良き国鉄時代③

自分は北陸本線の沿線で育ったこともあり、幼いころから近くの踏切で列車を見てきました。やはり好きな車両は国鉄型の優等列車になります。自分が中学生だった1975年から高校生になった1977年くらいにかけて、近所の踏切やま長浜駅、米原駅、そして近江塩津、余呉あたりまで足を延ばしてよく撮影していました。カメラといえば親に買ってもらったアサヒペンタックスSPFでした。135ミリの望遠レンズまで買ってもらっていました。現像とプリントは親戚のカメラ屋(金戸カメラ)さんでした。時に同時プリントと言って、フィルム1本をそのままプリントしてもらっていて、親から「同じような写真ぱかり」と叱責を受けたこともありました。デジタルカメラが主流となった現在では考えにくい事だと思います。撮影した写真は現像するまで見ることができず、フィルムを出して数日後にワクワクしてカメラ屋さんに向かったものでとした。うまく撮れたであろう写真が、被写体が遠くなってしまい小さかったりしてがっかりしたものでした。今では、撮影したら直ぐに画像を見ることが出来てしまいます。デジタル時代の成せる技といえます。

上の写真は1976年に近江塩津で撮影した485系特急「しらさぎ」になります。富山行きだと思います。当時はこの写真のように485系もボンネットタイプの先頭車がほとんどでした。ヘッドマークは字のみで、大変好ましく感じていたものです。堂々たる12両編成で、グリーン車2両に食堂車も繋がれていました。鉄道模型ではトミックス製のものを所有しています。この「しらさぎ」には乗車したことがありませんでしたが、同形式の特急「白鳥」には敦賀から高岡まで家族旅行で乗車したことがあります。車内から天井を見ると、大変大きなクーラーの吹き出し口があったことを覚えています。

上の写真は、同じく近江塩津で撮影した475系急行「ゆのくに」金沢行きになります。この急行列車も当時は堂々たる12両編成で、グリーン車を2両繋いでおり、半室がビュッフェになっている車両、サハシ455も繋がれていました。ヘッドマークが大きくて大変かっこよかったです。同じ急行電車では、急行「立山」と急行「兼六」が運転されていました。自分はこの急行「ゆのくに」が大変気に入っていて、中学生の頃に一人で大阪の阪急百貨店にHOゲージの鉄道模型(カツミ製のカニ24を買いに行きました)を買いに行った帰りに、駅弁を買って15時30分発の急行「ゆのくに」に乗車して、長浜まで帰ったことを覚えています。買った模型を眺めながら、駅弁を食べての旅は至福の時間でした。確か長浜には17時過ぎに着いたと思います。鉄道模型ではトミックス製とカツミ製のものを所有しています。

上の写真は急行「ゆのくに」と同形式475系の急行「くずりゅう」になります。2M1Tの3両が2つ繋がれ6連で運行されていました。米原と金沢を結んでいて、大変俊足の急行電車だったと記憶しています。新幹線と北陸を結んでいた急行で気軽に利用されていたように思います。国鉄末期になってくると普通列車としてもこの6両編成が使われていました。のちに赤色一色に白いラインに塗装変更され、JR西日本になると白色に青いラインが施されるようになり、新北陸色と呼ばれていました。現在は廃車となり、521系が後継車両として活躍しています。

上の写真は1977年に自宅の近くで雪の中撮影した485系特急「加越」になります。485系の300番台が使用されて、米原から金沢を結んでいました。新製車両が大変美しく、字のヘッドマークが大変美しかったです。この特急が誕生する前に、列車の名称を広く一般公募されていました。自分も応募していたと記憶していますが、どんな名称を応募したのか全く覚えていません。「加越」に決まった訳ですが、加は加賀の一字を取り、越は越前の一字を取り、合わせて加越にされたと聞きました。この特急が駆け抜ける県名の古い名称に落ち着いたわけです。鉄道模型ではトミックス製を3編成ほど所有しています。

上の写真は1975年にやはり自宅近くで撮影した485系特急「雷鳥」になります。1975年はまだ湖西線が開通しておらず、大阪発の北陸方面優等列車は米原経由で運転されていました。この「雷鳥」をはじめ「白鳥」、「北越」、「つるぎ」、「日本海」、急行「きたぐに」等も自宅近くで十分に撮影できたわけです。この485系は貫通扉があるタイプ(げんこつ形、あるいは電気釜と呼ばれました)になり。ボネット形に変わって登場した頃の形状です。好きだった581系の特急「しらさぎ」に先頭車の形が似ていて新鮮でした。581系が月光形と呼ばれていたので、自分は赤い月光形と呼んでいました。もちろん鉄道模型でもトミックス製を所有していますが、貫通タイプではなく非貫通タイプの300番台になります。

