良き国鉄時代㉖~米原界隈のDLたち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から1976年にかけて、米原駅と田村駅で撮影したディーゼル機関車たちの特集です。自分が中学生から高校生の頃には米原~坂田間に直流から交流に切り替わる「デッドセクション」がありました。そのために機関車牽引列車は米原から田村の間は、どの列車でもディーゼル機関車が牽引していました。私が知っている時代の前には蒸気機関車のE10やD50、D51がその任務についていました。そして交直両用の試作電気機関車ED30も活躍していた線区でした。バラエティに富んだ機関車たちが米原と田村の間を走っていたようです。そんな時代を撮影して見たかったものですが、鉄道模型では何時でも再現することができるので嬉しいです。ちなみにこの米原田村間で活躍していた機関車は模型で全て所有しています。今回取り上げるのはディーゼル機関車になり、1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたようなディーゼル機関車が在籍していたようです。

 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は1975年に撮影した米原から到着したDD50形ディーゼル機関車牽引の北陸本線の普通列車になります。古豪のDD50は北陸線の柳ケ瀬、山中越えの峠用に開発された国鉄最初の電気式ディーゼル機関車です。当初は茶色塗装でしたが、1964年頃に現在の朱色とグレーの塗装になりました。この頃は最後の活躍をしていたと思います。やがて米原駅構内に全機留置されていました。入線した時の音は大変迫力あるもので、スイスのスルザー社と三菱で開発されたエンジンの音を間近で堪能することができました。

写真を見ると、この日は田村寄りが5号機で米原寄りが6号機の重連でした。この重連でD51形と蒸気機関車と同じパワーらしいです。たまたま撮影できた大変貴重な現役のDD50でした。この機関車狙いでもっともっと撮影に通っておいたら良かったと後悔しています。

上の画像は田村駅に到着後、直ぐに客車を離れて中線へと引き上げていく後ろ姿になります。次にやってくるのが交流機関車のEF70になります。

上の画像は1974年に撮影した、当時この区間の主役だったDE10形ディーゼル機関車になります。米原からやって来た1019号機のようです。米原側が2エンド、田村側は1エンドで運転されていました。全機が米原機関区に所属して、この区間だけで運用されていました。貨物列車を牽引しています。

上の画像は1974年に撮影した大阪行き寝台特急「日本海」を牽引して米原に向かうDE101095です。20系寝台特急で運転されていた「日本海」も、ここ田村で運転停車して機関車の交換をしていました。2エンドが先頭になり、個人的にはこの2エンド側が先頭になる方のが好きな運転スタイルでした。

上の画像は1976年に米原駅近くの踏切から撮影したDE10517牽引の大阪行き急行「きたぐに」になります。青森発大阪行きの寝台車付きの客車急行列車でした。10系客車で編成されていた時代で、米原向きに郵便車+グリーン車+12系客車5両+10系寝台車(オロネ10含む)5両で運転されていました。今回の模型動画で再現しています。

上の画像は1976年に撮影したDE101727牽引の同じく急行「きたぐに」になります。米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影しています。「きたぐに」の米原到着時刻は6時23分でしたので、この日は米原駅で朝撮りしていたのでしょう。

上の画像は1974年に撮影したDE10518牽引の貨物列車になります。コキフ50000が見えるので、北陸本線から東海道本線に入っていく「フレートライナー」だと思います。この50000系のフレートライナーは当時よく見かけるようになっていました。EF70が牽引しているのを幾度か撮影していました。米原からはおそらくEF65形直流電気機関車が牽引していったのでしょう。

上の画像は1975年の雪の日に撮影した米原発北陸方面行きの普通列車になります。牽引しているのはDE101727号機になります。この1000番台には製造当初からSG(蒸気暖房装置)を備えていたので、真冬の客車も暖かかったと思います。ちなみに0番台や500番台にはこの蒸気暖房装置は搭載されていませんでした。なお先に紹介したDD50形ディーゼル機関車にもこのSGは無くて、たとえ米原から田村間といえども冬場の乗客は寒い思いをされていたのだろうと思います。田村からは暖房車が連結されたり、SG付きの交流電気機関車なので蒸気暖房が効いていました。

上の画像は寝台特急「日本海」の最後部に、珍しく切妻タイプのナハネフ23が使われていた日になります。DE10は米原からの仕業を終えて中線に転線した時の写真です。そして米原側へと中線を移動し、また米原に向けての仕業に着くことになります。

