良き国鉄時代⑰~私の撮ったモノクロ鉄道写真~

良き国鉄時代。今回は、古いアルバムに残っていたモノクローム写真を特集します。1974年当時はまだ「白黒写真」のフィルムを買うことができました。現像とプリント料金がカラー写真と比べて、かなり安かったと記憶しています。プリントサイズは、当時のカラー写真と比べると少し小さいようです。安価に購入できるので撮影の練習としても使っていたように思われます。国鉄時代を取り扱った鉄道雑誌にも、カラー写真よりもモノクロ写真を中心としたものがあります。モノクロ写真特有の迫力があり、ノスタルジックでもあります。沢山撮影していたようですが、まずは北陸本線の田村駅で撮影した写真から紹介していきます。

上の画像はEF70 1000番台交流電気機関車牽引の4002レ寝台特急「日本海」大阪行きになります。ここ田村駅には6時過ぎに到着していました。この牽引機は1001号機で、現在碓氷峠鉄道文化村で保存されている機関車です。この頃には日本海のヘッドマークは掲げられておらず、田村駅の待合室の片隅に置かれていたのを覚えています。登場した頃は美しいヘッドマークを掲げていたようで機関車の赤い車体に良く映えていました。20系寝台客車堂々13連が田村駅に停車していた姿は圧巻で、後部まで行ってナハネフ22の撮影もしていました。ここから米原まではDE10形ディーゼル機関車かDD50形ディーゼル機関車が牽引していました。

機関車交換としての役目を担っていた当時の田村駅は、上り下り共に当時12両編成が停車できるホームの長さを持っていました。ホームとホームの間には2線の機関車留置線、入替線があっていつも赤い車体の電気機関車が連なって留置されていました。

ホームの時計が6時過ぎになっています。寝台特急日本海の撮影をしている時に下りの貨物列車を撮影しています。前にも書きましたが、北陸本線のEF70形交流電気機関車は絶えず2エンド側、敦賀寄りのパンタグラフを上げて運転されていました。1エンド側のパンタグラフは予備扱いで、上げられることは無かったように思います。「前パン」とも言われたこのスタイルはなかなか恰好が良かったです。

上の画像は寝台特急「日本海」の大阪発を夜間に撮影したものになります。珍しく切り妻形の緩急車ナハネフ23形が青森側に使用されていた日の撮影です。ここからは糸魚川までEF70 1000番台が牽引していました。

上の画像は発車していく様子をバルブ撮影したものになります。田村駅の外側からカメラを三脚に固定して数秒間絞りを開放して撮影していたのでしょう。夜汽車の雰囲気が出ていてなかなか気に入っている写真です。この頃、夜の米原駅にも出掛けて行ってはバルブ撮影をしていました。22時30分くらいに父親に自家用車で連れて行ってもらい、通過する九州方面行ブルートレインを撮影していました。また紹介する機会もあろうかと思います。

上の画像は田村駅で撮影したEF81形交直両用電気機関車になります。1974年の夏ごろから走り始めた練習運転で、同年1974年に開業した湖西線の貨物列車、客車列車牽引用に敦賀第二機関区に新製配置されたようです。たまたま田村駅で撮影することができて、大変興奮していたのを覚えています。自分は中学2年生だったと思います。このことを鉄道雑誌「鉄道ジャーナル」に投稿したら見事に「RJニュース」に掲載していただけました。後日、「鉄道ジャーナル12月号」が段ボールに包まれて送られてきて、飛び上がって喜んでいました。いまでもこの雑誌はしっかりと残してあります。記事はこのように書いていました。

「北陸本線のわだい」

夏ごろから北陸本線の敦賀~田村間に交直両用電気機関車の決定版ともいえる三電気方式(直流1500V、交流20kV50Hz・60Hz)のEF81形(新製車)が走りは始めた。新幹線博多開業時からは北陸本線の大阪方面行き貨物列車が湖西線経由となり、この牽引機としてEF81形が敦賀第二機関区に投入されたもので、練習運転として敦賀~田村間で運転されている (滋賀県 金沢孝明) ※写真は最初の田村駅入線時の写真を掲載してもらえました。

生まれて初めての雑誌記事掲載で大変嬉しかったものです。情報は正確なものとは言えないかも知れないですが、この撮影をした時の機関士さんに聞いた情報を簡単にまとめて投稿したのでしょう。電気機関車の知識は何かの本で得ていたのでしょうか。とにかくこれまで見たことのないピンク色の新製電気機関車がやって来たことは大きな驚きでした。ホームで撮影してから駅の外に出て留置されている様子も写真に収めていました。美しい新車のEF81 117号機でした。

