良き国鉄時代㊺~1975年北陸本線長浜界隈での撮影その2~

1975年に虎姫~長浜間にて撮影した485系特急「雷鳥」大阪行き。

今回の「良き国鉄時代」は、1974年から1976年にかけて私の地元である長浜界隈で撮影した485系交直両用特急形電車の紹介になります。自分が中学2年生から高校1年生にかけて撮影していた鉄道写真です。どの写真も今一つの撮り方で、御見苦しいかと思われますが、懐かしい写真で国鉄時代を振り返って頂けたら幸いです。同じような写真ばかりになりますが、どの写真も当ブログでは未発表のものになります。3月16日に北陸新幹線が敦賀まで延伸開業して北陸本線の様相も一変してしまいました。敦賀以北で在来線特急列車が走ることもなくなり、特急「サンダーバード」と「しらさぎ」も敦賀までの新幹線リレー号になってしまいました。かつて米原から正に北陸地方といえる直江津までを結んでいた北陸本線も、米原から敦賀までの45.9キロメートルという短い路線となってしまいました。そんなかつての特急街道、北陸本線を偲んで見て頂けたらと思います。

上の画像は1974年に北陸本線の虎姫~長浜間で撮影した485系特急「雷鳥」になります。敦賀方面へ向かう下り列車です。ボンネットの先頭車に大きなトレインマークはまだ字だけの時代でした。

上の画像は1974年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系特急「しらさぎ」になります。中学生の自分の撮影で、ずいぶん手前でシャッターを切っていました。

上の画像は1974年に北陸本線、虎姫~長浜間で撮影した485系特急「雷鳥」になります。ボンネットに混じって、まだ真新しい貫通タイプの先頭車が走り始めていた時期でした。このスタイルを当時自分は「赤い月光形」と呼んでいた記憶があります。「雷鳥」等の優等列車が湖西線まわりになる前の誠に良き時代でした。

上の画像は1974年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系1500番台の特急「白鳥」になります。大阪と青森を結んでいた長距離特急でした。この形式は北海道での使用にあたり、当時試験的に使用されていました。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系特急「雷鳥」になります。富山発大阪行きの上り列車です。貫通形のこのスタイルはファンの間では「電気釡」と呼ばれています。鉄道模型ではトミックス製で所有しています。

上の画像は、1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系特急「雷鳥」になります。富山発大阪行きの上り列車です。

上の画像は1975年に北陸本線の田村駅近くで撮影した485系上り特急電車になります。駅の西側から伊吹山をバックに入れて撮影しました。雪の伊吹山をバックに撮られた鉄道写真は数多く撮られており、今でも良い撮影ポイントになっています。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系特急「北越」になります。大阪発新潟行きの下り列車です。この「北越」は大阪と新潟を結んで走っていました。

上の画像は北陸本線の近江塩津駅で撮影した名古屋発富山行きの下り485系特急「しらさぎ」になります。485系の非貫通タイプ300番台が使用されていました。字だけのヘッドマークが大変美しかったです。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した上り485系特急「北越」になります。新潟発大阪行きの列車です。

上の画像も1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した下り485系特急「北越」になります。大阪発新潟行きの列車で、後追い撮影をしています。黄色の連結器カバーが付けられていました。

上の画像は1975年に余呉駅の北にある「余呉トンネル」出口近くで撮影していました。トンネルを抜け出た485系上り特急列車になります。冬季の撮影でヘッドマークが雪に覆われており、残念ながら愛称名は解りません。

上の画像も1975年に北陸本線の余呉駅近くで撮影した485系上り特急「雷鳥」になります。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した上り485系特急「雷鳥」になります。富山発大阪行きの下り列車です。写真の左側にはまだ木造の長浜北小学校が少しだけ映っています。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系特急「北越」になります。大阪発新潟行きの下り列車です。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した下り485系特急電車になります。ヘッドマークが真っ白で、ひょっとしたら485系300番台の試運転かもしれません。左には赤い屋根に白い壁の当時木造の長浜北小学校が映っています。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系上り特急「雷鳥」になります。富山発大阪行きの下り列車です。後追いの写真で、ボンネット時代の「雷鳥」です。

上の画像は1975年に北陸本線虎姫~長浜間で撮影した485系下り特急「雷鳥」になります。先頭車のタイフォンカバーが開いており、タイフォン(警笛)を鳴らしている瞬間を撮影したと思われます。この付近には当時、警報機のない踏切があって「汽笛吹鳴票」がありました。国道8号線が北陸本線を跨ぐ陸橋の近くにあったと記憶しています。

