私が撮影した食パン電車

仕事をリタイヤしてから毎日自由な時間となり、鉄道趣味のセカンドライフを満喫できるようになりました。このブログを書くことで、これまで撮りためたままで全く未整理だった写真プリントもデータ化して保存できるようになりました。写真が以前のままだったら、いずれ劣化して見られなくなってしまっていたことでしょう。大変良い機会を与えてもらったと喜んでいます。さて今回は国鉄末期に登場した改造車両の紹介です。通称「食パン電車」と言われて親しまれていた419系交直両用近郊形電車の特集になります。この電車は余剰となった583系・581系交直両用特急形電車を改造して、近郊形電車としたものです。クハネ581形をクハ419形に改造しています。寝台部分はそのまま固定して、扉を増設してセミクロスシートの室内形状にしています。洗面台があったところは、そのまま蓋を付けて隠しているようです。モハネ583・581形とモハネ582・580形も室内は基本同様に改造されて、モハネ583形の片側に運転室を増設してクモハ419形としています。サハネ581は室内を改造し運転台を新設してクハ418形としています。赤色塗装で登場していた頃は撮影していなく、あまり見かけることがありませんでした。419系は1985年に国鉄時代末期に北陸本線に投入されました。自分がこの電車に関心を持つようになったのはJRになってからの、白色に青のラインが入った塗装時代(1988年-1991年)からでした。ちょうどその頃(2000年くらい)からインターネットを通して伊豆の修善寺にある鉄道模型旅館「花月園」での運転会に行くことになりました。インターネットの普及から、全国の鉄道模型ファンが修善寺の花月園に春と秋に集うようになったのです。そこで知り合った581系・583系に大変詳しい方が赤色時代の419系をペーパーで製作されて運転会で披露して下さいました。そのことがきっかけで自分もカツミ製の581系を改造してこの419系を製作しよう思いました。当時は地元の北陸線で419系が活躍していたので、模型製作用の資料としてよく撮影していました。

敦賀駅に停車中の419系。顔は583系と同じです。トレインマークの所は塞がれていました。のちに「タウントレイン」のマークを掲げて運転された時期もありました。クハ419になります。

新疋田駅で撮影した419系電車のクモハ419。「食パン」の愛称が生まれたデザインになります。クモユニ143の顔にもよく似ています。ちなみに自分が改造して製作したクモハ419には、クモユニの前面パーツを流用して製作しています。

上の画像の左側2つ、419系電車をカツミの581系から改造しました。自分にとってはカツミのクハネ581の塗装はがしに始まった難工事でした。ドアのパーツや前面のパーツをネットで購入しなんとか完成しましたか、細部がアバウトで完成度は高いとは言えない模型でした。でも大変愛着のある模型になっています。ずいぶん後になってからエンドウから完成品が発売されたので購入しました。

☆以下は模型製作用に撮影した写真になります。すべて長浜駅で撮影しています。

屋根周りの様子が解るようにと、旧長浜駅の跨線橋から撮影していました。パンタグラフ周辺の画像が良く解りました。また屋根の汚れ具合もよく解り、将来のウェザリンクに生かせそうに思いました。模型の屋根はどの車両もピカピカの状態ですが、実車の屋根は黒ずんだ色で汚れていて、パンタグラフの周辺は赤茶色に汚れているのが良く解ると思います。

上の画像は室内の様子になります。網棚の上には寝台セットが納まった状態でロックされています。419系に乗った時には、いつも眺めては寝台特急電車に思いを馳せていたものです。クロスシートの部分は種車のままで使用されていました。上には寝台が格納されたままになっています。ドアがもう1ヶ所増設してあります。ドア付近は短いロングシートになっていました。走行音はMT54形モーターが唸っていました。今となっては懐かしい国鉄型電車の「音」でした。

上の画像は2000年以降に長浜~虎姫間にて撮影しました。この写真は419系の模型を製作していた頃で、この写真は通勤途中で撮っていました。

上の画像は長浜~虎姫間、自宅近くの踏切で撮影しました。

上の画像は敦賀駅で撮影した419系です。クハ418が米原寄りに繋がれていた編成だと思います。この先頭車はサハネ581からの改造です。

上の画像は新疋田駅で撮影しました。敦賀方面から入線してくる419系で、クハ419が先頭でした。この車両は前面の貫通扉が埋められている車両で、トレインマーク表示部も綺麗に無くなっていました。運転台に吹き込む冬場のすきま風の対策でしょぅか。

