良き国鉄時代⑩~貨物列車・北陸交直両用機編~

自分が撮りためてきた国鉄時代の貨物列車は、現在のコンテナ列車はまだあまり多くはなく、東海道本線ではコキ10000系のフレートライナーを見るくらいでした。先頭は貨物機として活躍していたEF66形直流電気機関車で、黄緑色のワキ10000も数量繋いでいたりしたものです。地元ではコキ50000系のフレートライナーがEF70交流電気機関車の牽引で走っていたものでした。圧倒的に多く見られた貨物列車は「車扱い貨物」と呼ばれた雑多な貨車を連ねた長大な貨物列車の時代でした。広大な操車場もあちこちにあり、もちろん米原駅にも大きな貨物操車場がありました。今年が「国内鉄道貨物輸送150年」ということなので、特集して記事にしていきたいと思います。

今回は、撮りためた貨物列車の写真から交直両用電気機関車が牽引している貨物列車の写真を特集したいと思います。自分が中学生位の時代なので、やはり貨物列車を撮影しているのは少なく、ほとんどの写真は特急や急行の列車がほとんどでした。もっともっと貨物列車も撮影しておけば良かったと後悔しています。今回でこの特集は一応終了とします。

上の画像は1975年に自宅近くの北陸本線虎姫~長浜間で撮影したものです。ちょうど湖西線用にEF81形交直両用電気機関車が敦賀第二機関区に新製配置された頃で、その練習運転が始まった頃でした。いつもは見かけないピンク色の電気機関車が貨物列車を牽引していたので、遠くから慌てて撮影したものと記憶しています。米原方面に向かう上りの貨物列車でした。その頃の鉄道ファンの表紙にもなっていたのがEF81形交直両用電気機関車の練習運転でした。鉄道ファン1974年11月号表紙にED70形交流電気機関車との重連の写真が使われています。個人的に気に入っている写真になります。鉄道模型でもカツミのED70とエンドウ製品や天賞堂製品のEF81と重連で運転して当時を偲んでいます。

上の画像も1975年に北陸本線虎姫から長浜間で撮影したEF81形交直両用電気機関車とEF70形交流電気機関車との重連で牽引する上り貨物列車になります。望遠レンズを使っての撮影になります。新製されたばかりのEF81のカラーリングである赤13号、ローズピンクは「交直両用」を表す国鉄色で大変鮮やかで美しいカラーでした。475系交直両用急行形電車のカラーリングにも使われています。

上の画像は1975年に敦賀駅で撮影した湖西線山科方面行のフレートライナー、コキ50000形になります。湖西線開通後は優等列車や高速貨物列車は全て新しくできた湖西線経由で運転されるようになりました。当時は交流から直流に電気方式が切り替わる「デッドセクション」が湖西線内マキノ~永原間にあったために、敦賀は当然交流区間にある駅でした。写真のEF81は前側のパンタグラフがたたまれています。余談ですが、北陸本線の交流電気機関車はいつも2エンド側のパンタグラフだけ上げていましたが、このEF81形交直両用電気機関車については、交流区間については「前パン」姿は無くて、進行方向後方のパンタグラフを上げていました。

上の画像はちょっと小さいですが1985年3月13日に北陸本線の虎姫~長浜間で今は亡き父親が撮影してくれたEF81形交直両用電気機関車牽引の上り貨物列車になります。この日は14系客車で運用されていた急行「きたぐに」の最終運行日で、当時撮影に出向く気持ちが無かった自分に代わって父親が早朝の長浜駅で撮影してくれた日の写真になります。最終運用の日だけは知っていて、当時大津に住んでいたので実家に住む父親に無理を言ったのでしょう。慣れない鉄道写真を息子の言うままに撮影してくれたことに、今更ながら感謝しています。急行「きたぐに」を撮影する前に自宅近くで撮影してくれたものと思います。

上の画像は1976年に近江塩津駅で撮影した湖西線上り京都方面行のコキ50000形フレートライナーになります。EF81形交直両用電気機関車の両方のパンタグラフが上げられています。近江塩津を出ると大変高い高架線を渡っていく姿がみられて撮影のポイントにもなるような所を行くことになります。