上の画像は1976年に近江塩津駅で撮影した富山発大阪行きの485系特急「雷鳥」になります。この頃は湖西線が開通しており、この富山発大阪行きの「雷鳥」はこの駅からは真新しい湖西線に入っていくことになります。今回の記事は以上になります。北陸新幹線敦賀延伸で大きく様変わりした北陸本線の昔を楽しんで頂けたなら嬉しく思います。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

北陸本線はかつて「特急街道」と呼ばれていた。485系の特急列車が自宅レイアウトを走り抜ける。

良き国鉄時代㊹~1975年北陸本線長浜界隈での撮影その1~

今回の「良き国鉄時代」は、1974年から1978年にかけて私の地元である長浜界隈で撮影した特急電車の紹介になります。自分が中学2年生から高校3年生にかけて撮影していた鉄道写真です。どの写真も今一つの撮り方で、御見苦しいかと思われますが、懐かしい写真で国鉄時代を振り返って頂けたら幸いです。いよいよ今週末には北陸新幹線が敦賀まで延伸開業します。かつて米原から正に北陸地方といえる直江津までを結んでいた本線も、米原から敦賀まで45.9キロメートルの短い路線となってしまいます。私が中学生だった1974年は7月に湖西線が開業した年になり、7月までは大阪と北陸地方の金沢・富山・新潟を結んでいた特急列車も米原経由で運転されていた時代でした。「雷鳥」、「北越」、「白鳥」も地元で撮影することができた良き時代でした。親に買ってもらった1眼レフカメラのアサヒペンタックスを使って、もっぱら自宅の近所で撮影していました。まずはその1回目として、当時1番気に入っていた581系寝台特急形電車による特急「しらさぎ」を特集して紹介させて頂こうと思います。「月光形」と呼ばれていたブルーとホワイトの大変美しい電車。特急「しらさぎ」にも1日1往復だけ使われていて、お昼前と夕方に見かけることができました。ちなみに当ブログでも過去に581系「金星」の特集として取り上げています。

上の画像は1975年に虎姫~長浜間で撮影した特急「しらさぎ3号」の名古屋行きになります。581・583系で運転されていた特急「しらさぎ」は、23Mの「しらさぎ2号」富山行きと26Mの「しらさぎ3号」名古屋行きの1本だけでした。サロ581のグリーン車とサシ581の食堂車を繋いだ堂々12両編成で運転されていました。

上の画像は1974年に虎姫~長浜間で撮影した特急「しらさぎ2号」の富山行きになります。23Мの特急「しらさぎ2号」は名古屋を10時15分に発車して、米原発車は11時22分でした。地元の長浜付近には11時30分頃に通過していました。一方の26Мの特急「しらさぎ3号」は富山を14時55分に発車して、米原には17時48分に到着、終点の名古屋には18時55分に到着していました。長浜付近の通過は17時30分くらいだったと思います。上り下りとも撮影ができたので、ついつい写真も多くなってしまいました。

上の画像は1975年に長浜~虎姫間で撮影した特急「しらさぎ2号」の富山行きになります。この頃のトレインマークはまだ字だけの時代でした。薄緑に黄色の淵の付いた文字でした。運転席の外側には後方確認用のバックミラーが付いていました。

上の画像は1974年に虎姫~長浜間で撮影した特急「しらさぎ3号」の名古屋行きになります。後追いの写真になります。

上の画像は虎姫~長浜間の線路を跨ぐ、国道8号線陸橋から撮影した特急「しらさぎ2号」富山行きになります。後追いの写真になります。

上の画像は1976年に余呉駅で撮影した特急「しらさぎ3号」名古屋行きになります。当時の北陸本線余呉駅上りホームには北陸本線の優等列車通過用の線路がありました。よくホームに米原行き普通列車が停車しているところを、特急列車が外線を追い抜いていったものでした。

上の画像は1974年に虎姫~長浜間で撮影した特急「しらさぎ3号」名古屋行きになります。夏場の17時30分頃に通過するのを撮っていたのでしょう。

上の画像は1974年に虎姫~長浜間で撮影した特急「しらさぎ3号」名古屋行きになります。以上で自分が撮りためていた581系・583系の特急「しらさぎ」の写真紹介は終わりです。どれも同じようなポイントで撮影した写真になります。鉄道模型ではカツミ製の旧製品とトミックス製で所有しています。トミックス製では583系の晩年「きたぐに」色10連の編成も持っています。次に同じような時期に撮っていた写真も少し紹介しておきます。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影した大阪発金沢行きの475系交直両用急行形電車で運転されていた急行「ゆのくに」になります。ボディの裾部に60Hzを表すクリーム色の帯が巻かれていた頃でした。