上の画像は1974年、米原駅に到着寸前に自分が客車から身を乗り出して撮影した1枚です。牽引しているDE10もしっかりと映っています。普通列車米原行きに長浜から乗車していたのでしょう。旧型客車のオハフ33の重く大きなジョイント音が聞こえてきそうな写真です。長浜から米原に行くだけで途中機関車の交換が楽しめた良き時代でした。今では鉄道模型で再現するしかなさそうです。今回も最後までお読み頂きましてありがどうございました。

急行「きたぐに」青森行き、米原での機関車交換風景。機関車はカトー製、客車はトミックス製とカトー製。

自宅レイアウトで離合するDE10牽引の急行「きたぐに」とDD50牽引の貨物列車。DE10はカトー製、客車はトミックス製の10系とカトー製の12系。グリーン車と郵便車は天賞堂製。DD50はカツミ製。貨車はエンドウ製やカトー製にホビーモデルのキット組み等。

良き国鉄時代㉕~米原機関区の65F~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に米原機関区と米原駅で撮影したEF65形500番台(65F)直流電気機関車の特集です。ちょうど自分が中学3年生の時に撮影した写真になります。小学生までは自宅近所の踏切で見ていた電気機関車は交流電気機関車で車体は赤色でした。米原まで活動範囲が広がった時に見た青や黒の電気機関車には驚いたものです。当時電気機関車は「赤いもの」と思い込んでいたようでした。米原は直流区間になり、電気機関車の色は「青」が主体で、「黒」もありました。EF58形直流電気機関車にEF60形直流電気機関車、EF65形直流電気機関車にマンモス電機のEH10形貨物用直流電気機関車といったところになります。ディーゼル機関車はDE10形液体式ディーゼル機関車と、まだDD50形電気式ディーゼル機関車も居た頃になります。1974年に湖西線が開通してからは敦賀第二機関区のEF81形交直両用電気機関車が活躍を始め出すとこの米原機関区でもEF81を見られるようになりました。やがてこの米原機関区は1986年10月には廃止されてしまうことになります。

上の画像は1975年に撮影したEF65形直流電気機関車500番台になります。排障器(スカート)の上部に、いかつい機器箱がありジャンパ栓もたくさんあります。連結器は後のEF66形直流電気機関車にも見られたように、自動連結器と密着連結器が併用できるものになっています。窓の上部には庇があってなかなか格好の良い顔をしている電気機関車です。この500番台は貨物用として登場した機関車で登場時は下関と東京、築地を結んでいた鮮魚特急貨物列車に重連で使用されていました。自分は見たことは無かったですが、年配の友人によると凄い迫力で駅を通過していたようです。1975年にはこの電気機関車が米原機関区に集中して配置されていました。米原機関区にずらりと並んだEF65の特急色を目当てに、よく撮影に行っていたものです。その風景はブルートレイン牽引機の基地だった「東京機関区」を彷彿とさせるものでした。

1976年の国鉄車両配置表(交友社刊)によると、当時の米原機関区には以下に書いたような機関車が在籍していました。

 電気機関車
ED301 ※休車
EF5836   74   77   78   80   103   111   112   113   118  
EF60  28   75   77   80   86   96   97   98   99   107  108   109   115   119   120   121   125   
EF653   4   518   519   520   521   522   523   524   525   526   532   533   534
 ディーゼル機関車
DD501   2   3   4   5   6   ※全て休車
DE10  19   516   517   518   539   540   551   1557   1725   1756   1727

上の画像は夜の米原駅に佇むEF65 500。まるで今にも寝台特急の牽引に就きそうな雰囲気の写真です。後ろには荷物車のマニ60が映っています。米原機関区があった頃には米原客車区もありました。旧型客車が沢山在籍していて、北陸本線で活躍していました。記号は「名マイ」でした。

上の画像はEF65 500を真横から撮影したものです。鉄道模型を製作するのに大変参考になる写真かと思います。横にある2本の白帯はこのEF65 500の特徴となる塗装で、下の太い帯は12系、14系、24系の客車側面にある白帯と高さと太さがマッチしていました。電気機関車と客車の帯が揃うことで、独特の美しい編成美を見せてくれていました。ちなみに上の方の白帯は20系客車の上部白帯とうまく合わせられていました。今思うと「素晴らしい」の一言につきる一体感ある飾りの塗装で編成美を奏でていました。

