良き国鉄時代⑧~貨物列車・直流機編~

自分が撮りためてきた国鉄時代の貨物列車は、現在のコンテナ列車はまだあまり多くはなく、東海道本線ではコキ10000系のフレートライナーを見るくらいでした。先頭は貨物機として活躍していたEF66形直流電気機関車で、黄緑色のワキ10000も数両繋いでいたりしたものです。地元ではコキ50000系のフレートライナーがEF70形交流電気機関車の牽引で走っていたものでした。圧倒的に多く見られた貨物列車は「車扱い貨物」と呼ばれた雑多な貨車を連ねた長大な貨物列車の時代でした。広大な操車場もあちこちにあり、もちろん米原駅にも大きな貨物操車場がありました。今年が「国内鉄道貨物輸送150年」ということなので、しばらく特集で記事にしていきたいと思います。

EF65500Fが牽くフレートライナー。コキ50000系。米原~醒ヶ井間

まず初回は、撮りためた貨物列車の写真から直流電気機関車が牽引している貨物列車の写真を特集したいと思います。自分が中学生位の時代なので、やはり貨物列車を撮影しているのは少なく、ほとんどの写真は特急や急行の優等列車がほとんどでした。もっともっと貨物列車も撮影しておけば良かったとまた後悔しています。撮影ポイントは米原界隈が多く、京都と笠寺で撮影した写真もありました。鉄道模型では65はスタンダードな釡で、カトー製が7両。天賞堂製は13ミリゲージを含めて3両ほど所有しています。65シリーズで一番好きなタイプは1100番台になります。

米原~醒ヶ井間で撮影した65牽引の貨物列車

上の画像は1976年に米原~醒ヶ井の東海道本線も上りの貨物列車をアウトカーブから撮影したものになります。雑多な車扱い貨物列車の先頭に立っているのは、EF65形直流電気機関車になります。この電気機関車は直流電気機関車のスタンダードで、米原機関区にも沢山在籍していました。次位にはタキのタンク貨物を付けて、あとは有蓋貨車のワム80000やワラ1といったところでしょうか。「タン、タン、タン、タン」というリズミカルなジョイント音が聞こえてきそうですね。

米原~醒ヶ井で撮影した65Fの貨物。

上の画像は1976年に同じポイントで撮影したEF65形500番台直流電気機関車が牽く貨物列車になります。この特急色をまとった65は高速対応の65といえ、当時の東京から下関の寝台特急を毎日牽引していました。この500番台はスカートにいろいろな機器が付けられている通称500F と呼ばれる機関車でした。下関から東京・築地を結んだ鮮魚列車の高速牽引に走り始めた頃は重連で使われていました。鉄道模型でもこのタイプの65を天賞堂製で持っています。やがてこの鮮魚特急はEF66形直流電気機関車が担当することになります。この日は普通貨物列車で、トキとワムの貨物編成を牽引していました。

今や大変人気のある「ニーナ」が牽くフレートライナー。

上の写真は.1976年に撮影したEF66形直流電気機関車が牽くコンテナ貨物、フレートライナーになります。なんとこの機貨車は27号機で、「ニーナ」という愛称でファンに親しまれていた有名なEF66でした。現在は吹田に居ると思われます。ワキ10000形式を2両繋いだコキ10000の編成の高速貨物列車になります。

米原駅に入線するEF66牽引のフレートライナー。

上の画像は、雪の米原駅1番線を西に下って通過していくEF66形直流電気機関車が牽く下りフレートライナーになります。米原駅で駅撮りしている時に見かけて撮影したものだと思います。この頃は66は貨物専用機関車として活躍していましたが、やがては東海道スジの寝台特急牽引をするとはまだ夢にも思っていなかったことでしょう。それも一番長い間のブルトレ牽引期間になるろうとは。電気機関車にもやっぱり運命というものがありますね。鉄道模型ではトミックス製を2両、天賞堂製をカンタムを含めて2両所有しています。自由形のカツミ製のED66形電気機関車も持っています。鳩胸スタイルの大変素晴らしいデザインの電気機関車になります。

