ナローゲージ~軌間762mm鉄道の魅力

2023年7月26日に親しい友人と家族とで長野県塩尻市に日帰りで行ってきました。目的は塩尻市にある好きなワイナリーに行くことでした。平日とあり、スムーズに目的地の「ごいちワイン」と「信濃ワイン」を巡ることができました、帰路は木曽路の下道を帰ることとして、途中で漆器のお店に立ち寄ったりしてのんびりしました。お店にトロッコ鉄道のポスターがあり、店の人に尋ねたら、車で1時間ほど走ったら森林鉄道に体験乗車できるとの情報をもらいました。赤沢自然休養林の中を赤沢森林鉄道が復活運転をされているとのことでした。今回は日帰り旅行なので立ち寄ることは無理なので、また日を改めてじっくりと見に行きたいと思います。1987年に観光客誘致のねらいもあり、ディーゼル機関車が客車を牽引するスタイルで運行されているようです。森林鉄道だけしか見られないアメリカ型ボールドウィンという蒸気機関車も静態保存されているようです。木曽森林鉄道は日本の森林鉄道では知名度が高く、長野県の木曽谷国有林を運搬していたようで、最盛期には総延長400kmにも及ぶ線路が敷かれていたようです。1916年に最初の鉄道区間が開通し、1976年まで運用されていたようです。レールの幅は762mmで、通称「ナローゲージ」の鉄道でした。

今回の旅行の帰りに、ネットで木曽森林鉄道保存車両を検索すると、中央線の薮原駅の近くにある「木祖村郷土館」の木工文化センターに木曽森林鉄道で活躍していたモーターカーが保存されていると知り、大変興味深いスタイルに魅かれて見に行くことにしました。すると木祖村郷土館の前に線路が敷かれていて、たいへん愛嬌のある顔をした木曽森林鉄道のモーターカーが運材台車2台と共に静態保存されていました。このモーターカーはNo.20ということでした。屋外での保存なので錆が出でおり、内部も朽ちてはいましたが可愛らしいスタイルが自分のハートを鷲掴みにしてしまいました。エンジンの上部分が昔のバスのようになっており、チェンジレバーもありました。おそらくガソリンエンジン仕様でクラッチ操作をしながらギアを変えて走っていたのでしょう。車内は運転席以外は8人乗りで、後部のドアから乗り降りしたのでしょう。後部にも前照灯らしきものが付いていました。昭和25年製とのことで森林作業者を運ぶのに使われていたのでしょう。鉄道模型でHOナローという規格があるので、是非線路幅9mm、縮尺1/80で模型化してみたいとも思いました。たいへん素敵な出会いがあった日帰り信州旅行でした。

モーターカーの車内。

線路幅762mmといえば、「ナローゲージ」ということになり、これまでに何か所か見に行ったことがあります。去年、家族旅行で能登に手かけた帰り、石川県小松市にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に立ち寄りました。この尾小屋鉄道は、石川県の新小松から尾小屋までの16.8キロを結んでいた地方鉄道で、1919年に開業して1977年に廃止されました。鉱山の鉱石輸送と沿線住民の生活の足として活躍していました。汽車展示館には蒸気機関車5号、客車ハフ1、気動車キハ3が展示されています。「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」が鉱山電車の体験乗車もできるようにされました。素晴らしい展示館になっています。 

⭐︎「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」のページはこちらから。

また素晴らしいことに、尾小屋鉄道の体験乗車ができることを知り、昨年の11月に北陸本線の粟津にある「いしかわ子ども交流センター小松館」まで行ってきました。「なかよし鉄道」と名付けられ、昭和59年8月1日から「なかよしの森」の473mを子どもたちを乗せて元気に走っていました。冬期間(12月中旬から3月中旬)の運休を除いて、水曜に1便、土日祝祭日に2便走っています。車庫にはディーゼル機関車や客車も保存されており、子どもの日と夏休みにはイベントとして走るようでした車両は大変綺麗に整備されており、エンジン始動からスタート、停止とスムーズな運転状態でした。

「なかよし鉄道」で活躍する尾小屋鉄道キハ1。
車庫内にはディーゼル機関車121型と客車ホハフ3とホハフ1が居ました。

ナローゲージといえば、以前に三岐鉄道の北勢線に乗りに行ったことがありました。この電車もレール幅は762mmですが、三岐鉄道の営業路線として現役で運転されています。車内は狭くて、遊園地の汽車に乗っている感じですが、スビートも時速45キロまで出てどこかのローカル電車に乗っている実感がわいてきます。アトラクション的な要素もあるかと思いました。終点には乗用鉄道模型の線路が敷かれていて、イベント時には模型の車両が走るものと思います。ちょっとした鉄道ミュージアム風になっていました。三岐鉄道北勢線は三重県桑名市の西桑名駅から三重県いなべ市の阿下喜駅までを結んでいる路線になります。こちらも大変可愛らしい黄色の電車4両編成が走っていて、いつでも乗ることができます。山間の線区もあってなかなか乗り鉄も楽しめました。