米原駅を俯瞰できる陸橋から撮影した東海道線の下り貨物列車。 EF65 526が牽引しています。機関車の窓上の庇はトンネルの氷柱切りとして付けられたものです。庇の上部は青色の車体色で塗られていて、下側となる窓側はクリーム色で塗装されていました。鉄道模型ではこのEF65 500F は、天賞堂製で持っています。大阪の中古模型店で買いました。大変気に入っている電気機関車のひとつです。車扱いの貨物列車を牽かせて楽しんでいます。以上がEF65 500F の特集になります。米原機関区にはこの65以外にも58や60等も在籍していました。またディーゼル機関車もDE10やDD50が在籍していました。下の画像はこの年には休車になってしまっていたDD50重連の写真になります。

6両の全車が最後はここ米原で最後を迎えました。米原駅の南側の端に留置されていたものです。写真は1次型で顔が独特でした。「海坊主」の愛称が付いていたようです。北陸線の峠越え用として初めて新製されて敦賀機関区に配置された電気式ディーゼル機関車の古豪。昔の山中越えや柳ケ瀬越えで活躍している動画をよく見ています。登場時は茶色一色で銀色の帯を巻いていましたが、晩年はオレンジ色と灰色のディーゼル機関車の塗装に変更されています。鉄道模型ではカツミ製で茶色と2色塗装の2種類を所有しています。大好きなディーゼル機関車で、1両くらいは是非静態保存してもらいたかった機関車だと思います。また今後このDD50の写真をアップして紹介させていただきたいと思っています。2両を連結して重連で使用されており、重連でD51形蒸気機関車1両分のパワーを持っていたようでした。1次型と2次型が重連になっていた姿も多く見られました。以上、今回は米原機関区にスポットを当てて、EF65 500 Fを特集してみました。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

16番ゲージの自宅レイアウトを快走するEF65526牽引の貨物列車とEF60牽引の貨物列車。電気機関車は共に天賞堂で重連の2両目はカトー製になります。

良き国鉄時代㉔~敦賀駅撮り写真から②雨の日に~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀は北陸新幹線が来春3月16日に開業するので、現在話題に上がっている駅です。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは1番上に作らざるを得なかったらしいです。また、一説には米原ルートや湖西ルートになった場合に福井滋賀県境の峠を通す際に必要となってくる高さが確保されているということです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ています。今回は1976年の何時かは判らないのですが、雨の日に敦賀駅にて撮影した何枚かの写真を紹介したいと思います。寝台特急「日本海」の写真と話題が中心になります。

上の画像は上り寝台特急「日本海4号」になります。牽引しているのはEF81形交直両用電気機関車で敦賀第二機関区の所属です。トレインマークは残念ながら掲出されていなかった頃になります。当時の寝台特急「日本海」は下りが1号と3号、上りが2号と4号が運転されていました。1日に4本も寝台特急「日本海」を見ることができた素晴らしい時代でした。いずれも大阪と青森を結んでいました。客車は2段式B寝台の24系25形という寝台客車が使用されていて、電源車を繋いだ集中電源方式で運転されていました。ちなみに下りの「日本海1号」は大阪を17時15分に発車して終点の青森には翌日の8時41分に到着していました。「日本海3号」は大阪を20時15分に発車、青森には翌日の11時45分に到着していました。上りの「日本海2号」は青森を16時27分に発車して、終点の大阪には7時48分に到着していました。「日本海4号」は青森を19時23分に発車して、終点の大阪には翌日の10時46分に到着していました。私が敦賀駅で撮影した「日本海」いずれの写真も「日本海4号」でした。敦賀には8時42分に到着し、8時52分に発車していました。普通列車で敦賀に行くことのできる撮影時間帯ということになります。左のホームにキハ58系気動車が居ますが、当時の時刻表を見ると小浜線経由の急行「わかさ2号」かと思われます。西舞鶴で城崎発の「丹後8号」と併結して京都を目指して走っていました。

雨のホーム端から135mmの望遠レンズで敦賀駅入線を撮影しています。敦賀駅は大きくカーブしているので独特の絵面になります。機関車交換がされていたようで、線路横で駅員さんが待ち構えておられます。