65Fが65を次位に付けた貨物列車が京都駅に侵入。

上の画像は1974年に京都駅に撮影に行った時に、たまたま入線してきた65重連牽引の貨物列車を撮影したものになります。先頭がEF65 500番台の貨物用機、そして次位は同じくEF65の一般塗装機でしょう。むかしの貨物列車は先頭の次位に回送機関車を連結して運転されていることもよく見受けられまた。蒸気機関車も先頭機関車の次位に繋いて回送されていることも見たことがあります。

EF65PFが牽くク50000車運車の回送貨物列車。

上の画像は1979年5月10日の6時30分位に、自分が大学生となり名古屋に下宿していた時、早朝にバイクで笠寺駅を跨ぐ陸橋まで行って東海道を上る列車を撮影したものです。当時はよく見かけたク5000形自動車運搬車ですが、これは回送列車のようで貨車に自動車は積まれていませんでした。鉄道模型でもこの車運列車をEH10やEF60、EF70等に牽かせて運転を楽しんでいました。この時の撮影目的は、東京へ向かうブルートレインを撮影することでした。名古屋あたりでは東京行きの寝台特急のブルートレインは「みずほ」、「さくら」を十分撮影することができたからです。

以上、今回は貨物列車の特集と題して直流機関車版をお送りしました。いかがだったでしょうか?次回は交流機編をお送りする予定です。今回の直流機編より写真のストックが多くなっているので存分に楽しんでいただけるものと思います。現在、京都鉄道博物館では「貨物鉄道輸送150年」にまつわる各種イベントを開催されているとのことです。また自分も足を運んでみてもいいかなと思っています。

5インチゲージの祭典~ミニSLフェスタinおやべ2023~

今回のイベントに持ち込んだ「MO-7」

2023年9月17日(日)と18日(祝)で富山県小矢部市にあるクロスランドおやべに行ってきました。「ミニSLフェスタinおやべ」に参加するための北陸旅行となったわけです。自分の5インチゲージ車両3両を愛車ジムニーに積んでいきました。行先が北陸方面という事で、家内も好きな場所であることから同行することとなりました。私がイベントに参加している間は車であちこちへドライブを楽しんでいたようです。幸いにも真夏を思わせる好天に恵まれてなかなか楽しめた2日間となりました。ただ、2日目の朝はけっこうまとまった雨になり、5インチゲージの車両が濡れてしまうというハプニングに見舞われてしまいました。幸いにして電気系統へのトラブルはなく、自分の座席が濡れていてお尻が冷たかったくらいで済みました。そして、イベントのスタート時間が11時ころになってしまいました。今回の記事はそんなイベント参加のレポートをお届けしようかと思います。

クロスランドおやべのシンボルタワー

北陸道の工事が何ヵ所かあるというので早朝5時30分に自宅を出発して北陸道を北に向かって走りました。積み込んだ5インチゲージの車両も、乗せる板を製作して、車両をロープでしっかりと固定したので大変安定して運搬することが出来ました。左側のミラーが少し見にくかったくらいでした。途中、休憩をしながら小矢部インターには8時過ぎに着くことが出来ました。渋滞らしい渋滞もなく少し早めの到着となりました。会場に着いて、受付を済ませてからいよいよ5インチゲージ車両をヤードに降ろしていきました。フェスタのスタッフさんが、「手伝いましょう」と快く車両をヤードの線路に載せて下さり、嬉しく思いました。初めての参加を伝えると「どうぞ楽しんでいってくださいね」と笑顔で対応して下さいました。車両組成をして、今回製作したトレーラーの手すりも無事に取り付けられました。電源も入って、駆動系も大丈夫で安心しました。9時30分から開会式が出発線エリアで行われました。キャラクターも居て、和やかな雰囲気の中1番列車が汽笛を響かせて、たくさんのお客さんを乗せて発車していきました。来春に敦賀までやってくるW7系北陸新幹線の編成は大変長くて、迫力ある編成でした。沢山のお客さんを運客していました。