上の画像は1974年に長浜~虎姫間で撮影した475系の急行「立山」になります。大阪と富山を結んでいました。

上の画像は1978年の冬に虎姫~長浜間の国道8号線の陸橋から撮影した、北陸本線上りの475系急行電車になります。ヘッドマークが雪で見えませんので愛称は不明です。

上の画像は1974年に虎姫~長浜間で撮影した485系1500番台の北陸本線下り特急「白鳥」になります。大阪と青森を結んでいたロングラン特急でした。この頃には北海道用として開発された485系交直両用特急形電車の1500番台が試験的に日本海縦貫線で使われていました。運転席上のライトが2灯になっているのが大きな特徴です。鉄道模型でも所有しています。

上の画像は1975年に虎姫~長浜間の陸橋から撮影した大阪発青森行きの485系特急「白鳥」になります。後追いの写真になります。

上の画像は1975年の冬季に長浜~虎姫間で撮影したDD15形ディーゼル機関車のラッセル車になります。たまたま通りかかったのを撮影することが出来ました。ラッセルヘッドを前後に装着しています。敦賀第1機関区の所属で、試運転の時だと思われます。

今回最後の画像となりました。上の画像は1975年の冬季、ラッセル車を撮影していた時に撮影した北陸本線下りの普通列車になります。牽引していたのはED70だったのですが、残念ながら後追い写真しか撮れませんでした。当時のアサヒペンタックスの1眼レフカメラには「シャッターロック」機能がありました。雪景色を行く古豪牽引列車を撮ろうとしたら、ロックが解除していなくてシャッターが押せなかったのです。苦い思い出のある1枚となりました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

自宅レイアウトを走る583系。
485系1500番台時代の特急「白鳥」。

良き国鉄時代㊸~名古屋駅界隈1980年の撮影から~

今回の「良き国鉄時代」は、1979年から1980年にかけて名古屋駅界隈で撮影したブルートレインや寝台電車の紹介になります。当時の自分は大学生となり、大学は名古屋市昭和区にあった日本福祉大学の社会福祉学部に通っていました。親元を離れて、最初は大学に近い昭和区の八事に下宿をしていました。4畳半1部屋で、歌「神田川」に出てくるような部屋に居ました。風呂は下宿棟に1つあった共同風呂でした。大学に入り、親に原付バイクを買ってもらっていたので、下宿から大学まではバイクで通学していました。入学してから気の合った友人たちと「鉄道研究会」を作ろうという話になり、旗まで作ったのを覚えています。確か私を含めて4人で結成?していました。鉄研といっても鉄道に詳しいのは自分だけで、活動はあまり長く続くことは無く、自然に活動をしなくなっていました。一度だけ全員で、といっても4人で夜の名古屋駅に出向いて、ブルートレインを観察したものでした。その当時、中学や高校の修学旅行に寝台特急が利用されていたこともあり、名古屋に到着した九州方面行きの寝台特急に学生たちが乗っている場面に出くわしたことがありました。自分たちが鉄研の旗を持っていると、その修学旅行生たちに笑われたものでした。残念ながらその観察会の写真はありません。今となっては大変懐かしい思い出です。その頃から自分の鉄道熱が醒めて行き、やがてギターを始めた頃から「フォークソング音楽」や、当時「ニューミュージック」と呼ばれていた音楽にのめり込んでいきました。イルカさん、南こうせつさん、吉田拓郎さん、浜田省吾さんの曲をギターで弾き語りしたものです。

上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した長崎・佐世保発東京行きの寝台特急「さくら」になります。14系寝台客車で運転されており、牽引機はこの頃はEF65 1100番台でした。1977年から牽引を担当するようになり、ブルートレイン牽引になって4年目くらいでしょうか。

上の画像は専務車掌さん、通称「カレチ」が列車の後方確認されているところのようです。客車はスハネフ14のようで、車掌室からの姿が大変かっこ良かったものです。

上の画像は1980年に名古屋駅で撮影した博多発名古屋行き寝台特急「金星」になります。581・583系特急形寝台電車は当時国鉄車両の中で1番好きな車両でした。やや後方から見た姿も好きでも、よくこのアングルで撮影していました。

