良き国鉄時代㉗~私が撮ったDC特急たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル特急列車の特集です。自分が中学生から高校生にかけて、米原駅をはじめ京都駅に大阪駅、天王寺駅や名古屋駅で撮影した写真になります。中には今は亡き父親に連れて行ったもらった旅行で撮影した大変懐かしい写真もありました。以前に当ブログで紹介していた画像が再掲している場合があろうかと思いますがご容赦願いたいと思います。

上の画像は1974年の夏、自分が中学生の時に亡き父親に連れて行ってもらった紀伊半島一周旅行で撮ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」になります。名古屋からの夜行ディーゼル急行「紀州」に乗り、2人とも寝過ごして新宮で降りなければいけないのに、周参見まで行ってしまいました。それで普通列車で白浜まで行ってからこの特急「くろしお」に乗ったと記憶しています。画像の駅は白浜かと思います。白浜からはひたすらこのディーゼル特急に乗って終点の天王寺まで行きました。途中、キシ80の食堂車で自分の定番だったカレーライスを食べた記憶が残っています。くねくねとした紀勢本線を驀進していくキハ82系を堪能した旅でした。

上の画像は自分たちが乗った特急「くろしお」が終点の天王寺に着いたところで撮影した1枚です。その後の行程は確か当時は大阪環状線の弁天町にあった「交通科学館」に連れて行ってもらったのだと思います。鉄分満載の乗り鉄旅をさせてくれた父親に感謝の思いで一杯です。キハ82系は鉄道模型ではカトー製とカツミ製で所有しています。

上の画像は1975年に名古屋駅で撮影したキハ81使用の特急「くろしお」になります。まだこのブルドックスタイルが健在の頃で、誰かがホームにラジカセを置いてディーゼルの音を録音していたようです。鉄道模型ではカトー製でこの先頭車を持っています。これまでの製品のキハ82系に繋げられるので懐かしい編成を再現することができます。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。新大阪発倉吉行きの特急で、播但線経由で運転されていました。ちなみに「はまかぜ1号」は新大阪を9時25分して終点倉吉には14時17分に到着していました。

上の画像は1975年に撮影した、京都駅に到着したキハ82系ディーゼル特急「あさしお」になります。京都と鳥取を結んでおり、食堂車のキシ80も連結されていた頃になります。全部のドアが開放しているので到着した後だと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したディーゼル特急「まつかぜ」になります。京都と博多を山陰本線経由でロングランもしていた特急です。この「まつかぜ1号」は鳥取を12時46分に発車して山陰線、福知山線経由で大阪に17時04分に到着していました。ホームに灯りがついていて夕方の時間帯になっていたのだと思います。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ82系ディーゼル特急「かもめ」になります。京都発長崎・佐世保行きのロングランのディーゼル特急でした。京都を7時30分に発車して、佐世保には18時48分、長崎には19時12分に到着していました。この写真はおそらく大阪8時06分発「かもめ」を撮影したのだと思います。ちなみに上りの「かもめ」は長崎10時30分発、佐世保10時50分発で終点京都には何と22時25分に到着していました。なんという長距離を走っていたのでしょうか。長距離といえば大阪・上野発青森行きの特急「白鳥」の登場時は、キハ82系で運転されていました。

上の画像は1975年に大阪駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの2号」になります。特急「しなの」は上下1本だけ大阪発で長野まで運転されていました。この列車以外の「しなの」は名古屋発でした。この「しなの2号」は大阪を8時30分に発車して、名古屋を経由し終点の長野には14時52分に到着していました。下りの「しなの2号」は長野を12時35分に発車してここ大阪には19時ちょうどに到着していました。キサシ180という食堂車も連結されておりパワフルで豪華なディーゼル特急でした。このディーゼル特急は地元の米原にも停車していて、米原駅でも何回か撮影していました。下の2つの画像は冬の日に米原駅で撮影したキハ181系ディーゼル特急「しなの」になります。

米原駅で雪の日の撮影したこの日の特急「しなの」。発車時のディーゼル音が大変迫力のあるものでした。そして屋根からはモクモクと黒煙が上がっていたのをよく覚えています。その後、中央西線が電化されると振り子電車の381系で運転されるようになりましたキハ181系は、鉄道模型ではエンドウ製で9連を持っています。