自分の好きな北陸線の優等列車たちは実車ではもう見ることができません。しかし、鉄道模型では、まだまだ現役の姿をいつでも見ることができます。自宅レイアウトをジョイント音を響かせて走りぬける姿は自分を「あの頃」に誘ってくれ、至福の時間と空間を提供してくれています。さあ、今日はどの列車を運転してみようか。

モノクロ国鉄時代~東さんと山本さんの写真から

私が今は廃校となっている近江八幡の特別支援学校で現職の教師をしていた頃、自分が大の鉄道ファンであることを知っておられて、職場の同僚から鉄道写真を譲り受けたことがありました。その方のお父様が国鉄に勤めておられて、お父様の友人からの沢山の鉄道写真があるとのことでした。喜んで頂くことにすると、その写真は全てモノクロ写真で四つ切サイズの大変迫力のある写真ばかりでした。どこかでしっかりと展示できるといいのですが、とのあえずは私のブログで少しずつ紹介させてもらうことにします。写真を撮られた東さんは、当時鳥取で機関士をされていたらしく、山本さんも加古川で国鉄に勤められていたそうです。国鉄で働きながら、全国各地に出向かれて鉄道の写真を撮りためられたようです。写真の枚数はかなり多く、なかなか全部の写真をブログに上げることは難しいので、自分が特に気に入った写真を紹介させていただこうと思います。どの鉄道写真も大変素晴らしく、時代的にも大変貴重なものです。

上の画像は、有名なシロクニ重連が牽引していた急行「ニセコ」の写真です。あまりにも有名な列車になります。函館本線の山線で冬に撮られたものになります。この函館本線も北海道新幹線開業時には廃線になるようです。雪の中を大型蒸機が重連で走る光景は、さぞやダイナミックで心に響くシーンだったと思います。写真集でしか見たことのない実際の写真を見ることができて感無量の思いです。

上の写真は、なんとC622とEF58の重連による何かの記念列車のようです。「電蒸運転」です。 どこを走っているのかはよく解りませんが、鉄道100年か何かのイベント列車のように思えます。それにしても、あまりにも贅沢な重連運転であり、さぞや沿線はファンのカメラで埋め尽くされたのではないでしょうか。自分も見てみたかった「電蒸運転列車」でした。

上の写真は、おそらく新疋田~敦賀で撮影されたEF70の牽く、臨時特急「日本海5?号」か臨時急行「加賀」だと思われます。パンタの上がり具合から、敦賀へ向かっている下り列車ですね。北陸本線の交流電気機関車は敦賀寄りの2エンドのパンタグラフを上げていました。理由ははっきりとは解りませんが、どうやら作業の統一化、簡素化のようです。普通、交流電気機関車は進行方向の後部のパンタグラフを上げていました。それにしても北陸本線の電気機関車は2エンドばかり使用していたので、集電板が減るのも2エンド側パンタグラフのみということになります。1975年当時、私もよくあちこちで14系客車の臨時列車を撮影していた記憶があります。EF70の赤色と14系座席客車のブルーが大変よく似合っていて、きれいな編成でした。新疋田のループ線は、やはり昔でも撮影の名所だったといえそうです。

この写真は、おそらく福知山線を走るDD54とC57の重連運転の貨物列車です。薄幸のディーゼル機関車といえるDD54も、当時は元気に走っていた頃のようですね。珍しい箱形の機関車で、ヨーロッパの雰囲気がある機関車でした。登場時から、エンジントラブルに見舞われて早く引退しました。でも、寝台特急「出雲」の先頭に立ったこともありました。現在では京都鉄道博物館に33号機が静態保存されています。この写真の機関車は2次型以降の機関車で、ヘッドライトが下にあるタイプになります。自分はヘッドライトが窓の上にある1次型のスタイルが好みです。

上の写真は米原から田村の間のデッドセクションを牽引していたD50型蒸気機関車になりまする米原を発車して坂田までの間で撮影された北陸本線の下り列車ですね。田村からは交流電化されていて、EF70かED70が牽引していました。この区間にはE10型蒸気機関車も活躍していた時期がありました。勾配専用の大型タンク形機関車でした。D50は田村から米原へはタンデーを前にした「バック運転」で運転されていたようです。信号の確認もたいへんやりにくかったと想像されます。