三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車。
ナローゲージの現役で活躍しています。
線路幅をついついメジャーで測ってしまいました。確かに762mmでした。

良き国鉄時代②高校時代の撮り鉄

最近は10月に開催が予定されている高校の同窓会の話題で、SNS上のやり取りが大変盛り上がっています。3年前に同窓会開催の予定があったのですが、コロナ禍であった為に延期されたままとなっていました。この度、有志の方々が動いて下さり、この秋には開催の運びとなり、現在着々と準備をして下さっています。今から本当に楽しみでなりません。

高校時代、1977年に同じクラスに鉄道ファンがいました。その方は現在ではJR西日本の幹部になられていると思います。確か自分の子どもさんにも「みずほ」、「さくら」という特急列車の名前をつけておられたように記憶しています。現在は大阪の方に住んでおられます。その同級生と京都の近く山崎付近に撮影に行ったことがありました。当時は「山崎の大カーブ」といわれていた撮影ポイントがあり、大阪方面から次々にやってくる列車を撮影するにはもってこいの場所でした。中学生の時、親に買ってもらったアサヒペンタックスSPFと135ミリの望遠レンズを持って行って撮影したものでした。特急「白鳥」、「彗星」、気動車急行、14系座席車の臨時急行、自動車運搬貨物列車等、まったく飽きることなく同じ場所での撮影を楽しむ事ができました。その時に撮影した写真の一部が以下に載せた画像になります。

特急「白鳥」は485系交直両用特急形電車で運行されていました。高校の修学旅行でも青森から敦賀まで乗車することができた思い出の特急電車になります。この写真は大阪を出発し、はるかなる終着駅青森を目指して走り出した雄姿です。

同じ場所で撮影した寝台特急「彗星」です。この写真は宮崎から新大阪までの長旅を終えて向日町の留置線に向かう回送列車なになります。大好きな電車で、地元では寝台特急「金星」の合間運用の特急「しらさぎ」をよく撮影していたものです。もちろん鉄道模型でもこの塗色と末期の急行「きたぐに」に使用された更新色の2編成を持っています。

この気動車による長大編成は、キハ58系で運転されていた急行「ゆのくに・越後」だと思われます。当時は大阪から和倉へ行く編成と、新潟まで行く編成が併結されて運行されていました。堂々たる12両編成での運転でした。当時は急行「大社」という名古屋発大社行きの気動車急行列車も運転されていて、名古屋から米原を経て敦賀を経由して小浜線、舞鶴線、宮津線を経て豊岡から山陰本線に入って大社に向かうという気動車急行もありました。途中の天橋立で編成を切り離して、身軽になって終点を目指していたようです。列車の分割併合は気動車にとっては大変やり易く、都合の良いものだったといえます。終点までなぜか大変大回りしていく旅路に、今はすごくロマンを感じます。

写真は14系座席客車による急行「阿蘇・くにさき」になります。名称のように熊本~新大坂、大分~新大阪を結んでいた夜行列車でした。九州の門司まで長大編成で運転されていて、門司からはそれぞれの行先に分割して運転されていました。この14系座席車には自分も一度だけ乗車した経験がありました。特急列車のようなクロスシートで見晴らしの良い長い窓でしたが、簡易リクライニングシートで、身体で背もたれを押していないと元に戻ってしまいました。夜行列車だったと思うのですが、寝ようとしていたらシートが戻ってしまって起こされ、たいへん寝辛い思いをした苦い記憶が残っています。車両のデザインは大変スマートなので気に入っていました。もちろん模型でもカトー製品を持っています。北陸線でも客車急行末期の急行「きたぐに」にも寝台車の14系と併結されて運転されていました。

最後の写真は、EF60形直流電気機関車の牽く「自動車運搬車」貨物列車になります。空荷なので返却回送列車だと思います。このEF60形直流電気機関車は500番台といって、特急列車牽引用に作られた機関車になります。20系寝台特急客車編成を牽引するのに必要な装備が付けられていました。この写真と違う特急色をまとっていたのですが、末期はこのように一般色に塗色変更されて活躍していました。自動車運搬車は「ク5000形式」の貨物車両で当時は自動車を運搬するために各地で活躍していた車両になります。オレンジ色に塗られて、今で言うカーキャリアーのような形状でした。北陸線でも小松方面に向かう車運車貨物列車を見ることができました。鉄道による自動車輸送が無くなった頃には、米原駅の貨物操車場に沢山集められて留置されていました。模型では天賞堂製品の車両をオークションで集めて10両程持っています。当時の貨物列車では異彩を放つ列車でした。

