「北陸本線の歩み」展示を見てきました

2024年2月24日(土)に福井県越前市にある「いまだて芸術館」で現在開催されている「北陸本線の歩み」展示会に行ってきました。福井出身の元職場の同僚から情報をいただき、是非行って見たいと思っていた展示会でした。家族のミニ旅行も兼ねて、家内と家内の親しい友人と3人で出かけました。自宅を8時に出発してまずは越前蕎麦の美味しいお店に行きました。「うるしや」さんは人気店のようで、開店時間前に並んで順番をとりました。珍しい少し辛めの茶蕎麦をいただきました。お店は福井県の伝統的建造物で築400年とお聞きしました。大変雰囲気のあるお店で、お蕎麦もたいへん美味しかったです。この越前市は「蕎麦の激戦区」と言われているようで、沢山の蕎麦屋さんがあります。店によって味と価格もいろいろの様でした。そして今回の自分の目的である「北陸本線の歩み」展を見学する為に「越前市いまだて芸術館に行きました。

展示コーナーに入ると、まずは北陸本線で活躍していた懐かしい特急列車の写真が展示されていました。トワイライトエクスプレスや485系特急「雷鳥」など、自分も撮りためてきた列車の写真がお出迎えしてくれました。

どれも福井県内で撮影された写真でした。寝台特急「日本海」の写真や475系急行「ゆのくに」等の写真もあり、いかに北陸本線が特急街道として大事な役割を果たしていたかが解りました。3月16日からは北陸新幹線が敦賀まで延伸して、北陸本線に変わる新たな動脈として誕生することになります。

こちらは大変懐かしい普通客車列車の車体横中央に吊り下げられていた「サボ」になります。自分も何枚か購入してレイアウトルームに飾っています。ホーロー板という材質の鉄の板に書かれた行先表示は、大変趣がありました。どれも裏側にも行先が書かれています。昔、米原駅のホームに、これらのサボが縦にされて沢山入れられた箱があったものです。

上の画像はおそらく国鉄最後の日に列車の先頭に掲げられたヘッドマークだと思います。金沢鉄道管理局という表記も国鉄時代のものでした。大きさから見てEF81形電気機関車に飾られたのではないかと思います。

上の画像は先日の金沢への撮影旅の時に買った「かにめし」のパッケージになります。福井の駅弁として人気があります。蟹の形をした容器はずっと続いているようです。

駅弁のパッケージが奇麗に展示されていて、旅情を誘ってくれていました。北陸の食材を生かした弁当。中には特急列車の写真がパッケージになった記念弁当もありました。

上の画像は駅弁と一緒に売られていた「汽車土瓶」と「お茶入れ」になります。自分は汽車土瓶は知らず、左側に展示してあったポリ容器に入って売られていた「お茶」を買って飲んだ記憶があります。暖かい緑茶が入っていて、駅弁と一緒に買っていました。大変懐かしいパッケージです。

上の画像は国鉄時代の切符になります。当時は「硬券」といって、厚手の紙に印字された切符が使われていました。自分もこのような切符を使っていた記憶があります。改札では駅員さんがハサミで切符に切り込みを入れてくれたものです。

上2つの画像は、今回の展示の目玉といえる手作り蒸気機関車の設計図になります。大詳しくかつ精巧に書かれていました。

今回の展示の主役、橋本昭二さんは国鉄で蒸気機関車の機関士として仕事をされながら、10分の1の蒸気機関車の模型を全て手作りされていた方でした。

いわゆる実際に石炭を燃やして実物同様に走らせる蒸気機関車、ライブスティームを作られました。ゲージは107ミリゲージというものですが、実際の形をそのまま10分の1にして製作されているので、まるで5インチゲージのような大きなライブスティーム模型でした。C58形とD51形の2両が提示されていました。今にも動きそうな蒸気機関車たちでした。