以上、今回は撮りためていたモノクロ写真から田村駅にちなんだものを集めて紹介しました。今ではこのようなモノクロ写真を撮ることは全くなくなり、せいぜいスマホで撮影した画像をセピア調に加工するくらいになってしまいました。歴史を物語るような貴重な写真はモノクロで展示されているのをよく見かけたりします。カラー写真は経年劣化で色が褪せてしまいますが、モノクロ写真は全く当時の状態のままなのに驚いています。

シーナリィの製作~自宅レイアウト⑤

このところ実物鉄道写真関係ばかりを上げていたので、そろそろ鉄道模型の話題の記事を書くことにしました。1昨年12月より自宅の16番ゲージのレイアウトに、新しくシーナリィ付きの線区を製作しているところです。ある程度まで製作していて、山肌の表現のところでストップしてしまいました。実際の山々を見て参考にしてみたり、電車に乗った際には沿線の山や山肌近くの木々の様子を見てはレイアウトへの思いを膨らませていました。季節が進んできてようやく秋らしくなってきたので、腰を据えてシーナリィ工作を再開することにしました。

シーナリィ付き線区を683系2000番台特急「しらさぎ」が走り抜ける。

自宅レイアウトを見てくれた鉄道模型友人の一人は、「山肌は色を塗っただけでいいのでは」とアドバイスしてくれましたが、自分としてはやはりある程度は植林して山肌らしく表現してみたいという思いがあってずっと思案してきました。このレイアウトでは、山肌が切り立っているのが製作を遅らせた大きな要因でした。いろいろ考えた結果、樹木は従来通りのやり方で製作していき、山肌にそのまま張り付けていくようにしてみました。さっそくいろいろな樹木をキットと素材(フォーリッジ)を使って製作していきました。また嬉しいことに岐阜鉄道模型クラブの方から沢山の樹木を頂いたので、それらもアレンジして使っていくことにしました。

樹木キットから作成した木々。

樹木キットに木工用ボンドをたっぷりと付けて、色合いの違うフォーリッジを付けていきます。そして一晩乾燥させたら樹木の完成です。たくさんの樹木が必要となり、延々と作業をしていくのも辛いので、1日10本程度として製作していきました。シーナリィ製作での山の表現は自分にとっては一番手間のかかる作業だと感じました。

山肌に植林していきます。

作りためた樹木を、山肌に一本一本接着していきます。山肌の色はあらかじめ深緑色で塗っているので黒っぽい樹木がよく映えるようです。知人から頂いた広葉樹は大変存在感があって良いアクセントになりました。樹木は背丈の高いものから低いもの、また色も薄緑から黒っぽい物まで様々なものを作っておく必要がありました。ある友人によると「建築模型」にも樹木があるようですが、全体のバランスを考えると今回の方法が一番合っているように思います。

少しでも木を付けると雰囲気が出てきます。

このところ毎日、10本ほどの樹木を植林していっています。木々が生い茂る山肌には、まだまだ程遠いですが、この度新しい方法を考えつきました。山肌に盛り上がって見える緑の表現に、発砲スチロールである程度の大きさに作った塊にフォーリッジを付けていくというやり方になります。発泡スチロールはカッターで小さな塊に切り、あとは手作業で表面を削って形を整えます。それを山肌に接着して深緑色で色付けをしておきます。乾いてから木工用ボンドをたっぷりと付けてフォーリッジを付けていけば完成です。樹木ばかりだと単調な山肌になってしまうので、この「緑の塊」も付けて立体的な山肌にしていこうと考えています。下の画像がその実際になります。

発泡スチロールを適当な大きさにカットします。
指先でむしって丸みを持たせます。
専用のボンドで塊を接着します。
木工用ボンドをたっぷり使ってフォーリッジを付けていきます。

以上のようにして、緑の茂った山肌を表現していきます。シーナリィの製作も「試行錯誤」をしながら作風を工夫するのも楽しい作業と言えます。下の画像はトンネルの山に新たに樹木を付けた様子になります。これまでのフォーリッジだけの表現よりも、より立体的になり山らしくなったように思います。

