良き国鉄時代㉙~私が撮ったDC普通列車たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル普通列車の特集です。気動車普通列車と言うのが適当なのかもしれません。地元の北陸本線では、前回に特集した気動車急行が全盛期でよく見かけることができました。そして当時は敦賀第一機関区に在籍していたキハ20系気動車による普通列車が運転されていました。たいていは3連で運用されていて、稀に2連での運用も記憶しています。キハ20に混じって、キハ58も使われていた記憶があります。当時の北陸本線の「河毛」と「坂田」は今のような立派な駅ではなくて、車両が2両くらいしか停車できないような短いホームの無人駅でした。双方の駅には客車列車は長すぎて停車できない状況だったわけです。それを補完すべく活躍していたのが気動車による普通旅客列車でした。これらの気動車が「河毛」と「坂田」に停車して、前2両だけでの客扱いをしていました。国鉄が終焉を迎える晩年まで気動車による2つの駅対応が続いていて、その頃になると朱色のキハ48系が使用されていました。余談になりますが、この2連は現在では「花嫁のれん号」に姿を変えて第二の人生を歩んでいます。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したキハ20系気動車3両による普通列車になります。おそらく木ノ本行きかと思われます。敦賀からやってきたこの編成が木ノ本と彦根の間を行ったり来たりして運転されていました。

上の画像は1978年に田村~長浜間で高校時代の鉄道趣味友人が撮影したキハ20系気動車3両編成普通列車になります。おそらく木ノ本行きの気動車でしょう。夏場のようで非冷房の気動車だったので所々窓が開いています。室内は薄緑で煙突部分の大きなでっぱりと、天井の扇風機が思い出されます。写真からはなかなかの乗車率が伺われます。この気動車による普通列車の最後は敦賀へ帰っていったようです。実に面白い運用でした。当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

622D  敦賀発5:22→彦根6:55623D  彦根7:14→木ノ本 8:02
624D  木ノ本8:06→米原8:40625D  米原13:19→木ノ本13:52
626D  木ノ本14:06→米原14:40627D  米原15:25 →木ノ本15:59
628D  木ノ16:07→彦根16:59629D  彦根17:45 →敦賀19:11

※時刻表復刻版 1972年3月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

早朝に敦賀からキハ20系気動車3連が木ノ本にやってきて、米原で長めの昼休みを取り、また木ノ本と米原・彦根を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチックとエンドウ製を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ20系気動車3連。

上の画像は、1974年に湖西線が開通してから近江塩津駅で撮影したキハ26系の気動車になります。この気動車も敦賀第一機関区に在籍していて、湖西線の近江今津と敦賀、近江塩津の間を結んでいました。当時は湖西線のデッドセクションは永原~近江塩津間だったので、近江今津から敦賀方面へはこの気動車を利用するしかなかったわけです。この気動車も近江今津と近江塩津の間を行ったり来たりして最終は敦賀に帰っていった運用でした。この運用も面白く、当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

640D  敦賀発5:52 → 近江今津 6:44641D 近江今津7:16→近江塩津7:42
642D  近江塩津7:47→近江今津 8:14643D  近江今津8:25 →敦賀 9:10
644D  敦賀13:02→近江今津14:02645D  近江今津14:35 →敦賀15:23
646D  敦賀17:03→近江今津18:00647D  近江今津18:22 → 近江塩津18:49
648D  近江塩津19:11 →近江今津 19:37649D  近江今津 20:03 →敦賀20:53

※時刻表復刻版 1978年10月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

やはり早朝に敦賀からキハ26系気動車2連が近江今津にやってきて、敦賀で長めの昼休みを取り、また近江今津と敦賀・近江塩津の間を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチック製品でキハ26系2連を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ26系2連。

地元とは離れますが、上の画像は奈良駅で撮影したキハ35系気動車になります。1974年に撮影したものです。この気動車は小学5年生の頃に亡き父親に連れて行ってもらった草津線の蒸気機関車旅の時に、草津線や関西本線でよく見かけました。キハ20系等とは違って、切妻タイプの都会的な雰囲気が印象的でした。ドアも両開き方式で通勤形を象徴していました。当時時の2色塗装時代になります。鉄道模型では旧製品でエンドウ製を3両程もっています。残念ながら自走できる車両は無く、いずれもトレーラー車ばかりです。