この「月光形」と呼ばれた581・583系の前面スタイルは後に房総特急として登場した183系直流特急形電車に引き継がれました。共に全面扉を設置しており、分割併合運転に用意された装備でした。その後は交直両用特急形電車の485系にも引き継がれることになります。正に国鉄を象徴する洗練されたデザインに思います。

上の画像は1980年に名古屋駅近くのビルの屋上から撮影した長崎・熊本発東京行き寝台特急「みずほ」になります。どこのビルかは忘れましたが、「みずほ」の発車時刻にはカメラを構えていたのでしょう。135ミリの望遠レンズで撮影していました。

上の画像は同じ場所から撮影した「さくら」になります。名古屋駅の0番ホームから発車していたので、ビルからも狙いやすかったと思われます。しかしながら、当時よくこんな撮影場所を見つけられたものだと思います。

寝台特急「金星」が仕事を終えて、神領電車区に引き上げていく様子も、同じような場所から撮影していたようです。1980年なので「金星」のトレインマークは絵入りのマーク、イラストのマークになっていました。

上の画像は撮影していた場所からの名古屋駅になります。0番ホームには発車したばかりの寝台特急「みずほ」が見えています。その左側にはEF58の姿を見ることができます。そしてその左側には名古屋に到着したばかりの寝台特急「金星」の姿が見えます。1番左には湘南色のクモニかクモユニが2両編成で居ます。当時の165系普通電車等には、よくこのような荷物電車が繋がれていたものです。鉄道模型ではクモユニ74とクモニ143を持っています。クモユニ74は古いカツミ製、クモニ143はエンドウ製になります。ともにモーターはついていないトレーラーです。

上の画像は1979年に笠寺駅近くの陸橋から撮影した上り寝台特急「みずほ」になります。自分の下宿からバイクにカメラを積んでこの場所までやってきて撮影していました。朝の光を浴びながら東京を目指すブルートレインは魅力的でした。

上の画像も笠寺駅近くの陸橋から撮影した寝台特急「さくら」になります。ちょうど名古屋で下宿一人暮らしを始めて慣れた頃に、早朝少し遠出をして撮影に行ったのでしょう。無事に撮影できると嬉しくて気持ちよくバイクを運転して下宿に帰ったものでした。

次からの画像3点は今回特集した1980年より以前の1975年に名古屋駅で撮影した381系振り子式特急形電車になります。名古屋と長野を結んでいました。まだデビューして間もない頃に名古屋に行って撮影していたのだろうと思っています。当時は9両編成で運転されていました。亡き父親にこの「しなの」で松本へ連れていってもらったものでした。鉄道模型では晩年に活躍していたエンドウ製の「パノラマしなの」6連を持っています。今回も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

EF65 1000番台牽引の14系寝台特急「さくら」号が往く。

良き国鉄時代㊷~ブルトレ名古屋駅撮り1975~

今回の「良き国鉄時代」は、1975年に名古屋駅で撮影したブルートレインの写真の紹介になります。当時の自分は中学3年生で、この撮影は親に内緒でこっそりと夜中に出掛けて名古屋へ行った時のものです。あとで親に大叱られしたことは言うまでもありません。今となっては大変懐かしいですが、大変苦い思い出の撮影行でした。確か一人では出かけたのではなく、中学校の仲の良かった友人と一緒に2人で出掛けたのだと記憶しています。夜に家をこっそりと抜け出して友人と自転車で長浜駅に行きました。夜の普通列車で米原へ行き、そこからはおそらく113系の普通電車で名古屋に行きました。大垣で乗り換えがあったかもしれないです。夜の名古屋駅に着いてからは、到着してくる東京発の寝台特急「さくら」から撮影しました。そして仮眠して朝方には東京を目指していく寝台特急を夢中になって撮影していたものでした。そんな撮影行で撮りためた懐かしいブルートレインの写真を紹介していきます。

上の画像は名古屋21時26分発の1レ、長崎・佐世保行き14系寝台特急「さくら」になります。この「さくら」だけは下りの寝台列車を撮影していました。この時刻に間に合うように自分と友人は名古屋駅に着いていたようです。そして夜を通してのブルートレインの撮影をしていたわけです。この「さくら」を撮影した後、上りのブルトレを撮影するまで時間があったので、確か駅のベンチで仮眠していたと思います。夏場の撮影なので全く寒くはなく、むしろ熱帯夜で暑かったのではないかと思っています。