最後になりましたが、上の画像は1976年に敦賀駅で撮影したものになります。湖西線、上り方面の貨物列車をEF81形交直両用電気機関車が牽引しています。次位には何とC58形蒸気機関車が繋がれていました。北陸方面から関西方面へ回送されている途中です。残念ながら、このC58形蒸気機関車が何号機で、いったいどこへ運ばれていったのかは全く解りません。梅小路に運ばれて整備されたのか?どこかの駅へ運ばれて陸送されて保存されたのか?最近では梅小路で整備されたD51200が下関のEE65に牽かれて山口に回送されたそうですが、写真のように貨物列車に繋がれてのSLの回送はこの当時だけでしょう。 というわけで、今回は自分の撮りためていた写真から交直両用電気機関車が牽引する貨物列車を特集してみました。車扱い貨物の列車が無くなってしまった今は、鉄道模型で懐かしい長編成の貨物列車を再現して楽しみたいものです。「タン、タン、タン」というリズミカルな2軸貨車のジョイント音は懐かしくて大変魅力的です。貨物列車は模型で楽しむのにもぴったりと言えそうです。

良き国鉄時代⑨~貨物列車・北陸交流機編~

国鉄時代の貨物列車は、現在のようなコンテナ列車はまだあまり多くはなく、東海道本線ではコキ10000系のフレートライナーを見るくらいでした。当時、牽引していたのは貨物機として活躍していたEF66形直流電気機関車で、黄緑色のワキ10000も数量繋いでいたりしたものです。地元の湖北地方ではコキ50000系のフレートライナーがEF70形交流電気機関車の牽引で走っていたものでした。その他に圧倒的に多く見られた貨物列車は「車扱い貨物」と呼ばれた雑多な貨車を連ねた長大な貨物列車でした。広大な操車場もあちこちの主要な駅にあり、もちろん米原駅にも大きな貨物操車場がありました。今年が「国内鉄道貨物輸送150年」ということなので、しばらく特集で記事にしていきたいと思います。

今回は、撮りためた貨物列車の写真から交流電気機関車が牽引している貨物列車の写真を特集したいと思います。自分が中学生位の時代なので、やはり貨物列車を撮影しているのは少なく、ほとんどの写真は特急や急行の列車がほとんどでした。もっともっと貨物列車も撮影しておけば良かったと後悔しています。だいたいの写真は家の近くの北陸本線で撮ったものです。

上の画像は1975年の冬に北陸本線の虎姫~長浜間で撮影した、EF70形交流電気機関車1次型(1号機から21号機まで)の牽く北陸本線上りの貨物列車でコキ50000系のフレートライナーになります。田んぼに雪があるので、真冬に撮ったものでしょう。撮影場所は自宅から歩いて10分ほどの国道8号線の陸橋、北側斜面になります。この当時の鉄道雑誌にもちょくちょく取り上げられていた場所になります。先頭のコキフ10000でしょうか?コンテナ1つ分の車掌室が懐かしいですね。

上の画像は1975年に同じ場所から撮影した北陸本線上りのフレートライナーになります。こちらはEF70形交流電気機関車2次型(22号機から81号機まで※22号機から28号機は1001号機から1007号機に改番)が牽引しています。1次型との違いはヘッドライトが2灯になったことと、機関車の側面にあるルーバー明かり窓の形状、運転席の窓の形状になります。パンタグラフは常に敦賀寄りの2エンド側を上げていました。

上の画像は1974年に撮影したEF70形交流電気機関車1次型の牽く北陸本線下りの貨物列車になります。長浜~虎姫間で撮影しています。いわゆる「車扱い貨物」の編成で、2軸貨車や無蓋車、タンク車などを約40両繋いで走っていました。当時、通過する貨物列車の両数をよく数えていたものです。最長級で42両あったことを覚えています。鉄道模型でもこのEF70形交流電気機関車は沢山持っており、天賞堂製が3両、カツミ製が3両、トラムウェイ製を2両持っています。貨物列車の再現には、旧製品のカツミーエンドウの2軸貨車やボギー貨車を沢山持っているので、長い編成にして楽しんでいます。実車同様にジョイント音が楽しいです。