トンネルの山に高い樹木を植林しました。

幸いなことに仕事をリタイヤした今は時間があります。町内会の仕事もいくつか抱えてはいますが、趣味に使える時間のありがたさを痛感している今日この頃です。鉄道の実車を追いかける趣味も良いですが、模型製作も大変楽しい時間を過ごせます。今回はレイアウトのシーナリィ製作ということで、鉄道模型とは離れているように思えますが、実は同じ世界です。自分のようにある程度まで車両を所有していると、それらをいかにしてリアルに走らせるかが大きな目標となります。「鉄道模型を走らせる舞台」をリアルに作っていくと、走る模型も全然違ってきて、大変生き生きとしてリアルに見えてきます。そうなってくると車両に乗客人形を乗せてみたり、車両にウェザリングを施してよりリアルな車両を作りたくなってきます。また鉄道模型趣味の深い沼にはまってしまいそうです。鉄道模型が「終わりなき趣味」と言われる所以です。

鉄道模型知人から預かる予定のトンネルモジュール。

先日、岐阜県に住む鉄道模型知人の一人が、随分と歳をとってしまって使う機会が無くなったレイアウトの一部を引き取ってほしい旨の連絡を頂き、実物を見に行かせていただきました。ご自宅の離れ2階に自分のようにレイアウトを作られていました。所属されている模型クラブの運転会にはレイアウトを分解してトラックに積んで持って行かれていたそうです。この度レイアウトの鉄橋部分とトンネル部分を譲り受けることにしました。自宅レイアウトに上手く使えると良いのですが、大変大きいモジュールなのでおそらく大工事が必要になってくると思われます。でも何かのご縁なので何とかして利用したいと思っています。それこそ山の表現が大変参考になる見事なモジュールです。東海道本線の関ケ原越えにある「今須トンネル」をかなり忠実に再現されて製作されています。ということで、今回は現在のレイアウト製作の様子と近況を紹介しました。

良き国鉄時代⑯~東京駅ブルトレ撮影行⑵~

今日は鉄道記念日ですね。先日9年ぶりに行われた高校の同窓会。そこで再会できた鉄道趣味友人と2人で、高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影旅行に行ったことがありました。前回は東京駅で撮影したブルートレインの写真でした。今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した東京駅撮り写真以外の写真を紹介していきます。その時の撮影旅行の目的がブルートレイン撮影だったので、全て寝台特急・ブルートレインの写真になります。牽引機は直流電気機関車のEF65 500番台が活躍していた「良き国鉄時代」です。今回は東海道本線の根府川駅付近と平塚駅付近で撮影した写真を紹介していきます。一部、当ブログにて掲載している画像がありますことをご了承願います。

☆写真が大変古く、色褪せていたので画像をデジタル加工しています。

前回のブログ記事の中で、同窓会での会話では2人とも当時どうやって関東方面へ撮影旅行に出かけたのかが思い出せないと書きましたが、上の写真が大きな手掛かりになりそうです。深夜の駅でEF58直流電気機関車牽引の上り寝台特急「紀伊・出雲2号」を撮影したものと思われます。どこかの駅で撮ったと思うのですが、考証していくとおそらく深夜の熱海駅ではないかと推測されます。停車している時刻は4時40分でした。このことから当時の2人はおそらく「大垣夜行」を使って東海道本線を東京に向かっていたのではないかと推測されます。そして熱海には深夜の2時48分に下車して、自分は上の写真を撮影したのでしょう。こんな事を書いているうちに、何故か西村京太郎の鉄道推理サスペンスのような話になってきました。時刻表は手持ちの「時刻表復刻版1978年10月号 JTBパブリッシング刊」を使っています。当時の時刻表の復刻版が発売されることは、私のような国鉄ファンには大変ありがたいことで、この時刻表復刻版を書店に見つけた時には、即購入していました。