上の画像は1975年におそらく名古屋駅で撮ったものに思います。当時、自分には大変珍しい型の気動車だと思って撮影した記憶があります。キハ45系かと思います。鉄道模型では持っておらず、現在トラムウェイ製品が出ています。登場時の2色塗装時代になります。以上、今回は普通列車として活躍していた気動車をとりあげてみました。中でも北陸線に関わる車両の事を詳しく書かせていただきました。文章が長くて画像が少なくなってしまいましたことをお許しください。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

☆彡ここからは今回のテーマからは外れますが自分の写真ストックから見つかった写真を数枚紹介させていただきます。

上の画像は天王寺と白浜を結んでいた「きのくに」になります。国鉄と南海電気鉄道の相互乗り入れで運転されていたようです。この2枚の写真と下の写真は高校時代の友人から頂いた写真です。

上の画像はキハ08系気動車になります。鋼体化客車から改造された大変珍しい気動車で、異端児とも言われた気動車でした。晩年には今は無き「加悦鉄道」で活躍していました。種車はオハ62形でした。鉄道模型で製作したら実に面白い車両だと思います。

良き国鉄時代㉘~私が撮ったのDC急行たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル急行列車の特集です。気動車急行というのが適当なのかもしれません。昔、駅の表示にも「気動車」という表示があったように思います。自分が中学生から高校生にかけて、地元の沿線や米原駅とその界隈で撮影した写真になります。当時の地元ではキハ20系やキハ58系などが元気に活躍していました。自宅近くの踏切でもこれらの気動車たちを気軽に見ることができた誠に良い時代でした。

上の画像は1975年に地元の北陸本線、虎姫~長浜間で撮影したキハ58系ディーゼル急行「大社」になります。この「大社」は名古屋と出雲市・大社を敦賀経由で結んでいました。名古屋発着の「大社」はここ長浜付近でも撮影ができました。もうひとつの金沢発着「大社」と敦賀で併結して、小浜、宮津、山陰本線経由で運転されていたようです。終点近くの出雲市から大社の間は普通列車として運用されていました。ちなみにこの急行「大社」は名古屋を9時10分に発車して、出雲市には19時51分、終点の大社には19時51分に到着していたようです。ロングランのディーゼル急行だったと言えます。上りの同列車は出雲市発8時20分で米子で金沢行きを併結し、敦賀で分割の後、終点金沢には18時30分、名古屋には18時28分にそれぞれ到着していました。最初は長編成で出発して、途中の駅で分割して行先を変えていくという運行スタイルはなんともロマンに満ちていると感じるのは私だけでしょうか。鉄道模型ではカトー製と天賞堂製で所有しています。天賞堂製はカンタム仕様で、コントローラで色んな音を楽しむ事ができる模型です。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影した上りの急行「越後・ゆのくに3号」になります。急行「ゆのくに」と言えば475系交直両用急行形電車で運転されていたイメージがありますが、当時はこのキハ58系でも運転されていました。当時の時刻表によると「ゆのくに2号、3号」・「越後」は大阪と能登半島の穴水・輪島、珠洲と新潟とを結んでいたようです。各方面に行く列車を併結して堂々の12連で大阪からは運転されていました。6連は大阪~新潟、4連で大阪~穴水、そして2連は大阪~金沢で運転されていたようです。気動車なので各駅での分割併合もやり易かったと思います。ちなみに写真の「越後・ゆのくに3号」は新潟8時25分に出発、13時15分に金沢で珠洲、輪島からの「ゆのくに3号」を繋いで、終点の大阪には17時39分に到着していました。下りの同列車の「越後・ゆのくに2号」は大阪を11時15分に発車して、金沢で輪島・宇出津行きを分割して終点の新潟には20時05分に到着していました。輪島には18時07分、宇出津には18時12分に到着していました。キハ58系気動車の正に「黄金時代」と言えそうです。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影しました。北を目指して走るキハ58系の急行「越後・ゆのくに2号」になります。大阪から金沢までは堂々たる長編成でした。