上の画像は1975年に北陸本線の余呉駅近くにあるトンネルを出たEF70形交流電気機関車2次型牽引のフレートライナーになります。ここは線路と線路の間が沢山あるので、単線風の写真が撮れるポイントになり、よく撮影に行ったものです。秋の頃にはススキが沢山生えていて趣がある場所でした。トンネルから出てくる寸前の特急電車の撮影もしていました。また紹介できる機会もあろうかと思います。

同じ場所で1975年の冬場に撮影した写真も出てきました。こちらはEF70形交流電気機関車の1次型がコンテナ貨物のフレートライナーを牽引しています。鉄道模型でもこのコンテナ貨物は沢山持っています。トミックス製のコキ50000形とコキ104形を合わせて20両程持っており、夏に開催された長浜慶雲館での運転会では子どもたちに大変人気がありました。もっぱら牽引機はこのEF70とは違って、EF510ことレッドサンダーにしていましたが。

上の画像は1976年に北陸本線の敦賀で撮影した、EF70形1000番台交流電気機関車牽引の貨物列車になります。パンタの上げ方から敦賀から田村に向かう下り列車のようですね。この1000番台は20系寝台特急用に22号機から28号機から改造されて誕生しました。スカートには20系との連絡に使う特別なジャンパ栓や電磁ブレーキ用連結器等も増設されており、ブレーキ性能が110km/h運転対応になっています。写真のように貨物列車や普通列車の運用にもついていました。写真の1001号機は現在、碓氷鉄道文化村にて静態保存されています。

上の画像は1975年に虎姫~長浜間で撮影した写真です。下りの485系特急「白鳥」を撮っていたのですが、すれ違った貨物列車はク5000形の上り車運車貨物列車でした。EF70形交流電気機関車が牽引していたと思われます。懐かしい車掌車ヨ5000が最後尾に連結されていて、列車掛も乗車していたのだと思われます。シートを被せた新製自動車が満載されていました。当時の自動車輸送の30パーセントを鉄道が担っていたそうです。その後、カーキャリヤーに替わっていき1985年にほぼ廃止となりました。鉄道模型では以前にも書きましたが、天賞堂製のク5000を10両ほど持っています。今でも当時を偲んでは80分の1のミニカーを積んでEF70やEH10に牽かせて楽しんでいます。以上、今回は貨物列車、交流機編をお届けしました。いかがだったでしょうか?いずれも国鉄のあった時代の写真で、大変懐かしい思いで一杯です。このような貨物列車も今では鉄道模型でしか再現することができません。

良き国鉄時代⑧~貨物列車・直流機編~

自分が撮りためてきた国鉄時代の貨物列車は、現在のコンテナ列車はまだあまり多くはなく、東海道本線ではコキ10000系のフレートライナーを見るくらいでした。先頭は貨物機として活躍していたEF66形直流電気機関車で、黄緑色のワキ10000も数両繋いでいたりしたものです。地元ではコキ50000系のフレートライナーがEF70形交流電気機関車の牽引で走っていたものでした。圧倒的に多く見られた貨物列車は「車扱い貨物」と呼ばれた雑多な貨車を連ねた長大な貨物列車の時代でした。広大な操車場もあちこちにあり、もちろん米原駅にも大きな貨物操車場がありました。今年が「国内鉄道貨物輸送150年」ということなので、しばらく特集で記事にしていきたいと思います。

EF65500Fが牽くフレートライナー。コキ50000系。米原~醒ヶ井間

まず初回は、撮りためた貨物列車の写真から直流電気機関車が牽引している貨物列車の写真を特集したいと思います。自分が中学生位の時代なので、やはり貨物列車を撮影しているのは少なく、ほとんどの写真は特急や急行の優等列車がほとんどでした。もっともっと貨物列車も撮影しておけば良かったとまた後悔しています。撮影ポイントは米原界隈が多く、京都と笠寺で撮影した写真もありました。鉄道模型では65はスタンダードな釡で、カトー製が7両。天賞堂製は13ミリゲージを含めて3両ほど所有しています。65シリーズで一番好きなタイプは1100番台になります。