上の写真は中央西線に初めて振り子式電車の381系が入線して試運転をしている時のものです。カーブの多い線区を電車のスピードを落とさずに、車体を傾けながらカーブを走りぬけていく新しい方式が採用されました。これまでの181系ディーゼル特急「しなの」をこの新鋭381系電車に置き換えることでスピードアップが図られたものと思います。

最後になりますが、上の写真は583系特急形寝台電車の特急「しおじ」になります。新大阪から広島・下関の間を昼間に走っていた特急列車でした。14系客車でも運転されていましたが、この583系電車でも運転されていたようです。「しおじ」の文字でのサインが大変かっこよく感じられます。以上、今回は職場同僚から頂いた貴重な写真を何枚か紹介してきました。まだまだ沢山あってとても紹介しきれませんが、これからもたまには手に取って写真を眺めながら国鉄全盛期の当時を偲びたいと思います。またこの場をお借りしまして、元滋賀県立八幡養護学校の同僚に改めてお礼申し上げます。貴重な写真を沢山いただきまして、ありがとうございました。大切に残していきたいと思います。

自分の鉄道趣味黎明期と懐かしのブルトレ撮影

自分が本格的に鉄道写真を撮影し始めた1975年当時は、夜を通して走る「寝台特急」はごく当たり前の事でした。東京や大阪を発着する青い列車、当時ブルートレインと呼ばれて自分のような鉄道ファンの心を鷲掴みにしていました。牽引機はEF65形直流電気機関車やEF58形直流電気機関車でした。この頃に少し先駆けて一大ブームとなっていたのが「SLブーム」になります。御多分にもれず自分も小学生4年生くらいからSLこと蒸気機関車が大好きになり、本を買いあさったり、転写してSLの絵を張り付けられるおまけのついたチューイングガムを買いまくったりしていました。今もその絵を転写した遺物が現在レイアウトを置いている自宅離れのキッチン付近に有ったりします。

ガムのおまけに付いていたSLの転写シール。今も離れのタイルに残っていました。

また親戚がカメラ屋さんだったので、カメラやさんにしか飾られていなかったSLの大型パネルも譲ってもらって部屋に飾っていました。伯備線のD51形蒸気機関車3重連とC62形蒸気機関車の重連牽引、急行「ニセコ」の大型写真でした。少年時代の部屋は正にSLに囲まれていたように記憶しています。

1975年当時カメラ屋さんに飾られていたさくらカラープリントの広告用ポスター。D51版。※一部分破損。
さくらカラープリントの広告用ポスター。こちらはC62版。※一部分破損してます。

SLのプラモデルも結構出ていて、1/50の大きな長い箱に入った物からいわゆるNゲージサイズの1/150の物がありました。自分は「フジミ模型」の出していた1/150のプラモデルを作っていました。8620型、C62、D51、C58を製作したと思います。接着剤を使わずに組み立てるプラモデルでしたが、組み立てが苦手だった自分はセメダインを沢山使ってしまいベタベタのプラモデルしか作れませんでした。現在は当時製作したプラモデルは無くなっていますが、最近になってオークションで自分か作った物よりはるかにきれいなプラモデルを入手してしまいました。しっかりとしたケースに入っていて、鑑賞するには可愛らしい模型でした。見ていると自分の少年時代にタイムスリップする思いです。

フジミ模型から発売されていたSLのプラモデル。Nゲージでした。

さて、ここからはブルートレインの話をしていきます。ブルートレイン撮影は、夏季には東京行きの列車を米原付近でかろうじて撮影することができましたが、大阪では次々と九州方面から到着するブルートレインを昼間に撮影することができました。牽引機はEF58型電気機関車がほとんどで、中には米原機関区の機関車も居ました。またこの頃は機関車の前面に美しいヘッドマークを掲げていて、撮影の被写体としては格好の列車でした。たまにEF65形1000番台の電気機関車も先頭に立って現れることもあり興味深かったです。ちなみに当時の東京発九州方面行のブルートレイン牽引機はEF65 500番台が担当していました。当時の憧れの機関車はこの機関車で、自分が好んで撮影していたものです。その頃は地味に感じていたEF58を撮影していなかったようです。今思うと、もっともっと古豪のEF58を撮影していたら良かったのにと後悔しています。