上の画像は当時の撮影名所である根府川鉄橋付近で撮った東海道本線上り寝台特急「瀬戸」と「あさかぜ2号」になります。当時の時刻表を見ると、「瀬戸」は朝6時過ぎに、「あさかぜ2号」はその約6分過ぎくらいに通過していたと思われます。この時間帯にこの撮影地に居たという事は、やはり大垣夜行で熱海まで行き、熱海から始発普通電車で根府川まで移動して撮影したと思われます。となると前掲の「紀伊・出雲2号」は熱海駅で撮影したことが証明されます。これで闇に包まれていた真相が見えてきたように思います。次に一緒に撮影に行った友人に会う機会があったら報告できそうです。自分は撮影するテクニックは無くて、根府川鉄橋で撮影しているのに、肝心の鉄橋が上手く撮れていませんでした。友人の撮った写真は少し離れたところから撮っていて、美しい鉄橋も入れながら撮影しており感心したものです。ちなみに彼の撮影する鉄道写真はどれも大変素晴らしく、月刊鉄道雑誌主催の写真コンテストにも見事に入選もされていました。北陸本線の新疋田~敦賀のループ線で交差する485系特急電車を撮られた写真が今でも思い出されます。

上の写真は根府川鉄橋で撮影を終えてから、根府川駅から東京方面の普通電車に乗って平塚駅まで行って、駅近くを歩きながら撮影ポイントを探していたのだろうと思われます。そして程よいアウトカーブから撮影できる場所を見つけて、撮影したものと思います。時間的にも「あさかぜ4号」が平塚駅通過するまでには、この場所まで移動する時間がありました。「富士」の平塚通過は当時の時刻表で見ると9時過ぎ位でした。「富士」、「はやぶさ」、「みずほ」、そして「さくら」と立て続けにこのポイントで撮影していたようです。全て撮影してから2人は東京へ向かったのでしょう。東京へ向かう九州方面からのブルートレインを次から次へと撮影できたのですから、今となれば正に「夢のような撮影」だったと思います

さて、もう1枚おそらく平塚駅付近で撮影した写真が出てきました。上の画像は寝台特急「出雲」になります。この列車も「あさかぜ」と同じような比較的平塚駅に使いところで撮影しているようです。この「出雲」は熱海発車が5時30分なので6時頃にはここを通過してしまっていることになります。それをこの時間に撮影できたのは大きな疑問が残りますが、おそらく何らかの理由でこの日の「出雲」は大きく遅延していたのではないかと思われます。このことも次回友人と会った時に確認してみたいところです。だとすれば大変ラッキーなことだったのでしょう。赤いヘッドマークは大変綺麗で機関車によく似合っていました。

2回にわたって特集した1977年の友人との撮影行。古いアルバムに写真が残っていて本当に良かったです。友人も「写真をそろそろ整理せなあかん」と話していました。46年前にもなる写真になり、色褪せている写真が多いです。スキャナーでデジタル化しておくと思い出の列車も後世に残せることになろうかと思います。あわせて鉄道模型で当時のブルートレインを再現して走らせる事で当時の雄姿を見ることができます。

良き国鉄時代⑮~東京駅ブルトレ撮影行⑴~

先日、高校の同窓会があり、前回から9年ぶりの開催でした。鉄道趣味の友人たちとも久しぶりに会うことができ、懐かしい話や現在の話で盛り上がりました。高校の修学旅行がほとんど電車を使った北海道旅行だったので、鉄道好きだったせいか自分が班別活動の班長になったことがありました。その時の記録係だった同級生は、当時の「旅のしおり」を持ってきてくれて見せてもらいました。大変懐かしい思い出が蘇り、胸が一杯になりました。また鉄道関係に進んだ友人とも話せて、このブログのことも紹介しておきました。彼とは高校2年生の時に一緒に東京方面へ撮影に行ったことも話題になり、今回は1977年に彼と行った東京方面撮影旅行で撮影した写真を紹介していくことにしました。ほとんどが寝台特急・ブルートレインの写真になります。それも牽引機が直流電気機関車のEF65 500番台の良き国鉄時代です。まず今回は東京駅で撮影した駅撮り写真を紹介します。 ☆写真が大変古く色が褪せていたので画像をデジタル加工しています。

上の画像は東京発16時30分の1レ寝台特急「さくら」になります。当時、この「さくら」から東海道を下る寝台特急のオンパレードが始まりました。新橋方面からやって来たブルートレイン回送は東京到着後に機関車が神田方向へ機廻しされて、中線を通過してから有楽町寄りに連結されて発車を待ちます。いつまでも飽きることなく見ることができました。まさに「ブルトレ・ゴールデンタイム」が毎日見られたのです。

上の画像は東京発16時45分の寝台特急「はやぶさ」になります。先頭を撮影した写真が無く、どこかへ紛れてしまったのでしょうか。後部だけ写真がありました。

上の画像は東京発17時発の寝台特急「みずほ」になります。寝台特急「さくら」と同形式の客車14系が使われていました。今では九州新幹線の愛称として使い続けられています。