米原~醒ヶ井間で撮影した65牽引の貨物列車

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井の東海道本線も上りの貨物列車をアウトカーブから撮影したものになります。雑多な車扱い貨物列車の先頭に立っているのは、EF65形直流電気機関車になります。この電気機関車は直流電気機関車のスタンダードで、米原機関区にも沢山在籍していました。次位にはタキのタンク貨物を付けて、あとは有蓋貨車のワム80000やワラ1といったところでしょうか。「タン、タン、タン、タン」というリズミカルなジョイント音が聞こえてきそうですね。

米原~醒ヶ井で撮影した65Fの貨物。

上の画像は1976年に同じポイントで撮影したEF65形500番台直流電気機関車が牽く貨物列車になります。この特急色をまとった65は高速対応の65といえ、当時の東京から下関の寝台特急を毎日牽引していました。この500番台はスカートにいろいろな機器が付けられている通称500F と呼ばれる機関車でした。下関から東京・築地を結んだ鮮魚列車の高速牽引に走り始めた頃は重連で使われていました。鉄道模型でもこのタイプの65を天賞堂製で持っています。やがてこの鮮魚特急はEF66形直流電気機関車が担当することになります。この日は普通貨物列車で、トキとワムの貨物編成を牽引していました。

今や大変人気のある「ニーナ」が牽くフレートライナー。

上の写真は.1976年に撮影したEF66形直流電気機関車が牽くコンテナ貨物、フレートライナーになります。なんとこの機貨車は27号機で、「ニーナ」という愛称でファンに親しまれていた有名なEF66でした。現在は吹田に居ると思われます。ワキ10000形式を2両繋いだコキ10000の編成の高速貨物列車になります。

米原駅に入線するEF66牽引のフレートライナー。

上の画像は、雪の米原駅1番線を西に下って通過していくEF66形直流電気機関車が牽く下りフレートライナーになります。米原駅で駅撮りしている時に見かけて撮影したものだと思います。この頃は66は貨物専用機関車として活躍していましたが、やがては東海道スジの寝台特急牽引をするとはまだ夢にも思っていなかったことでしょう。それも一番長い間のブルトレ牽引期間になるろうとは。電気機関車にもやっぱり運命というものがありますね。鉄道模型ではトミックス製を2両、天賞堂製をカンタムを含めて2両所有しています。自由形のカツミ製のED66形電気機関車も持っています。鳩胸スタイルの大変素晴らしいデザインの電気機関車になります。

65Fが65を次位に付けた貨物列車が京都駅に侵入。

上の画像は1974年に京都駅に撮影に行った時に、たまたま入線してきた65重連牽引の貨物列車を撮影したものになります。先頭がEF65 500番台の貨物用機、そして次位は同じくEF65の一般塗装機でしょう。むかしの貨物列車は先頭の次位に回送機関車を連結して運転されていることもよく見受けられまた。蒸気機関車も先頭機関車の次位に繋いて回送されていることも見たことがあります。

EF65PFが牽くク50000車運車の回送貨物列車。

上の画像は1979年5月10日の6時30分位に、自分が大学生となり名古屋に下宿していた時、早朝にバイクで笠寺駅を跨ぐ陸橋まで行って東海道を上る列車を撮影したものです。当時はよく見かけたク5000形自動車運搬車ですが、これは回送列車のようで貨車に自動車は積まれていませんでした。鉄道模型でもこの車運列車をEH10やEF60、EF70等に牽かせて運転を楽しんでいました。この時の撮影目的は、東京へ向かうブルートレインを撮影することでした。名古屋あたりでは東京行きの寝台特急のブルートレインは「みずほ」、「さくら」を十分撮影することができたからです。