大阪に到着した寝台特急「彗星」。牽引機はEF58でした。

上の画像のEF58はワイパーカバーがかなり大型で窓は小窓。区名は札がしっかりと読めませんがおそらく「米」の米原機関区の機関車ではないかと思います、機関士さんが身を乗り出しておられますが、停止位置を確認しておられたと思います。「彗星」の美しいヘッドマークが誇らしげな24系のブルートレインでした。もっともっとこの機関車、EF58の写真を撮影しておくべきでした。

大阪に到着した寝台特急「あかつき」。牽引機はEF65 1000番台。

この機関車はEF65の1000番台。22号機なので1000番台の初期製造の機関車、1次型になります。テールライトの上に通風口があるタイプになります。当時は大変珍しい機関車と記憶していて、たまに米原駅を通過していくフレートライナーの先頭に立っていました。のちに1100番台が登場して、東京発着の東海道筋のブルートレインの牽引機となりました。個人的に好きな電気機関車です。

大阪から西に向かう臨時特急「しおじ51号」。牽引機はEF65 1000番台。

同じくEF65 1000が牽引する14系座席車による臨時特急「しおじ」号。新大阪から広島、下関に走っていた昼間の特急列車でした。14系座席車は大変スマートな車両で特急用客車としてデビューしました。自分も乗った経験があるのですが、背中をシートに持たれていないと元に戻ってしまう簡易リクライニングシートが少し不満でした。現在では関東地方のSL大樹号で使用されていて乗ることができます。

寝台急行「銀河」号、運行最終日に大津にて。6時33分着。

上の画像は寝台急行「銀河」を定期運用最終日の2008年3月15日に大津駅進入を撮影したものになります。歴史ある東京と大阪を結ぶ寝台列車であり、この最終運行の模様は前日、つまり東京を発車した時にテレビニュースにも取り上げられていました。自分も東京に行く時に何回か米原駅から乗ったことがありました。プルマン式の寝台車のオロネ24に好んで乗車していました。A寝台であり大変贅沢な旅をしていたものです。現在、京都鉄道博物館に実車が保存されています。引退は大変残念で、最終運行を是非撮影しておこうと、長浜から5時13分発の急行「きたぐに」に乗って大津へ先回りして撮影に臨みました。この急行「きたぐに」もやがて2012年3月17日に運行を終えることになってしまいます。現在寝台特急と呼べる列車は、豪華観光列車を除いて東京~岡山・高松を結ぶサンライズエクスプレス「出雲」、「瀬戸」のみとなってしまいました。この列車も走り始めてかなり長くなってきました。今のうちに是非乗っておきたいと思っています。寝台列車は夜を超えて走る「夢の列車」と言えます。

寝台急行「銀河」の撮影に大津まで乗車した急行「きたぐに」

夏の広島旅日記②完結編

青春18切符での広島旅。最終日はまず呉線に乗ってスタートしました。広島発8時39分の呉線経由三原行きに乗りました。227系電車での軽快な旅は、昨日、艦船巡りや大和ミュージアムを観光した呉も通っていきます。爽やかに晴れた瀬戸内海の綺麗な海を見ながらの乗り鉄は、異国情緒すらも感じました。途中の広まで乗車して乗り換え、広発10時18分の三原行きに乗りました。そして11時54分に三原に到着です。呉線を全線乗ることができて満足しました。そして今日の目的は「津山まなびの鉄道館」に決めていました。先の行程を考えていくとこのまま普通列車に乗っていると終点長浜に今日中に到着することが難しくなっていまうことが判明しました。そこで考えたのが三原から岡山まで新幹線利用で行くことでした。三原で一旦青春18切符の旅を中断して、三原発12時12分発の「こだま848号」700系レールスターに乗って岡山まで行きました。さすがは新幹線、岡山には12時55分に到着しました。正に時間を買ったという感じでした。

岡山からはいよいよ津山線、キハ40系の旅になります。岡山発13時05分の快速「ことぶき」に乗車して、終点の津山を目指しました。独特の迫力あるディーゼル音を堪能しながら、大変久しぶりにキハ40系気動車に乗りました。この前に乗ったのは何時だったかと思うと、北海道へ旅行に行った時でしょうか?あるいは氷見線に高岡から氷見までの往復を乗った時くらいの遠い昔の事になりそうです。今回の「たらこ色」のキハ40系に乗ったのは初めての体験でした。快速列車なので、駅を飛ばしながら軽快に走って行きました。山間の風景も楽しみながら、14時14分に津山に到着しました。