上の画像も同じく1978年に虎姫~長浜館にて撮影した急行「越後・ゆのくに3号」大阪行きになります。

上の画像は1975年に米原駅を俯瞰して撮影した急行「越後・ゆのくに2号」になります。ホームには今となっては懐かしい駅弁売りの方の姿と車内販売風の女性の姿が見えます。米原発が12時52分なのでまだ販売時間帯だったのでしょうか。当時は駅に着くと「べんとう~べんとう~」という駅弁販売の独特の声がしていたものです。今は全く無くなってしまった情景です。以上が関西県と中部圏と北陸と山陰を結んでいたDC急行になります。

次は大阪と飛騨を結んでいた急行「たかやま」を紹介します。現在はキハ85系を経て最新型のハイブリッド車両HC85系が活躍している特急「ひだ」も当時はキハ58系の気動車4連で運転されていました。米原まで行って撮影していました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した、大阪発8時00分発の高山行き急行「たかやま1号」になります。岐阜から高山本線に入り13時16分に終点の高山に到着とていました。冬に撮影していたようで、前面には雪が付着しておりホームにも雪がうっすらと積もっています。

最後の画像だけは国鉄時代ではなくJRになってからの画像ですのでご容赦願います。1999年くらいに東海道線の近江長岡~柏原間で撮影した晩年の急行「たかやま」になります。1999年12月のダイヤ改正で急行としての運用が終わり、後をキハ85系の「ワイドビューひだ」に姿を変えることになります。晩年には画像のように大変美しい塗装になり、絵入りの大型ヘッドマークを掲げて運転されていました。グリーン車キロ28を挟んで4連のDC急行でした。鉄道模型ではこの特別カラーは持っていません。私の友人はカトー製を塗り替えたものを所有しておられます。今回の特集は以上になります。次回は気動車の普通列車編をお届けしたいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走るキハ58系急行形気動車6連 前2両は天賞堂製カンタムのキハ58+キハ28。後の4両はカトー製になります。

良き国鉄時代㉗~私が撮ったDC特急たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル特急列車の特集です。自分が中学生から高校生にかけて、米原駅をはじめ京都駅に大阪駅、天王寺駅や名古屋駅で撮影した写真になります。中には今は亡き父親に連れて行ったもらった旅行で撮影した大変懐かしい写真もありました。以前に当ブログで紹介していた画像が再掲している場合があろうかと思いますがご容赦願いたいと思います。

上の画像は1974年の夏、自分が中学生の時に亡き父親に連れて行ってもらった紀伊半島一周旅行で撮ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」になります。名古屋からの夜行ディーゼル急行「紀州」に乗り、2人とも寝過ごして新宮で降りなければいけないのに、周参見まで行ってしまいました。それで普通列車で白浜まで行ってからこの特急「くろしお」に乗ったと記憶しています。画像の駅は白浜かと思います。白浜からはひたすらこのディーゼル特急に乗って終点の天王寺まで行きました。途中、キシ80の食堂車で自分の定番だったカレーライスを食べた記憶が残っています。くねくねとした紀勢本線を驀進していくキハ82系を堪能した旅でした。

上の画像は自分たちが乗った特急「くろしお」が終点の天王寺に着いたところで撮影した1枚です。その後の行程は確か当時は大阪環状線の弁天町にあった「交通科学館」に連れて行ってもらったのだと思います。鉄分満載の乗り鉄旅をさせてくれた父親に感謝の思いで一杯です。キハ82系は鉄道模型ではカトー製とカツミ製で所有しています。

上の画像は1975年に名古屋駅で撮影したキハ81使用の特急「くろしお」になります。まだこのブルドックスタイルが健在の頃で、誰かがホームにラジカセを置いてディーゼルの音を録音していたようです。鉄道模型ではカトー製でこの先頭車を持っています。これまでの製品のキハ82系に繋げられるので懐かしい編成を再現することができます。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。新大阪発倉吉行きの特急で、播但線経由で運転されていました。ちなみに「はまかぜ1号」は新大阪を9時25分して終点倉吉には14時17分に到着していました。