上の画像は上り宇野発東京行きの16レ、20系寝台特急「瀬戸」になります。1975年当時は20系で運転されていたようです。深夜なので客扱いは無く、運転停車をしていました。運転停車では客車のドアは閉まったままで、機関士さんが交代していました。

上の画像は上りの下関発東京行き、14レの20系寝台特急「あさかぜ2号」と思われます。この「あさかぜ」も名古屋では客扱いが無く、運転停車のみでした。1975年当時の寝台特急は東京機関区のEF65 500が牽引していました。この日の撮影の狙いはもちろんEF65形500番台、直流電気機関車の牽くブルートレインの撮影でした。

機関車の次位には20系のナハネフ22が繋がれています。20系は丸みを帯びた美しいデザインで登場し、「走るホテル」と呼ばれていました。機関車の仕業札に「13-14」とあり、この機関車は下り「あさかぜ3号」と「上りあさかぜ2号」に充当されていたことが解ります。「東」の札は「東京機関区」所属を表しています。機関車の排障器右側のホース等は20系寝台特急列車牽引専用の装備です。

上の画像は「あさかぜ」の最後尾の電源車カニ21になります。トレインマークはまだ文字だけの時代でした。

上の画像は名古屋5時13分発の上り8レ、24系25形寝台特急「富士」になります。西鹿児島・大分と東京を結んでいた、当時最長距離を走るブルートレインでした。

上の画像は「富士」の最後尾の電源車カニ24になります。この寝台客車には銀色のステンレス製の帯が車体に巻かれていました。この電源車には2本の帯が巻かれており大変恰好良かったです。鉄道模型でもカツミ製とカトー製を所有しています。

上の画像は名古屋5時37分発の上り4レ、24系25形寝台特急「はやぶさ」になります。西鹿児島・熊本と東京を結んでいました。

この「はやぶさ」にも24系25形寝台客車が使用されていました。当時の時刻表には3つ星マークがついてあり、2段式寝台車を表していました。またこの編成には個室寝台車も連結されていました。当時としては大変豪華な寝台列車でした。

上の画像は名古屋6時12分発の上り6レ、14系新寝台特急「みずほ」になります。長崎・熊本と東京を結んでいました。この14系寝台客車は1つ星マークでした。3段式の寝台車を表していました。A寝台には「プルマン式」とよばれた2段式客車のオロネ14が使われていました。

上の画像は博多発名古屋行きの22M、581系寝台電車特急「金星」になります。6時10分に終点の名古屋に到着していました。ちなみにこの寝台電車のマークは2つ星でした。基本は3段式の寝台でしたが、パンタグラフの下だけは2段式寝台となっていました。この寝台を指定して乗られる乗客も居られたようです。

以前にも当ブログの記事で書いていましたが、この581系寝台特急「金星」は名古屋に到着、神領運転区に戻ると車内が寝台から座席に変えられて特急「しらさぎ」に仕立てられ富山を往復していました。夕刻に富山から名古屋に戻ると、今度は座席から寝台に変えられて、夜の「金星」として博多へ夜行列車として往復していたわけです。ゆっくりと休む間もなく働いていた「働き者の電車」でした。この「金星」を撮影してから帰路につきました。朝の電車で居眠りをしながら米原に戻り、北陸線の普通列車で長浜に帰りました。自転車で帰宅後に両親からの大目玉をもらうことになりました。その時の親の気持ちは、自分が親になった今となっては大変良く解ります。今回の記事は以上になります。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。

EF65 500牽引の20系寝台特急「あさかぜ」が自宅レイアウトを快走します。

「JR西日本希少車両撮影・見学ツアー」に参加しました。

今回のイベントの記念切符。

2024年3月3日(日)に、JR西日本と日本旅行が共同で企画された「JR西日本希少車両撮影・見学ツアー」に参加してきました。ネットで今回の企画発売を知り、以前に購入しておいたものです。朝から天気も良く、長浜6時30分発の新快速に乗って新大阪を目指しました。新大阪では集合場所を確認し、8時50分になると日本旅行のスタッフがパネルを持って受付を始められました。そして9時に中型JRバスで新大阪駅を出発して、10分程で宮原総合運転所に到着しました。今回の参加者は自分も含めて17名でした。運転所では社員さんたちに歓迎されて、事務所会議室でオリエンテーションがありました。宮原総合運転所の紹介ビデオを見せて頂いたり、会議室内に展示されていたヘッドマークや行先方向幕、トワイライトエクスプレスの食堂車の食器などを見させて頂きました。新快速電車の前面列車種別表示幕も見せて頂けました。