以上、今回は貨物列車の特集と題して直流機関車版をお送りしました。いかがだったでしょうか?次回は交流機編をお送りする予定です。今回の直流機編より写真のストックが多くなっているので存分に楽しんでいただけるものと思います。現在、京都鉄道博物館では「貨物鉄道輸送150年」にまつわる各種イベントを開催されているとのことです。また自分も足を運んでみてもいいかなと思っています。

5インチゲージの祭典~ミニSLフェスタinおやべ2023~

今回のイベントに持ち込んだ「MO-7」

2023年9月17日(日)と18日(祝)で富山県小矢部市にあるクロスランドおやべに行ってきました。「ミニSLフェスタinおやべ」に参加するための北陸旅行となったわけです。自分の5インチゲージ車両3両を愛車ジムニーに積んでいきました。行先が北陸方面という事で、家内も好きな場所であることから同行することとなりました。私がイベントに参加している間は車であちこちへドライブを楽しんでいたようです。幸いにも真夏を思わせる好天に恵まれてなかなか楽しめた2日間となりました。ただ、2日目の朝はけっこうまとまった雨になり、5インチゲージの車両が濡れてしまうというハプニングに見舞われてしまいました。幸いにして電気系統へのトラブルはなく、自分の座席が濡れていてお尻が冷たかったくらいで済みました。そして、イベントのスタート時間が11時ころになってしまいました。今回の記事はそんなイベント参加のレポートをお届けしようかと思います。

クロスランドおやべのシンボルタワー

北陸道の工事が何ヵ所かあるというので早朝5時30分に自宅を出発して北陸道を北に向かって走りました。積み込んだ5インチゲージの車両も、乗せる板を製作して、車両をロープでしっかりと固定したので大変安定して運搬することが出来ました。左側のミラーが少し見にくかったくらいでした。途中、休憩をしながら小矢部インターには8時過ぎに着くことが出来ました。渋滞らしい渋滞もなく少し早めの到着となりました。会場に着いて、受付を済ませてからいよいよ5インチゲージ車両をヤードに降ろしていきました。フェスタのスタッフさんが、「手伝いましょう」と快く車両をヤードの線路に載せて下さり、嬉しく思いました。初めての参加を伝えると「どうぞ楽しんでいってくださいね」と笑顔で対応して下さいました。車両組成をして、今回製作したトレーラーの手すりも無事に取り付けられました。電源も入って、駆動系も大丈夫で安心しました。9時30分から開会式が出発線エリアで行われました。キャラクターも居て、和やかな雰囲気の中1番列車が汽笛を響かせて、たくさんのお客さんを乗せて発車していきました。来春に敦賀までやってくるW7系北陸新幹線の編成は大変長くて、迫力ある編成でした。沢山のお客さんを運客していました。

以前、蓮華寺運転会で運転させてもらったマウンテンの隣に

そしていよいよ自分の運転する5インチゲージ「MO7」の出区時が来ました。ポイントを渡ってホームに向かいます。たくさんの車両が居るので、渋滞しながらの入線でした。手動のブレーキも使いながら、乗り込み場所で停止。スタッフは「貸し切りのトロッコに乗る人はいませんか」とアナウンスしてくれました。お父さんと3歳くらいの息子さんが初の乗客となり、足をステップに乗せてもらう事だけ注意喚起して、出発進行です。勾配区間をカーブして全力で駆け上がり、平坦線へ。自宅では出せなかったフルスピードで軽快に走りました。乗客の親子も嬉しそうに乗ってくれていました。自分は機関士らしく「第一閉塞、進行」とか喚呼しながら運転を楽しみました。大きなカーブを過ぎると右手に大きな池を眺めて速度が上がります。緩やかな下り坂を走ると出発したホームがやってきて、通過線を通過していきます。ホームから出発する列車があるので、駅員さんの指示に従います。通過してまた少しの登り勾配になります。そこには踏切もあります。大きな自衛隊の保存ヘリコプターを左に見て山線の雰囲気を過ぎると赤い鉄橋がありました。ここにも池があって深い青色が印象的でした。左にカーブしてまた右にカーブすると「くりからトンネル」がありました。そこをくぐると降車地点がやってきます。ちょうど出区したヤードの先にありました。「乗ってくれて、ありがとうございました。」と親子に言うと、お父さんが軽く会釈されて親子共々笑顔で車両から降りられました。何とも言えない楽しい瞬間でした。自分がかつて夢見ていたことがまたひとつ実現できた思いで感無量でした。