出展者本人のプロフィールが書かれたパネル。
動輪からボイラ、車輪のパーツも提示されていました。すべて橋本さんが手作りされたものです。
石炭と水を積む炭水車の台車も、精巧な設計図を基にして手作りされていました。
左がD51、右はC58。
C58
D51

この日、偶然にも展示会に合わせて出展されている橋本さんのご親族が集まられていました。橋本さんの娘さんともお話させて頂くことができました。鉄道好きの父で家にはまだたくさんの蒸気機関車の模型や部品、工作機械が置いてあるそうです。20人くらいおられた故橋本昭二さんのご親族が展示模型の前で記念撮影をされていました。さぞや故人も喜んでおられたことでしょう。素晴らしい展示会に来させていただくことができて有意義でした。3月3日(日)まで無料で開催されています。美味しいお蕎麦も食べられるので、良かったら足をお運びください。帰りには福井鉄道福武線の北府駅に立ち寄り、美しく展示されている福井鉄道200系を暫し見学しました。美しく当時の姿に再現されており、北府駅鉄道ミュージアムのシンボルになっているようです。今度またゆっくりと訪れたいものです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

橋本さんが機関士として活躍されていた舞台。旧北陸線山中越えを再現しました。

金沢への撮り鉄旅~北陸格安フリー切符を使って~

JR西日本から発売されている「北陸おでかけtabiwaパス」が2月15日から通常の半額の格安で入手できることを友人からの情報で知り、WESTERアプリを入手して電子チケットを購入しました。そして急遽思い立って2024年2月21日(水)に金沢へ出掛けてきました。目的は3月16日から敦賀止まりになってしまう北陸本線の名門特急「サンダーバード」と「しらさぎ」を撮影することと乗車することです。敦賀からの以北では見られなくなってしまう683系交直両用特急形電車に廃止となってしまう区間の金沢から敦賀までを乗っておきたいという思いも強くなり決行しました。観光客が多くない平日を選びましたが、あいにくの雨模様の旅となってしまいました。

自宅から少し北にある北陸線の河毛駅に車を停めて、8時29分発の敦賀行きに乗りました。通勤通学時間帯も終わって車内はほぼ自分1人の貸し切り223系でした。敦賀まではフリー切符は使えないので正規の料金で乗りました。車窓からは雨の街並み、そして山が広がっていました。敦賀駅手前からは北陸新幹線敦賀駅に乗り入れる為の新しくできた引き込み線を確認することができました。この線は683系専用の線となり、新幹線駅の真下に乗り入れます。乗り入れの試運転も始まっているようです。

奥の仕切りの向こう側から新幹線駅となります。
左が新幹線敦賀駅の高架。37メートル、12階建てのビルの高さにあります。
3月16日からは見られなくなる行先表示。
3月16日からは521系も新色が加わります。
敦賀駅のホームにある案内も見納めになります。
電子切符のスマホ画面。下にあるリアルタイム表示は不正防止ですね。

敦賀で一旦改札を出てから、この電子切符を使います。慣れない電子切符の扱い。毎回緊張してしまうのは歳のせいでしょうか。WESTER会員のログイン操作をして切符管理のアイコンからからメールで送られてくる6桁の数字を入力してやっと使うことができるようになります。駅員さんに見せて入場して、9時53分発の福井行き521系普通電車に乗りました。ここからの区間は3月16日からは第3セクター、「ハピラインふくい」となり521系もピンク色の塗装に変更されます。ピンク色の可愛らしい521系が誕生することになります。

敦賀を出て直ぐに北陸トンネルに入ります。長さ13870mのトンネル、中は緩い勾配になっています。やはり1972年に起きたトンネル内火災事故が脳裏をよぎりました。「火災でもトンネル内で停車しなかったら良かったのに」といつも思ってしまいます。当時、トンネル内火災時には緊急停車することになっていたようです。トンネル走行音を聞きながら自然と静かに手を合わせていました。トンネルを出ると南今庄、今庄と自分も廻った「旧北陸線トンネル群」のあるところを通過します。今庄には蒸気機関車の給水塔も残されています。そして南条~王子保には自分のレイアウトのモチーフとなった「ロックシェード」があります。このロックシェードは下り線のみにあり、北陸線が単線から複線になった際に新しい線路と一緒に作られたのではないかと推測しています。山並みを眺めながら10時50分に福井に到着しました。