上の画像2つは夜の長浜駅で撮影した419系になります。長浜駅の敦賀方面ホームに停車中で、行き止まりのホームです。419系の引退が迫っていた時期に夜の写真も撮ろうと思い立って撮影にいったものでした。今では521系交直両用通勤型電車に役目を譲って完全に引退した419系。鉄道模型ではまだまだ現役で活躍してくれています。自作した419系に加えて、2010年にエンドウ製の完成品を購入しました。今は無き父親とまだ幼い息子を連れて、この電車に乗って出かけた敦賀旅行が大変懐かしく思い起こされます。幼かった息子はこの電車のことを「じいちゃんでんしゃ」と言っていました。ちなみに521系は「にいやんでんしゃ」と言っていました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを行く419系食パン電車。

☆亡き父親が自分のために撮影してくれた旧塗装の419系電車。長浜~虎姫間にて1985年3月に撮影。

良き国鉄時代㉚~友人からの写真より~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1979年から1981年にかけて、自分の高校時代の鉄道趣味友人から頂いた写真を紹介させていただきます。高校時代には鉄道趣味の友人が2人いました。このブログでも紹介した1人とは東京へブルトレの撮影行に行ったり、山崎の大カーブへも撮影に行った友人で、現在は鉄道関係の仕事を新大阪でされています。それまではJR西日本の重役として活躍されていた方です。今年10月に行われた高校の同窓会でも久しぶりに会うことができました。今回はMさんと呼ばせてもらうことにします。もう一人は私と同郷の方で、現在は埼玉で郵政関係の仕事をされています。この方は大学時代には「鉄道研究会」で活躍されていた方で、同じく高校の同窓会で会うことができました。当ブログで紹介した「米原機関区撮影会」の写真の提供者です。鉄道模型はNゲージをされていた方で、同窓会の前には自宅レイアウトにも来てくれて自分の鉄道模型も見てくれました。今回はYさんと呼ばせてもらうことにします。そんな2人からちょうどお互いが大学生の時に手紙に添えてくれた写真を紹介してみたいと思います。正に「国鉄時代」の懐かしい素晴らしい写真ばかりです。

上の画像はМさん撮影のEF5856(宮原区所属)の牽引する20系による寝台急行「銀河」になります。1979年8月に東海道本線の平塚で撮影された写真です。この宮原の58は小窓でHゴムも良いアクセントになっていました。ピントもばっちり決まっており、20系の全編成が納められています。モロクロ写真で撮影されていて迫力もあります。

上の画像はМさん撮影の寝台特急「あけぼの」になります。1979年8月に奥羽本線の碇ヶ関~長峰で撮られたようです。月刊誌等でよく見かける奥羽本線の撮影名所だと思います。20系の全編成が納められ、牽引しているのは赤い電機のED75形交流電気機関車700番台と思われます。青森から牽引してきたのでしょう。素晴らしい写真で、モノクロなのが少し残念に思いました。

上の画像はМさんが撮影した165系急行「佐渡」になります。1979年12月に上越線の津久田~岩本で撮影されています。雄大な山々をバックにして鉄橋を渡るロケーションが見事です。自分はついつい列車ばかりを撮っていたものですが、彼は風景の中の列車を撮影するのが大変上手でした。

上の画像はМさんが撮影した161系特急形直流電車による特急「とき」になります。1979年12月に上越線の津久田~敷島で撮影されています。大変雄大なアングルで素晴らしい写真です。撮影された場所は、この写真から推測するとおそらく結構な高さの山に登られて列車を俯瞰するように撮られたのだと思います。自然と列車の融合が素晴らしいです。

上の画像はМさんが撮影した181系特急形気動車による特急「しおかぜ」になります。1980年8月に予讃本線の松山~市坪で撮影されています。このディーゼル特急「しおかぜ」は宇野・高松と松山・宇和島とを結んで走っていました。後追いの写真ですが、ローアングルから撮っていて大変迫力があります。凄まじいディーゼル機関の音まで聞こえてきそうな1枚です。自分は同形式の「しなの」を撮影しています。

上の画像はYさんが撮影したDF50形電気式ディーゼル機関車62号機になります。1981年8月25日の16時頃に予讃本線の多度津駅にて撮影されました。125レとあるので高松発川之江・高知行きの快速列車のようです。当時はそろそろ四国からこのDF50が姿を消そうとしていた頃のようで、Yさんは何回か四国へ撮影に行かれていたようでした。北陸線の古豪、ED70に似た前面形状は魅力的です。鉄道模型ではトミックス製でこの塗色と茶色塗装を持っています。天賞堂製でも茶色塗装を持っています。北陸線の山中越えの補機としても大活躍していた電気式のDLです。

