良き国鉄時代㊱~湖西線での撮影~

今回の「良き国鉄時代」は、自分が1974年から1977年までに撮影した国鉄湖西線での写真を紹介します。すべてアサヒペンタックスSPFで撮影した写真で、55mmの標準レンズと135mmの望遠レンズを使った写真をスキャンしたものになります。色褪せた写真については、画像修正していますのでご了承ください。湖西線は1974年7月20日に東海道線の山科と北陸線の近江塩津を結んだ全線高架の線区です。ほぼ直流区間ですが、開業当時は永原と近江塩津の間にデッドセクションがあり、セクションの北側線区は交流区間でした。開業の時、自分は中学2年生で今は亡き父親と開業した日に早速乗りに行きました。新車の匂いがする113系700番台と懐かしい感じのキハ26系の初乗り鉄を楽しんだ記憶があります。

上の画像は湖西線開業日に、自分たちが初乗車した113系の側面行先表示になります。緑地に近江今津の表示が大変綺麗でした。湖西線の文字のバックは赤色で前面にも使われていました。湖西線の113系は耐寒設備のある車両が新製された700番台が使われていました。開業当時は6両貫通の編成でした。直流区間の終わり、永原が終点になっていました。

上の画像は開業日の近江今津から近江塩津に向かう気動車の前面展望写真になります。線路とバラスト、そして架線柱にトンネルポータルの全てが真新しく大変綺麗でした。近江今津から近江塩津までは敦賀第一機関区のキハ26系2連が使用されていました。急行色カラーの2両編成気動車が、近江今津~近江塩津・敦賀を行ったり来たりして運転されていました。重々しい走りで、ブレーキが掛かるとさらに重たい音がしていたのを覚えています。

上の画像は1976年に撮影した写真です。永原駅を俯瞰する陸橋から撮影したと思われる、475系の急行「立山」大阪発金沢行きになります。この頃の「立山」はビュッフェ1両にグリーン車2両を繋いだ堂々12両編成で運転されていました。後追いの写真になります。鉄道模型では今回のYouTubeで再現していますのでご覧いただければと思います。

上の画像は1977年に撮影した大阪発富山行きの485系特急「雷鳥」になります。ボンネットスタイルで字だけのヘッドマークが美しかったです。永原~近江塩津間で撮影したものと思われます。

上の画像は1976年に撮影した新潟発大阪行きの特急「北越」になります。永原駅を俯瞰するポイントで撮影したものです。右上に木造の建物が見えますが、以前の西浅井町役場でしょうか?その向こうに見える3階建ての建物は、新しく建て替えられた永原小学校のようです。余談ですが、この頃から公立の小中学校が木造校舎から近代的な鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられていた時代でした。

上の画像は、1977年におそらく永原駅近くから撮影した485系特急「北越」になります。はるばる新潟からやってきて、大阪を目指して湖西線を走っていました。この頃はどうやら湖西線の撮影には長浜から割とアクセスし易い場所ということで永原駅付近に出掛けていたのだと思います。

上の画像は、1977年におそらく永原駅近くから撮影した12系臨時急行「加賀」金沢発大阪行きだと思います。敦賀に新製配置されたEF81形交直両用電気機関車が終点の大阪まで牽引して活躍していた頃でした。12系客車と14系客車で運転されていました。

上の画像は1976年に撮影した、富山発大阪行きの特急「雷鳥」になります。このポイントも永原駅の南側、陸橋から撮影したものと思います。

上の画像は1977年に近江塩津~永原間で撮影した臨時急行「加賀」大阪行きかと思います。この「加賀」は14系客車列車12連で運転されていました。牽引するのは敦賀第二機関区のEF81になります。湖西線ならではの高架を行く列車を撮影できるポイントで気軽に撮影に行っていた場所です。写真右端のトンネルを抜けたら近江塩津駅になります。そのあたりに直流から交流に切り替わるデッドセクションがあったようです。逆光なのが残念ですが、全編成を納められている写真で気に入っていました。湖西線の電気機関車牽引列車は寝台特急「日本海」や後に登場した「トワイライトエクスプレス」があり、コンテナ貨物列車もありました。今はEF510がコンテナ貨物に活躍しています。もっと湖西線に通って撮影しておいたら良かったと後悔しています。自宅から遠い場所だったので、当時撮影する機会が少なかったのでしょう。今回は以上になります。

