしていたと大後悔しています。これらの一般公開には高校時代の友人が行っていて、後に写真を焼き増ししてくれました。彼は現在埼玉に住んでおり、郵政関係の仕事をしていました。鉄道模型はNゲージをやっていました。もうずいぶんと会っていませんが、この秋にある高校の同窓会で再会できることを楽しみにしているところです。今回は、米原機関区の史上最大最高のイベントについて、友人からいただいた写真を紹介したいと思います。写真の著作権については同窓会にて事後承諾してもらおうと思います。大変優しい友人だったので快諾してくれると思っています。

上の画像は米原機関区所属のEF58形直流電気機関車の96号機になります。当時の米原機関区所属のEF58はどの機関車も大変綺麗に整備されていたと聞いています。自分の以前の職場にスクールバスの運転をされていた知人がおられ、その方のお父様が米原機関区で機関士をされていました。この58をはじめ65なども運転されていて、知人からお父様の現場のお話をよく聞いたものです。この機関車は運転がやり易くて、加速も良かったと聞いたことを思い出しました。その知人とはもう随分会ってはいませんが現在はバス会社で働いているとお聞きしました。この特別公開の機関車にはどれにも素晴らしいヘッドマークが付けられていました。まさに撮影会にはぴったりの演出がなされていました。96号機には東京~長崎を結んだ「さくら」のヘッドマークが掲げられていました。鉄道模型ではカトー製が2両、天賞堂製は試験塗装機を何両か持っていて全部で6両所有しています。また天賞堂製カンタムサウンド搭載の模型も74号機にして持っています。

上の画像はEF58形直流電気機関車の36号機になります。この58は機関車側面の明かり窓が7枚あるのが特徴で大変人気がありました。同様に35号機も7枚窓の仕様でした。このヘッドマークは「かもめ」ですが、反対側には「つるぎ」のヘッドマークが掲げられていました。1975年に新潟発大阪行き寝台特急「つるぎ」(当時は20系寝台客車で米原経由で運転)を早朝の米原駅で撮影したことがあり、その時の牽引機もこの36号機でした。ひさしが大きくて大変好ましいスタイルの58でした。鉄道模型でもこの36号機を天賞堂製で持っています。晩年に廃車されてから、広島県の模型屋さんに実物のカットモデルが展示されていた時がありましたが、現在は無くなってしまっているようです。

上の画像はEF58形直流電気機関車の138号機になります。ヘッドライトは2灯のシールドビームに改造されています。国鉄の末期のころに1灯式のヘッドライトの電気機関車に施された改造になります。ヘッドマークは「彗星」になっています。この特急を大阪駅で撮影した写真を1枚持っています。24系の寝台客車の先頭に立つ姿は大変格好良かったです。

上の画像はこのイベントに合わせて、はるばる東京機関区からやってきたお召し機の61号機になります。反対側は日章旗をはじめ、お召機関車の素晴らしい飾りが施されていました。大変美しいため色の茶色塗装が素晴らしく、実物を見てみたかったものです。現在は埼玉県大宮にある「鉄道博物館」に展示されています。一度は見に行ってみたいと思っています。米原のイベントが終わったその日にまた東京へ帰っていったとのことでした。鉄道模型では天賞堂製で61号機を所有しています。余談になりますが、エンドウ製のお召列車1号編成(5両編成)も持っています。

上の2つの画像はEF65形直流電気機関車1000番台の1010号機になります。1次型の初期製造車でテールライトのの上に通風孔が開いています。ヘッドマークは「北国」と「サロンカーなにわ」が掲げられていました。この「北国」のヘッドマークは珍しいもので、客車急行時代の末期(14系寝台、座席車時代)に実際に掲げられて運転されていました。大阪駅で撮影した写真を持っています。「サロンカーなにわ」の牽引に充てられたことも何回かあったように記憶しています。鉄道模型ではカトー製で5両、天賞堂製で2両持っています。天賞堂製は1両を13ミリゲージに改軌しています。大好きな電気機関車です。