以前、蓮華寺運転会で運転させてもらったマウンテンの隣に

そしていよいよ自分の運転する5インチゲージ「MO7」の出区時が来ました。ポイントを渡ってホームに向かいます。たくさんの車両が居るので、渋滞しながらの入線でした。手動のブレーキも使いながら、乗り込み場所で停止。スタッフは「貸し切りのトロッコに乗る人はいませんか」とアナウンスしてくれました。お父さんと3歳くらいの息子さんが初の乗客となり、足をステップに乗せてもらう事だけ注意喚起して、出発進行です。勾配区間をカーブして全力で駆け上がり、平坦線へ。自宅では出せなかったフルスピードで軽快に走りました。乗客の親子も嬉しそうに乗ってくれていました。自分は機関士らしく「第一閉塞、進行」とか喚呼しながら運転を楽しみました。大きなカーブを過ぎると右手に大きな池を眺めて速度が上がります。緩やかな下り坂を走ると出発したホームがやってきて、通過線を通過していきます。ホームから出発する列車があるので、駅員さんの指示に従います。通過してまた少しの登り勾配になります。そこには踏切もあります。大きな自衛隊の保存ヘリコプターを左に見て山線の雰囲気を過ぎると赤い鉄橋がありました。ここにも池があって深い青色が印象的でした。左にカーブしてまた右にカーブすると「くりからトンネル」がありました。そこをくぐると降車地点がやってきます。ちょうど出区したヤードの先にありました。「乗ってくれて、ありがとうございました。」と親子に言うと、お父さんが軽く会釈されて親子共々笑顔で車両から降りられました。何とも言えない楽しい瞬間でした。自分がかつて夢見ていたことがまたひとつ実現できた思いで感無量でした。

クロスランドおやべの常駐車両
たいへん見事な「ななつ星」も居ました

運客のある常設レイアウトは全長600メートルのコースで、長い運転を楽しむ事が出来ましたが、今回は特別にクロスランドおやべの円形広場の周囲にも全長600メートルの線路が敷いてありました。向こう側が霞むくらい大きな広場で、大変緩やかな大カーブを運転することが出来ました。こちらの線路へは運客せずに移動していくことになります。自分もお客さんが乗らない時を利用して何回か特設線路での運転を楽しませてもらいました。途中に居られる警備員さんに敬礼をして、思う存分に運転を楽しむ事ができて大満足でした。後続の列車がはるかに遠くなので、木陰に停めてドリンクホルダーの飲み物を飲むこともできました。真夏の思わせる天候で、5インチゲージをやっておられる方からの「車両にドリンクホルダーを付けると良い」というアドバイスは大変為になりました。

円形広場に作られた全長600メートルの線路を行く

お昼頃には主催者がお弁当とお茶を用意してくださったので、ヤードに車両を入れてから木陰でいただきました。近くに居られた神戸からの方と談笑しながら休憩ができました。素晴らしい蒸気機関車の5インチゲージのメンテナンス作業も間近に見ながらの至福の昼食でした。午後からも水分を取りながら、たくさんの親子連れや小学生くらいの男の子一人だけ、また親子3人のお客さんを乗せながら午後3時すぎまで運転を楽しみました。懸念したバッテリーの出力低下もほとんどなく、モーターは熱を持ちながらも最後まで元気に走ってくれました。2日目は雨で開始時間は11時になりましたが、天候も回復して真夏日の中楽しい運転を午後3時まで存分に楽しませて頂くことができました。バッテリーは一応持参した新しいものに替えて使用しました。夢の時間を提供して下さったクロスランドおやべのイベント関係者の方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。

宿は新高岡駅前のホテルを取り、温泉とお寿司を楽しみました。家内共々良い気分転換ができました。
北陸新幹線の新高岡駅には、JR城端線の駅もありキハ40やキハ47が見られます。