今回、湖西線を取り上げたことで是非紹介させて頂きたいことがあります。2020年の4月に56歳で急逝された鉄道写真家の清水薫さんのことです。湖西線をはじめ滋賀県を中心に風景と鉄道をこよなく愛された素晴らしい写真家でした。滋賀鉄道模型愛好会でも清水薫さんの写真展と運転会をコラボして開催したこともありました。また追悼写真展も長浜鉄道スクエアにて開催させていただきました。清水薫さんの代表的な写真集「琵琶湖を巡る鉄道~湖西線と10路線の四季」、サンライズ出版刊をこの場をお借りしてお勧めしたいと思います。是非、ご覧になって下さればと思います。美しい風景に溶け込んだ列車の写真の数々に心癒されること間違いなしです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉟~さようなら客車列車~

「良き国鉄時代」シリーズ。今回は1985年3月9日土曜日に米原駅にて行われた「さようなら客車列車」のイベント日の特集です。当時、私は大津市の堅田に下宿しており、大津市の特別支援学校に勤めだした頃でした。地元は長浜なので通うにはちょっと距離があり過ぎました。また鉄道趣味熱も下がっていた頃でしたので、このイベントがあることも全く知っておらず、今回の写真は、今は亡き父親が気を利かせて撮ってくれていた写真になります。今思うと是非行っておきたかった記念すべきイベントだったと思っています。この頃には北陸本線の普通列車は米原から敦賀方面へEF81形交直両用電気機関車が牽引していました。田村での機関車のつげ替えも無く、この機関車がスルーで直流から交流区間へ乗り入れて運転していたわけです。このことは高校時代の友人であるYさんからも手紙で知らせてくれていました。客車列車の後は419系近郊形交直両用電車や475系急行形交直両用電車が普通列車として活躍することになりました。この日の青色の旧形客車と荷物車を繋いだ10両編成が最後の客車による普通列車になってしまいました。米原発富山行きだったようです。

牽引機は敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車の101号機でした。この機関車は寝台特急「日本海」のラストランにも大阪から担当していました。列車のラストランに縁があったようです。この日の為に特製のヘッドマークが作られて掲げられました。後の米原機関区一般公開の日にもEF81の1号機に掲げられてもいました。美しいヘッドマークでした。このヘッドマークは自分でも鉄道模型用に写真から自作しています。

ラストラン担当の電気機関車と米原駅の駅員さんとの記念撮影でしょうか。

客車列車の別れを惜しむ鉄道ファンの姿が見えます。この列車は8番ホームからの発車でした。隣の東海道線上りホームにはEF62形直流電気機関車が映っています。下関に配置された山男が東海道の荷物列車の牽引に当たっていた頃でした。

発車が近づいていたのでしょうか?何枚もの前面を撮影した写真がありました。カメラは私のアサヒペンタックスを使っていたのか、父親のカメラを使っていたのか定かではありません。父親も親戚がカメラ屋さんだったので、多少は一眼レフカメラを使って写真を撮っていたのかもしれませんが、おそらく使い易い自分のインスタントカメラで撮っていたのかと思います。

出発前のお別れセレモニーでは米原中学校のブラスバンド演奏もされたそうです。「蛍の光」でも演奏されたのでしょうか?名古屋鉄道管理局のキャンペーンガール3人もお別れに華を添えていたようです。

「名マイ」の表記も懐かしい客車の表示には、手書きで作られたサボが差し込まれていました。「221レさよなら号」と書かれていました。

列車の出発までは客車の車体一杯に「さようなら客車列車」の横断幕が掲げられていたようです。鉄道模型でもこの横断幕を自作しています。客車に取り付けてこの最後の北陸線客車列車を再現していました。実際には見られなかった貴重な列車も鉄道模型なら何時でも再現することができます。

米原を発車して富山までの最後の運用についた旧型客車の後ろ姿になります。最後尾はマニ50形荷物車ですが、その前の3両はマニ44形パレット式荷物車のように思います。あとの編成はオハ46形やオハ35形等の雑多な旧型客車で組成されていて、あくまで推測ですが青色一色の美しい10両編成で運行されたのではないかと思います。