上の画像はYさんが撮影した「SLわかさ」9918レの試運転になります。1981年8月20日11時頃に小浜線の十村~大鳥羽間にて撮られています。この年にC56160蒸気機関車牽引の12系客車5連にて特別運行されたのだと思われます。このスタイルを見ると後の1995年8月から地元で走っていた「SL北びわこ号」を連想してしまいます。まだ非電化の小浜線をのんびりと走るSL列車は大変素敵でした。

上の画像はYさんが撮影した612D、急行「ちどり2号」のグリーン車、キロ28 2305(広ヒロ)になります。鳥取と広島を結んでいた急行のようです。このキロ28は窓がユニットサッシに取り換えられていたと書いてありました。確かに珍しいキロ28だと思われます。

上の画像2つは、Yさんが1985年くらいに北陸本線の田村~長浜間にて撮られた写真になります。EF70形交流電気機関車1次型、シールドビーム改造後の牽引する北陸線下り普通列車と475系交直両用急行形電車による下り急行「ゆのくに」金沢行きになります。滋賀と三重との県境にある鈴鹿山脈、霊仙山をバックに撮られたこれらの写真は素晴らしく、自分も北びわこ号等を撮影していたポイントになります。

上の画像はYさんが1979年に自宅から撮影された米原から敦賀方面に向かうEF81交直両用電気機関車146号機になります。庇があるこの81をここの線区で見るのは珍しく、新製車の回送かもしれません。しかもパンタグラフが両方とも上げられています。当時のこの線区は交流2万ボルト区間でした。後の1991年にデッドセクションが長浜~虎姫間に移設されました。以上、今回は友人から頂いていた写真を紹介させて頂きました。今回の写真の掲載にあたり、この場をお借りして2人の友人にお礼申し上げます。貴重な写真を頂きまして本当にありがとうございました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを快走する寝台特急「あけぼの」~奥羽本線のイメージ~

敦賀第二機関区の設置計画

今年は約1年がかりでシーナリィ付きの線区を製作しました。1つ出来上がるとまた次の所に気が行くようになります。レイアウトには扇形庫のある第一機関区はあり、蒸気機関車やディーゼル機関車が佇んでいます。やはり、次に欲しくなってくるのが電気機関車が佇む「第二機関区」です。自分的には1975年に見た「敦賀第二機関区」をモチーフとした電気機関車の機関区を作ってみたいと以前から考えていました。鉄道模型友人からのアドバイスも受けて、このほどレイアウトの北側に増設する計画を立ててみました。これまでレイアウトの外側線から1線を留置線として設置していましたが、この線区は残しながら新しく2線機関車が留置できる庫を作ることにしました。以前にこのレイアウトの台を製作して下さった方が、趣味の本を納める書庫をいくつか作ってもらっていました。この書庫は2つを縦に積むと、レイアウトのベースと同じ高さになるように作ってもらっています。今回の電気機関車の機関区を増設するにあたり、この書庫を2段重ねにして、2組をレイアウトの中に入れてみることにしました。

書庫の中には鉄道趣味関係の本をぎっしりと置くことができます。鉄道趣味関係の月刊誌が上手く納まるように高さを考えてもらいました。これまで沢山溜まっていた雑誌を部屋に山積み状態にしていましたが、これですっきりと整理して収納することができ、見たい時に何時でも取り出して読み返すことができるようになったわけです。この書庫を2つ重ねるとレイアウトの高さ85㎝になるという優れものです。

そして書庫の上に10mmの厚さのOSB材を乗せてみると、レイアウトの面と面一になりました。改めてこの書庫を制作してくださった方の技量に感動を覚えました。鉄道模型レイアウトを作る上で、大変大事になってくるのが「ベースの水平さ」といえます。それを見事にクリアしているので素晴らしい細工といえます。

これまではいろいろと鉄道グッズを飾って置いていたスペースに機関区の敷地ができました。いつも作りたいと思っていた「電気機関車の機関区」の第一歩が踏み出せた気がしています。いずれはしっかりと地面を作って、機関区のストラクチャーを自作したいと考えています。画像に映っている機関庫は今から23年前、まだカトー製線路を部屋に敷き詰めて遊んでいた頃に、ちょうど良い大きさの空き箱を利用して製作した物です。当時の「ワープロ」で「敦賀第二機関区」と印刷し、スケールも無視して貼っています。でも当時はこの簡単な機関区のストラクチャーが1つあるだけで好きな交流電気機関車が生き生きとして見えたものです。