目的地の「津山まなびの鉄道館」は津山駅から歩いて行けました。お出迎えしてくれたのはワクワクする扇形庫の姿でした。京都鉄道博物館の扇形庫も良いですが、こちらも大変素晴らしい扇形庫でした。庫内には特急と急行の気動車、蒸気機関車、ディーゼル機関車が入庫しており迫力あるシーンを見ることができました。気を惹いたのが、キハ181系特急形気動車の特急「やくも」、ディーゼル機関車DE50でした。DE50形ディーゼル機関車は1号機だけ作られた機関車で、形はDE10に似ていますが、キャブ(運転室)がDD51と同じようになっています。鉄道模型にもモアという鉄道模型メーカーから完成品が出ていますが、ずいぶんと前なのでオークションでたまに見かけても、すごい高値で落札されています。キハ181形は大阪や名古屋から長野を結んでいた特急「しなの」にも使われていた気動車になります。確か名古屋にあるリニア鉄道館にも先頭車が保存展示されていると思います。こちらの模型は所有しており、エンドウ製品で9両編成が組めるようにしています。もちろん特急「しなの」のディーゼル特急時代を再現するためです。展示されているどの車両も大変美しく手入れされており、見ごたえのある展示内容だと思いました。ちょうどグルメ祭りも開催されており、「ホルモン焼きうどん」を食べました。お昼抜きで津山までやって来たので大変美味しかったです。建物の中での展示をひと通り見学してゆったりと過ごして、お茶とおにぎりで腹ごしらえをしました。

好きなディーゼル特急「やくも」。

津山からは姫新線で姫路まで行くことにしました。16時27分発の気動車左用行きに乗りました。ローカル線でよく見かける単行のキハ120気動車に揺られて左用まで行き、左用からは顔つきが223系電車に似ているキハ127系気動車で播磨新宮まで行き、そこから姫路行きに乗りれ替えました。ダイナミックに感じるエンジン音を楽しみながら終点の姫路には18時42分に到着しました。姫路では播但線の103系電車が出迎えてくれました。2両編成の電車でカツミ製品を利用すれば模型にもできそうです。色も大変鮮やかな赤色で、可愛らしい電車でした。姫路からは19時11分発の223系電車の「新快速」長浜行きに乗車し、都会の夜景も眺めながら終点までの旅となりました。スピーディーで心地よい乗り心地を十分に楽しんで22時10分に無事に長浜に到着しました。

広島に住んでおられる鉄道模型友人に会う目的で行った久しぶりの「青春18切符」の乗り鉄。持病の腰痛を心配していたのですが、いざ乗り鉄が始まってしまえば、いつも感じる腰の鈍痛もあまり気にならない程でした。鉄道模型に取り組んでいる時も同じような感じです。やはり「好きなもの」に夢中になることが腰痛の改善につながるものと感じました。しかしながら旅を終えてから今度は左股関節が痛み出しました。ブログを書いている現在は大丈夫ですが。今回は鉄道模型友人に会えたこと、原爆ドームに初めて行けたこと、大和ミュージアムと呉の艦艇を見られたことが大きな収穫でした。また改めて「乗り鉄」の面白さを再認識できたように思います。次のシーズンの青春18切符が発売になったなら、まだ行ったことのない遠くの土地へとのんびり列車に揺られながら行ってみたいと思っています。

夏の広島旅日記①

2023年7月28日から鉄道模型友人に会うために、広島まで行ってきました。久しぶりの青春18切符の旅になりました。28日金曜日、長浜発6時11分の新快速でいざ出発、終点の姫路まで行きました。車内は程良い冷房で快適な旅が楽しめました。途中に息子が働いている会社の最寄り駅である西明石と住んでいる所の最寄り駅の東加古川を通過していきます。自分はお気楽な旅をしているのに、会社で懸命に働いている息子に申し訳ない気持ちが湧いてきました。姫路には9時05分について、すぐに9時9分の電車で相生まで行きました。この駅では約1時間の待ち時間があり、コンビニでおにぎりと野菜ジュースを買って遅い朝食を駅でとりました。そして10時29分発の岡山行きに乗りました。岡山までの旅は、懐かしい国鉄時代の115系電車に揺られました。黄色一色のカラーリングではありますが、モーター音やボックス席、重々しいジョイント音を堪能することができました。また、大変のどかな夏の車窓を楽しむことができました。