駅名表示にイベントの式次第が貼られていました。花束贈呈に機関士、専務車掌(通称カレチ)、車輛検査長とあります。この日をもって米原客車区もその任務を終えたのでしょう。当時は米原機関区の横には客車列車が何本も並んで留置されていた客車区があり、1976年には66両の客車を受け持っていました。代表的な形式はオハ35とオハフ33になり、マニ60もたくさん居たようです。自分も見ているはずなのですが、いつも機関区ばかりを見ていてあまり印象に残っていません。オヤ31やオエ61といった特殊な検測用の車両も在籍していたようです。客車区もしっかりと撮影しておけば良かったと後悔しています。

当日の駅改札に掲げられていた横断幕。午後1時から午後4時40分までのイベントだったようです。この列車の発車時刻は221列車のダイヤに1978年と大きな変化がなければ、午後4時28分で、終点の富山には午後11時38分に到着していたと思われます。米原を夕刻に発車して日付が変わるちょっと前に富山に着く普通列車。長距離鈍行列車にはすごくロマンを感じます。旧形客車のボックス席で、重たいジョイント音を聞きながらの長い旅。是非体験したかったものですね。この写真を残してくれた亡き父親には大変感謝しています。この写真以外にも同じ1985年3月13日に客車急行「きたぐに」がラストランを迎えており、その日の写真も撮っていてくれました。次の日からは583系電車に替わっています。最後にその写真を紹介して今回の記事を終わります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

長浜駅に入線する客車時代最後の急行「きたぐに」、青森発大阪行き。

14系の座席車と寝台車で編成されていました。郵便車のオユ10も繋がれていました。

最後尾はスハフ14形座席車でした。

1985年3月14日にダイヤ改正がされたようです。

1985.3.9さようなら客車列車を自宅レイアウトで再現してみました。

良き国鉄時代㉞~私が撮ったEF66 0番台~

これまでに自分が撮影してきた電気機関車は、地元が長浜なので交流電気機関車か交直両用の電気機関車が多くなります。自宅近くの踏切付近に行くと、いつでもこれらの電気機関車を手軽に撮影することができました。そんな中、米原方面に撮影に行った時にはまだブルートレイン牽引機になる前で、貨物列車やフレートライナーを牽引していたEF66形0番台の直流電気機関車をたまに撮影していたものでした。独特のデザインでまるでヨーロッパの機関車の様な前面形状で大変魅力的でした。今回は私が撮ったEF66の写真をスキャンしてお届けしたいと思います。鉄道模型でも天賞堂製とトミックス製で何両か所有しています。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した貨物列車を牽くEF66形直流電気機関車になります。10号機のようで広島鉄道管理局、下関運転区所属の機関車になります。冬場、雪の降る中に米原駅に出掛けて撮影していた時の写真です。東海道本線を下って米原は通過していました。どうやら無蓋車トラかトキの回送のようです。前面窓の上にはまだ庇が付いていない頃になります。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した東海道本瀬を上るコンテナ貨物列車、フレートライナーになります。この頃は「流し撮り」に挑戦していた頃で、少しだけ背景が流れて撮れているように思います。54号機で下関運転区の機関車です。1両目には高速ボギー貨車のワキ10000が繋がれていました。あとの車両はブルーに塗られていたコキ10000系だと思われます。この貨車の台車(TR203)は空気バネを使用した独特の形状をしていて高速貨物列車の足まわりの特徴のようなものでした。鉄道模型ではワキ10000は天賞堂製のプラスティック製を、コキ10000はカトー製品を持っています。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF66 13号機牽引の東海道本線上りのフレートライナーになります。この撮影ポイントは早朝に東京へ向かうブルートレインを撮影した場所で、ブルートレインの撮影の合間に撮ったものです。13号機で下関運転区の機関車でした。なお当時、EF66は1号機から55号機までと901号機の全機が広島鉄道管理局、下関運転区に所属していました。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した上りのフレートライナーになります。ワキ10000を2両先頭に繋いでのコンテナ列車、フレートライナーでした。牽引機は53号機(関)でした。この頃は機関士と機関助士が2名で乗務されていました。良き国鉄時代の電気機関車乗務スタイルでした。