良き国鉄時代⑦~食堂車の思い出~

中3の春休みに一人旅で乗車した寝台特急「さくら」号。名古屋駅にて駅員さんに許可を得て撮影。

国鉄時代の優等列車にはグリーン車と並んで食堂車が連結されていました。自分が中学生だったころにはまだ食堂車か利用できる特急列車があったものです。当時地元を走り抜けた大阪発金沢・富山行きの特急「雷鳥」や「白鳥」にも食堂車が繋がれていました。その当時のグリーン車は2両連結されており、大変豪華な編成でした。自分は残念ながら北陸本線を走る特急列車の食堂車は利用したことがありませんでした。自分が食堂車を利用したのは、キシ80形食堂車とブルートレインの14系特急形寝台客車編成のオシ14になります。1976年3月、中学3年生の終わり高校受験が終わって合格が決まった春休みに、お祝いとして親から「乗り鉄一人旅」を許してもらいました。当時の憧れだった寝台特急「さくら」号に乗ることを大きな目的として、京都までは普通電車で行って、京都からはキハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」でひたすら山陰本線を走り抜けていく旅でした。下関には夜に到着して、そこから上り寝台特急「さくら」号に乗っていきました。銀色の交直両用電気機関車EF81 300番台に牽かれてホームに現れた寝台特急「さくら」号。この駅から東京まで牽引するEF65 500番台直流電気機関車に交換です。わくわくしながら列車に乗り込み、カレチ(専務車掌)さんにサインをいただいたりして、ほぼ眠ることのないようなブルトレ乗車を楽しみました。翌朝に名古屋に到着して機関車の撮影をしました。食事は両方の列車ともに食堂車を利用したのを覚えています。食べたメニューは「カレーライス」でした。銀色の分厚いお皿に盛られたカレーライスは車窓の景色を楽しみながら美味しく食べていました。「まつかぜ」では日本海の海岸線を軽快に走っていたので絶景の車窓でしたが、「さくら」は流れゆく夜景を眺めながらの食事でした。夢のような乗り鉄旅をすることができて大満足でした。

京都から下関まで乗車した特急「まつかぜ」。
寝台特急「さくら」号の食堂車オシ14の車内。
一人旅の夕食は食堂車での「カレーライス」。オシ14にて。
キハ82系ディーゼル特急「まつかぜ」の食堂車キシ80にて。

中学卒業前の一人旅。特急列車乗り継ぎの贅沢な旅は、今になってもよく覚えており大変印象に残った「乗り鉄」となりました。また一人気ままな乗り鉄の旅に出かけてみたいと思う今日この頃です。でも食堂車での食事は残念ながら叶いません。

上の画像は15歳の春休みに行った一人旅の前に、今は亡き父親と一緒に名古屋を経由して白浜から天王寺へと旅行(乗り鉄)に行った際に乗ったキハ82系ディーゼル特急「くろしお」の食堂車の様子になります。この時もやはりカレーライスを食べていたと思います。この頃から食堂車で食べるメニューをこだわって決めていたのでしょうか?もっと他のメニューを食べていたら良かったのにと思います。この旅は名古屋からキハ58系の急行「紀州5号」に乗ったと記憶しています。夜行列車であり、一晩中ディーゼルの音を聞きながら過ごしていました。父も自分もゆっくりと眠ることができず、翌日は降車する駅を寝過ごしてしまった記憶があります。周参見という駅で急行を降り立ちました。乗り過ごしたので幾駅か戻ってから、天王寺行きの特急「くろしお」に乗ったのでしょう。珍道中になりました。天王寺についてからは大阪環状線(まだ103系のオレンジ色編成でした)で弁天町に行って、「交通科学館」に行ったと思います。ただ列車に乗るだけの旅でしたが、何1つ文句を言わずに連れて行ってくれた亡き父親に感謝の思いが湧いてきます。

上の画像は20系寝台特急「日本海」が田村で機関車交換をしている時間に食堂車のナシ20を撮影したものになります。交流電気機関車のEF70 1000番台かここまで牽引してきて、ディーゼル機関車のDE10に機関車の交換をしていた時のものになります。朝の6時少し過ぎですがもう食堂車のスタッフがテーブルを囲んでおられました。朝食のサービスも大阪に到着するまであったのでしょう。まさに良き時代でありました。