今も元気に走る115系電車。

やがて電車は岡山に着きました。大変大きな駅で、ちょうど381系特急「やくも」が隣のホームに入ってきました。残念ながら「特急色」ではなかったですが、赤を基調とした綺麗なカラーリングでした。お昼のお弁当を買おうとしたのですが、食べる場所も無く、ましてや電車の中では食べられないだろうと断念し、お茶をたらふく飲んで12時8分のまた115系電車に乗って、福山を目指しました。電車は超満員でしたが、運良くボックス席に座ることができてラッキーでした。またのんびりとした緑一杯の車窓を楽しみながら13時6分に電車は福山に到着しました。

岡山駅では381系特急「やくも」にも会えました。

福山からは広島地区で活躍している新しい電車の227系電車に三原まで乗りました。Red Wingとネーミングされていました。13時12分に発車して三原に13時46分に到着しました。走りは快適で顔つきは225系100番台といったところでした。三原でさらに乗り替えて同じ形式の電車、227系の13時59発で終点の広島を目指しました。途中に勾配の難所である通称「セノハチ」があるので、前面展望をしながら22.6パーミルの急勾配区間の走行を楽しみました。両側に山が迫る中、クネクネとした路線を227系は実に身軽に走り抜けていきました。そして予定通りの15時13分に広島に到着しました。

広島の新しい顔。227系電車。

お昼を食べ損ねていたので、慌てて駅のコンビニに駆け込み、サンドイッチを買って駅の待合室で食べました。「青春18きっぷ」の旅ではゆっくり食事を摂ることが難しく、食糧の確保が大切に感じました。乗り換え時間がたっぷりあれば、駅の売店で買って食べられますが、乗り換え時間がシビアな場合は予め余分のおにぎり等を買っておいて、こっそりと車内で食べるのが良いかもしれません。新幹線や特急電車での旅なら、ご当地の駅弁をゆっくり楽しむ事ができそうですが。広島駅北口で友人は待っていてくれ、無事に再会が果たせました。13ミリゲージの運転会で知り合いになった方で、私の自宅レイアウトに自作されたストラクチャーを寄贈して下さった方になります。まずは2人で旧広島市民球場裏にある子ども文化科学館前に置いてあるC59形蒸気機関車を見に行きました。このC59161号機は呉線で急行「安芸」等の牽引にあたった機関車で、当時は糸崎機関区に所属していました。大きな動輪と長く大きなテンダーが特徴で大変スマートな蒸気機関車です。友人と2人で、この蒸気機関車が牽引する急行「安芸」を何時か13ミリゲージの模型で再現しようと計画しています。

静態保存されているC59161。
かつての京都市電が活躍しています。

いろんな角度から写真を撮って、模型製作の参考にしました。たなみにこの蒸気機関車は京都の鉄道博物館にもC59164号機が保存されています。その後は、私がリクエストしていた原爆ドームと原爆資料館を見学しました。自分は初めての見学で大変勉強になり、平和の尊さを今一度強く再認識することができました。外国人の観光客が大変多く、なおかつ展示物を大変熱心に見ておられたのが印象的でした。原爆ドームは、これまで写真やテレビで何回も見ていましたが、やはり実際に訪れてリアルに感じ取ることが大切と感じました。また広島といえば「路面電車の宝庫」。最新式のグリーンムーバーや大変懐かしい京都市電にも合うことができました。その後は友人が美味しい瀬戸内の魚が楽しめるお店を予約していてくれて、鉄道談義をしつつ美味しい夕食をとりました。また、本場の「広島焼」まで楽しませていただきました。広島焼は鉄板の上でヘラで一口サイズに切って食べるのが流儀と教えてもらいました。この広島焼きを食べたのも人生初の経験でした。焼いた緬にキャベツともやしが絡んで大変美味しかったです。宿も友人が手配してくれました。駅に近くて12階の部屋から広島駅に出入りする列車を見ることができ、正に「トレインビュー」の宿でした。こうして早朝にスタートした広島への旅の1日目は終わっていきました。2日目は友人が宿まで車で迎えに来てくれ、広島駅構内に居た荷物車のマニ50を見てから、呉を案内してくれました。自分がリクエストしていた「大和ミュージアム」を中心にして、潜水艦の展示で有名な「鉄のくじら館」や呉の艦船巡りを楽しませていただくことができました。そして最後は友人の会社を案内してもらいました。そこには自作された数々の鉄道模型と作り込まれたジオラマがあり、じっくりと見せて頂くことができました。大変充実した広島への旅となりました。この場をお借りして、自分の為に時間を作って下さり、歓待して下さった友人にお礼申し上げます。ありがとうございました。

広島に住む鉄道模型友人が製作された飯田線小和田駅のジオラマ。