上の画像は1975年に米原駅に停車中のコキ50000系フレートライナーを撮影したものになります。冬の日の撮影のようで、ホームにはうっすらと雪が積もっています。コンテナも国鉄時代のC-20形のようで「国鉄」の文字が映っています。また白線の上には「JNR」の赤いシンボルマークが少しだけ映っているのがお判りかと思います。まさかこの10年後の1985年3月14日からは、東京から下関までのブルートレインの先頭に立って、しかもEF65より長い期間にわたって活躍することになろうとは思いもよりませんでした。当時の鉄道模型製作会社の「カツミ模型店」のカタログにもEF66の説明の中で、「貨物用機にはもったいない」という表現がされていました。車体の側面に描かれた白線がブルートレインの客車の帯と同じ高さで施されていることは、後のブルートレイン牽引の運命を暗示していたのかもしれません。

上の画像は1985年頃に大阪の吹田機関区で開催された電気機関車展示イベントで撮られたものだと思います。EF66の試作機であるEF66901の写真になります。この1枚は高校時代の鉄道趣味友人のYさんから以前に頂いた写真になります。東京から伊豆急下田を結んでいた14系客車特急「踊り子」号のヘッドマークが掲げられています。このヘッドマークはEF5861が掲げて同列車を牽引していた写真を何回か見たことがあります。こんなに近くで電気機関車か撮影できるイベントがあったようです。その頃の自分は鉄道趣味から離れていた頃でした。このイベントではEF66901以外にはEF6314やED601、EF58165、EF15168、EF591、EF606、そしてDD161等のそうそうたる機関車たちが一同に集められていたようです。余談になりますが、このEF66901はEF90形の1号機として1968年に川崎重工兵庫工場で当時最強の牽引力を持った電気機関車として落成しました。当時の写真には現役の蒸気機関車と一緒に映っている写真があり印象的でした。今回の私の撮影したEF66(0番台)の記事は以上になります。最後にテーマの国鉄時代とは離れてしまいますが、このEF66がブルートレインを牽引していた時の画像を紹介させていただきます。どれもブルートレインの消滅が話題に上がっていた2001年頃に夜の米原駅でバルブ撮影をした写真になります。運転停車で機関士さんの交代がなされていました。吹田機関区の27号機も定期運用離脱後は本線を走る姿は見られなくなってしまいましたが、現在も京都鉄道博物館には35号機が保存展示されています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

1977年頃のEF66が牽くフレートライナーを再現してみました。5両目以降は現在のコキ104を連ねています。当時の雰囲気をお楽しみ頂けたら幸いです。

良き国鉄時代㉝~撮り鉄アラカルト正月版~

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。元日早々に能登半島地震が発生して大変な年明けになってしまいました。輪島市では甚大な被害が出ており、石川県でも被害が広がっているようです。心からお見舞い申し上げます。併せまして一刻も早い復興を祈念しております。さて今年最初の記事はこのブログの定番になっている「良き国鉄時代」のシリーズからです。今回は1975年から1976年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきている「良き国鉄時代」で紹介していなかった写真の紹介になります。おかげさまで自分が撮りためていたプリント写真のデジタル化をずいぶんと進めることができました。話題があちこちと飛んだりしてしまいますが、当時の画像を楽しんでいただけたら幸いです。

上の画像は1975年に長浜駅にて撮影した北陸線の古豪、ED70形交流電気機関車になります。確かこの北陸線上り米原行きの普通列車に乗って、夕刻に敦賀から帰って来た時に長浜で降車して撮影したと記憶しています。この頃は田村までやってくるED70はめっきり少なくなって、運用を離脱しようとしていました。中学3年生の自分はこの機関車を追いかけて撮影していました。現在長浜鉄道スクエアにて1号機が保存されています。鉄道模型でもカツミ製を複数量所有しており、1両は13㎜ゲージに改軌しています。この模型はTMS鉄道模型趣味誌開催のコンペティションにて努力賞を頂いた模型です。