上の画像は1976年に東海道本線の山崎付近で撮影したキハ82系ディーゼル特急「はまかぜ」になります。今回の特集の最後になります。高校時代に鉄道模型友人とこの撮影名所まで行って、1日中撮影を楽しみました。この特急「はまかぜ」はおそらく新大阪発9時25分発の「はまかぜ1号」で、向日町の車両基地から出区して始発駅の新大阪に向かう途中の回送列車を撮影したものと思われます。新大阪発9時25分で播但線を経由し、終点の倉吉には14時17分に到着していました。食堂車は連結されていなかったようです。今回の私が撮ったDC特集、いかがだったでしょうか?今は自宅レイアウトでこれらのDC特急の鉄道模型を走らせることで、当時にタイムスリップすることができます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走するDC特急たち。キハ181系9連はエンドウ製、キハ82系7連はカツミ製、キハ81系8連はカトー製。

良き国鉄時代㉖~米原界隈のDLたち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から1976年にかけて、米原駅と田村駅で撮影したディーゼル機関車たちの特集です。自分が中学生から高校生の頃には米原~坂田間に直流から交流に切り替わる「デッドセクション」がありました。そのために機関車牽引列車は米原から田村の間は、どの列車でもディーゼル機関車が牽引していました。私が知っている時代の前には蒸気機関車のE10やD50、D51がその任務についていました。そして交直両用の試作電気機関車ED30も活躍していた線区でした。バラエティに富んだ機関車たちが米原と田村の間を走っていたようです。そんな時代を撮影して見たかったものですが、鉄道模型では何時でも再現することができるので嬉しいです。ちなみにこの米原田村間で活躍していた機関車は模型で全て所有しています。今回取り上げるのはディーゼル機関車になり、1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたようなディーゼル機関車が在籍していたようです。

 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は1975年に撮影した米原から到着したDD50形ディーゼル機関車牽引の北陸本線の普通列車になります。古豪のDD50は北陸線の柳ケ瀬、山中越えの峠用に開発された国鉄最初の電気式ディーゼル機関車です。当初は茶色塗装でしたが、1964年頃に現在の朱色とグレーの塗装になりました。この頃は最後の活躍をしていたと思います。やがて米原駅構内に全機留置されていました。入線した時の音は大変迫力あるもので、スイスのスルザー社と三菱で開発されたエンジンの音を間近で堪能することができました。

写真を見ると、この日は田村寄りが5号機で米原寄りが6号機の重連でした。この重連でD51形と蒸気機関車と同じパワーらしいです。たまたま撮影できた大変貴重な現役のDD50でした。この機関車狙いでもっともっと撮影に通っておいたら良かったと後悔しています。

上の画像は田村駅に到着後、直ぐに客車を離れて中線へと引き上げていく後ろ姿になります。次にやってくるのが交流機関車のEF70になります。

上の画像は1974年に撮影した、当時この区間の主役だったDE10形ディーゼル機関車になります。米原からやって来た1019号機のようです。米原側が2エンド、田村側は1エンドで運転されていました。全機が米原機関区に所属して、この区間だけで運用されていました。貨物列車を牽引しています。

上の画像は1974年に撮影した大阪行き寝台特急「日本海」を牽引して米原に向かうDE101095です。20系寝台特急で運転されていた「日本海」も、ここ田村で運転停車して機関車の交換をしていました。2エンドが先頭になり、個人的にはこの2エンド側が先頭になる方のが好きな運転スタイルでした。

上の画像は1976年に米原駅近くの踏切から撮影したDE10517牽引の大阪行き急行「きたぐに」になります。青森発大阪行きの寝台車付きの客車急行列車でした。10系客車で編成されていた時代で、米原向きに郵便車+グリーン車+12系客車5両+10系寝台車(オロネ10含む)5両で運転されていました。今回の模型動画で再現しています。

上の画像は1976年に撮影したDE101727牽引の同じく急行「きたぐに」になります。米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影しています。「きたぐに」の米原到着時刻は6時23分でしたので、この日は米原駅で朝撮りしていたのでしょう。