アルバムにもう1枚あった食堂車の写真。キシ80でしょうか?当時の食堂車の営業は「日本食堂」でした。

旅で列車に乗ったらご当地の名物駅弁に舌鼓を打つのが現在の定番ですが、自分の指定席を離れて食堂車に向かって、そこで食事をするのは大変贅沢で趣のあるものだったと思います。現在では、一部の豪華特別列車や特別な観光列車でしか経験することが出来なくなってしまい残念に思います。ごく普通に特急列車に乗っていて、普通に食堂車で食事をとることが出来るということが出来なくなってしまいました。鉄道模型では食堂車は今も健在です。485系、583系、475系、153系、20系、24系25形各編成の食堂車を所有しています。そして100系新幹線でも二階建ての食堂車を所有しています。バブル期に東海道を走っていた2階建て新幹線が懐かしいです。100系新幹線のV編成では2階建て車両が4両もあって壮観でした。また自分は見たことがありませんが、急行形電車の165系153系や475系にも「サハシ」という形式の普通客席とビュッフェが合作された食堂車がありました。東海道線を走っていた急行「なにわ」、「ろっこう」等にも使われていて、なんとお寿司屋さんが腕を振るわれていたようです。走る電車のビュッフェで握りたてのお寿司を食べてみたかったものです。なんと贅沢な話でしょうか。まあ、鉄道模型で食堂車を編成に組み込んで走らせながら食堂車全盛期に思いを馳せてみたいと思います。

最近の鉄道模型工作~5インチゲージ~

この週末の 9月17日と18日にクロスランドおやべで開催される「ミニSLフェスタinおやべ」に参加するにあたって、このところ自分の5インチゲージのメンテナンスと改造工作をしていました。かつてこのイベントに参加された方がおられて、アドバイスを頂くこともできたからです。まず、9月といえども暑い中での運転になるので、車両にドリンクホルダーを付けておくとよいとのことでした。さっそく100円ショップに行きましたが、無くて車屋さんに行ってみました。やはりデザイン重視のものばかりでしかも高価でした。最後にホームセンターに行くと、懐かしい感じのドリンクホルダーがあったので、2個購入しました。取り付けは運転席車両のコントローラ横にホルダーを差し込める横穴をドリルで開けました。良い感じでドリンクホルダーを取り付けることができました。

次に考えたのが、同じく運転席車両に財布やスマホといった小物を入れて置ける場所を作ることでした。車両の横にはコンパネを張り付けていて、これに扉を作り「トランク」にすることを思いつきました。運転中ここに自分の貴重品を収納することができます。参加された方によると、一旦スタートしたら600メートルくらいある線路なので、帰って来られないという話から思いついたわけです。コンパネを取り外して、ジグソーで扉を切り出しました。そして上部に蝶番をつけて上方向へ開けられるようにしました。掴み部は市販のノブをつけて完成しました。

汽笛は電子工作用のブザーを電池で鳴らすようにしています。本当はバッテリーで本格的なホーンを取り付けると良いかもしれないです。また尾灯も乾電池で赤い豆球を点灯させるようにしました。前照灯は自転車用のライトに色を付けてそのまま使用しています。

次にイベントでは参加者の「運客」もあるようなので、客車の安全対策の工作を施しました。ボギー台車を履いたしっかりとしたトレーラーなのですが、改造をしていて後部に鉄板が剝き出しになっているところがありました。いろいろ考えて鉄板の上に木材を載せて厚みを出して鉄板を隠す方法にしました。木材の角はもちろんヤスリで削って面取りをしています。取り付けてから艶消し黒で塗装しました。このトレーラーにはトキ15000の上部が付属していましたが、ボディの裾部に尖った部分が沢山あるので今回だけ上部は外して使用することにしました。トレーラーの前部にも鉄板部分があるので、こちらにはゴム製のクッション材をボンドで取り付けました。次に5インチゲージの運転会の動画を見ていて発見したことになりますが、子どもさんが乗車してくれる際に手で掴める棒を前部にだけ設置しようと考えました。ホームセンターの手すりや取っ手を見てみましたが、なかなかそのまま使えそうなものが無く、結局自作することにしました。トレーラーの前部の床部に穴を開けて、掴み棒のパーツを取り付けるようにしました。掴み棒のパーツを5ミリのボルトナットで固定していく方法です。ベース板はカラーベニヤ板の端くれを使い、木材で20㎝の高さにして固定し、その上に昔に取っておいた子ども用のハンガーのパーツを固定して握り部にします。なかなか程よい手触りの握り部になったと思います。掴み棒はドリルで穴を開けて長い木ねじで固定しました。実際に掴んでみると少しぐらつくので、立ち上げた木材の根っこの所にL字金具を使って固定することにしました。これで安心してにぎり棒を掴むことが出来るようになりました。床板の下に出たナットのところも、台車に干渉することなく取り付けることができて良かったです。