自宅2階の13ミリゲージ簡易レイアウトを走る13ミリゲージのED70牽引普通列車。

上の画像は1975年に田村駅にて撮影したEF70 1000番台交流電気機関車になります。いずれも20系寝台特急「日本海」を糸魚川から牽引して田村に到着しているところです。「日本海」が登場した昭和43年10月から牽引しており、登場時は美しい「日本海」のヘッドマークを掲げて運転されていました。残念ながら1975年当時は省略されていました。

上の画像は1976年に撮影した青森発大阪行きの上り急行「きたぐに」になります。牽引機は同じくEF70 1000番台になります。撮影可能な夏場に自宅近くの踏切から撮影しました。10系客車にスロ62を繋いだ美しい編成でした。以前にも書きましたが、このEF70をはじめ交流機は何時も2エンド側、敦賀側のパンタグラフ1つを上げていました。

上の画像は1975年に亡き父親と東北方面へ旅行に行った時に車窓から撮影したED71形交流電気機関車になります。おそらく黒磯駅近くだと思います。側面フィルターの形状から1次型ですね。鉄道模型でもトラムウェイ製とモア製で所有しています。正面の貫通扉と庇が大変好ましいスタイルを醸し出しています。

上の画像も1975年に亡き父親と旅行に行った時に青森駅で撮影したED75 700番台交流電気機関車になります。現在は大宮の鉄道博物館で保存されています。700番台は屋上機器がすっきりとしていて耐寒設備を持った形式でした。以前、友人から頂いた写真で紹介した奥羽本線の寝台特急「あけぼの」や日本海縦貫線を走った寝台特急「日本海」等も牽引していました。この旅行では同機の牽引する急行「きたぐに」に青森から乗車しました。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

上の画像は1975年に上野駅で撮影したEF80形交直両用電気機関車になります。常磐線の普通列車を牽いて上野に到着したところを撮影しました。この機関車が新製配置され始めた頃に国鉄が製作した「ある機関助士」という映画でも登場しています。少し小ぶりな動力台車が印象に残っています。現在は碓氷峠鉄道文化むらで保存展示されています。鉄道模型でも天賞堂製を持っています。

EF80が牽く寝台特急「ゆうづる」。自宅レイアウトにて。

上の画像は1976年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した475系交直両用急行型電車による上り急行「ゆのくに」金沢発大阪行きになります。北陸急行電車用の大きな美しいヘッドマークが車両に良くマッチしていました。「立山」、「くずりゅう」、「兼六」と同形式で運用されていましたが、自分的にはこの「ゆのくに」が好きで大阪から長浜まで乗車したこともありました。鉄道模型では初めて今は亡き祖母に買ってもらっており当時はクモハ+モハ+サロ+サハシ+クハの5両編成を組成して楽しんでいました。モハには縦型モーターにインサイドギアを2組使用した動力で電気を沢山必要としていたのを覚えています。後にエンドウ製のMPギア動力ユニットに換えて、現在は12両編成にして楽しんでいます。

上の画像は1975年に自宅近くの国道8号線陸橋から撮影した485系1500番台交直両用特急形電車による大阪発青森行きの特急「白鳥」になります。運転席上の前照灯が2つあるのが特徴で、北海道での使用に先がけて日本海縦貫線で試験運用されていました。トレインマークは字だけの物で張り付けられていたのを覚えています。鉄道模型では特徴的な先頭車を宮沢製で所有しています。他の編成はカツミ製を足して使用しています。

最後の画像になりました。上の画像は小学生だった1972年頃に自宅近くの踏切で撮影した4001D大阪発青森行きディーゼル特急「白鳥」になります。大阪を9時10分に出発して終点青森には日付の替わる寸前の23時50分に到着していました。当時父親の2眼レフカメラで撮った貴重な1枚になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㉜~米原界隈の写真第2部~

今年最後の良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年から1980年にかけて、若き自分がアサヒペンタックスSPFで撮影してきた写真を紹介させていただきます。これまでシリーズとしてお届けしてきた「良き国鉄時代」で紹介しきれていなかった写真の紹介にもなります。なお一部の画像が以前の記事に使用した画像の再掲になってしまっている事をどうぞお許し願います。今年も残すところあと1日となってしまいました。歳を重ねる度に一年の過ぎる早さに驚きを覚えるようになりました。今年の4月から立ち上げたこのブログにお立ち寄りいただきまして、ありがとうございました。つたないブログですがどうぞ来る2024年もよろしくお願い申し上げます。