この日の牽引機はEF81123号機でした。当時の交直セクションは今よりももっと南にあったので敦賀駅は交流電化でした。交流区間を走って来た81は前方のパンタグラフは下げています。ここで機関車を交換することになります。トワイライトエクスプレスが走っていた晩年まで、敦賀がEF81の所属区になっていて、日本海縦貫の仕業はここ敦賀から始まって、ここで終わっていたようです。

EF81123号機は客車から離れて、敦賀第二機関区へ引き上げていきました。機関車の付け替えですね。鉄道ファンにはたまらないシーンが展開されることになります。いつ見ても決して飽きることはありません。10分間のドラマが展開されます。

そして新たにEF81101が機関区の方向からやってきて「日本海」連結されました。ここからは湖西線の交直セクションを通過して直流区間に入っていくので、パンタグラフは前後2つ上げています。ここから鳩原ループ線を通り、近江塩津を経て湖西線に入っていきます。この101号機は寝台特急「日本海」のラストランでも牽引していました。

2段式B寝台車だけで編成された「日本海4号」の最後部。テールサインはまた字だけの時代になります。

当時の時刻表を見ると、日本海1号と4号は全てB寝台で運転されていました。電源車を含んで12両編成です。これが写真の24系25形の寝台車が使用され、2段式B寝台で11両で編成されていたようです。いわゆる銀帯車が使用されていました。日本海3号と2号にはA寝台が一両繋がれて、後の10両は客車3段式のB寝台車が使用されていたようです。電源車も繋がれているので24系の寝台車、いわゆる白帯車が使用されていたことになります。ブログを書くにあたって、当時の時刻表で新たに発見できることがあるので楽しくなります。

発車した列車を見えなくなるまで見送りました。今となっては見ることができなくなった寝台特急「日本海」、鉄道模型で再現して楽しむ事しかできません。模型ではEF81形交直両用電気機関車はカトー製、トミックス製、天賞堂製で持っていますちなみに国鉄時代は天賞堂製とカトー製になります。客車は24系25形をカトー製で12両程持っています。

上の画像は485系交直両用特急型電車による金沢発米原行きの特急「加越」になります。「日本海4号」の到着前の8時5分に発車した「加越2号」かと思います。ライトの光り方から「クロスフィルター」をレンズに付けて撮影していたのかもしれません。

上の画像は「日本海4号」が発車した後の、9時7分発の金沢発大阪行き475系交直両用急行形電車による急行「ゆのくに」になります。当時は湖東線、米原経由で運転されていました。今回は以上になります。最後までお読み頂きましてありがとうございました。

自宅16番ゲージレイアウトを快走するEF81牽引の24系25形寝台特急 

良き国鉄時代㉓~敦賀駅撮り写真から~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1975年に敦賀駅で撮影した写真の特集です。敦賀と言えば今や北陸新幹線が来春3月16日に開業するので今時の話題に上がっている駅です。NHKの番組「ブラタモリ」でも紹介されたので、ご覧になった方も多いことと思います。新幹線駅の建物は12階建てのビルに相当する高さだそうです。敦賀へのトンネルは国道8号と北陸自動車道、北陸線が通っているので、最後にできた北陸新幹線のトンネルは一番上に作らざるを得なかったらしいです。新幹線ホームの下には大阪や名古屋を結ぶアクセス特急に替わろうとしている「サンダーバード」と「しらさぎ」の乗り換え専用ホームも出来ているようです。1975年当時は湖西線が前年に開通しており、大阪から北陸方面への優等列車は湖西線経由でした。トレインマークはまだ字だけもので、3年後からイラスト入りのヘッドマークになっています。

上の画像は敦賀駅4番ホームに停車中の485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。151系(20系)直流特急形電車の先頭車と同じようなデザインのボンネットスタイルは特急形にふさわしい流線型のものでした。トレインマークは漢字で雷鳥と描かれていて素敵でした。クリーム色のスカートに赤いひげは「交流」を示しています。交流50Hz、60Hz両用の485系のデザインといえます。鉄道模型でも、もちろん所有していて、先頭車はこのボンネットスタイルとゲンコツスタイルの非貫通タイプの両方を持っています。トミックス製とカツミ製になります。