福井から金沢までは521系3次車4連での運用。

福井では乗り継ぎの時間があまりないのでホームで撮影してすごしました。工場の中にいるような駅の天井でした。雪国の積雪に強い構造に作られているのでしょう。福井からは11時13分発の4両編成の521系に乗車して終点の金沢を目指しました。九頭竜川の鉄橋を渡り、軽快に走っていきます。福井からの乗客は80パーセントくらいの乗車率でした。そして約1時間30分の乗車で終点の金沢に到着しました。

自分の苗字と同じです。
521系の3次車。1、2次車とはライト周辺が変更されました。
金沢駅に到着した「しらさぎ」。

またスマホで電子チケットを提示して改札を出ました。そして電子チケットに付属していた「割引券」が使えるお店を探して、とりあえず昼食の弁当とお土産のクラフトビール、甘えびチップスを購入しました。3000円以上の買い物で300円を値引きしてもらいました。またアプリにもポイントを入れてもらえました。せっかく金沢まで来たのだからと、雨のなか兼六園口にある鼓門を撮影しました。

金沢駅のシンボルの鼓門。

そして帰りの金沢から敦賀まで乗車する予定の「サンダーバード28号」の特急券・指定券を購入しました。今回の北陸フリー切符では、特急券だけ別に購入すれば特急にも乗ることができます。これは「青春18きっぷ」には無い嬉しいサービスになります。また電子チケットを見せて入場し、大阪方面のホームでしばしの撮り鉄を楽しみました。金沢総合車両所から次々と683系がやってきました。「サンダーバード」に「しらさぎ」、「能登かがり火」の各特急電車になります。1時間ほど撮影していました。やがて自分が乗車するサンダーバード28号の入線時刻になりました。

左が「サンターバード」、右は「しらさぎ」。この並びもあと少し。

乗車後、席についてからしばらくすると14時20分に発車のアナウンス。金沢を発車して直ぐにチャイムが流れます。「北陸ロマン」は故谷村新司さんの楽曲で、旅情を掻き立てられるメロディで気に入っています。そして先ほど買い求めた駅弁をゆっくりと頂きました。昼食となってしまいましたが、「蟹弁当」は美味しく、ついでに缶ジュース風の蟹雑炊も頂きました。

駅弁の「かにめし」と蟹雑炊の缶ジュースタイプ。

左手に北陸新幹線の高架を見ながら683系は時速130キロ近くで快走していきました。あっという間に小松に到着です。そして加賀温泉、芦原温泉、福井と停車していきます。福井を出ると鯖江、武生そして敦賀に到着してしまいました。もっともっと乗っていたい気持ちを振り切って下車し、また電子切符を提示して改札をでました。そしてまた普通にイコカを使い、河毛まで帰りました。3月16日の北陸新幹線敦賀延伸開業で「サンダーバード」と「しらさぎ」は敦賀止まりの運転になり、新幹線に接続する「リレー号」となります。敦賀での乗り換えなしで北陸へ快適に旅ができたことは関西人にとっては「北陸ロマン」を満喫できる鉄道旅だったように思えてなりません。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

サンダーバード28号、金沢発車。心にしみる北陸ロマンのチャイム。

私が撮った新幹線電車

300系さよなら運転~米原通過

今回は私が撮影した新幹線の特集をお届けします。子どもの頃から鉄道写真を撮影しに行っていた米原駅。その一番西側には新幹線ホームがあります。初代新幹線0系には初めて家族で乗りました。京都か新大阪までを往復したのを覚えています。0系は引退してかなり経ちましたが、ありがたいことに京都鉄道博物館で静態保存されています。0系が活躍していた頃、夜に米原付近で見かけると屋根上からのスパークが奇麗だったのを覚えています。