そして最後は車両を軽自動車にいかにして積み込むかということです。いろいろ考えた末、助手席のシートを全部倒して前後に積載スペースを作るというものでした。下に長いトレーラーを積んで、その上に機関車と運転席車両を積むことにしました。かなり手荒な積載方法になりますが、後部座席の一つは使うので止むを得ない積み方だと思います。車両が大きくて重いので、自動車のシートを傷めないように車両を置く板を作りました。レイアウトのベースにも使っているOSB材を加工して製作しました。運転席に車両が倒れかかってくることを防ぐために、長い板を2枚貼り合わせて壁になるようにもしました。これで何とか安全に富山県小矢部市まで全部の車両を運搬できると思っています。

準備の段階から私の「ミニSLフェスタinおやべ」はもう始まっているようです。何年か越しの参加承諾で嬉しさがこみ上げてきています。天候の方はどうやら曇りとの予報でほっとしています。おそらく参加される方々の5インチゲージは石炭を焚いて走る本格的なライブスティームの牽く長編成や本格的な新幹線が先頭動力車となった長大編成を持ち込まれると思います。自分の車両は3名くらいしか乗れない小さなバッテリーロコの牽くミニ列車ですが、とにかく「安全第一」で楽しい運転ができるようにしたいと思っています。そして素敵な思い出ができたらと思っています。イベントの様子はまた後日ブログにアップさせていただく予定です。

良き国鉄時代⑥~米原機関区撮影会から~

1985年4月29日、天皇誕生日に米原機関区の特別公開が開催されました。自分は滋賀県の特別支援学校教諭として働きだして北大津養護学校に勤務していた頃になります。自分は当時大津市の堅田に下宿しており、またその頃は鉄道趣味から離れていた時でもあって、この素晴らしいイベントの情報も得ておらず、足を運ぶこともありませんでした。この前年にあたる1984年7月27日には敦賀第二機関区でもEF70形交流電気機関車引退記念と題した一般公開も開催されていたのですが、こちらにも行くことはありませんでした。今思うと大変残念なことをしていたと大後悔しています。これらの一般公開には高校時代の友人が行っていて、後に写真を焼き増ししてくれました。彼は現在埼玉に住んでおり、郵政関係の仕事をしていました。鉄道模型はNゲージをやっていました。もうずいぶんと会っていませんが、この秋にある高校の同窓会で再会できることを楽しみにしているところです。今回は、米原機関区の史上最大最高のイベントについて、友人からいただいた写真を紹介したいと思います。写真の著作権については同窓会にて事後承諾してもらおうと思います。大変優しい友人だったので快諾してくれると思っています。

上の画像は米原機関区所属のEF58形直流電気機関車の96号機になります。当時の米原機関区所属のEF58はどの機関車も大変綺麗に整備されていたと聞いています。自分の以前の職場にスクールバスの運転をされていた知人がおられ、その方のお父様が米原機関区で機関士をされていました。この58をはじめ65なども運転されていて、知人からお父様の現場のお話をよく聞いたものです。この機関車は運転がやり易くて、加速も良かったと聞いたことを思い出しました。その知人とはもう随分会ってはいませんが現在はバス会社で働いているとお聞きしました。この特別公開の機関車にはどれにも素晴らしいヘッドマークが付けられていました。まさに撮影会にはぴったりの演出がなされていました。96号機には東京~長崎を結んだ「さくら」のヘッドマークが掲げられていました。鉄道模型ではカトー製が2両、天賞堂製は試験塗装機を何両か持っていて全部で6両所有しています。また天賞堂製カンタムサウンド搭載の模型も74号機にして持っています。