上の画像は1974年に撮影したDE10518牽引の貨物列車になります。コキフ50000が見えるので、北陸本線から東海道本線に入っていく「フレートライナー」だと思います。この50000系のフレートライナーは当時よく見かけるようになっていました。EF70が牽引しているのを幾度か撮影していました。米原からはおそらくEF65形直流電気機関車が牽引していったのでしょう。

上の画像は1975年の雪の日に撮影した米原発北陸方面行きの普通列車になります。牽引しているのはDE101727号機になります。この1000番台には製造当初からSG(蒸気暖房装置)を備えていたので、真冬の客車も暖かかったと思います。ちなみに0番台や500番台にはこの蒸気暖房装置は搭載されていませんでした。なお先に紹介したDD50形ディーゼル機関車にもこのSGは無くて、たとえ米原から田村間といえども冬場の乗客は寒い思いをされていたのだろうと思います。田村からは暖房車が連結されたり、SG付きの交流電気機関車なので蒸気暖房が効いていました。

上の画像は寝台特急「日本海」の最後部に、珍しく切妻タイプのナハネフ23が使われていた日になります。DE10は米原からの仕業を終えて中線に転線した時の写真です。そして米原側へと中線を移動し、また米原に向けての仕業に着くことになります。

上の画像は1974年、米原駅に到着寸前に自分が客車から身を乗り出して撮影した1枚です。牽引しているDE10もしっかりと映っています。普通列車米原行きに長浜から乗車していたのでしょう。旧型客車のオハフ33の重く大きなジョイント音が聞こえてきそうな写真です。長浜から米原に行くだけで途中機関車の交換が楽しめた良き時代でした。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。今回も最後までお読み頂きましてありがどうございました。

急行「きたぐに」青森行き、米原での機関車交換風景。機関車はカトー製、客車はトミックス製とカトー製。

自宅レイアウトで離合するDE10牽引の急行「きたぐに」とDD50牽引の貨物列車。DE10はカトー製、客車はトミックス製の10系とカトー製の12系。グリーン車と郵便車は天賞堂製。DD50はカツミ製。貨車はエンドウ製やカトー製にホビーモデルのキット組み等。

良き国鉄時代㉕~米原機関区の65F~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に米原機関区と米原駅で撮影したEF65形500番台(65F)直流電気機関車の特集です。ちょうど自分が中学3年生の時に撮影した写真になります。小学生までは自宅近所の踏切で見ていた電気機関車は交流電気機関車で車体は赤色でした。米原まで活動範囲が広がった時に見た青や黒の電気機関車には驚いたものです。当時電気機関車は「赤いもの」と思い込んでいたようでした。米原は直流区間になり、電気機関車の色は「青」が主体で、「黒」もありました。EF58形直流電気機関車にEF60形直流電気機関車、EF65形直流電気機関車にマンモス電機のEH10形貨物用直流電気機関車といったところになります。ディーゼル機関車はDE10形液体式ディーゼル機関車と、まだDD50形電気式ディーゼル機関車も居た頃になります。1974年に湖西線が開通してからは敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車が活躍を始め出すとこの米原機関区でもEF81を見られるようになりました。やがてこの米原機関区は1986年10月には廃止されてしまうことになります。

上の画像は1975年に撮影したEF65形直流電気機関車500番台になります。排障器(スカート)の上部に、いかつい機器箱がありジャンパ栓もたくさんあります。連結器は後のEF66形直流電気機関車にも見られたように、自動連結器と密着連結器が併用できるものになっています。窓の上部には庇があってなかなか格好の良い顔をしている電気機関車です。この500番台は貨物用として登場した機関車で登場時は下関と東京、築地を結んでいた鮮魚特急貨物列車に重連で使用されていました。自分は見たことは無かったですが、年配の友人によると凄い迫力で駅を通過していたようです。1975年にはこの電気機関車が米原機関区に集中して配置されていました。米原機関区にずらりと並んだEF65の特急色を目当てに、よく撮影に行っていたものです。その風景はブルートレイン牽引機の基地だった「東京機関区」を彷彿とさせるものでした。