上の画像は会議室に展示されていたトワイライトエクスプレスのヘッドマークになります。日本海の海風のためでしょうか、錆が出ていたり年代を感じました。後方には同客車の方向幕も飾られていました。

こちらは冬季の運転されていたスキー客用の臨時列車「シュプール号」のヘッドマークになります。雪だるまがスキーをしているイラストが可愛いですね。自分は583系と485系が貫通扉を使って繋がれていたシュプール号を地元の踏切で深夜に見たことがありました。このヘッドマークは電気機関車かディーゼル機関車が付けていたと思われます。大糸線を14系客車をDE10形ディーゼル機関車がプッシュプル運転で走っていた写真を見たことがありました。

「サロンカーなにわ」のヘッドマークの他、滋賀県湖北地方を走っていた「北びわこ号」のヘッドマークも展示されていました。このデザインは廃止になる直前のデザインのようでした。他に「だいせん」、「あかつき」、「明星」、「日本海」のトレインマークも飾られていました。

「サロンカーなにわ」ヘッドマークの裏側には「大鉄局宮原機関区」と書かれていました。係員さんは「この表記は大変貴重ですよ」と教えて下さいました。国鉄時代から使われていたヘッドマークです。

上の画像は、24系寝台客車に使われていた「行先方向幕」だと思います。寝台特急「日本海」もありました。

上の画像は信号とポイントを遠隔操作するためのコントロールボードになります。説明書には「連動制御盤」とありました。

上の画像は、トワイライトエクスプレスコーナーに展示されていた食堂車「ダイナープレアデス」で使われていた各種食器になります。このお皿で豪華フランス料理のフルコースが楽しめていたのでしょう。一度だけでもダイナープレアデスの車内でフランス料理を食べてみたかったものです。

オリエンテーションの後は事務所の屋上に案内して頂きました。天気も良く、走り抜けていく新幹線や683系サンダーバードが骨休みしている様子を見ることができました。

さて、いよいよ希少車両撮影・見学ツアーのメインになります。まずは車庫に留置された12系客車と14系客車を見学しました。どちらの編成もディーゼル発電機が稼働していて、独特の大きな音をたてていました。1975年頃に夜の駅で聞いたことのある、停車しているブルートレインの電源車の音そのものでした。大変懐かしい音でした。

14系客車は1983年に14系客車を改造して生まれた「サロンカーなにわ」編成で、7両でフル編成ですが、この日は2両を減車した5両編成で展示されていました。車内も全車両自由に見学することができました。3列の座席には当時の新幹線0系のグリーン車の座席が使われていました。

「なにわ」の車内。3列シートには0系グリーン車と同じ様な座席が使われています。

カウンターのある客車にはエレクトーンが備え付けられていました。登場時には確かアップライトのピアノが置かれていたと思います。この日のイベントに関わる各種グッズを販売されていました。

こちらは12系5両で、「北びわこ号」として活躍していた編成になります。外観は少し痛みがあるものの、まだまだ活躍できそうに感じました。先週、2月28日(水)に東海道線を宮原から米原までDD51牽引で走った通称「米原訓練」にもこの編成が使われているとのことでした。行先表示幕の回転も披露されて、なつかしい行先表示を堪能することができました。

宮原区に所属しているDD51形ディーゼル機関車も稼働状態で展示されていました。運転席にも入らせて頂くことができました。ノッチを3まで投入することができ、エンジン音が高い音に変化する様子を体感することができて楽しかったです。先頭部には寝台特急「出雲」のヘッドマークが掲出されていました。

DD51の車体横にあるハッチが開放してあり、中のエンジンを見ることができるようになっていました。

そしてこちらはEF65 1124の展示になります。65PFの通称で呼ばれている代表的な直流電気機関車です。この1124号機はトワイライト専用カラーに塗色変更された機関車で実際に「特別なトワイライト」を牽引したり、「北びわこ号」の回送にも活躍していました。今回、間近に見られ運転席にも座らせて頂くことができました。

現役の電気機関車の運転席に座り、ノッチハンドル(右の銀色のハンドル)やブレーキ弁(左の金色のハンドル)を触らせてもらうことができて良かったです。そして、11時40分に全員が集合して宮原総合運転所の職員さんにお礼を言って、またバスで新大阪駅まで戻りました。天候にも恵まれ大いに鉄分補給ができたイベントとなりました。今回の企画に関わって下さった全ての皆様に、この場をお借りしてお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。今回も最後までお読みいただきましてありがとうございました。