上の画像は米原駅を俯瞰する陸橋から撮影した下りの0系になります。懐かしい丸みを帯びたデザインは子どもの頃からなじんでいた「新幹線」でした。中学校の修学旅行も米原から東京まで0系に乗りました。

上の画像は伊吹山をバックに走る0系新幹線になります。かなり小さくて0系が見つけにくいです。東海道からは1999年に引退しました。

そしてバブル期1985年にデビューしたのが100系新幹線でした。2階建て新幹線として呼ばれ、2両から4両の2階建て車両を組み込んでいました。自分はG編成と呼ばれた2階建てビュッフェとグリーン車を組み込んだ100系によく乗りました。そして2004年の東海道での引退の時は、名古屋から米原まで2階建てグリーン車に乗った記憶があります。高い位置からの眺めは素晴らしかったものでした。

上の3つの画像は米原駅で撮影した100系新幹線になります。

上の3つの画像は米原駅で撮影した300系新幹線になります。1992年3月14日に「のぞみ」号としてデビューした新幹線で100系より大幅なスピードアップがはかられました。私はこの300系の上り一番電車をたまたま大学時代の友人たちと一緒に三河安城のシティホテルから見たのを覚えています。デビュー当時は夜遅くの「のぞみ」に投入されていました。本当にあっという間に走り去って行きました。そして引退が決まった2012年3月13日には米原から京都までを往復して乗ったのを覚えています。100系とはかけ離れた先頭車デザインに大変驚いたものでした。現在は名古屋のリニア鉄道館に保存されています。

米原近くで撮影した300系新幹線。

2012年3月3日に米原駅で300系新幹線の撮影をしました。「今日は下りの団体専用も走るとあって、駅のホームを埋め尽くすくらいのファンが居ました。10時25分にステッカー付きの下り団体列車(JR東海のJ57編成)を撮影しました。

上の画像2つは、戦闘機を思わせるフロント・ビューで人気の高い500系新幹線が、2010年の2月28日に東海道筋から引退してしまう前の、2009年12月に米原駅で撮影したものになります。2009年当時、上下1本ずつ(上り6号、下り29号)が「のぞみ」としての最後の力走をしていました。新幹線を撮影するのは100系新幹線の引退の時以来ですが、久しぶりに米原駅のホームから「のぞみ6号」を撮影してみました。引退には惜しい見事なスタイルとスピードでした。(上りのぞみ6号、米原駅通過10:11でした。)300系新幹線よりも早く東海道から引退してしまいました。まだ乗ったことがありませんが、新大阪から南の山陽新幹線で活躍しているので短くなった500系に乗ってみたいと思っています。

2020年2月末から運転された700系C編成にはさよならのロゴが貼られました。

上の画像は米原駅近くと駅で撮影した700系新幹線になります。1999年3月13日に東海道にデビューして活躍して、2020年には引退してしまいました。引退記念列車は2020年3月に予定されていましたが、コロナ禍となってしまい実施されませんでした。自分は2020年の2月に名古屋から京都まで「のぞみ」に乗り納めをしました。全区間をビデオ撮影しており、今でも見ることがあります。米原駅を通過していく様子も撮影していました。

上の画像は2007年から運用を開始した現在の新幹線、N700系になります。米原駅にてデビュー間もない頃に撮影しました。まだAもSも走っていない頃になります。

上の画像は2016年頃夏に撮影した923系ドクターイエローT5編成になります。米原を夕方に通過して東京に向かう上りの「のぞみ検測」になります。この923系も何時走るのかがネットで解るようになってから、何回も米原駅や米原近くで撮影するようになりました。偶然に見られたら幸せになれるとされたドクターイエローですが、走る日時が解るのでありがたみが無くなってしまったように思います。