1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたような機関車が在籍していました。

 電気機関車
ED301 ※休車
EF5836   74   77   78   80   103   111   112   113   118  
EF60  28   75   77   80   86   96   97   98   99   107  108   109   115   119   120   121   125   
EF653   4   518   519   520   521   522   523   524   525   526   532   533   534
 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は夜の米原駅に佇むEF65 500。まるで今にも寝台特急の牽引に就きそうな雰囲気の写真です。後ろには荷物車のマニ60が映っています。米原機関区があった頃には米原客車区もありました。旧型客車が沢山在籍していて、北陸本線で活躍していました。記号は「名マイ」でした。

上の画像はEF65 500を真横から撮影したものです。鉄道模型を製作するのに大変参考になる写真かと思います。横にある2本の白帯はこのEF65 500の特徴となる塗装で、下の太い帯は12系、14系、24系の客車側面にある白帯と高さと太さがマッチしていました。電気機関車と客車の帯が揃うことで、独特の美しい編成美を見せてくれていました。ちなみに上の方の白帯は20系客車の上部白帯とうまく合わせられていました。今思うと「素晴らしい」の一言につきる一体感ある飾りの塗装で編成美を奏でていました。

米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影した東海道線の下り貨物列車。 EF65 526が牽引しています。機関車の窓上の庇はトンネルの氷柱切りとして付けられたものです。庇の上部は青色の車体色で塗られていて、下側となる窓側はクリーム色で塗装されていました。鉄道模型ではこのEF65 500F は、天賞堂製で持っています。大阪の中古模型店で買いました。大変気に入っている電気機関車のひとつです。車扱いの貨物列車を牽かせて楽しんでいます。以上がEF65 500F の特集になります。米原機関区にはこの65以外にも58や60等も在籍していました。またディーゼル機関車もDE10やDD50が在籍していました。下の画像はこの年には休車になってしまっていたDD50重連の写真になります。

6両の全車が最後はここ米原で最後を迎えました。米原駅の南側の端に留置されていたものです。写真は1次型で顔が独特でした。「海坊主」の愛称が付いていたようです。北陸線の峠越え用として初めて新製されて敦賀機関区に配置された電気式ディーゼル機関車の古豪。昔の山中越えや柳ケ瀬越えで活躍している動画をよく見ています。登場時は茶色一色で銀色の帯を巻いていましたが、晩年はオレンジ色と灰色のディーゼル機関車の塗装に変更されています。鉄道模型ではカツミ製で茶色と2色塗装の2種類を所有しています。大好きなディーゼル機関車で、1両くらいは是非静態保存してもらいたかった機関車だと思います。また今後このDD50の写真をアップして紹介させていただきたいと思っています。2両を連結して重連で使用されており、重連でD51形蒸気機関車1両分のパワーを持っていたようでした。1次型と2次型が重連になっていた姿も多く見られました。以上、今回は米原機関区にスポットを当てて、EF65 500 Fを特集してみました。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

16番ゲージの自宅レイアウトを快走するEF65526牽引の貨物列車とEF60牽引の貨物列車。電気機関車は共に天賞堂で重連の2両目はカトー製になります。

良き国鉄時代㉔~敦賀駅撮り写真から②雨の日に~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀は北陸新幹線が来春3月16日に開業するので、現在話題に上がっている駅です。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは1番上に作らざるを得なかったらしいです。また、一説には米原ルートや湖西ルートになった場合に福井滋賀県境の峠を通す際に必要となってくる高さが確保されているということです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ています。今回は1976年の何時かは判らないのですが、雨の日に敦賀駅にて撮影した何枚かの写真を紹介したいと思います。寝台特急「日本海」の写真と話題が中心になります。