上の画像はEF58形直流電気機関車の36号機になります。この58は機関車側面の明かり窓が7枚あるのが特徴で大変人気がありました。同様に35号機も7枚窓の仕様でした。このヘッドマークは「かもめ」ですが、反対側には「つるぎ」のヘッドマークが掲げられていました。1975年に新潟発大阪行き寝台特急「つるぎ」(当時は20系寝台客車で米原経由で運転)を早朝の米原駅で撮影したことがあり、その時の牽引機もこの36号機でした。ひさしが大きくて大変好ましいスタイルの58でした。鉄道模型でもこの36号機を天賞堂製で持っています。晩年に廃車されてから、広島県の模型屋さんに実物のカットモデルが展示されていた時がありましたが、現在は無くなってしまっているようです。

上の画像はEF58形直流電気機関車の138号機になります。ヘッドライトは2灯のシールドビームに改造されています。国鉄の末期のころに1灯式のヘッドライトの電気機関車に施された改造になります。ヘッドマークは「彗星」になっています。この特急を大阪駅で撮影した写真を1枚持っています。24系の寝台客車の先頭に立つ姿は大変格好良かったです。

上の画像はこのイベントに合わせて、はるばる東京機関区からやってきたお召し機の61号機になります。反対側は日章旗をはじめ、お召機関車の素晴らしい飾りが施されていました。大変美しいため色の茶色塗装が素晴らしく、実物を見てみたかったものです。現在は埼玉県大宮にある「鉄道博物館」に展示されています。一度は見に行ってみたいと思っています。米原のイベントが終わったその日にまた東京へ帰っていったとのことでした。鉄道模型では天賞堂製で61号機を所有しています。余談になりますが、エンドウ製のお召列車1号編成(5両編成)も持っています。

上の2つの画像はEF65形直流電気機関車1000番台の1010号機になります。1次型の初期製造車でテールライトのの上に通風孔が開いています。ヘッドマークは「北国」と「サロンカーなにわ」が掲げられていました。この「北国」のヘッドマークは珍しいもので、客車急行時代の末期(14系寝台、座席車時代)に実際に掲げられて運転されていました。大阪駅で撮影した写真を持っています。「サロンカーなにわ」の牽引に充てられたことも何回かあったように記憶しています。鉄道模型ではカトー製で5両、天賞堂製で2両持っています。天賞堂製は1両を13ミリゲージに改軌しています。大好きな電気機関車です。

上の画像は左からDE15形ディーゼル機関車除雪車仕様、キ550形ラッセル車、そして前掲のEF65形1000番台になります。DE15は敦賀第一機関区に所属していて、積雪の多い時季に使用されており、敦賀から米原の区間でも除雪にあたっていたと思います。キ550は現在米原公民館前に保存されているキ555だと思います。東海道本線の関ケ原~米原などで除雪に使われていました。鉄道雑誌で関ケ原駅でEF65形直流電気機関車がこのキ555を推進して除雪作業に当たっている写真を見たことがあります。鉄道模型ではDE15は持っておらず、製品化を待っているところです。キ550はモア製で所有しています。

このイベント開催当時、「国鉄の分割民営化」が国会で議論されるようになっていました。このことに反映して国鉄は全国各地で鉄道ファン向けのイベントを頻繁に行っていたと記憶しています。国鉄時代には毎年行われていたストライキや、赤字にも関わらず一向に進まなかった合理化で、国鉄を悪く言う世論があって分割民営化を支持する声に繋がっていったようです。それで分割民営化に反対する国鉄職員たちが主体となって、鉄道ファン向けのイベントを開催していくことで分割民営化反対を支持してもらおうとした動きにもなっていたと推測されます。いつかまた、このような素晴らしいイベントが開催されることに期待しています。