上の画像は1980年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影した寝台特急「さくら」になります。牽引機は東京機関区のEF65 1100番台でした。ブルートレインの牽引機がEF65 500 番台からこの機に変わって2年ほどの時期でした。まだ新しさが伝わってきます。

上の画像は1980年に撮影した寝台特急「さくら」の後追い写真になります。冒頭の写真を撮影した時のものです。1980年なのでトレインマークのサインは字だけのものからイラスト入りになっていました。

上の画像は1976年の夏に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500時代の「さくら」になります。この2年後には冒頭の65PFに牽引を譲りました。やはり自分が追いかけていたのはこのP形だったような気がしています。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間で撮影した65PF牽引の「さくら」になります。冒頭の写真を撮影する直前のショットだと思います。

自宅レイアウトを快走するEF65P牽引の寝台特急「さくら」号。
EF65PFが牽引する寝台特急「さくら」号。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影した583系寝台特急「金星」になります。トレインマークは写真では色とびしていますが字だけの時代でした。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した同じく寝台特急「金星」です。この写真は珍しく全編成を納めることに成功しています。被写界深度もまあまあ適正でうまく撮れたと思っている1枚です。まだトレインマークは字だけの時代でした。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間のかなり醒ヶ井寄りで撮影した寝台特急「金星」になります。トレインマークはイラスト入りの物に変わっているのが解ると思います。ちょうど警笛を鳴らしているようで、2つのタイフォンカバーが開いています。この写真も全編成が映っていて好きな写真です。

上の画像は1980年に米原~醒ヶ井間の醒ヶ井寄りで撮影した、EF65PFが牽引する寝台特急「みずほ」になります。釡の前部を狙った1枚で、少しだけ流し撮りになっているようです。この頃、よく流し撮りの練習をしていたものでした。そのほとんどが失敗で、現像とプリント料を無駄にしていたものです。今のデジタルカメラでは撮影してから即確認して削除することができるので大変便利です。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65 500が牽引する寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「みずほ」のヘッドマークには2種類あったようで、上2枚の写真でその違いがよく解ると思います。バックの色が金色と銀色に緑字の物とライトサンド色と白をベースとした金文字の物になるかと思います。

上の画像は1977年に米原~醒ヶ井間で撮影した65P牽引の寝台特急「みずほ」になります。

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井間で撮影したEF65Pが牽引する寝台特急「はやぶさ」になります。この場所でこのフルートレインの撮影は不可能で、おそらく列車が大幅に遅延した日のラッキーな撮影といえます。この日の撮影エピソードについては以前にこのブログで詳しく紹介しています。

上の画像も「はやぶさ」と同様に、列車が大幅に遅延した時にたまたま撮影することができたラッキーな1枚となります。

上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間にて撮影した下り寝台急行「銀河」になります。牽引しているのは大阪鉄道管理局、宮原区所属のEF5892でした。小窓のスタイルが素敵な58でした。

自宅レイアウトを走るEF58の牽く寝台急行「銀河」号。

上の画像は1977年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。機関車の次位に20系寝台客車のナロネ21が繋がっていますが、これは回送されている車両です。この車両の次に電源車のカニ21を先頭とする編成が繋がれていたものと推測されます。機関車次位にマニ60荷物車が繋がれて回送されていく様子もよく見かけていました。

今回の最後の画像となりました。上の画像は1980年に醒ヶ井~米原間で撮影した下り寝台急行「銀河」になります。ナハネフ22形寝台客車の展望席には乗客がおられるようです。米原着が6時08分なので、おそらく寝台車の一夜を過ごした乗客が、最後尾の朝の展望を楽しまれておられるのでしょう。以前にも書きましたが、自分もこのナハネフ22から夜の東京の流れゆく夜景を眺めた経験があります。正に心の琴線に触れる素晴らしい眺望でした。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

「応挙さんの鉄道ブログ」を見て頂いた皆様、この1年間ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎えください。来年が皆様にとりまして健康で素晴らしい年になりますことをお祈りしております。