今回は以上になります。鉄道模型でも東海道新幹線はほとんど所有しています。0系は造形村製で6連とカツミ製の旧製品を12連持っています。100系はカツミ製で2階建て車両2両を含めて10連、300系はカツミ製でフル編成の16連、700系はカツミ製で10連。そしてN700系はカツミ製で10連、923系ドクターイエローは日本車両夢工房製でフル編成の7連を所有しています。東海道以外では200系東北新幹線H編成を8連で持っています。この200系は100系と同じスタイルの車両で2階建て車両も現在2両製作中です。なかなか完成しませんがこの機会に塗装まで進めてみたいものです。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

※リニア鉄道館には0系、100系、300系、700系、N700系、922形新幹線が展示されています。また京都鉄道博物館には0系、100系、500系新幹線が展示されています。

87分の1の新幹線 全てカツミ製。
自宅レイアウトで開催した「新幹線祭り」。ホームのモチーフは新幹線の米原駅です。923系は日車夢工房製、あとは全てカツミ製になります。
300系新幹線、自宅レイアウト新幹線ホームにて撮影。

良き国鉄時代㊵~北陸赤罐たちの活躍~

今回の「良き国鉄時代」は、1973年から1976年にかけて地元で撮影した写真を中心とした北陸線の赤罐(赤い電気機関車)の特集になります。これまでに未発表の写真を紹介していきたいと思います。いよいよ来月16日には北陸新幹線が敦賀までやってきます。これにより敦賀~金沢間は第三セクターとなり、北陸線は「米原から敦賀まで」の短い路線になってしまう現実が待っています。「北陸」という名称もふさわしくなくなってしまいます。国鉄時代には米原から直江津までの本線路線だった「北陸本線」に思いを馳せながらご覧いただけたらと思います。あいかわらずEF70やED70の交流電気機関車の写真ばかりになってしまいますが、もう少しお付き合いして頂けたらと思います。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したEF70重連の牽引による北陸線下り普通列車になります。前のパンタが上がっての重連は格好が良くてたまに見かけたものです。2次型41号機は富山第二機関区の所属でした。

上の画像は1975年に余呉~木ノ本間で撮影したEF7080号機牽引の臨時列車になります。14系座席車なので臨時特急「日本海51号」か臨時急行「加賀」、あるいは臨時急行「くずりゅう」かもしれません。この80号機は敦賀第二機関区所属で最終ナンバーのひとつ前の車番になります。EF70形交流電気機関車は81両が製造されました。

上の画像は1975年冬に虎姫~長浜間で撮影したEF70 1002号機牽引の米原行き普通列車になります。この頃よく撮影していたポイントで、国道8号線が北陸線を跨ぐ陸橋の上からカメラを北に向けて撮っています。1002号機は敦賀第二機関区に所属していた20系客車を牽くことのできる20系寝台特急用の機関車です。

上の画像は1975年冬に余呉~木ノ本間で撮影した北陸線上りの臨時急行かと思われます。余呉トンネルを出たところを撮っており、このポイントも結構有名でした。牽引機は33号機で敦賀第二機関区に所属していました。この機関車と近い車番である35号機と36号機は福井国体でのお召列車牽引機として活躍した機関車です。

上の画像は1976年に虎姫~長浜間で撮影したEF70 42号機が牽引する北陸線上りの臨時急行列車になります。42号機は富山第二機関区の所属でした。当時、北陸線では多客期には12系客車と14系客車を使用した臨時列車が運転されていました。白帯のブルー客車の長編成は良い被写体でした。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したEF70 36号機牽引の北陸線下り普通列車になります。この36号機は1968年の福井国体でお召列車の牽引機として抜擢された栄光の機関車です。お召列車には2両の機関車が準備されていました。福井国体の時には35号機と36号機です。機関車1両に万が一トラブルが起きた時にはもう一両の予備機関車が任務に就くことになります。当時の写真を見ると福井国体では35号機が牽引したようです。現在、長浜鉄道スクエアの電化記念館の中の壁に35号機のナンバーとエンドマーク、製造銘板が飾られています。