書庫がレイアウトの台になり、貴重な機関区用の敷地が生まれました。どう作っていくかはこれからの楽しい課題となります。いろいろと過去の敦賀第二機関区の写真を見たりしながら構想を練っていきたいと思っています。敦賀第二機関区は大きな検修庫のある大変大きな機関区でしたので、その特徴を生かしながら製作のモチーフとしてイメージしていきたいと思っています。

このようにレイアウトがまた少し広げることができて、新しい「夢」が広がりました。このスペースに「敦賀第二機関区」をイメージしたセクションを作っていきたいと思います。背景は山として、右側のシーナリィ付きの山を嵩上げしながら山々が連なる背景にしたいと思っています。実際の敦賀第二機関区も南側には福井滋賀県境の山々が迫り、鳩原ループ線や山線を経て線路は滋賀県へと続いています。左の絵を描いたバックはイメージを作るために厚紙に緑色と青色をスプレーしたものです。バランスを考えるのに参考になりそうです。まずは右側のバックの様に、しっかりとした山の背景画を描いて連なる形の背景を製作していきます。動画や写真を撮影する際には障子が入っていると興ざめしてしまうので、併せてもう少し背景を上の方に伸ばしても良いかと思っています。実際このセクションを撮影すると見えてくる事も多々あります。

実際に長浜から電車に乗って敦賀に行く時に、駅構内が近づいてくると元敦賀第二機関区の建屋のすぐ横を通って行きます。最近まではEF81形交直両用電気機関車が何両か留置してありました。その時に見える情景を再現したいと思いました。給水タンクも見かけたので以前に缶スプレーの蓋を茶色に塗って自作した物を置いてみました。今風の3階建ての白い機関区建屋はヤフオクで入手した1/80の紙製ストラクチャーになります。後は鉄道模型友人から頂いた詰所と倉庫を置きました。山の連なりの繋ぎにはエンドウ製のお座敷運転用の単線用トンネルを置いています。

機関庫に続く線路はカトー製の電動6番ポイント左を新たに購入して設置し、奥の方のポイントは電動が壊れているので手動で操作をしています。長い留置線が1線、庫に入る線路が2線の電気機関車機関区。今は敦賀になっていますが、もちろん直流電気機関車も留置した機関区の米原機関区等としても楽しむ事ができそうです。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF81トワイライト専用機が出区していきます。
EF81が本線から機関区に入線していきます。続いて475系が出区していきます。

良き国鉄時代㉙~私が撮ったDC普通列車たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル普通列車の特集です。気動車普通列車と言うのが適当なのかもしれません。地元の北陸本線では、前回に特集した気動車急行が全盛期でよく見かけることができました。そして当時は敦賀第一機関区に在籍していたキハ20系気動車による普通列車が運転されていました。たいていは3連で運用されていて、稀に2連での運用も記憶しています。キハ20に混じって、キハ58も使われていた記憶があります。当時の北陸本線の「河毛」と「坂田」は今のような立派な駅ではなくて、車両が2両くらいしか停車できないような短いホームの無人駅でした。双方の駅には客車列車は長すぎて停車できない状況だったわけです。それを補完すべく活躍していたのが気動車による普通旅客列車でした。これらの気動車が「河毛」と「坂田」に停車して、前2両だけでの客扱いをしていました。国鉄が終焉を迎える晩年まで気動車による2つの駅対応が続いていて、その頃になると朱色のキハ48系が使用されていました。余談になりますが、この2連は現在では「花嫁のれん号」に姿を変えて第二の人生を歩んでいます。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影したキハ20系気動車3両による普通列車になります。おそらく木ノ本行きかと思われます。敦賀からやってきたこの編成が木ノ本と彦根の間を行ったり来たりして運転されていました。

上の画像は1978年に田村~長浜間で高校時代の鉄道趣味友人が撮影したキハ20系気動車3両編成普通列車になります。おそらく木ノ本行きの気動車でしょう。夏場のようで非冷房の気動車だったので所々窓が開いています。室内は薄緑で煙突部分の大きなでっぱりと、天井の扇風機が思い出されます。写真からはなかなかの乗車率が伺われます。この気動車による普通列車の最後は敦賀へ帰っていったようです。実に面白い運用でした。当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