上の画像は左からDE15形ディーゼル機関車除雪車仕様、キ550形ラッセル車、そして前掲のEF65形1000番台になります。DE15は敦賀第一機関区に所属していて、積雪の多い時季に使用されており、敦賀から米原の区間でも除雪にあたっていたと思います。キ550は現在米原公民館前に保存されているキ555だと思います。東海道本線の関ケ原~米原などで除雪に使われていました。鉄道雑誌で関ケ原駅でEF65形直流電気機関車がこのキ555を推進して除雪作業に当たっている写真を見たことがあります。鉄道模型ではDE15は持っておらず、製品化を待っているところです。キ550はモア製で所有しています。

このイベント開催当時、「国鉄の分割民営化」が国会で議論されるようになっていました。このことに反映して国鉄は全国各地で鉄道ファン向けのイベントを頻繁に行っていたと記憶しています。国鉄時代には毎年行われていたストライキや、赤字にも関わらず一向に進まなかった合理化で、国鉄を悪く言う世論があって分割民営化を支持する声に繋がっていったようです。それで分割民営化に反対する国鉄職員たちが主体となって、鉄道ファン向けのイベントを開催していくことで分割民営化反対を支持してもらおうとした動きにもなっていたと推測されます。いつかまた、このような素晴らしいイベントが開催されることに期待しています。

私が撮った電機①~EF81~

これまでに自分が撮影してきた電気機関車は、地元が長浜なので交流電気機関車か交直両用の電気機関車が多くなります。自宅近くの踏切付近に行くと、いつでもこれらの電気機関車を手軽に撮影することができました。やがて国鉄からJRになってからも交直両用電気機関車のEF81の牽く貨物列車を撮影していました。当時はタンク貨車の貨物列車も定期的に走っていたものです。北陸本線の高月駅でもタンク貨物の取り扱いがされていた頃と思われます。コンテナ貨物も今より頻回に走っていたように記憶しています。

上の画像は2013年11月11日に自宅近くの踏切から撮影した北陸本線上りのタンク貨物列車です。牽引するのはEF81の更新車で、車体裾部に白帯を巻いています。のちに700番台に改番されました。732号機になったと思われます。コンテナ貨物が貨物輸送の主流になってきて、このようなタンク貨車だけの貨物列車は珍しくなってきた頃でした。独特の短い間隔の軽快なジョイント音を憶えています。鉄道模型でもこのEF81は2両所有していて、1両は自分で白帯を塗装したものです。もう1両は700番台で共にトミックスの製品になります。コキ50000系のコンテナ列車やタキ、タムといったタンク車を連ねた貨物列車を運転して楽しんでいます。

上の画像は2013年の秋に北陸本線上り貨物列車を新疋田駅で撮影した時のものです。機関車の次位にEH500形交直両用電気機関車を繋いでいて、おそらく九州方面へ回送されていくのだと思います。EH500は動輪が8つもある強力な貨物用の交直両用電気機関車で、ここ北陸本線で見られたのは大変ラッキーでした。この日は新疋田駅上りホームで特急電車やトワイライトエクスプレス等を撮影していたと記憶しています。鉄道ファンの有名な撮影地であり、待合室には新疋田で撮影された列車の写真が沢山飾られていました。また、「撮影のマナー」について丁寧に書かれていたのが大変印象的でした。昨今、撮り鉄のマナーの悪さがよく取り上げられていますが、当時の新疋田駅には撮り鉄の人自身が撮影のマナーについてしっかりと自覚されて注意書きを書かれていたのが素晴らしい事だったと思っています。

上の画像は、2012年1月4日に敦賀に撮影に行った時のものです。大阪から青森、一部函館までを結んで走っていた寝台特急「日本海」になります。登場時は20系寝台客車で編成され、青森から秋田までED75形700番台交流電気機関車、糸魚川までEF81形交直両用電気機関車、田村までEF70形1000番台交流電気機関車、米原までDE10形ディーゼル機関車、そして終点大阪までEF58形直流電気機関車とさまざまな機関車をリレーして運転されていたものでした。この列車が廃止になるというので、何回か敦賀まで行って撮影していたものです。ローズピンクの車体にブルーのヘッドマークが良く似合っていました。下の画像のように寝台特急「日本海」を敦賀運転派出所属のトワイライト専用色が牽引にあたる日もありました。これは京都駅で撮影した札幌行きトワイライトエクスプレスになります。鉄道模型でも、トミックス製と天賞堂製を持っています。客車はカトー製の24系25形で揃えています。実はこの月末に大阪府交野市の私市で行われる「関西合同運転会」にこのトワイライト色のEF81(エンドウ製)と24系客車(カツミ製)7両を持っていこうと思い現在整備しているところです。13ミリゲージの鉄道模型になります。