クロスランドおやべの常駐車両
たいへん見事な「ななつ星」も居ました

運客のある常設レイアウトは全長600メートルのコースで、長い運転を楽しむ事が出来ましたが、今回は特別にクロスランドおやべの円形広場の周囲にも全長600メートルの線路が敷いてありました。向こう側が霞むくらい大きな広場で、大変緩やかな大カーブを運転することが出来ました。こちらの線路へは運客せずに移動していくことになります。自分もお客さんが乗らない時を利用して何回か特設線路での運転を楽しませてもらいました。途中に居られる警備員さんに敬礼をして、思う存分に運転を楽しむ事ができて大満足でした。後続の列車がはるかに遠くなので、木陰に停めてドリンクホルダーの飲み物を飲むこともできました。真夏の思わせる天候で、5インチゲージをやっておられる方からの「車両にドリンクホルダーを付けると良い」というアドバイスは大変為になりました。

円形広場に作られた全長600メートルの線路を行く

お昼頃には主催者がお弁当とお茶を用意してくださったので、ヤードに車両を入れてから木陰でいただきました。近くに居られた神戸からの方と談笑しながら休憩ができました。素晴らしい蒸気機関車の5インチゲージのメンテナンス作業も間近に見ながらの至福の昼食でした。午後からも水分を取りながら、たくさんの親子連れや小学生くらいの男の子一人だけ、また親子3人のお客さんを乗せながら午後3時すぎまで運転を楽しみました。懸念したバッテリーの出力低下もほとんどなく、モーターは熱を持ちながらも最後まで元気に走ってくれました。2日目は雨で開始時間は11時になりましたが、天候も回復して真夏日の中楽しい運転を午後3時まで存分に楽しませて頂くことができました。バッテリーは一応持参した新しいものに替えて使用しました。夢の時間を提供して下さったクロスランドおやべのイベント関係者の方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。

宿は新高岡駅前のホテルを取り、温泉とお寿司を楽しみました。家内共々良い気分転換ができました。
北陸新幹線の新高岡駅には、JR城端線の駅もありキハ40やキハ47が見られます。

良き国鉄時代⑦~食堂車の思い出~

中3の春休みに一人旅で乗車した寝台特急「さくら」号。名古屋駅にて駅員さんに許可を得て撮影。

国鉄時代の優等列車にはグリーン車と並んで食堂車が連結されていました。自分が中学生だったころにはまだ食堂車か利用できる特急列車があったものです。当時地元を走り抜けた大阪発金沢・富山行きの特急「雷鳥」や「白鳥」にも食堂車が繋がれていました。その当時のグリーン車は2両連結されており、大変豪華な編成でした。自分は残念ながら北陸本線を走る特急列車の食堂車は利用したことがありませんでした。自分が食堂車を利用したのは、キシ80形食堂車とブルートレインの14系特急形寝台客車編成のオシ14になります。1976年3月、中学3年生の終わり高校受験が終わって合格が決まった春休みに、お祝いとして親から「乗り鉄一人旅」を許してもらいました。当時の憧れだった寝台特急「さくら」号に乗ることを大きな目的として、京都までは普通電車で行って、京都からはキハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」でひたすら山陰本線を走り抜けていく旅でした。下関には夜に到着して、そこから上り寝台特急「さくら」号に乗っていきました。銀色の交直両用電気機関車EF81 300番台に牽かれてホームに現れた寝台特急「さくら」号。この駅から東京まで牽引するEF65 500番台直流電気機関車に交換です。わくわくしながら列車に乗り込み、カレチ(専務車掌)さんにサインをいただいたりして、ほぼ眠ることのないようなブルトレ乗車を楽しみました。翌朝に名古屋に到着して機関車の撮影をしました。食事は両方の列車ともに食堂車を利用したのを覚えています。食べたメニューは「カレーライス」でした。銀色の分厚いお皿に盛られたカレーライスは車窓の景色を楽しみながら美味しく食べていました。「まつかぜ」では日本海の海岸線を軽快に走っていたので絶景の車窓でしたが、「さくら」は流れゆく夜景を眺めながらの食事でした。夢のような乗り鉄旅をすることができて大満足でした。