上の画像は東京発18時の寝台特急「富士」になります。機関車を撮影した写真はおそらく新橋駅を通過する同列車を撮影したものと思うのですが、後部を撮影した写真は東京駅で撮ったものに思えます。時間があったので撮影場所を変えていたのでしょうか?疑問が残ります。それとも別日に撮影した写真を一ヵ所にまとめていたのかもしれませんね。

上の画像は18時20分発の寝台特急「出雲1号」になります。この出雲の牽引機は京都までの担当だったので、機関車の両側、両エンド正面にヘッドマークを付けていました。当時、京都駅で機関車の前後に「出雲」のヘッドマークを付けて留置されていたのを見たことがありました。有楽町方面からの入線時も美しいヘッドマークを掲げていました。そして中線を通って先頭に機廻しされていきました。

上の画像は東京発18時25分の寝台特急「あさかぜ1号」になります。夜になってくると写真も鮮明でなくなっていました。デジタル加工して何とか見られるようになっています。当時の「あさかぜ」にはまだ20系寝台客車が使われていたようです。

上の画像は東京発19時25分の寝台特急「瀬戸」になります。こちらもまだ20系寝台客車が使われていました。当時の夜間撮影ではストロボを平気で使用していたようですね。今も残る寝台特急サンライズの愛称に使われています。当然当時は瀬戸の終点は高松ではなく岡山県の宇野線終点の「宇野」でした。

上の画像は東京発20時40分の寝台特急「紀伊・出雲3号」になります。いよいよ東京駅での撮影もこの列車で最後のようです。牽引機はEF58形直流電気機関車でした。名古屋で分割されて紀伊勝浦行きと出雲市行きに分割・併合されて運転されていました。

撮影を終えて、自分と友人はこの日の東京発22時45分、寝台急行「銀河」に乗車して米原へ帰りました。20系寝台客車が急行に格下げして使用されるようになり、憧れの20系に乗れることがとうとう叶いました。友人と一緒に、最後部に連結されていたナハネフ22形寝台客車の展望窓から眺めた東京の街の灯は、今でもはっきりと覚えています。翌朝の6時8分に米原に着いて、北陸本線でそれぞれ自宅のある長浜、高月まで普通列車で帰ったと思われます。今も忘れ得ぬ東京撮影旅行は、褪せた写真とともに今見事によみがえりました。同窓会で鉄道趣味友人と再会できたことで、また当時にタイムスリップすることができ良かったと感じています。この場をお借りして、コロナ禍で延期になっていた高校の同窓会を今回企画して開催してくれた同窓会の幹事の方々にお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

次回はこの時に東海道本線の平塚あたりでも撮影した上りのブルートレイン写真がありますので、それらを一部は再掲になってしまう写真もありますが紹介したいと思います。同窓会でも話していたのですが、帰りは「銀河」に乗ったことは覚えているのですが、2人ともどうやって行ったのかが思い出せませんでした。根府川で撮影しているので、ひょっとしたら大垣夜行で東京へ行ってから、根府川まで戻っていたのか?撮影に間に合うような早朝の新幹線があったのか?この答えは次に彼と会った時に解決してみたい?と思っています。

赤沢森林鉄道訪問記

2023年10月2日(月)、家内の友人も一緒に家族旅行を兼ねて長野県木曽郡上松町にある赤沢森林鉄道に行ってきました。早朝5時に自宅を出発して、晴天の下、下道をのんびりと長野県を目指しました。そして休憩をとりつつ、予定通りの10時過ぎに到着することができました。受付を済ませると大きな駐車場があり、大きな観光バスも来ていました。ここまでかなり狭い道なのによくぞここまで来ているなと感心しました。

まず目をひいたのが展示されていたモーターカー。5号でしょうか、

11時の森林鉄道に乗ることにし、「木曽ひのき」で作られた記念切符を買いました。待ち時間に「森林鉄道記念館」を見学することにしました。木曽森林鉄道の歴史についての展示がされていて、奥には貴重な保存車両が沢山展示されていました。ここの鉄道も線路幅762mmのナローゲージで、どの車両も大変可愛らしく見えました。