そして関西ではトワイライトエクスプレスカラーのEF81は大変魅力がありました。牽引するのは、大阪と札幌を結んでいた寝台特急「トワイライトエクスプレス」です。自分も運よく、2001年7月28日に北海道への家族旅行の帰路に1回だけですが乗車することができました。正に夢のような旅で、今もその時撮影したビデオを見ていたりします。息子もまだ4歳くらいの時でした。2人用コンパートメントに乗り、息子と妻は寝台を利用し、自分は床面で寝ていた記憶があります。もっとも自分は寝るというより、横になっていただけですが。朝食だけダイナープレアデスで食べることができました。札幌から敦賀まで乗車しました。

廃止が決まって何回か敦賀まで撮影に足を運びました。上の画像は2015年3月8日に敦賀駅から南に歩いていき、敦賀運転派出の近くで撮りました。大阪からやってくるトワイライトプレスをアウトカーブで撮影しています。深緑のボディに鮮やかなピンクのヘッドマークが映えて綺麗でした。鉄道模型ではトミックス製と天賞堂製そしてエンドウ製のEF81トワイライト色を持っています。客車はトミックス製をフル編成で所有しています。今でも自宅レイアウトを走る花形列車となっています。

そして上の画像は2015年3月14日。トワイライトエクスプレス最終運転日、ラストランの日に敦賀駅で撮影した写真になります。この日はホームからでの撮影ではなく、駅の外に出てホームが見える場所から撮影したのを憶えています。機関士さんに花束が手渡されて、惜別の汽笛を残して北を目指して発車して行きました。長距離を走っていた寝台特急が次々と廃止されていって残念でなりません。現在の豪華寝台列車は富裕層のために走っているように感じ、我々のような庶民には手が届くようには思いません。トワイライトエクスプレスが廃止になってからも、敦賀運転派出には何両か専用機が残されていて、特別列車の「サロンカーなにわ」の牽引に使用されたり、湖西線の架線凍結防止列車として単機で運転されたり、レール積載貨物列車の牽引にも充てられたりしていましたが、とうとう2023年3月10日に最後のEF81トワイライト色が吹田から松任まで自力で廃車回送されてしまいました。

JR西日本最後のEF81がとうとう廃車になりました。北陸本線、武生駅にて撮影。2023.3.10

2023年3月10日。EF81113廃車回送、敦賀駅を発車、惜別の汽笛。

長浜駅を単機で敦賀方面に通過していくEF81。更新の前の写真でまだ白帯がありません。
湖西線にお召列車が走った時に整備されたEF81 121号機。敦賀第二機関区にて。1975年撮影。

名鉄パノラマカーを追って

2006年春頃、当時小学生だった息子と名鉄のパノラマカーに乗るために名古屋に出かけたことがありました。ちょうど名鉄7000系パノラマカーがそろそろ引退してしまうという時期であり、無くなる前に乗っておこうというものでした。自分もパノラマカーのことは知っていましたが、前面展望のできる一番前の車両には乗ったことが無く一度乗ってみたいと思っていました。自分はこれまであまり私鉄には興味がなく、ずっと国鉄ファンでした。滋賀県には近江鉄道という私鉄も走っているのですが、やはり興味は向きませんでした。息子は小学生の頃はプラレールをたくさん集めていました。親子で夢中になって遊んでいた頃が大変懐かしく思い出されます。このプラレール遊びがやがてNゲージの鉄道模型趣味に発展していくことになります。当時の息子にとってこのパノラマカーとの出会いが、「名鉄ファン」になっていった要因といつか話してくれました。

2006年5月4日に撮影した7000系パノラマカー。新可児行き急行。
憧れだったパノラマカーの一番前の座席。素晴らしい展望でした。

2006年のゴールデンウィークに息子共ども念願だった7000系パノラマカーの前席に座ることができました。はじめての前面展望に感激して、名古屋からパノラマカー運用の終点まで行ったり来たりと、ずっと乗り続けていたように思います。全く飽きのこない展望で、素晴らしいシーンが次から次へと目に飛び込んできました。7000系の運転席はご存知展望席の上にありました。駅での運転士の交代時は、運転士さんが梯子を伝って降りてこられ、登っていかれる姿がまたかっこ良かったものです。前面展望が楽しめる一番前の座席の前には、下の画像のような注意書きもありました。ついつい大きな気分になって足を伸ばして置いた方もいたのでしょうか?