京都から下関まで乗車した特急「まつかぜ」。
寝台特急「さくら」号の食堂車オシ14の車内。
一人旅の夕食は食堂車での「カレーライス」。オシ14にて。
キハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」の食堂車キシ80にて。

中学卒業前の一人旅。特急列車乗り継ぎの贅沢な旅は、今になってもよく覚えており大変印象に残った「乗り鉄」となりました。また一人気ままな乗り鉄の旅に出かけてみたいと思う今日この頃です。でも食堂車での食事は残念ながら叶いません。

上の画像は15歳の春休みに行った一人旅の前に、今は亡き父親と一緒に名古屋を経由して白浜から天王寺へと旅行(乗り鉄)に行った際に乗ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」の食堂車の様子になります。この時もやはりカレーライスを食べていたと思います。この頃から食堂車で食べるメニューをこだわって決めていたのでしょうか?もっと他のメニューを食べていたら良かったのにと思います。この旅は名古屋からキハ58系の急行「紀州5号」に乗ったと記憶しています。夜行列車であり、一晩中ディーゼルの音を聞きながら過ごしていました。父も自分もゆっくりと眠ることができず、翌日は降車する駅を寝過ごしてしまった記憶があります。周参見という駅で急行を降り立ちました。乗り過ごしたので幾駅か戻ってから、天王寺行きの特急「くろしお」に乗ったのでしょう。珍道中になりました。天王寺についてからは大阪環状線(まだ103系のオレンジ色編成でした)で弁天町に行って、「交通科学館」に行ったと思います。ただ列車に乗るだけの旅でしたが、何1つ文句を言わずに連れて行ってくれた亡き父親に感謝の思いが湧いてきます。

上の画像は20系寝台特急「日本海」が田村で機関車交換をしている時間に食堂車のナシ20を撮影したものになります。交流電気機関車のEF70 1000番台かここまで牽引してきて、ディーゼル機関車のDE10に機関車の交換をしていた時のものになります。朝の6時少し過ぎですがもう食堂車のスタッフがテーブルを囲んでおられました。朝食のサービスも大阪に到着するまであったのでしょう。まさに良き時代でありました。

アルバムにもう1枚あった食堂車の写真。キシ80でしょうか?当時の食堂車の営業は「日本食堂」でした。

旅で列車に乗ったらご当地の名物駅弁に舌鼓を打つのが現在の定番ですが、自分の指定席を離れて食堂車に向かって、そこで食事をするのは大変贅沢で趣のあるものだったと思います。現在では、一部の豪華特別列車や特別な観光列車でしか経験することが出来なくなってしまい残念に思います。ごく普通に特急列車に乗っていて、普通に食堂車で食事をとることが出来るということが出来なくなってしまいました。鉄道模型では食堂車は今も健在です。485系、583系、475系、153系、20系、24系25形各編成の食堂車を所有しています。そして100系新幹線でも二階建ての食堂車を所有しています。バブル期に東海道を走っていた2階建て新幹線が懐かしいです。100系新幹線のV編成では2階建て車両が4両もあって壮観でした。また自分は見たことがありませんが、急行形電車の165系153系や475系にも「サハシ」という形式の普通客席とビュッフェが合作された食堂車がありました。東海道線を走っていた急行「なにわ」、「ろっこう」等にも使われていて、なんとお寿司屋さんが腕を振るわれていたようです。走る電車のビュッフェで握りたてのお寿司を食べてみたかったものです。なんと贅沢な話でしょうか。まあ、鉄道模型で食堂車を編成に組み込んで走らせながら食堂車全盛期に思いを馳せてみたいと思います。