上の画像は福井方面から敦賀に到着しようとしている485系交直両用特急形電車による特急「雷鳥」になります。スカートの赤いカバーが無く、自動連結器が剥き出しになっている姿です。北陸本線でボンネットタイプ全盛期の頃でした。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらは貫通タイプの先頭車が使われています。581系交直両用寝台特急用電車から始まったこの「顔」になります。貫通扉は先頭車同士を連結するために作られた設備で、扉の中には幌があります。連結すると乗客は行き来ができるようになっています。実際に貫通扉が使用されて併結運転されていた例はごく稀なものでした。自分は冬季に臨時列車として大阪~信州方面へ走っていた「シュプール号」で、485系と583系が併結されていたのを見たことがあります。

上の画像は同じく485系交直両用特急形電車の特急「雷鳥」になります。こちらの先頭車はクハ481-300になり、非貫通タイプの先頭車です。貫通タイプは厳寒期には運転台にすきま風が入って寒かったようで、その改善策として登場したものと思われます。鉄道ファンの間では、顔がお米を炊く電気釡に似ているところから「電気釜」という愛称が使われていました。

上野の画像は485系交直両用特急形電車の特急「しらさぎ」になります。先頭車は貫通タイプのようです。この特急電車は中京圏の名古屋と金沢・富山を結んでいた特急でした。米原を経由している特急で、新幹線から利用する乗客も多かったようです。湖西線開業で特急「雷鳥」「白鳥」等が湖西線経由となった中で、米原で見ることができたのは良かったです。

上の画像は581系交直両用寝台特急用電車の昼間運用の特急「しらさぎ」になります。以前に特急「金星」の特集で詳しく紹介していますが、名古屋~博多を結んでいた寝台特急「金星」の運用の狭間で、座席特急として名古屋~富山を結んでいました。大変働き者の特急電車でした。この写真は敦賀駅を出て撮影ポイントを歩いて探している最中に撮った写真と思います。

上の画像は581系特急「しらさぎ」を撮影した同じ場所で撮影した485系交直両用特急形電車1500番台による特急「白鳥」になります。自分も高校の修学旅行で青森からここ敦賀まで乗りました。大阪と青森を結んでいた正にロングラン特急でした。鉄道模型でも、この先頭車を特徴とした485系1500番台を宮沢模型製で先頭車だけ2両所有しています。カツミ製でも485系は持っているので、先頭車だけを1500番台に替えて雰囲気を楽しんでいます。この485系1500番台は北海道の特急用として作られた特急形電車で、日本海縦貫線を走る特急「白鳥」で試験的に使われていました。のちに北海道で特急「いしかり」としてデビューしています。

上の画像は485系交直両用特急形電車による特急「北越」になります。この「北越」というネーミングは珍しい愛称に思えました。当時、大阪と新潟を上りと下りで一本ずつ運転されていたロングランの特急でした。下りは大阪14時発で新潟には21時27分に到着していました。上りは新潟を8時5分に発車して、終点の大阪には15時40分に到着していました。当時の電車特急は11両か12両編成で組成されて、食堂車1両にグリーン車が2両繋がれた豪華な編成でした。

最後は475系交直両用急行形電車による快速電車になります。急行「くずりゅう」と共通の運用で6連での運用でした。急行と同じようなヘッドマークが素敵でした。鉄道模型でもトミックス製で急行「ゆのくに」を組成して楽しんでいます。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトの山線で離合する国鉄形特急電車485系。トミックス製品。

良き国鉄時代㉒~寝台急行「銀河」~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1976年に撮影した20系寝台急行「銀河」号を特集させていただきます。これまで幾度となく紹介している急行「銀河」号ですが、今回も撮影した場所は、米原~醒ヶ井間のカーブ辺りになり1976年の撮影になります。急行「銀河」は1949年に生まれた東京と大阪を結んでいた寝台急行列車でした。残念ながら2008年3月14日に廃止されています。以前、このブログで最終運転日に大津駅で撮影した記事をのせました。自分が知っている「銀河」は20系になった1976年からでした。それ以前に走っていた10系寝台客車の時代は知りません。そしてこの20系客車も1985年には14系客車に、そして1986年からラストランまでは24系客車が使用されていました。