運転士さんの交代シーン。さっそうと乗り込まれる姿に見惚れました。
すこし意外に思えた前面展望席の注意書き。

2006年に行ったのを皮切りとして、翌年2007年と翌々年2008年の春休みにも息子と名鉄乗り放題の旅行に出かけていました。毎回使っていたのが「乗り放題切符」でした。他の私鉄でもあると思いますが、1日どこまで乗っても同じ料金のフリー切符になります。何回か行くことで、名鉄のほとんどの路線を乗車することができました。なかなか昼食にありつくことができずに、乗り続ける息子と口論になってしまうこともありました。今では懐かしい思い出になっています。この頃になると息子は電車の音をレコーダーに取りためていくという趣味になっていました。旅を終えると音をCDに焼いてはレーベルを作って楽しんでいたように思います。パノラマカーにスタートした名鉄への思いは膨らんでいったものと思います。今でもそのCDを沢山保存しています。この名鉄パノラマカー、残念ながら2009年に7011Fの運転をもって引退してしまいました。さよなら運転には行くことができませんでした。

そして次に追いかけるようになったのは、パノラマカーの兄弟として活躍していた7700系でした。2009年の夏頃から今度は名鉄名古屋本線の知立に通うことになり、三河線で最後の活躍をしていた7700系を撮影していました。パノラマカーと併結して特急として活躍していた頃もあり、その頃は車体に白帯を巻いていました。「三つ目」の顔立ちがチャーミングな電車でした。

名鉄知立駅にて。7700系2連の猿投行き。

7700系の車内は7000系とほぼ同じレイアウトになっていました。側面の窓の形状も7000系と同じで大きな窓が採用されており、展望が大変良かったです。特急列車に乗っている感が満載でした。知立まで行くと猿投方面、碧南方面へとこの7700系に揺られる電車旅を続けて楽しんでいました。お昼ご飯でお世話になったのが知立駅の立ち食いそばでした。おばあさんが美味しいそばを手を震わせながら出して下さったことを覚えています。おいしいそばを食べさせていただきました。

7700系2連による碧南行き。
7700系にも終焉がやってきました。7700×3の記念列車。阿久比にて。

そしてまた残念な事に、この7700系も2010年3月21日にラストランの日を迎えることになってしまいました。引退を前にして、7700系2連が特別に3編成連結されて記念列車が運転されました。この「7700系3重連イベント 7700×3」の撮影には、自分1人で名古屋に向かいました。この画像は内海まで行って発車を撮影してから電車で追いかけて、阿久比で撮影した画像になります。金山まで運転されて豊明に回送されました。沿線には沢山のファンが撮影に見えていました。この7700系の引退により、7000番台の電車が姿を消すことになりました。名鉄の一時代を代表する車両であったパノラマカー一族が完全に姿を消すことを表すことになってしまいました。

7000系パノラマカーの追いかけにはじまり、7700系の見送りに一旦名鉄撮り鉄の旅は終わりました。この間に撮りためた、あるいは録りためた名鉄の電車の記録は今も大切に自分のレイアウトルームに保存してあります。鉄道模型では、もちろん息子は中学生時代にNゲージで名鉄電車のほとんどの形式を集めて、自宅の2階にコンパネ2枚分のレイアウトを作っていました。また名鉄の部品市では行先表示機やら運転台の機器、1000系と1600系の座席まで購入してしまいました。これは現在のレイアウトルームに置いて使っています。自分もHOゲージで7000系に7700系、7100系、2000系ミュースカイ、1000系パノラマスーパー、6800系、6000系を所有して時々自宅レイアウトで運転を楽しんでいます。

7000系の車内。