上の画像は1974年に近江塩津駅ホームで撮影したEF7052号機とED70の重連で牽引する北陸線上り普通列車になります。この52号機は富山第二機関区の所属でした。後方のED70は当時あと1年で引退の運命にありました。おそらく末期まで活躍していた3.5.7.8.9.10号機の6両のうちの1両でしょうか。

上の画像は1975年冬に虎姫~長浜間で撮影したEF70 77号機牽引の北陸線上り普通列車米原行きになります。この77号機は敦賀第二機関区に所属していました。また晩年は九州で活躍していました。郵便車2両と荷物車2両に客車6両の堂々10両編成の客車列車でした。ちなみに自分が高校生の時、この郵便車に郵便局から郵袋をリヤカーに積んで長浜駅まで運び、郵便車に積み込むというアルバイトをしていた経験があります。年賀状配達のアルバイトをしていた時の事でした。

上の3つの画像はどれもEF70 1000番台牽引の20系寝台特急「日本海」号の上り大阪行きになります。地元の踏み切り近くから撮影していますが、通過が朝6時前だったので早朝の撮影でした。上から2枚目の写真には土手に霜が降りているのが解ります。冬場の撮影だったのでしょう。牽引機は1003号機の様で敦賀第二機関区に所属していました。当時は残念ながらヘッドマークは無かったですが、20系の編成美を撮影できた貴重な時代でした。43.10ダイヤ改正で登場した青森と大阪を結ぶ寝台特急でした。

上の画像2つは1974年に虎姫~長浜間で撮影したED70牽引の北陸線上り普通列車の米原行きになります。10号機と3号機で共に敦賀第二機関区に所属していました。5両から6両の軽い客車編成の牽引に当たっていました。

上の画像は1975年に長浜駅で撮影したED70牽引の北陸線、米原行き普通列車になります。自分がこの列車に乗って敦賀から長浜に帰って来た時に撮ったものと思います。10号機は敦賀第二機関区に所属していました。この写真は引き伸ばして長浜鉄道スクエアの応接室に置かせてもらっています。

今回最後の画像になりました。上の画像は1973年に亡き父親と一緒に乗っている北陸線下りのディーゼル急行列車の窓から撮影した金沢駅構内になります。残念ながら父親とどこへ旅行したのかが思い出せません。当時の北陸線の主役EF70とEF81に入れ替え用のDD13形ディーゼル機関車の姿が見えます。

3月16日には、また大きく様変わりする北陸の鉄道事情ですが、これらの国鉄時代の情景は今も心の中に焼き付いています。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

良き国鉄時代㊴~敦賀第二機関区探訪1975年~

右側がお召し仕様にされた121号機。121号機の後方には120号機が居ました。

今回の「良き国鉄時代」は、自分が中学3年の時、1975年に訪問した国鉄敦賀第二機関区での撮影を紹介します。前回の「良き国鉄時代」では敦賀第二機関区で古豪ED70の撮影を紹介しましたが、今回はED70形交流電気機関車以外の電気機関車を撮影したものになります。1975年敦賀第二機関区には役目を終えようとしているED70形交流電気機関車とEF70形交流電気機関車、そして新製配置されて間もないEF81形交直両用電気機関車が居たものです。トップにあげた画像の右側は1975年5月26日に滋賀植樹祭の時、お召列車牽引機として準備された磨き上げられたEF81121号機の勇姿になります。共に湖西線が開業した1974年に敦賀第二機関区に新製配置されました。お召列車運転当日はEF81120号機が牽引にあたり、湖西線の近江塩津と堅田間を牽引しました。EF81形電気機関車にとって記念すべき初めてのお召列車牽引になりました。120号機と121号機がお召仕様としてピカピカに整備されていたわけです。たまたま自分が訪問した日に、120号機と121号機の両機を撮影することができ大変ラッキーでした。お召列車専用機のEF5861号機に比べると、地味なお召機仕様ではありましたが、連結器と連結開放テコ、そして掴み棒が銀色に磨きだされていた様子が写真から解ります。ちなみに現在のEF8181お召機には車体横に銀色の帯が施されています。こんなに美しい電気機関車を間近に見たのもこの日が初めてのことでした。