以上、高校時代に友人と出かけた山崎への撮影旅行の振り返り記事でした。撮影ポイントに行くにあたってなるべく早く着きたかったので、米原から京都までは新幹線(当時は0系)を使って行きました。米原発は朝の7時代でしたが自由席に座ることができず、ドアのあるデッキ部に立っていた記憶があります。おそらく「ひかり」号だったのでしょう。帰路はおそらく113系電車に乗って帰ったように思います。この友人とは、ブルートレインを撮影する為に上京したこともありました。自分とは違って大変写真撮影が上手い友人で、雑誌の「鉄道ファン」の写真コンテストにも入賞していたことを思い出しました。

この頃の写真は今も運良く残しているので、デジタル化して皆さんにも見てもらうことができます。分厚いアルバムが4冊程あり、どれも大変懐かしい鉄道写真ばかりです。また順次懐かしい国鉄時代の画像を、エピソードを交えながら紹介させていただこうと思います。

電源荷物車カニ24見学記

2023年6月17日から京都鉄道博物館でカニ24の特別展示が始まるという情報を京都鉄道博物館のホームページで知り、ネットで事前に入館券と特別展示会のセットを購入しておきました。これまで鉄道博物館の外にある屋外留置線に置かれていて、車体の老朽化に伴い、現行の展示方法で必要となってくる構内の入れ替え作業等が困難になってきたことを理由に、展示を終了するとのアナウンスがありました。そして最終展示として特別に車内の見学もできるように特別展示として開催されることになったわけです。本日6月16日から18日、23日から25日の10時15分から16時40分まで公開されます。車両の展示は6月27日限りで終了されます。自分は今日、2023年6月16日の午後1時30分からの展示会に行ってきました。

このカニ24形12号車はいわゆる寝台特急客車列車の電源荷物車で、1976年製の車両になります。この塗色は晩年、「トワイライトエクスプレス」の編成に組み込まれた際に、同客車と同じ塗色にされたものです。本来は24系客車の電源を担う目的で1973年から製造が開始されました。車内には各車両に電気を供給するための2基の発電用ディーゼルエンジン(DMF31形エンジン)を搭載しています。ブルートレインと呼ばれた寝台特急の24系客車の端には、必ず連結されていた大事な任務を受け持つ車両といえます。

自分が中学生の頃に名古屋駅で終夜にわたり、ブルートレインを撮影していたことがありました。その時、この電源車のエンジン音がものすごく大きかったことが大変印象に残っています。深夜の駅ホームに大きなエンジン音が響いていたものでした。今回はエンジン音こそ聞くことはできませんでしたが、初めて電源車の車内に足を踏み入れることができました。自分が選んでおいた時刻に車両の近くに行って受付を済ませると、係の方が車内に案内して下さいました。車内にも係の方が2名おられました。わずか4分間という見学時間ではありましたが、大きな発電用ディーゼルエンジンを大変間近に見られたことは貴重な体験となりました。荷物室のところからエンジンの真横を通って、窓のある最短部の乗務員室へと進みました。小さい座椅子があり、各種計器類と蛍光灯がありました。思っていたよりも狭い感じがしました。願わくはここから流れ去る都会の夜景を眺めてみたかったものです。

大阪から札幌を結んでいた豪華寝台特急「トワイライトエクスプレス」の電源荷物車、カニ24  12号車が6月末で姿を消してしまうのは誠に残念ですが、最後に今回の特別展示会で車内を見せて頂くことができて大変有意義だったと思います。あとは自宅レイアウトで鉄道模型を走らせながら、良き時代の素晴らしい寝台特急を再現して楽しみたいと思います。

良き国鉄時代①~高校時代の修学旅行~乗り鉄の旅~

1977年、自分が高校2年生の時に修学旅行がありました。行先は北海道の道南地方でした。当時は飛行機を使用した修学旅行はほとんど無く、電車とバスでの移動がメインでした。自分たちの旅程は米原~東京まで新幹線(0系新幹線)、上野~青森まで特急「はつかり」(583系昼間利用で座席)。青森~函館は青函連絡船に乗船。札幌~函館は特急「北海」。(キハ82系)道内の洞爺湖、白老アイヌ村、有珠山等へは北海道中央バスの観光バスでの移動でした。札幌ではグループ別の自由行動があったと記憶しています。帰路は青函連絡船で青森に夜明け前について何と青森からは4時50分発の特急「白鳥」で敦賀まで乗りました。旅行の行程はあまりよく覚えていませんが、電車の長旅だけは大変印象に残っていて今でも良く覚えています。