以前の記事に書いたように、この20系客車の寝台急行「銀河」には高校生の時に鉄道趣味友人と東京から米原まで初乗車していました。初めて乗る3段式B寝台に心を弾ませていたものです。最後尾のナハネフ22の窓から眺めた東京の夜景を今でも覚えています。空気バネの台車を履いていたので、大変静かな走行音で快適な乗車を楽しむ事ができました。車中で友人が自分にくれたピーナッツをよく覚えています。週刊誌も買っていたような記憶があります。この急行「銀河」号が米原に着くのは6時7分で、夏場の撮影には十分な明るさでした。上の画像のEF58は145号機で、大阪鉄道管理局、宮原運転区の機関車になります。機関車の足まわりから煙のようなものが見えていますが、おそらく機関車が制動(ブレーキ)をかけていたのかと思われます。車輪を抑えている制輪子からの鉄粉が飛んでいるのでしょう。北陸本線でも電気機関車の次の客車に乗っている時の機関車との連結面を見に行っていた際、ブレーキをかける度に鉄粉の匂いがしていたのを思い出します。何とも言えない鉄の匂いでした。線路のバラストが茶色くなっているのも、列車のブレーキの時の鉄粉が石について錆びたためです。ちなみに鉄道模型では茶色系のバラストを線路にまいて表現しています。また、線路とベースの塗装には自分はタミヤカラーのレッドブラウン色の缶スプレーをよく使っています。

上の画像は、寝台急行「銀河」号をEF58形直流電気機関車の43号機が牽引しています。大窓タイプで庇のあるこの機関車も大阪鉄道管理局、宮原運転区所属の機関車になります。米原寄りの場所からアウトカーブで撮影しています。ちょうど全編成が納まっている写真で気に入っていました。

上の画像は、同じ場所で米原駅に向かって走る急行「銀河」号を後方から撮影したものです。固定編成の大変美しい姿を記録に残そうとして撮影したのでしょう。当時の気持ちが写真から伝わってきます。編成では先頭はカニ21形電源車で、次位はナロネ20が繋がれていました。A寝台車で灯り取りの小窓が良いアクセントになっています。あとの車両は全てB寝台車で編成されていました。残念ながらナシ20形の食堂車は繋がれていませんでした。

急行「銀河」号の最後尾は、展望車スタイルのナハネフ22形でした。向かって右側は車掌室になっており、左側は展望室になっていました。この列車に乗車した時に、この窓から走り去っていく東京の灯りを飽きもせずに眺めていました。20系は丸みを強調した大変流麗なスタイルの寝台客車でした。

この頃はまだトレインマークがセットされていなかったようです。テールサインは白一色でした。寝台急行「銀河」には黒字で「急行 EXPRESS」というサインが初期に使われていました。後にイラスト入りの「銀河」のテールサインに替わりました。青色地に黄色の文字とイラストの星をちりばめた大変美しいデザインでした。電気機関車用のヘッドマークもあったようで、鉄道模型のパーツでは見たことがあります。実際に使用されていたのかは不明です。客車用に準じた美しいヘッドマークが作られていました。EF58やEF65 1000番台に付けてもらって前面を飾ってほしかったと個人的には思っています。

上の画像も急行「銀河」号の編成最後撮影したものになります。やはりテールサインがまだ無くて、無地のままでした。寝台特急用として華々しくデビューした「走るホテル」とも絶賛されていた20系客車も、後から登場してきた寝台特急用の客車、14系や24系に後を譲ることになりました。B寝台は3段式でしたが、急行料金で特急用の寝台車に乗れるようになったことは当時としては、エポックメーキングな事だったと思われます。自分はこの20系寝台客車には結局後にも先にも東京撮影行の帰りに乗った1回だけでした。24系客車の寝台急行「銀河」号には米原から東京間を何回も乗車したことがありました。それも決まってA寝台のプルマン式寝台のオロネ24の下段を取っていました。身体に対して横方向に走っていく寝台車より、進行方向に頭を向けて走っていく、縦方向に走っていく寝台車の方が寝心地が良かったように思います。この列車も廃止になって久しいですが、鉄道模型ではまだまだ現役で自宅レイアウトを走ってくれています。鉄道模型ではEF58はカトー製、天賞堂製の36号機、カンタムの74号機そして試験塗装機の4号機、16号機、31号機、それに60号機、61号機を所有しています。20系客車はカトー製を持っています。今回も最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

自宅レイアウトをサウンドを奏でながら快走するEF58牽引の20系。EF58は天賞堂製のカンタム搭載機関車。