上の画像は植樹祭のお召列車を牽引した120号機になります。残念な事に前面の色が飛んでしまっています。本当に美しく整備されていた81でした。屋上機器の碍子は白色でした。

上の画像は機関区建屋の傍に留置していたEF81形のトップナンバーなります。現在もどこかの運転区の片隅に残っているとの画像をYouTubeで見かけたことがあります。1968年に誕生した交直両用電気機関車で、164両が製造されました。この1号機は1967年に製作された量産先行車になり、前面下部左側にAW-5型タイフォンを装備していたのが特徴でした。後にこのタイフォンは撤去されています。1号機は1985年4月の米原機関区の一般公開で「さようなら客車列車221レ」のヘッドマークを付けて展示されていました。赤13号の塗色で美しいカラーリングの罐でした。

上の画像は、敦賀第二機関区にずらりと並んだEF81になります。どの機関車も新製配置された頃なのでまだピカピカの状態でした。

上の画像は101号機になります。近年では寝台特急「日本海」の下りラストランの時の牽引機でした。また、このブログで取り上げた「北陸線客車列車最終運転日」にも牽引機を務めていました。何故かラストランに縁がある機関車と言えそうです。

上の画像は機関区の一番北側の留置線に居る117号機と118号になります。117号機は、湖西線が開業する1年前に敦賀~田村で練習運転をしていた時に、自分が田村駅にて撮影できた思い出深い機関車でした。

敦賀第二機関区構内に佇むEF81たち。機関車の屋根上やや2エンド側にある銀色のカバーは、自分はてっきりクーラーが載っているのだと思っていました。実際は主抵抗器が納まっていることをずいぶん後になってから知りました。高圧機器類は塩害や氷雪から保護するために機関車の室内に収容しています。

上の画像は左側がEF70形交流電気機関車の1次型の11号機。右側が2次型の38号機になります。11号機は前照灯が2灯式のシールドビームに替えられています。これは従来の白熱灯のものから光量アップと長寿命化、交換の容易化がはかれ、1970年代以降で交換されました。自分の鉄道模型の13号機もこのタイプの前照灯にしています。38号機の横ではブレーキ用砂箱へ砂の補給作業をされている職員さんが映っています。確かこの職員さんに、「滑り止めの砂」についてのお話を聞いたように記憶しています。

カツミ製キットを改造して13ミリゲージの13号機にしています。

上の画像はEF70 1002他になります。この1000番台は43.10ダイヤ改正で登場した20系寝台特急列車牽引用に時速110キロ高速運転ができるようにブレーキシステムを改良した装備を備えており、22号機から28号機を改造して誕生した機関車になります。鉄道模型でもカツミ製と天賞堂製を所有しています。以上が機関区で撮影した写真です。

ここからは、敦賀第二機関区での撮影を離れてしまいますが、これまで未発表の敦賀駅界隈で撮影した写真を少しだけ紹介したいと思います。

上の画像は機関区をかすめて勾配区間を走るEF81牽引の12系客車列車になります。おそらく臨時急行でしょぅか。この114号機は晩年トワイライトエクスプレス専用機に抜擢され、トワイライト色に塗色変更されました。機関区には休車で留置されたED70の姿が見えています。

上の画像は敦賀駅を発車した湖西線への12系客車列車になります。臨時急行「加賀」かもしれません。

上の画像は福井方面から敦賀駅に到着した客車列車を離れるEF70 1001号機になります。この1001号機は今も「碓氷峠鉄道文化むら」に静態保存されています。

上の画像は敦賀駅で撮影したEF70 79牽引の12系客車列車になります。これから客車と切り離されるのでしょうか。このように敦賀駅でも電気機関車の入れ替えを見ることができました。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。