上の画像は1975年に撮影した、京都駅に到着したキハ82系ディーゼル特急「あさしお」になります。京都と鳥取を結んでおり、食堂車のキシ80も連結されていた頃になります。全部のドアが開放しているので到着した後だと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したディーゼル特急「まつかぜ」になります。京都と博多を山陰本線経由でロングランもしていた特急です。この「まつかぜ1号」は鳥取を12時46分に発車して山陰線、福知山線経由で大阪に17時04分に到着していました。ホームに灯りがついていて夕方の時間帯になっていたのだと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「かもめ」になります。京都発長崎・佐世保行きのロングランのディーゼル特急でした。京都を7時30分に発車して、佐世保には18時48分、長崎には19時12分に到着していました。この写真はおそらく大阪8時06分発「かもめ」を撮影したのだと思います。ちなみに上りの「かもめ」は長崎10時30分発、佐世保10時50分発で終点京都には何と22時25分に到着していました。なんという長距離を走っていたのでしょうか。長距離といえば大阪・上野発青森行きの特急「白鳥」の登場時は、キハ82系で運転されていました。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの2号」になります。特急「しなの」は上下1本だけ大阪発で長野まで運転されていました。この列車以外の「しなの」は名古屋発でした。この「しなの2号」は大阪を8時30分に発車して、名古屋を経由し終点の長野には14時52分に到着していました。下りの「しなの2号」は長野を12時35分に発車してここ大阪には19時ちょうどに到着していました。キサシ180という食堂車も連結されておりパワフルで豪華なディーゼル特急でした。このディーゼル特急は地元の米原にも停車していて、米原駅でも何回か撮影していました。下の2つの画像は冬の日に米原駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの」になります。

米原駅で雪の日の撮影したこの日の特急「しなの」。発車時のディーゼル音が大変迫力のあるものでした。そして屋根からはモクモクと黒煙が上がっていたのをよく覚えています。その後、中央西線が電化されると振り子電車の381系で運転されるようになりましたキハ181系は、鉄道模型ではエンドウ製で9連を持っています。

上の画像は1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。今回の特集の最後になります。高校時代に鉄道模型友人とこの撮影名所まで行って、1日中撮影を楽しみました。この特急「はまかぜ」はおそらく新大阪発9時25分発の「はまかぜ1号」で、向日町の車両基地から出区して始発駅の新大阪に向かう途中の回送列車を撮影したものと思われます。新大阪発9時25分で播但線を経由し、終点の倉吉には14時17分に到着していました。食堂車は連結されていなかったようです。今回の私が撮ったDC特集、いかがだったでしょうか?今は自宅レイアウトでこれらのDC特急の鉄道模型を走らせることで、当時にタイムスリップすることができます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走するDC特急たち。キハ181系9連はエンドウ製、キハ82系7連はカツミ製、キハ81系8連はカトー製。

良き国鉄時代㉖~米原界隈のDLたち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から1976年にかけて、米原駅と田村駅で撮影したディーゼル機関車たちの特集です。自分が中学生から高校生の頃には米原~坂田間に直流から交流に切り替わる「デッドセクション」がありました。そのために機関車牽引列車は米原から田村の間は、どの列車でもディーゼル機関車が牽引していました。私が知っている時代の前には蒸気機関車のE10やD50、D51がその任務についていました。そして交直両用の試作電気機関車ED30も活躍していた線区でした。バラエティに富んだ機関車たちが米原と田村の間を走っていたようです。そんな時代を撮影して見たかったものですが、鉄道模型では何時でも再現することができるので嬉しいです。ちなみにこの米原田村間で活躍していた機関車は模型で全て所有しています。今回取り上げるのはディーゼル機関車になり、1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたようなディーゼル機関車が在籍していたようです。

 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は1975年に撮影した米原から到着したDD50形ディーゼル機関車牽引の北陸本線の普通列車になります。古豪のDD50は北陸線の柳ケ瀬、山中越えの峠用に開発された国鉄最初の電気式ディーゼル機関車です。当初は茶色塗装でしたが、1964年頃に現在の朱色とグレーの塗装になりました。この頃は最後の活躍をしていたと思います。やがて米原駅構内に全機留置されていました。入線した時の音は大変迫力あるもので、スイスのスルザー社と三菱で開発されたエンジンの音を間近で堪能することができました。

写真を見ると、この日は田村寄りが5号機で米原寄りが6号機の重連でした。この重連でD51形と蒸気機関車と同じパワーらしいです。たまたま撮影できた大変貴重な現役のDD50でした。この機関車狙いでもっともっと撮影に通っておいたら良かったと後悔しています。