上の画像は上り寝台特急「日本海4号」になります。牽引しているのはEF81形交直両用電気機関車で敦賀第二機関区の所属です。トレインマークは残念ながら掲出されていなかった頃になります。当時の寝台特急「日本海」は下りが1号と3号、上りが2号と4号が運転されていました。1日に4本も寝台特急「日本海」を見ることができた素晴らしい時代でした。いずれも大阪と青森を結んでいました。客車は2段式B寝台の24系25形という寝台客車が使用されていて、電源車を繋いだ集中電源方式で運転されていました。ちなみに下りの「日本海1号」は大阪を17時15分に発車して終点の青森には翌日の8時41分に到着していました。「日本海3号」は大阪を20時15分に発車、青森には翌日の11時45分に到着していました。上りの「日本海2号」は青森を16時27分に発車して、終点の大阪には7時48分に到着していました。「日本海4号」は青森を19時23分に発車して、終点の大阪には翌日の10時46分に到着していました。私が敦賀駅で撮影した「日本海」いずれの写真も「日本海4号」でした。敦賀には8時42分に到着し、8時52分に発車していました。普通列車で敦賀に行くことのできる撮影時間帯ということになります。左のホームにキハ58系気動車が居ますが、当時の時刻表を見ると小浜線経由の急行「わかさ2号」かと思われます。西舞鶴で城崎発の「丹後8号」と併結して京都を目指して走っていました。

雨のホーム端から135mmの望遠レンズで敦賀駅入線を撮影しています。敦賀駅は大きくカーブしているので独特の絵面になります。機関車交換がされていたようで、線路横で駅員さんが待ち構えておられます。

この日の牽引機はEF81123号機でした。当時の交直セクションは今よりももっと南にあったので敦賀駅は交流電化でした。交流区間を走って来た81は前方のパンタグラフは下げています。ここで機関車を交換することになります。トワイライトエクスプレスが走っていた晩年まで、敦賀がEF81の所属区になっていて、日本海縦貫の仕業はここ敦賀から始まって、ここで終わっていたようです。

EF81123号機は客車から離れて、敦賀第二機関区へ引き上げていきました。機関車の付け替えですね。鉄道ファンにはたまらないシーンが展開されることになります。いつ見ても決して飽きることはありません。10分間のドラマが展開されます。

そして新たにEF81101が機関区の方向からやってきて「日本海」連結されました。ここからは湖西線の交直セクションを通過して直流区間に入っていくので、パンタグラフは前後2つ上げています。ここから鳩原ループ線を通り、近江塩津を経て湖西線に入っていきます。この101号機は寝台特急「日本海」のラストランでも牽引していました。

2段式B寝台車だけで編成された「日本海4号」の最後部。テールサインはまた字だけの時代になります。

当時の時刻表を見ると、日本海1号と4号は全てB寝台で運転されていました。電源車を含んで12両編成です。これが写真の24系25形の寝台車が使用され、2段式B寝台で11両で編成されていたようです。いわゆる銀帯車が使用されていました。日本海3号と2号にはA寝台が一両繋がれて、後の10両は客車3段式のB寝台車が使用されていたようです。電源車も繋がれているので24系の寝台車、いわゆる白帯車が使用されていたことになります。ブログを書くにあたって、当時の時刻表で新たに発見できることがあるので楽しくなります。

発車した列車を見えなくなるまで見送りました。今となっては見ることができなくなった寝台特急「日本海」、鉄道模型で再現して楽しむ事しかできません。模型ではEF81形交直両用電気機関車はカトー製、トミックス製、天賞堂製で持っていますちなみに国鉄時代は天賞堂製とカトー製になります。客車は24系25形をカトー製で12両程持っています。

上の画像は485系交直両用特急型電車による金沢発米原行きの特急「加越」になります。「日本海4号」の到着前の8時5分に発車した「加越2号」かと思います。ライトの光り方から「クロスフィルター」をレンズに付けて撮影していたのかもしれません。

上の画像は「日本海4号」が発車した後の、9時7分発の金沢発大阪行き475系交直両用急行形電車による急行「ゆのくに」になります。当時は湖東線、米原経由で運転されていました。今回は以上になります。最後までお読み頂きましてありがとうございました。

自宅16番ゲージレイアウトを快走するEF81牽引の24系25形寝台特急 

良き国鉄時代㉓~敦賀駅撮り写真から~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀と言えば今や北陸新幹線が来春3月16日に開業するので今時の話題に上がっている駅です。NHKの番組「ブラタモリ」でも紹介されたので、ご覧になった方も多いことと思います。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは一番上に作らざるを得なかったらしいです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ているようです。1975年当時は湖西線が前年に開通しており、大阪から北陸方面への優等列車は湖西線経由でした。トレインマークはまだ字だけもので、3年後からイラスト入りのヘッドマークになっています。