622D  敦賀発5:22→彦根6:55623D  彦根7:14→木ノ本 8:02
624D  木ノ本8:06→米原8:40625D  米原13:19→木ノ本13:52
626D  木ノ本14:06→米原14:40627D  米原15:25 →木ノ本15:59
628D  木ノ16:07→彦根16:59629D  彦根17:45 →敦賀19:11

※時刻表復刻版 1972年3月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

早朝に敦賀からキハ20系気動車3連が木ノ本にやってきて、米原で長めの昼休みを取り、また木ノ本と米原・彦根を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチックとエンドウ製を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ20系気動車3連。

上の画像は、1974年に湖西線が開通してから近江塩津駅で撮影したキハ26系の気動車になります。この気動車も敦賀第一機関区に在籍していて、湖西線の近江今津と敦賀、近江塩津の間を結んでいました。当時は湖西線のデッドセクションは永原~近江塩津間だったので、近江今津から敦賀方面へはこの気動車を利用するしかなかったわけです。この気動車も近江今津と近江塩津の間を行ったり来たりして最終は敦賀に帰っていった運用でした。この運用も面白く、当時の時刻表からこの気動車の運用を抜粋してみました。

640D  敦賀発5:52 → 近江今津 6:44641D 近江今津7:16→近江塩津7:42
642D  近江塩津7:47→近江今津 8:14643D  近江今津8:25 →敦賀 9:10
644D  敦賀13:02→近江今津14:02645D  近江今津14:35 →敦賀15:23
646D  敦賀17:03→近江今津18:00647D  近江今津18:22 → 近江塩津18:49
648D  近江塩津19:11 →近江今津 19:37649D  近江今津 20:03 →敦賀20:53

※時刻表復刻版 1978年10月号  JTBパブリッシング刊 を参照。

やはり早朝に敦賀からキハ26系気動車2連が近江今津にやってきて、敦賀で長めの昼休みを取り、また近江今津と敦賀・近江塩津の間を行ったり来たりしていた運用でした。鉄道模型では天賞堂製のプラスチック製品でキハ26系2連を持っています。

自宅レイアウトを快走するキハ26系2連。

地元とは離れますが、上の画像は奈良駅で撮影したキハ35系気動車になります。1974年に撮影したものです。この気動車は小学5年生の頃に亡き父親に連れて行ってもらった草津線の蒸気機関車旅の時に、草津線や関西本線でよく見かけました。キハ20系等とは違って、切妻タイプの都会的な雰囲気が印象的でした。ドアも両開き方式で通勤形を象徴していました。当時時の2色塗装時代になります。鉄道模型では旧製品でエンドウ製を3両程もっています。残念ながら自走できる車両は無く、いずれもトレーラー車ばかりです。

上の画像は1975年におそらく名古屋駅で撮ったものに思います。当時、自分には大変珍しい型の気動車だと思って撮影した記憶があります。キハ45系かと思います。鉄道模型では持っておらず、現在トラムウェイ製品が出ています。登場時の2色塗装時代になります。以上、今回は普通列車として活躍していた気動車をとりあげてみました。中でも北陸線に関わる車両の事を詳しく書かせていただきました。文章が長くて画像が少なくなってしまいましたことをお許しください。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

☆彡ここからは今回のテーマからは外れますが自分の写真ストックから見つかった写真を数枚紹介させていただきます。

上の画像は天王寺と白浜を結んでいた「きのくに」になります。国鉄と南海電気鉄道の相互乗り入れで運転されていたようです。この2枚の写真と下の写真は高校時代の友人から頂いた写真です。

上の画像はキハ08系気動車になります。鋼体化客車から改造された大変珍しい気動車で、異端児とも言われた気動車でした。晩年には今は無き「加悦鉄道」で活躍していました。種車はオハ62形でした。鉄道模型で製作したら実に面白い車両だと思います。

良き国鉄時代㉘~私が撮ったのDC急行たち~

良き国鉄時代のシリーズ。今回は1974年から年1976年にかけて、自分が撮影したディーゼル急行列車の特集です。気動車急行というのが適当なのかもしれません。昔、駅の表示にも「気動車」という表示があったように思います。自分が中学生から高校生にかけて、地元の沿線や米原駅とその界隈で撮影した写真になります。当時の地元ではキハ20系やキハ58系などが元気に活躍していました。自宅近くの踏切でもこれらの気動車たちを気軽に見ることができた誠に良い時代でした。