上の画像は田村駅に到着後、直ぐに客車を離れて中線へと引き上げていく後ろ姿になります。次にやってくるのが交流機関車のEF70になります。

上の画像は1974年に撮影した、当時この区間の主役だったDE10形ディーゼル機関車になります。米原からやって来た1019号機のようです。米原側が2エンド、田村側は1エンドで運転されていました。全機が米原機関区に所属して、この区間だけで運用されていました。貨物列車を牽引しています。

上の画像は1974年に撮影した大阪行き寝台特急「日本海」を牽引して米原に向かうDE101095です。20系寝台特急で運転されていた「日本海」も、ここ田村で運転停車して機関車の交換をしていました。2エンドが先頭になり、個人的にはこの2エンド側が先頭になる方のが好きな運転スタイルでした。

上の画像は1976年に米原駅近くの踏切から撮影したDE10517牽引の大阪行き急行「きたぐに」になります。青森発大阪行きの寝台車付きの客車急行列車でした。10系客車で編成されていた時代で、米原向きに郵便車+グリーン車+12系客車5両+10系寝台車(オロネ10含む)5両で運転されていました。今回の模型動画で再現しています。

上の画像は1976年に撮影したDE101727牽引の同じく急行「きたぐに」になります。米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影しています。「きたぐに」の米原到着時刻は6時23分でしたので、この日は米原駅で朝撮りしていたのでしょう。

上の画像は1974年に撮影したDE10518牽引の貨物列車になります。コキフ50000が見えるので、北陸本線から東海道本線に入っていく「フレートライナー」だと思います。この50000系のフレートライナーは当時よく見かけるようになっていました。EF70が牽引しているのを幾度か撮影していました。米原からはおそらくEF65形直流電気機関車が牽引していったのでしょう。

上の画像は1975年の雪の日に撮影した米原発北陸方面行きの普通列車になります。牽引しているのはDE101727号機になります。この1000番台には製造当初からSG(蒸気暖房装置)を備えていたので、真冬の客車も暖かかったと思います。ちなみに0番台や500番台にはこの蒸気暖房装置は搭載されていませんでした。なお先に紹介したDD50形ディーゼル機関車にもこのSGは無くて、たとえ米原から田村間といえども冬場の乗客は寒い思いをされていたのだろうと思います。田村からは暖房車が連結されたり、SG付きの交流電気機関車なので蒸気暖房が効いていました。

上の画像は寝台特急「日本海」の最後部に、珍しく切妻タイプのナハネフ23が使われていた日になります。DE10は米原からの仕業を終えて中線に転線した時の写真です。そして米原側へと中線を移動し、また米原に向けての仕業に着くことになります。

上の画像は1974年、米原駅に到着寸前に自分が客車から身を乗り出して撮影した1枚です。牽引しているDE10もしっかりと映っています。普通列車米原行きに長浜から乗車していたのでしょう。旧型客車のオハフ33の重く大きなジョイント音が聞こえてきそうな写真です。長浜から米原に行くだけで途中機関車の交換が楽しめた良き時代でした。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。今回も最後までお読み頂きましてありがどうございました。

急行「きたぐに」青森行き、米原での機関車交換風景。機関車はカトー製、客車はトミックス製とカトー製。

自宅レイアウトで離合するDE10牽引の急行「きたぐに」とDD50牽引の貨物列車。DE10はカトー製、客車はトミックス製の10系とカトー製の12系。グリーン車と郵便車は天賞堂製。DD50はカツミ製。貨車はエンドウ製やカトー製にホビーモデルのキット組み等。

良き国鉄時代㉕~米原機関区の65F~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に米原機関区と米原駅で撮影したEF65形500番台(65F)直流電気機関車の特集です。ちょうど自分が中学3年生の時に撮影した写真になります。小学生までは自宅近所の踏切で見ていた電気機関車は交流電気機関車で車体は赤色でした。米原まで活動範囲が広がった時に見た青や黒の電気機関車には驚いたものです。当時電気機関車は「赤いもの」と思い込んでいたようでした。米原は直流区間になり、電気機関車の色は「青」が主体で、「黒」もありました。EF58形直流電気機関車にEF60形直流電気機関車、EF65形直流電気機関車にマンモス電機のEH10形貨物用直流電気機関車といったところになります。ディーゼル機関車はDE10形液体式ディーゼル機関車と、まだDD50形電気式ディーゼル機関車も居た頃になります。1974年に湖西線が開通してからは敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車が活躍を始め出すとこの米原機関区でもEF81を見られるようになりました。やがてこの米原機関区は1986年10月には廃止されてしまうことになります。