上の画像は敦賀駅4番ホームに停車中の485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。151系(20系)直流特急形電車の先頭車と同じようなデザインのボンネットスタイルは特急形にふさわしい流線型のものでした。トレインマークは漢字で雷鳥と描かれていて素敵でした。クリーム色のスカートに赤いひげは「交流」を示しています。交流50Hz、60Hz両用の485系のデザインといえます。鉄道模型でも、もちろん所有していて、先頭車はこのボンネットスタイルとゲンコツスタイルの非貫通タイプの両方を持っています。トミックス製とカツミ製になります。

上の画像は福井方面から敦賀に到着しようとしている485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。スカートの赤いカバーが無く、自動連結器が剥き出しになっている姿です。北陸本線でボンネットタイプ全盛期の頃でした。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらは貫通タイプの先頭車が使われています。581系交直両用寝台特急用電車から始まったこの「顔」になります。貫通扉は先頭車同士を連結するために作られた設備で、扉の中には幌があります。連結すると乗客は行き来ができるようになっています。実際に貫通扉が使用されて併結運転されていた例はごく稀なものでした。自分は冬季に臨時列車として大阪~信州方面へ走っていた「シュプール号」で、485系と583系が併結されていたのを見たことがあります。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらの先頭車はクハ481-300になり、非貫通タイプの先頭車です。貫通タイプは厳寒期には運転台にすきま風が入って寒かったようで、その改善策として登場したものと思われます。鉄道ファンの間では、顔がお米を炊く電気釡に似ているところから「電気釜」という愛称が使われていました。

上野の画像は485系交直両用特急形電車の特急「しらさぎ」になります。先頭車は貫通タイプのようです。この特急電車は中京圏の名古屋と金沢・富山を結んでいた特急でした。米原を経由している特急で、新幹線から利用する乗客も多かったようです。湖西線開業で特急「雷鳥」「白鳥」等が湖西線経由となった中で、米原で見ることができたのは良かったです。

上の画像は581系交直両用寝台特急用電車の昼間運用の特急「しらさぎ」になります。以前に特急「金星」の特集で詳しく紹介していますが、名古屋~博多を結んでいた寝台特急「金星」の運用の狭間で、座席特急として名古屋~富山を結んでいました。大変働き者の特急電車でした。この写真は敦賀駅を出て撮影ポイントを歩いて探している最中に撮った写真と思います。

上の画像は581系特急「しらさぎ」を撮影した同じ場所で撮影した485系交直両用特急形電車1500番台による特急「白鳥」になります。自分も高校の修学旅行で青森からここ敦賀まで乗りました。大阪と青森を結んでいた正にロングラン特急でした。鉄道模型でも、この先頭車を特徴とした485系1500番台を宮沢模型製で先頭車だけ2両所有しています。カツミ製でも485系は持っているので、先頭車だけを1500番台に替えて雰囲気を楽しんでいます。この485系1500番台は北海道の特急用として作られた特急形電車で、日本海縦貫線を走る特急「白鳥」で試験的に使われていました。のちに北海道で特急「いしかり」としてデビューしています。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「北越」になります。この「北越」というネーミングは珍しい愛称に思えました。当時、大阪と新潟を上りと下りで一本ずつ運転されていたロングランの特急でした。下りは大阪14時発で新潟には21時27分に到着していました。上りは新潟を8時5分に発車して、終点の大阪には15時40分に到着していました。当時の電車特急は11両か12両編成で組成されて、食堂車1両にグリーン車が2両繋がれた豪華な編成でした。

最後は475系交直両用急行形電車による快速電車になります。急行「くずりゅう」と共通の運用で6連での運用でした。急行と同じようなヘッドマークが素敵でした。鉄道模型でもトミックス製で急行「ゆのくに」を組成して楽しんでいます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトの山線で離合する国鉄形特急電車485系。トミックス製品。