当時は高校生でしたが、もちろん鉄道ファンで憧れの583系交直両用特急形電車に上野から終点の青森まで乗れたのはたまらなく嬉しかったです。地元では特急「しらさぎ」として走る同形式を見ていました。大好きな電車でした。クラスメイトと青いシートのボックス席に座りながら、揺れの大変少ない快適な乗り心地を堪能できました。食堂車(サシ581)にも友人と見学に行っていた写真も出てきました。夢のような青森までの約9時間の電車旅でした。

札幌からはディーゼル特急「北海」での移動でした。北海道は非電化区間がほとんどで、道内の各地へキハ82系特急形気動車が大活躍していた時代でした。確か乗車したのはもう夜になっていたと思うのですが、素晴らしいディーゼルエンジン音を響かせて北の大地を走ってくれていた記憶があります。上の画像は特急「北海」ではなく、同形式の名古屋~高山を結んでいた特急「ひだ」になり、名古屋へ撮影に行った時に撮影した写真です。この形式の気動車は登場時から大阪から青森までを結んでいた特急「白鳥」にも使われていました。上野からも同列車が設定されていて途中の直江津で併結されていました。今回の修学旅行の帰路で運良くこの特急「白鳥」にも乗車することができたわけです。

修学旅行最後の電車旅は素晴らしいロングランを楽しむことができました。当時の特急としては1052.9キロの最長距離を走る特急列車でした。485系交直両用特急形電車が使われて、関西と中京方面の特急「雷鳥」、「加越」、「しらさぎ」にも使用されていて国鉄の代表的な特急電車といえました。その特急に夜明け前の4時50分に青森から乗車して、お昼の駅弁を楽しみつつ日本海縦貫線の旅を敦賀まで堪能することができたのでした。敦賀に着いたのは17時前で、あたりが薄暗くなっていたと記憶しています。約12時間に及ぶ電車旅となりました。鉄道ファンにとっては、正に夢のような修学旅行となりました。

どの特急列車も今では廃止となっていて見ることができません。今では時々自宅レイアウトで修学旅行で乗った特急列車を走らせて当時を思い出しています。

ドクターイエロー見物~米原駅

2023年6月4日、日曜日。今日はドクターイエローが走る日なので、久しぶりに米原駅に出向きました。ドクターイエローが走る日はネット上でも事前にわかるようになり、中でも「こだま検測」は米原駅に停車するので沢山の親子連れで賑わっています。今回も日曜日とあり、ホームに溢れんばかりの親子連れで大変賑わっていました。以前なら「ドクターイエローを見かけたら、幸せになれる。」というフレーズが流行して、幸せを運ぶ新幹線として親しまれていました。自分もドクターイエローを撮影しだしたのは、ネットで走行予測なるものが出回り始めてからのことです。だいたい月に8回くらい出会えるチャンスがあります。今回は「こだま検測」なので、各駅に停車しながら線路と架線、信号システム等をチェックしながら走ります。現在ドクターイエローは2編成あり、T4編成とT5編成があります。今回はT5編成でした。

13時25分に東京からやってきたドクターイエローが、米原駅にゆっくりと入線してきました。ホームには待ち構えた親子連れで賑わっていて、皆さんスマホで撮影されていました。ドクターイエローのTシャツを着た子どもさんは、大はしゃぎです。やっぱり子どもたちにとってはヒーローです。停車すると記念撮影タイムが始まり、ホームがざわつき始めました。ドクターイエローのデザインは、引退した700系新幹線のスタイルを踏襲しているので、N700系の顔に慣れてしまっている現在では大変新鮮に見えます。そういえば米原駅に隣接している米原市役所の壁面には、伊吹山をバックに走るドクターイエローの大きな写真がありました。

通過する下り列車を待って、13時35分に警笛を鳴らしてゆっくりと京都に向けて走り出していきました。私も含めて見えなくなるまでドクターイエローを見送ると、ショーの終わりになります。皆さんは一斉に改札の方へ移動していかれました。入場券150円のショーも終わりになります。久しぶりに見たドクターイエローは、やっばり文句なしにかっこよかったです。次は伊吹山をバックにした走行シーンを撮影してみたいと思います。

鉄道模型でも日本車両夢工房製のT4編成を持っています。カツミが製作した模型で真鍮製の大変重量感のある模型になります。オークションで買ったのですが、たいへん高価な模型でした。近年、エンドウがプラスティック製品でT5編成を発売されたので、比較的入手しやすくなったのではないかと思います。やっぱり子どもさんに大変人気があり、親子連れで賑わうイベントの公開運転会でよく走らせていました。(2023.6.4)

☆これは以前に撮影した動画になります。下り「こだま検測」米原駅を発車して京都へ。