上の画像は1975年に地元の北陸本線、虎姫~長浜間で撮影したキハ58系ディーゼル急行「大社」になります。この「大社」は名古屋と出雲市・大社を敦賀経由で結んでいました。名古屋発着の「大社」はここ長浜付近でも撮影ができました。もうひとつの金沢発着「大社」と敦賀で併結して、小浜、宮津、山陰本線経由で運転されていたようです。終点近くの出雲市から大社の間は普通列車として運用されていました。ちなみにこの急行「大社」は名古屋を9時10分に発車して、出雲市には19時51分、終点の大社には19時51分に到着していたようです。ロングランのディーゼル急行だったと言えます。上りの同列車は出雲市発8時20分で米子で金沢行きを併結し、敦賀で分割の後、終点金沢には18時30分、名古屋には18時28分にそれぞれ到着していました。最初は長編成で出発して、途中の駅で分割して行先を変えていくという運行スタイルはなんともロマンに満ちていると感じるのは私だけでしょうか。鉄道模型ではカトー製と天賞堂製で所有しています。天賞堂製はカンタム仕様で、コントローラで色んな音を楽しむ事ができる模型です。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影した上りの急行「越後・ゆのくに3号」になります。急行「ゆのくに」と言えば475系交直両用急行形電車で運転されていたイメージがありますが、当時はこのキハ58系でも運転されていました。当時の時刻表によると「ゆのくに2号、3号」・「越後」は大阪と能登半島の穴水・輪島、珠洲と新潟とを結んでいたようです。各方面に行く列車を併結して堂々の12連で大阪からは運転されていました。6連は大阪~新潟、4連で大阪~穴水、そして2連は大阪~金沢で運転されていたようです。気動車なので各駅での分割併合もやり易かったと思います。ちなみに写真の「越後・ゆのくに3号」は新潟8時25分に出発、13時15分に金沢で珠洲、輪島からの「ゆのくに3号」を繋いで、終点の大阪には17時39分に到着していました。下りの同列車の「越後・ゆのくに2号」は大阪を11時15分に発車して、金沢で輪島・宇出津行きを分割して終点の新潟には20時05分に到着していました。輪島には18時07分、宇出津には18時12分に到着していました。キハ58系気動車の正に「黄金時代」と言えそうです。

上の画像は1978年に虎姫~長浜間にて撮影しました。北を目指して走るキハ58系の急行「越後・ゆのくに2号」になります。大阪から金沢までは堂々たる長編成でした。

上の画像も同じく1978年に虎姫~長浜館にて撮影した急行「越後・ゆのくに3号」大阪行きになります。

上の画像は1975年に米原駅を俯瞰して撮影した急行「越後・ゆのくに2号」になります。ホームには今となっては懐かしい駅弁売りの方の姿と車内販売風の女性の姿が見えます。米原発が12時52分なのでまだ販売時間帯だったのでしょうか。当時は駅に着くと「べんとう~べんとう~」という駅弁販売の独特の声がしていたものです。今は全く無くなってしまった情景です。以上が関西県と中部圏と北陸と山陰を結んでいたDC急行になります。

次は大阪と飛騨を結んでいた急行「たかやま」を紹介します。現在はキハ85系を経て最新型のハイブリッド車両HC85系が活躍している特急「ひだ」も当時はキハ58系の気動車4連で運転されていました。米原まで行って撮影していました。

上の画像は1975年に米原駅で撮影した、大阪発8時00分発の高山行き急行「たかやま1号」になります。岐阜から高山本線に入り13時16分に終点の高山に到着とていました。冬に撮影していたようで、前面には雪が付着しておりホームにも雪がうっすらと積もっています。

最後の画像だけは国鉄時代ではなくJRになってからの画像ですのでご容赦願います。1999年くらいに東海道線の近江長岡~柏原間で撮影した晩年の急行「たかやま」になります。1999年12月のダイヤ改正で急行としての運用が終わり、後をキハ85系の「ワイドビューひだ」に姿を変えることになります。晩年には画像のように大変美しい塗装になり、絵入りの大型ヘッドマークを掲げて運転されていました。グリーン車キロ28を挟んで4連のDC急行でした。鉄道模型ではこの特別カラーは持っていません。私の友人はカトー製を塗り替えたものを所有しておられます。今回の特集は以上になります。次回は気動車の普通列車編をお届けしたいと思います。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走るキハ58系急行形気動車6連 前2両は天賞堂製カンタムのキハ58+キハ28。後の4両はカトー製になります。