木曽森林鉄道を代表するディーゼル機関車、122号。
こちらはボギー式両運転台の大型のディーゼル機関車、136号。
122号の反対側。
客車も展示されていました。

どの展示車両も大変美しく整備されていて、今にも動き出しそうな様相を呈していました。あっという間に発車時刻となり、5両ある客車の先頭車両に乗車しました。発車時刻の直前にディーゼルエンジンが始動し、ゆっくりと走り出しました。スピードは時速8キロというゆっくりとした走行で、右側に迫る渓谷を見ながら森の中を列車は進んでいきました。鉄橋も7ヵ所あって川の流れも真下に見られて楽しかったです。森林鉄道記念館前から丸山渡停車場までの片道1.1キロメートルを往復で乗車する観光路線になっています。

気持ちの良い天候の中の森林鉄道は森の息吹を感じながらの至福の時間でした。終点の丸山渡では係員の方がディーゼル機関車の連結を手早く解除され、機関車が離れていきます。そしてまた係員の方が手早くポイントを切り替えられると、機関車は客車の横を通っていきました。いわゆる「機廻し」作業を見ることができました。機関車は反対方向に走るために最後尾の客車に連結されます。本当に久しぶりに機廻し作業を見ることができて心が弾みました。そして帰りは最後部からまた森林鉄道の景観をじっくりと楽しむことができました。森林鉄道記念館駅に着いてからは、もう一度ゆっくりと森林鉄道記念館を見学しました。

左がボールドウィン。右は保存鉄道のDL。

木曽森林鉄道は江戸時代からの河川を用いた木材運搬を近代化し、大正時代初期に森林鉄道が木曽谷に敷かれました。当初はアメリカ型蒸気機関車(ボールドウィン)が運材に活躍していました。このボールドウィンも森林鉄道記念館近くにディーゼル機関車と一緒に展示されていました。昭和35年1960年にボールドウィンは引退し替わってディーゼル(内燃機関)機関車が活躍することになりました。最盛期には木曽森林鉄道だけで総延長400キロに及ぶ路線があったようです。やがて道路が整備されるようになりトラックの性能も上がっていったことから、運材はトラックに代わっていきました。そして昭和50年(1975年)に森林鉄道は終焉を迎えました。森林鉄道を残していくべきだという声が地元を中心に強く、まもなく赤沢に森林鉄道記念館が完成し、昭和62年(1987年)に森林鉄道の復活となったようです。

出発駅に「森林鉄道フェスティバル」のポスターが貼ってありました。10月8日に近くにある王滝森林鉄道で保存されているモーターカーや客車や運材貨車を牽く機関車を見学することができたり、体験乗車できたりするイベントの告知でした。また来年にはこのもうひとつのこの森林鉄道フェスティバルに是非行ってみたいと思っています。日帰りの赤沢森林鉄道への旅でしたが、お昼は現地の美味しい山菜蕎麦を食べたり、帰りに岐阜市のログハウス展示や美味しい海老天ぷらも食べたりと家族ともども大いに楽しめた日帰り旅でした。

展示されていた理髪車の内部
木曽ひのき製の記念切符。

鉄道模型ではトミーテック製品から9mmゲージの線路に1/80のナローゲージの車両を走行させる「HOナロー」の製品である「猫屋線シリーズ」が出ています。自分も尾小屋鉄道に興味をもってから、以前に製作しておいたNゲージ用線路に手を加えて「軽便鉄道ミニレイアウト」を作りました。ここに猫屋線の模型をトコトコ走らせたりしていました。今回、赤沢森林鉄道に行ってから、木曽森林鉄道の車両のモーターカーも走らせてみたいと思っています。手持ちの「酒井形モーターカー」のキットを完成させて見たいものです。このHOナローの世界は大変小さなスペースでもジオラマレイアウトが作れて、気軽に楽しめるのが良いです。スケールは1/80になり、傍にHOゲージを置いても大変マッチしますね。ミニトンネルにミニ鉄橋を配置し、駅を2つ置きました。ストラクチャーは市販の建物プラモデルを置いています。自動車はトミー製の「ハチマル」シリーズので1/80スケールの自動車です。引き込み線には軽便鉄道風の貨車や気動車、DL列車なんかも置いています。大きな本線レイアウトでの運転も楽しいですが、箱庭的に楽しめる「HOナロー」の世界もまた素敵です。少しずつ手を加えていってもっとリアルなジオラマレイアウトにしていきたいと思います。とりわけ「尾小屋鉄道」と今回訪れた「木曽森林鉄道」をテーマにして広げていきたいと思います。