上の画像は1975年に撮影したEF65形直流電気機関車500番台になります。排障器(スカート)の上部に、いかつい機器箱がありジャンパ栓もたくさんあります。連結器は後のEF66形直流電気機関車にも見られたように、自動連結器と密着連結器が併用できるものになっています。窓の上部には庇があってなかなか格好の良い顔をしている電気機関車です。この500番台は貨物用として登場した機関車で登場時は下関と東京、築地を結んでいた鮮魚特急貨物列車に重連で使用されていました。自分は見たことは無かったですが、年配の友人によると凄い迫力で駅を通過していたようです。1975年にはこの電気機関車が米原機関区に集中して配置されていました。米原機関区にずらりと並んだEF65の特急色を目当てに、よく撮影に行っていたものです。その風景はブルートレイン牽引機の基地だった「東京機関区」を彷彿とさせるものでした。

1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたような機関車が在籍していました。

 電気機関車
ED301 ※休車
EF5836   74   77   78   80   103   111   112   113   118  
EF60  28   75   77   80   86   96   97   98   99   107  108   109   115   119   120   121   125   
EF653   4   518   519   520   521   522   523   524   525   526   532   533   534
 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は夜の米原駅に佇むEF65 500。まるで今にも寝台特急の牽引に就きそうな雰囲気の写真です。後ろには荷物車のマニ60が映っています。米原機関区があった頃には米原客車区もありました。旧型客車が沢山在籍していて、北陸本線で活躍していました。記号は「名マイ」でした。

上の画像はEF65 500を真横から撮影したものです。鉄道模型を製作するのに大変参考になる写真かと思います。横にある2本の白帯はこのEF65 500の特徴となる塗装で、下の太い帯は12系、14系、24系の客車側面にある白帯と高さと太さがマッチしていました。電気機関車と客車の帯が揃うことで、独特の美しい編成美を見せてくれていました。ちなみに上の方の白帯は20系客車の上部白帯とうまく合わせられていました。今思うと「素晴らしい」の一言につきる一体感ある飾りの塗装で編成美を奏でていました。

米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影した東海道線の下り貨物列車。 EF65 526が牽引しています。機関車の窓上の庇はトンネルの氷柱切りとして付けられたものです。庇の上部は青色の車体色で塗られていて、下側となる窓側はクリーム色で塗装されていました。鉄道模型ではこのEF65 500F は、天賞堂製で持っています。大阪の中古模型店で買いました。大変気に入っている電気機関車のひとつです。車扱いの貨物列車を牽かせて楽しんでいます。以上がEF65 500F の特集になります。米原機関区にはこの65以外にも58や60等も在籍していました。またディーゼル機関車もDE10やDD50が在籍していました。下の画像はこの年には休車になってしまっていたDD50重連の写真になります。

6両の全車が最後はここ米原で最後を迎えました。米原駅の南側の端に留置されていたものです。写真は1次型で顔が独特でした。「海坊主」の愛称が付いていたようです。北陸線の峠越え用として初めて新製されて敦賀機関区に配置された電気式ディーゼル機関車の古豪。昔の山中越えや柳ケ瀬越えで活躍している動画をよく見ています。登場時は茶色一色で銀色の帯を巻いていましたが、晩年はオレンジ色と灰色のディーゼル機関車の塗装に変更されています。鉄道模型ではカツミ製で茶色と2色塗装の2種類を所有しています。大好きなディーゼル機関車で、1両くらいは是非静態保存してもらいたかった機関車だと思います。また今後このDD50の写真をアップして紹介させていただきたいと思っています。2両を連結して重連で使用されており、重連でD51形蒸気機関車1両分のパワーを持っていたようでした。1次型と2次型が重連になっていた姿も多く見られました。以上、今回は米原機関区にスポットを当てて、EF65 500 Fを特集してみました。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

16番ゲージの自宅レイアウトを快走するEF65526牽引の貨物列車とEF60牽引の貨物列車。電気機関車は共に天賞堂で重連の2両目はカトー製になります。